メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)
サブテキスト : ジャン・ポール・サルトル 伊吹武彦訳『実存主義とは何か』(原著1946年刊 人文書院 改訂版昭和49年)
自由主義の発想で、公正な社会の原理は示せるかも知れない。しかし、それでは何かが、人間が生きていく上で重要な何かが足りない、というのがサンデルたちコミュニタリアンの立場である。
だいたい、自立した自由な個人がまずあり、その個人同士が約束(契約)して大小の社会=共同体を作り上げる、という発想自体に無理がある。前にも書いたように(学校のリアルに応じて その3)、ヒトは共同体の中で生まれ育ち、最広義の教育を受けて、人間となる。人間は、まず子どもとして、やがては、夫/妻として、父/母としての役割を受け持つ。ずっと独身でいたとしても、地域共同体の一員として、さらには国家の一員としても、やるべきことはある。これらの共同体は明らかに個人に先行しているし、人間が生きる意味を見いだすのは、共同体内の、人と人の「間」以外にはない。Crisis(「危機」及び「分かれ道」)のとき、決断する場もまた同じ。この「場」を棚上げにして、「何が正義か」を考えても無意味ではないか?
それでサンデルはまず、契約という概念だけで、人間の考える「正しさ」を説明することはできないと証明しようとする。私が、この時代の、日本の、ある地方に、ある父母の子として生まれた事実には、いささかも私の意志的な選択は含まれていない。自由主義的な考えでは、そのような場合、私は誰にも責任を感じる必要はないのだが、実際は感じているではないか、と。
それは認めるけれど、やっぱり一般的抽象的な話に留まっている。「やるべきこと」については、大雑把なアウトラインが示されたに過ぎない。個別具体的な場面で、決断して何事かをなす(何もしない、も含む)のはあなたであり、主体はやっぱり問題にされざるを得ない。そうでなければ、責任という概念もまた、生じようがない。「責任ある主体」とは何か、という問いが立ちあがってくる必然性は、やはりある。
腹立たしいことに、共同体は、個人には背負いきれない義務を強いてくることも、たまにある。その代表例としては、家族→地域→国家(さらにこの上に人類共同体を考えるべきかどうか、私にはわからない)と、共同体が大きくなるにつれて、各レベルで要請される「正しいこと」が矛盾する場合が挙げられよう。このような最大の危機に立ったとき、個人はどうするべきか。あらかじめ身も蓋もなく結論だけを言うと、明確な解答はない。
サンデルが「共同体の成員としての責務」を説明するために挙げた例にも、上の矛盾はあからさまに現れている。
フランスのレジスタンスの話をみよう(P.293~294)。第二次世界大戦中ドイツに占領されていたフランスで、レジスタンスの活動家のうちある者は、各地を空爆していた。もちろんドイツ軍の軍事施設が目標だが、その周辺にいる一般のフランス人にも犠牲が出ることは避けられず、それはやむを得ぬこととされていた。ある日、この活動に従事していた一人のパイロットが、空爆の任務を誰か他の者に代えてくれと願い出た。その時の標的は彼の故郷の村だったのである。
サンデルは、実際にあったことかどうかは定かではないこの話を紹介した後、こう問いかける。「パイロットが躊躇したのは、単なる臆病からだろうか? それとも、道徳的に重要な何かの表明だろうか?」。そうとは書かれていないが、サンデル自身は明らかに後者だと考える者であり、このパイロットの行為は、故郷の一員としてのアイデンティティに忠実だったものとして、どうやら賞賛されている。
私がこの問に是非答えろ、と迫られたら、前者だ、と言うことになる。このパイロットの立場におかれたら、やはり(臆病風に吹かれて?)、同じようにふるまうことは大いにあり得る、とは認めるが、その上でも、やはり。
空爆は、彼がやらなければ、他の者がやるのはわかりきっている。そして、それは「正しい行為」であるとまで、彼は認めている。そうでなければ、誰かの故郷ではある、フランスの他の場所を空爆できるはずはない。それなのに、やらない、というのは、「自分の手は汚したくない」というだけの話ではないか。
むしろ、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、彼が故郷や家族への思いは断ち切って、空爆したときではないだろうか。依然として、そういうふうに私がやれるというわけでも、他人にそうしろと勧めるわけでもないが。それはどうも、煮え切らない、もっと言えば卑劣な態度に見える、と言われたら、私は、世の中には「立派な行為」はあるし、そのための基準も一応あるが、人はそれのみでは生きられない、と答える。
本書ではさらに、二人の子どもが海で溺れていたとき、一方が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが「正しい行為だ」とも言われている。ただし、他人の子どもの頭を踏んづけたりしない限りは、と留保がつけられている(P.306)。それでも、こう言い切ってしまえるのはすごいなあ、と私は感嘆する。
すると、既にちょっと触れたが(正しい道はあるのか? その1)、最初に出した「暴走する路面電車」の「仮定1」ではこうなるのだろう。五人の命を救うために一人を死なせるのは正しい、とは言われていないが、どうもそのようだ。この人々がどういう人間かを問わないうちは。ここで、「一人」が、自分の家族だったとしたら、彼/彼女を助けて、五人を死なせるのが正しいことに…、なるようだなあ。あなたも、そう思いますか?
