由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その5(幕間狂言・金色夜叉の経済学)

2011年06月06日 | 近現代史

 現在生業が異様に忙しくて、このブログの続行、というか、その前提としての勉強もままならず、先月はとうとう一度も更新できなかった。実際、仕事が終わるとただボーっとして、まとまったことはほとんどできない。しかし、この間、小規模な勉強会で、尾崎紅葉「金色夜叉」が取り上げられ、それはなんとか再読することができた。
 私はずいぶん以前に、この明治を代表するロマンスを卒読したことはあり、それ以来、地の文の文語文体が印象深かったためだろう、漠然と、これは明治二十年代頃の作品だろうと思いこんできた。実際には、紅葉尾崎徳太郎が『讀売新聞』に連載を始めたのは明治三十年、その後「續金色夜叉」「續々金色夜叉」「新續金色夜叉」と断続的に書き継がれ、作者の死によって、明治三十六年、つまり日露戦争開戦の前年に未完のまま遺されることが決定した。今後、日露戦争時の日本について、できるだけ多方面から考えるのは、私の遠い目標の一つであったので、この事実には偶然以上のものを感じた。
 ドラマでも流行歌でも小説でも、一世を風靡するほどのものなら、必ずその時代の精神と密接な結びつきがあるはずだ。実際、「金色夜叉」はそう評価されてきた。それはどういうものか。私が作中から読み取ったと思えるものを祖述して、「日本の近代」論の補助線に、なるかどうか、まあともかくやってみよう。

 「金色夜叉」一編を統一する基本的な感情は、金銭万能主義に対する反感である。それは、この時期、日本の資本主義がいよいよ本格的になってきたことを、裏から証明している。
 資本主義の本質は何か。商品経済、あるいは、貨幣経済ということになるだろうか。それ自体は近代の産物でもなんでもない。紅葉は明治二十四年にモリエール「守銭奴」を換骨奪胎した戯曲「夏小袖」を発表しているが、前者は1668年の作。そしてその「守銭奴」はローマ時代の、プラウトゥス「黄金の壺」から着想を得ている。三作に共通するプロットは、因業おやじが金の入った壺を地面に埋めて隠すと、それがなくなってしまうところ。商品の交換手段としての金が、力の象徴と一般に考えられていなければ、このようなことは騒動になりようがない。
 近代は、この傾向をより推し進めた。まず、身分制度がなくなり、所有する金の量以外に人間の社会的な「格付け」をするものが、すっかりなくなったわけではないが、一般的には見つけづらくなった。
 より重要なのは、借金が経済の中心に座ったことである。つまり、株券を発行したり銀行から融資を受けて、人は自分が現に持っているより多額の金を集めて、それを資金として商売をするのが当たり前になった。これが、誰もが知るように、経済活動を大規模なものとし、さらに発展させていく原動力である。借金がいけない、などということになったら、資本主義社会は保たれない。だいたい、銀行に預金しても、利子がつかない。
 このことはまた、経済上の競争を非常に激しくする要因ともなる。事業に失敗した者は、手持ちの金を失うだけではなく、返せない負債を抱えることになるのだから。そんなことはみんなわかっている、と言われるかも知れないが、この酷薄さを前提として社会が営まれている以上、金銭への執着心はより深まる事情は、改めて噛みしめてもいいのではないだろうか。

 「黄金の壺」「守銭奴」「夏小袖」三作に共通するプロットはもう一つある。因業おやじが、金の力で若い娘と結婚しようとして、娘の恋人とその仲間たちによって妨げられるところだ。これはコメディア・デラルテを初めとする、西洋古典喜劇では、あまりにもお馴染みの題材である。金で人の心は自由にならない、というのは、貧乏人にとってはとても慰められる話だからだろう。
 「金色夜叉」は、戯曲ではないが、まさにこの点で新機軸を打ち出している。つまり、金になびいて恋人を捨てるヒロインを登場させた。
 お宮が将来を誓った一高生・間貫一(はざまかんいち)の元を去って、金満家の富山忠継(とみやまただつぐ)と結婚する動機は何か。これをめぐって文学研究者の間で長年論争が戦わされてきたことは、今度の読書会で初めて知った。私には、そんなのはとうてい議論に値することだとは思えない。作者がちゃんと記述しているのだ。「金色夜叉」前編第三章の文を現代語訳してみる。

