由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

学校のリアルに応じて その2

2011年01月18日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成2)

サブテキスト : 綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出文庫 平成19年 平成22年26刷)
 この小説の主人公は高一女子で、クラス内での「余り者」だと自分で言う。すすんでそうなったのだ。
「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない。不毛なものだから。中学生の頃、話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた」
 明らかに、すべてのグループがこうではない、というか、すべての子どもがグループをこう感じているわけではない。不毛さはあっても、なんとかやり過ごす。それを過剰に気にして、嫌悪感にさえ襲われるのは、太宰治のファンで、自分でも小説を書こうとするような(主人公がそうだとされているわけではないが、作者はたぶんそうだろう)、自意識が強くて感受性が鋭く、人間関係に関して非常に潔癖な者だけだろう。
 中学時代の友人で、今度もたまたま同じクラスになった娘は、憧れだったという男女混成のグループに入り、主人公を誘う。グループに入れてくれるように、他のメンバーに頼んであげよう、と。そんなのにはとうてい耐えられない主人公は、逆に、「二人でやっていこう」と申し出るのだが、相手からは「遠慮しとく」とすげなく断られる(以上はP.22~23)。
 この友人にとって、グループに入るかどうかなんて、選択の余地はない。入らなければ、「想像するだけできつそう」な事態を招くのはわかりきっているのだから。

 クラスの中で居場所のない者は、自然に皆から軽んじられる。存在がきちんと認められないから。それだけならまだしも、自分で自分の存在が軽いものに感じられてしまう。いや、そうではない。軽くて、どうでもいいのは、自分以外の外界だ。しかしそれは結局同じところへ人を導く。
 例えば、夏休み前に体育館で、スライドを見るための全校集会がある。一人で入った主人公は、ガムテープ貼りで床に巡らされたケーブルを足にひっかけてしまう。グループに属している子は、こういうときでも、にぎやかにおしゃべりしながら移動するから、床なんてろくに見ていないのに、ケーブルにひっかかるようなことはなく、一人ぼっちで、しかもうつむき加減に歩いている彼女が、下にあるものに気づかない。
「私は、見ているようで見ていないのだ。周りのことがテレビのように、ただ流れていくだけの映像として見えている。(中略)学校にいる間は、頭の中でずっと一人でしゃべっているから、外の世界が遠いんだ」(P.89)
 こういう人は、外の世界の側から見ても、やっぱり遠く感じられるしかない。しかし、「目立たない子」というわけではない。そういう子は、グループに入って、大人しく微笑んでいる。『蹴りたい背中』の主人公は、微笑みを向ける相手もいないから、こわばった顔つきで、目つきも鋭くなり、外からは微弱な敵意を発しているように見えてしまう。そこで、外部からも、軽い敵意が返される。
 どうにも悲劇的なことに、遠いところにあるはずのこういう感情を、主人公はとてもよく察知する。もともとそういうことに過度に敏感だったからというだけではなく、一人で自分の内面だけを見つめていると、他者のまなざしを受け流してやり過ごす場所がない。それでその視線の意味は、ストレートに、重くのしかかってくるのである。
 やり過ごす場所を与えるのはグループだ。ただそれだけ、の不毛さのほうをやり過ごすことができれば、という条件つきでだが。それでも、人間関係が織りなす感情上の煩わしさから逃れるには、まだしもこちらのほうがいい。
 別の道はないのだろうか? 主人公のクラスメートで、同じく「余り者」である男子生徒は、いっこうにそれを苦にする様子はない。彼はいわゆるオタクであって、あるアイドルに夢中で、他のことは本当に、心からどうでもいいのである。主人公は、彼が持つ「強さ」に惹かれるが、それはどうも恋愛とは決定的に違う何かだ。これを描くのが、この小説の主眼である。

 菅野仁は、ここまで自意識の強い子のことを考えているわけではないし、オタクをどうにかしようというのでもない。『蹴りたい背中』の世界は、まだいじめにまでは至っていないが、グループ内で「仲良し」を繕うことに飽き果てて、緊張感が高まったとき、悪意の標的になるのは、まちがいなくこの主人公のような子ではあるのだが。率直に言って、それ自体は、「教育」の範囲でどうこうできる問題ではない。
 最悪の事態を避けるために菅野が出した処方箋は次のようなものである。「みんな仲良く」なんて単なる幻想だ。グループを解消しようなんていうのも実現不可能。気を遣うべきなのはそんなことより、「小集団を認めつつ、ネットワークをどのように作れるかということです。あるいは、孤立する子どもを無くしたり、あまりにも対立が激化しないようにするにはどうしたらいいか考えていくことです」
 こういう場合の教員の力量とは、グループとは別のネットワークをクラス内に作り上げていくコーディネーターとしてのものだ、と彼は言っている。具体的には、「まめに席替えをしたり、掃除当番のメンバーを変えたり、いろいろな仕掛けをして」いくことだ(以上P.62~64)。
 それだけ? と学校外の人からは反問されるかも知れない。実際は、それだけでもそんなに容易ではない。今の子どもにとって、環境が変わるのは一大事なのだから。席替えの結果、周りに溶け込めないと感じて、登校拒否になった事例も、少数ながら存在する。どんなやり方でもそうだが、ただむやみにやればいいというもではないのだ。
 もっと簡単なものだと、ある教師から次のようなやり方を聞いたことがある(一部ではかなりポピュラーな方法らしい)。プリントを配布するとき、班ごとや列ごとに渡して配らせるのだが、このとき、数をきちんと数えないで、いい加減に渡す。当然、余るところも足りないところも出てくる。それは放っておく。すると足りない斑や列は、余っているところへ行ってもらって来なければならない。それだけでも、最小限の人間関係ができる、と言って言い過ぎなら、そのきっかけはできる。
 またしても、「それだけ?」であろう。そう、いわゆる力量のある教師は一応別にして、一般的な教師にできることは「それだけ」である。でも、やらないよりはましだ。そうであるならば、学校に、一般的に期待してよいのは、「それだけ」である。「それだけ」を、したかしなかったかにかかわらず、最悪の事態になってしまった場合の対応策は、別に考えられなければならない。

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