人間には自分の家族に対する特別の義務があるのは確かだ。私は自分の子どもを養育する義務はあるが、隣の子どもに対しては、ない。だからと言って、隣の子どものおやつを取り上げて、自分の子にあげてもいいわけではないのはもちろんである、なんてことより、もっと進んで、次のようには考えられないだろうか。
自分の子どもを大切にするのは、「義務」であろうか。サンデルがそう説くのに、ことさら異を立てるまでの必要性は感じないものの、どうも、そのような堅い言葉はここではそぐわないように、我々日本人には自然に思えないか? 我が子が不幸せになって、私が幸福になるなんて、あり得ない。そうだとしたら、血の繋がりの有無にかかわらず、もう家族とは呼べない。と、すると、我が子をよその子よりも大切にするのは、つまりは自分のためなのではないか? 我が子のために結果としてよその子を犠牲にするのは、道徳的な責務に従ったというより、全く逆に、自己中心的な、うんと厳しく言えばエゴイズムから発した行為だと言えないか?
またしても煮え切らない態度だ、と言われるかも知れないが、私は、だからと言って、自分の子をさしおいても他人の子を助けるべきだと主張するわけでもないし、さらに、エゴイズムが必ず悪いとも主張しない。だいたい、誰が(例えばカントが)主張しても、それはなくならない。人間が自己中心的であるのは、単に自然なことだ。
ただし、それだけでは社会は保たないのも事実で、だからこそ我々は倫理・道徳を必要とする。正義とはそういうところで語られるべきだ、というのが私の考えなのである。
最初の話に戻ると、ここでは共同体の二つのレベルから、相反する二つの要求が来ているのは見易い。祖国フランスからと、自分を育ててくれた家族や馴染み深い人々からの。
後者の場合、共同体の運命は、自分の幸福に直結するので、それを守ろうとするのは一種のエゴイズムではないか、という疑問を上では述べた。この話のパイロットがそこまで考えたかどうかはともかくとして、彼は大筋でこちらを捨てた。結局のところ、空爆はされるのだから。そこまでの動機の部分は、立派なものだったろうか?
面倒くさくてご免なさい、だけど、そうとも言い切れない。空爆が、犠牲の大きさに比べて、どれほどの効果があったかの、実際的な面での疑問もある(結局のところ、英米軍が上陸してくるまでは、フランスは解放されなかった)し、そもそも国家とは、これほどの犠牲を払っても、解放されるべきかどうか、と問う余地もある。
問は例えばこんな形になる。自国が占領されているのは、たいていの人にとって屈辱的ではあろう。それでも、屈辱を雪ぐために、覚悟しているわけでも同意しているわけでもない人々まで、戦火に巻き込んでもいいのだろうか? こちらはこちらで、国家のエゴイズムと呼ばれるべきではないのか?