 宮も貫一を憎からず思っていた。しかしそれはおそらく、貫一が宮を思う半分にもならなかったろう。彼女は、自分の美貌を知っていたからである。世間の女のうち、自分の美貌を知らない者はいないだろう。問題は、知りすぎるところだ。いわば、宮は、自分の美しさがどれくらいの値打ちか、当然のこととして知っていた。彼女の美しさをもって、わずかにこの程度の資産を継ぎ、たくさんいる学士風情を夫にするのは、彼女の望みを完全に満たすものでは到底なかった。

 疑問の余地はないだろう。お宮は、自分の美貌を交換価値として捉えることのできる女性として設定されているのだ。
 そんなに驚くほどのことではない、と言われるかも知れない。「売春は人類最古の職業」なる言葉は、真偽のほどは定かではないが、ずいぶん昔から、たぶん人類社会に貨幣経済が広まったのよりもっと古くから、女性の性は商品として売買されてきたのだろう。その商品の価値=価格を決める直接の尺度として、「美貌」が普通に使われるようになったのは、いつか? そして、売買する側の男性だけでなく、女性の側にもその商品価値が自覚されたのはいつか? となると、ひどく微妙な問題で、明確にするのはたぶん不可能であろうが。
 文学に限定して、自らの美貌を誇る、というだけではなく、「その美貌は官吏の位で言えば奏任(任官のために天皇への奏上が必要となる位。近代以前の「殿上人」のイメージだと思っていい)以上」などと、交換価値を自覚しているヒロインは、いつ頃から、どれくらい登場したのか? どなたか詳しい人に教えていただきたい。
 それはそうと、このような女性像は、現代でこそリアルであろう。その意味で、紅葉の先見性は称えられるべきかも知れない。
 しかし、メロドラマのヒロインとしては、あざとすぎて、読者の同情を惹かないなら、それだけで失格である。実際、徳富蘆花「不如帰」の浪子、泉鏡花「婦系図」のお蔦、菊田一夫「君の名は」の真知子など、日本の名だたるヒロインたちは、いずれも美貌ではあっても、それをうまく使って云々、というような計算は働かせず、全く欲得抜きで一人の男に尽くす。それこそヒロインの資格だ、と我々はいつの間にか思い込まされている。これがお宮に対する見方を狂わせてきたのではないか、と私は思っている。
 つまり、最も有名な熱海の場の最後(前編第八章)に、お宮が言う、「私は言遺した事がある」の、この「言い残したこと」とは何か、なんてことに頭を使うようになったのである。
 もちろん、作者の頭の中にだけあったことはわからない。状況証拠だけで言うと、この小説はこの後も長く続き、その中でお宮が直接登場する部分はそんなに多くはないのだが、それでもヒロインではあるのだから、貫一に宛てた手紙(「新續金色夜叉」の第一章)などは、真情を吐露したものとしてある。「言い残したこと」が作者にとって決定的に重要なら、ここでせめて暗示するぐらいはしたはずなのに、していない(と、私には思えるのだが、「いや、している」という人には、どの箇所なのか、ご教示願います)のは、そんなに重要ではないということだ、としか私には思えない。
 もう一つ、お宮が貫一のためを思って富山と結婚するのだ、というところで彼女の人間性を救済しようとすれば、富山の金で貫一を援助する、ということしか妥当な案はない。それは、お宮以外の人物がはっきりと口にして、貫一によってきっぱりと否定されていることである。前編第六章の(二)で、お宮の実父で貫一の養父の鴫澤隆三は、次のように申し出ている。貫一を洋行させてやろう、それ以外にも、金持ちの親戚がいれば、この先何かと心強い。だから、一度は貫一とお宮の仲を許しはしたが、それは反故にして、お宮と富山との結婚に同意してほしい、と。
 貫一は、このときは逆らわず、次の熱海の場で、お宮に、「い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児(みなしご)でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」と憤懣をぶちまけている。つまり、お宮が父隆三と同じようなことを考えていたとすれば、それは結婚前に当の貫一によって拒絶されている。それを知りながら、なお結婚するのだから、貫一とは関係のない、お宮の考えによってするのだ、と考えるしかない。

 お宮は、結婚前は、恋愛と、富や世間的な栄達を比べた場合、前者が決定的に重要だ、などとは思っていなかった。しかし、「金色夜叉」中編以降、愛のない結婚に倦み疲れて、貫一を捨てたことは、あさはかでもあれば、心ないしうちでもあった、と、悔恨に明け暮れる日々を送ることになっている。
 これは男性である紅葉の願望、というより、この頃の文学の、人間観の限界であろう。なるほど、富よりは恋愛のほうが、深い満足をもたらすかも知れないが、それもいつまで続くやら、保証はない。何も、すべてを捨ててまで成就するほどのことはないではないか。こんなドライな考えのヒロインは、この後も長く、例外的にしか日本文学には登場しない。
 一方の貫一は、お宮への恨みを抱き続けることで、彼女への愛を逆向きに、いつまでも保つことになる。その恨みの、怒りの原基は何かというと、どうやら、明治以前からの貞操概念である。彼はお宮を「姦婦!」と罵る。彼とお宮とは、入籍こそしていないが、二人の間で言い交わし、親の同意も得、肉体関係まであるからには、もはや夫婦同然である。「女房を売つた銭で」云々の彼の言葉は、そこから出ている。
 「恋愛は神聖だ」などと思っていたわけではない。この観念は、今に至るまで、日本の精神風土の中に根付いたことはないのではないだろうか。「神聖」の感覚が、西洋人とはずいぶん違うからだ。
 もっとも、それだけではない。お宮が、一人の男として、自分より富山のほうがよい、と言うなら、文句はない、とも貫一は言う。そうではなく、金にみかえられたのが情けないのだ、と。一応は将来有望な学生などは、富の山の前では全然値打ちがない、それが当然とされる世の中なのであろうか。あるいは、余人は知らずこの間貫一は、富山の所有する富に比べて、およそ値打ちがない者なのであろうか。そこが実に情けなく、悔しい。
 そこで貫一は、そのような卑小な世の中と同時に、卑小な自分自身にも復讐するために、高利貸となる。彼は守銭奴ではない。むしろ金は嫌いだ。人の弱みにつけこんで暴利を貪る高利貸しなどは、見下げ果てた人種だとしか思いようがない。だからこそ、やるのだ。人を傷つけることで、自分自身がもっと深い傷を負おうとする者が、「金色夜叉」中編以降の貫一である。この人物像にはちょっと感心する。ただ、完全に、説得的に造形されているか、と聞かれると、疑問なしとはしないが、私自身はまずまず納得している。
 しかしそれ以前の、「金は軽蔑すべきもの」というエートスは、どこから来ているのだろうか。それ自体は封建道徳とは言えなくても、「武士は喰はねど高楊枝」などの、封建時代からの、かなりの場合負け惜しみと見分けがつかないプライドと同じものではなかったろうか。この時代の学生=書生といえば、「栄華の巷低く見て」、理想に邁進すべき者だと自分では思っていたのだろう。ただ、実際には高歌放吟以外の何ができたろうか。
 このような「理想主義」は、現実の日本の、産業の発達、それに伴う国力の伸長からすると、足が地につかない、空疎な大言壮語に過ぎなかった。ただしかし、現実の金力=権力はない学生と、彼らと身近に過ごさねばならない知識人たちは、せめて金を軽んじるようなポーズでもとらなければ、正に恰好がつかなかったのである。
 とはいえもちろん、人は物欲のみの存在ではない。いや、それしかない、などと考えるとしたら、さかしまの観念主義に陥いることになる。だから、「金では計れない値打ちもある」というのも、まるっきりのでたらめではない。また、近代資本主義の過酷な優勝劣敗の世界からは一歩身を引いたところにいる、いわゆる女子供のためにも、「人の価値は金では計れない」を当然のモラルとする文学作品は、昔から今日まで生産され続けている。