(こんなふうにいちいちくだくだしく考えていたのでは、何もできなくなる。いいかげんによしたらどうだ、という声が聞こえてきそうだ。そう、我々はどこかで、考えを打ち切って、行動に踏み切らねばなない。とはいえ、私たちは事前に考えることができて、また考えてしまう動物でもある。それならいっそ、とことんまでいきましょう。考えるなんて無意味だと考えられるところまででも、できれば、行ってみようじゃありませんか)
結局のところ、「何をなすべきか」の基盤は、いつも危うい。
誤解を招かないようにつけ加えておくと、サンデルは、身近な人間への義務と国家や社会への義務が対立したら、いつも前者を優先すべきだ、とは言っていない。自分の兄は犯罪者ではないか、と気づいた二人の弟の、相反する行動が、本書には並列されている。そのことを警察には黙っていた弟と、警察に告げた弟と。どちらが正しいともサンデルは言わない。それには決着がつかないことは自明なので、敢て言う必要はないと思っているのかも知れない。
彼は、こんなふうに悩むことそのものが、人間の価値なのだ、というところでやめている。
「人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ」(P.307)
別の人の意見も聞いておこう。
たぶん、私のように、若い頃、名声がまだ衰えていなかったサルトルに多少とも親しんだ者なら、彼の言葉が思い出されるだろう。やはりフランスの、対独レジスタンスにまつわる話だ(P.31~37)。
ある日、サルトルが教えた学生の一人が、相談にやって来る。
「私の父は、ドイツの協力者となり、家族を捨てた。兄は、ドイツ軍と戦って、戦死した。自分も兄のようにしたいが、それでは、年老いた母を一人ぼっちで置き去りにすることになる。そのうえ、自分ももちろん戦死する可能性があり、そうなったら母を絶望のどん底に突き落とすことになるだろう。私はどうしたらいいのか?」
自分に相談に来た以上、答えは決まっている。それはこの学生にもあらかじめわかっていたはずだ、とサルトルは言う。答えとは、「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」。
改めて整理しよう。
(1)サルトルは認めたくないようだが、家族や国家は、価値あるものであり、従って維持するための努力を、成員に要求するものとして、個人に先駆けて、あらかじめ、ある。そうでなければ、サンデルのパイロットも、サルトルの学生も、悩む必要などまったくなかったのだ。
(2)しかし、価値は結局相対的なものでしかない。早い話が、ある特定の家族・故郷出身ではなく、フランスという故国を同じくする者でなければ、彼らの悩みは実際問題としては共有できない。いつでも、誰にでも、通用する価値ではないので、ときには、一つの価値のためにもう一つは犠牲にすることも要求されたりする。このとき、サルトルは、再び「自由」を呼び出したのだった。
つまり、人間が自由である、とは、端的に、人が必ず従うべき価値基準は存在しない状態のことである。このときの自由は、それ自体が価値ではないし、なんらかの価値のために都合がいい状態でもない。どうにも変えようがない、根源的な、人間の条件なのだ。「人間は自由の刑に処せられている」(P.20)と言い得るような。
ただし、とサルトルはまた反転する。で、あるからこそ、人間は自分の意志で何かをすることができるのだし、価値と呼ぶに足る何かを自ら創りだすこともできる。すると自由は、人間が価値ある存在となるために、必要な状態なのだということにもなる。
このような論理はあなたにはどう見えるのだろう。今の私には踏み込んで考える余裕はないが、気にかける値打ちはまだあると思えるので、書き記した。
サブテキスト : ジャン・ポール・サルトル 伊吹武彦訳『実存主義とは何か』(原著1946年刊 人文書院 改訂版昭和49年)
自由主義の発想で、公正な社会の原理は示せるかも知れない。しかし、それでは何かが、人間が生きていく上で重要な何かが足りない、というのがサンデルたちコミュニタリアンの立場である。
だいたい、自立した自由な個人がまずあり、その個人同士が約束(契約)して大小の社会=共同体を作り上げる、という発想自体に無理がある。前にも書いたように(学校のリアルに応じて その3)、ヒトは共同体の中で生まれ育ち、最広義の教育を受けて、人間となる。人間は、まず子どもとして、やがては、夫/妻として、父/母としての役割を受け持つ。ずっと独身でいたとしても、地域共同体の一員として、さらには国家の一員としても、やるべきことはある。これらの共同体は明らかに個人に先行しているし、人間が生きる意味を見いだすのは、共同体内の、人と人の「間」以外にはない。Crisis(「危機」及び「分かれ道」)のとき、決断する場もまた同じ。この「場」を棚上げにして、「何が正義か」を考えても無意味ではないか?
それでサンデルはまず、契約という概念だけで、人間の考える「正しさ」を説明することはできないと証明しようとする。私が、この時代の、日本の、ある地方に、ある父母の子として生まれた事実には、いささかも私の意志的な選択は含まれていない。自由主義的な考えでは、そのような場合、私は誰にも責任を感じる必要はないのだが、実際は感じているではないか、と。
それは認めるけれど、やっぱり一般的抽象的な話に留まっている。「やるべきこと」については、大雑把なアウトラインが示されたに過ぎない。個別具体的な場面で、決断して何事かをなす(何もしない、も含む)のはあなたであり、主体はやっぱり問題にされざるを得ない。そうでなければ、責任という概念もまた、生じようがない。「責任ある主体」とは何か、という問いが立ちあがってくる必然性は、やはりある。
腹立たしいことに、共同体は、個人には背負いきれない義務を強いてくることも、たまにある。その代表例としては、家族→地域→国家(さらにこの上に人類共同体を考えるべきかどうか、私にはわからない)と、共同体が大きくなるにつれて、各レベルで要請される「正しいこと」が矛盾する場合が挙げられよう。このような最大の危機に立ったとき、個人はどうするべきか。あらかじめ身も蓋もなく結論だけを言うと、明確な解答はない。
サンデルが「共同体の成員としての責務」を説明するために挙げた例にも、上の矛盾はあからさまに現れている。
フランスのレジスタンスの話をみよう(P.293~294)。第二次世界大戦中ドイツに占領されていたフランスで、レジスタンスの活動家のうちある者は、各地を空爆していた。もちろんドイツ軍の軍事施設が目標だが、その周辺にいる一般のフランス人にも犠牲が出ることは避けられず、それはやむを得ぬこととされていた。ある日、この活動に従事していた一人のパイロットが、空爆の任務を誰か他の者に代えてくれと願い出た。その時の標的は彼の故郷の村だったのである。
サンデルは、実際にあったことかどうかは定かではないこの話を紹介した後、こう問いかける。「パイロットが躊躇したのは、単なる臆病からだろうか? それとも、道徳的に重要な何かの表明だろうか?」。そうとは書かれていないが、サンデル自身は明らかに後者だと考える者であり、このパイロットの行為は、故郷の一員としてのアイデンティティに忠実だったものとして、どうやら賞賛されている。
私がこの問に是非答えろ、と迫られたら、前者だ、と言うことになる。このパイロットの立場におかれたら、やはり(臆病風に吹かれて?)、同じようにふるまうことは大いにあり得る、とは認めるが、その上でも、やはり。
空爆は、彼がやらなければ、他の者がやるのはわかりきっている。そして、それは「正しい行為」であるとまで、彼は認めている。そうでなければ、誰かの故郷ではある、フランスの他の場所を空爆できるはずはない。それなのに、やらない、というのは、「自分の手は汚したくない」というだけの話ではないか。
むしろ、「立派な行為」と呼ばれるべきなのは、彼が故郷や家族への思いは断ち切って、空爆したときではないだろうか。依然として、そういうふうに私がやれるというわけでも、他人にそうしろと勧めるわけでもないが。それはどうも、煮え切らない、もっと言えば卑劣な態度に見える、と言われたら、私は、世の中には「立派な行為」はあるし、そのための基準も一応あるが、人はそれのみでは生きられない、と答える。
本書ではさらに、二人の子どもが海で溺れていたとき、一方が自分の子どもで、もう一方がそうでなければ、自分の子どもを優先して助けるのが「正しい行為だ」とも言われている。ただし、他人の子どもの頭を踏んづけたりしない限りは、と留保がつけられている(P.306)。それでも、こう言い切ってしまえるのはすごいなあ、と私は感嘆する。
すると、既にちょっと触れたが(正しい道はあるのか? その1)、最初に出した「暴走する路面電車」の「仮定1」ではこうなるのだろう。五人の命を救うために一人を死なせるのは正しい、とは言われていないが、どうもそのようだ。この人々がどういう人間かを問わないうちは。ここで、「一人」が、自分の家族だったとしたら、彼/彼女を助けて、五人を死なせるのが正しいことに…、なるようだなあ。あなたも、そう思いますか?