 しかし文学はまた、世態人情を描破しようとして、社会の構造を可視化することもある。
 「金色夜叉」中編の第三章に、「写真の御前」というのが登場する。元どこかの藩主だった家が、華族になった。その家の跡取り息子が洋行して、かの地の令嬢と懇ろになり、将来を誓ったが、彼の母は、外国人との縁組など決して承知しない。息子は、この恋はあきらめる代わりに、独身主義を標榜し、俗世間のことはすべて投げ打ち、ただ、写真道楽にのみ耽っている、という設定。
 当主がこんなことでは、家の経営はたちゆかなくなる。何しろ、カメラ一台がひと財産だった時代の話だ。ここで家令(使用人筆頭、というより、昔の家老のイメージ)が、一計を案じて、家内にも世間にも秘密のうちに、金儲けをする。高利貸の、金主となるのである。実際の貸付・取立ての業務は、元藩士だった鰐淵直行にやらせている。そしてこの鰐淵こそ、お宮に去られてから、学校もやめ、鴫澤の家からも出た間貫一を雇った人物だった。
 話はこれだけで、この後「写真の御前」が活躍することも、彼の家が筋に絡んでくることもない。しかしこの短いエピソード中に、「許されない恋」と、「秘密の殖財」のテーマがちゃんと描き込まれているのは見やすいであろう。
 明治三十年代でも、華族という「名家」は少しはあった。しかし貴族院議員に選ばれる以外の特権があったわけではなく、身分に相応しい体裁を整えるためには、なんらかの形で資本主義の中に組み込まれるしかなかった。その構造の末端に、「写真の御前」とは反対の事情によって恋に破れ、自分を痛めつけることで、金銭万能の世の中に復讐しようとする貫一が組み込まれるのである。
 貫一は、この期に及んでもまだ、余計なものを抱えるインテリであり続けている。彼の雇い主の鰐淵直行こそ、新たな時代の守銭奴と呼ばれるにふさわしい人物である。
 「金色夜叉」後編の第一章に、直行の子で学者である直道が登場し、父に、人に恨まれる高利貸などはすぐにやめるように説得する。そんなことをしなくても、あなたとおっかさんは、これからの余生を楽に食べていけるだけの金は、充分にあるのではありませんか、と。
 直行は反論する。自分一個の用に足りるものだけあったらそれで満足してしまう者だけだったら、社会の事業は発展しない。ひいては国が滅びる。そして、直行自身はどうして金儲けをやめないのかと言えば、ただそれが面白いからだ。直道よ、お前は、もう一人前の学問はあるのだから、これ以上本を読むのはやめたらどうだ、と言われたらどうする? それと同じだ。
 以上の直行の理屈にどの程度納得するかは別にして、現に資本主義社会を支える論理であることは確かである。いや、彼のような、当座の支払いに困っている者に金を貸す高利貸がいなくても、社会は発展する、と言われるかも知れない。しかし、彼のような稼業がなくなれば、当座の支払いに窮する者たちは、結局どうにも救済されない。また、「写真の御前」のような立場の人も、困るだろう。
 要するに、鰐淵のような人種は、近代資本主義が生みだした仇花なのだ。仇花であっても、それが出てくる必然性はあった。「金色夜叉」ではそれがきちんと追求されているとまでは言えないが、たいていの、いわゆる純文学よりは、社会の実相に迫り得ている。もっと評価されてよい作品だと思う。
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