人間には自分の家族に対する特別の義務があるのは確かだ。私は自分の子どもを養育する義務はあるが、隣の子どもに対しては、ない。だからと言って、隣の子どものおやつを取り上げて、自分の子にあげてもいいわけではないのはもちろんである、なんてことより、もっと進んで、次のようには考えられないだろうか。
自分の子どもを大切にするのは、「義務」であろうか。サンデルがそう説くのに、ことさら異を立てるまでの必要性は感じないものの、どうも、そのような堅い言葉はここではそぐわないように、我々日本人には自然に思えないか? 我が子が不幸せになって、私が幸福になるなんて、あり得ない。そうだとしたら、血の繋がりの有無にかかわらず、もう家族とは呼べない。と、すると、我が子をよその子よりも大切にするのは、つまりは自分のためなのではないか? 我が子のために結果としてよその子を犠牲にするのは、道徳的な責務に従ったというより、全く逆に、自己中心的な、うんと厳しく言えばエゴイズムから発した行為だと言えないか?
またしても煮え切らない態度だ、と言われるかも知れないが、私は、だからと言って、自分の子をさしおいても他人の子を助けるべきだと主張するわけでもないし、さらに、エゴイズムが必ず悪いとも主張しない。だいたい、誰が(例えばカントが)主張しても、それはなくならない。人間が自己中心的であるのは、単に自然なことだ。
ただし、それだけでは社会は保たないのも事実で、だからこそ我々は倫理・道徳を必要とする。正義とはそういうところで語られるべきだ、というのが私の考えなのである。
最初の話に戻ると、ここでは共同体の二つのレベルから、相反する二つの要求が来ているのは見易い。祖国フランスからと、自分を育ててくれた家族や馴染み深い人々からの。
後者の場合、共同体の運命は、自分の幸福に直結するので、それを守ろうとするのは一種のエゴイズムではないか、という疑問を上では述べた。この話のパイロットがそこまで考えたかどうかはともかくとして、彼は大筋でこちらを捨てた。結局のところ、空爆はされるのだから。そこまでの動機の部分は、立派なものだったろうか?
面倒くさくてご免なさい、だけど、そうとも言い切れない。空爆が、犠牲の大きさに比べて、どれほどの効果があったかの、実際的な面での疑問もある(結局のところ、英米軍が上陸してくるまでは、フランスは解放されなかった)し、そもそも国家とは、これほどの犠牲を払っても、解放されるべきかどうか、と問う余地もある。
問は例えばこんな形になる。自国が占領されているのは、たいていの人にとって屈辱的ではあろう。それでも、屈辱を雪ぐために、覚悟しているわけでも同意しているわけでもない人々まで、戦火に巻き込んでもいいのだろうか? こちらはこちらで、国家のエゴイズムと呼ばれるべきではないのか?
(こんなふうにいちいちくだくだしく考えていたのでは、何もできなくなる。いいかげんによしたらどうだ、という声が聞こえてきそうだ。そう、我々はどこかで、考えを打ち切って、行動に踏み切らねばなない。とはいえ、私たちは事前に考えることができて、また考えてしまう動物でもある。それならいっそ、とことんまでいきましょう。考えるなんて無意味だと考えられるところまででも、できれば、行ってみようじゃありませんか)
結局のところ、「何をなすべきか」の基盤は、いつも危うい。
誤解を招かないようにつけ加えておくと、サンデルは、身近な人間への義務と国家や社会への義務が対立したら、いつも前者を優先すべきだ、とは言っていない。自分の兄は犯罪者ではないか、と気づいた二人の弟の、相反する行動が、本書には並列されている。そのことを警察には黙っていた弟と、警察に告げた弟と。どちらが正しいともサンデルは言わない。それには決着がつかないことは自明なので、敢て言う必要はないと思っているのかも知れない。
彼は、こんなふうに悩むことそのものが、人間の価値なのだ、というところでやめている。
「人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ」(P.307)
別の人の意見も聞いておこう。
たぶん、私のように、若い頃、名声がまだ衰えていなかったサルトルに多少とも親しんだ者なら、彼の言葉が思い出されるだろう。やはりフランスの、対独レジスタンスにまつわる話だ(P.31~37)。
ある日、サルトルが教えた学生の一人が、相談にやって来る。
「私の父は、ドイツの協力者となり、家族を捨てた。兄は、ドイツ軍と戦って、戦死した。自分も兄のようにしたいが、それでは、年老いた母を一人ぼっちで置き去りにすることになる。そのうえ、自分ももちろん戦死する可能性があり、そうなったら母を絶望のどん底に突き落とすことになるだろう。私はどうしたらいいのか?」
自分に相談に来た以上、答えは決まっている。それはこの学生にもあらかじめわかっていたはずだ、とサルトルは言う。答えとは、「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」。
改めて整理しよう。
(1)サルトルは認めたくないようだが、家族や国家は、価値あるものであり、従って維持するための努力を、成員に要求するものとして、個人に先駆けて、あらかじめ、ある。そうでなければ、サンデルのパイロットも、サルトルの学生も、悩む必要などまったくなかったのだ。
(2)しかし、価値は結局相対的なものでしかない。早い話が、ある特定の家族・故郷出身ではなく、フランスという故国を同じくする者でなければ、彼らの悩みは実際問題としては共有できない。いつでも、誰にでも、通用する価値ではないので、ときには、一つの価値のためにもう一つは犠牲にすることも要求されたりする。このとき、サルトルは、再び「自由」を呼び出したのだった。
つまり、人間が自由である、とは、端的に、人が必ず従うべき価値基準は存在しない状態のことである。このときの自由は、それ自体が価値ではないし、なんらかの価値のために都合がいい状態でもない。どうにも変えようがない、根源的な、人間の条件なのだ。「人間は自由の刑に処せられている」(P.20)と言い得るような。
ただし、とサルトルはまた反転する。で、あるからこそ、人間は自分の意志で何かをすることができるのだし、価値と呼ぶに足る何かを自ら創りだすこともできる。すると自由は、人間が価値ある存在となるために、必要な状態なのだということにもなる。
このような論理はあなたにはどう見えるのだろう。今の私には踏み込んで考える余裕はないが、気にかける値打ちはまだあると思えるので、書き記した。
由紀さんの「思想以前」のサブタイトル「今を生きぬくために考えるべきこと」は、M・サンデルの上記著作のサブタイトル「いまを生き延びるための哲学」と全く同じ表現です。そこに由紀さんがM・サンデルの著作を取り上げた理由があると理解できましたタイトルからすると、内田樹先生の著作「ためらいの倫理学」の「ためらい」という表現も、同様な立ち位置にあることを匂わせていますので、それが由紀さんが「ため倫」を読まれた理由であろうと、勝手に余計な推察しております。
まことに僭越なのは承知しておりますが、最後に一言だけ苦言を言わせて頂くと「ブログ内容が一寸長文すぎて、やや難解になってきている」のが気になっています。これからの展開を期待するとともに、ご健筆を祈念しております。以上(モリ)
で、今回のコメントにコメントを返しますと。
まず、『思想以前』というタイトルは、私がつけたものではありません。編集の方といろいろ候補を出して協議しまして、私は『あなたとどこで出会うのか 思想入門以前』というのを最後に出したのですが、却下され、現行のものになりました。
「思想入門以前」は、謙遜と言えば謙遜の言葉で、普通「思想」なる言葉から連想される、高度で難解なことを論じるのではなく、むしろ、我々普通の生活者にとってどうしてそのようなものが必要なのか、を言おうとしている、その旨を伝えたかったのです。それが、「思想以前」だと、おっしゃるような意味にも取れますね。現実の著者より立派な考えを見出していただいたようで、それはそれで有り難いのですが。
とは言え、私とmoriさんとは少し違うかな、と思えるのは、次のようなところです。「暴力は悪い」「戦争は悪い」などの感覚は、自分がそんなものに巻き込まれてはたまらない、と思えば、正に自然に湧いてくるものですが、それはまだ倫理とも思想とも呼べないと私は考えています。そうは感じながら、戦争も暴力も絶えることのないこの現実世界と、どうやって向き合うか、のところで、「思想」が立ち上がってくる契機があるのだろうと。
そこで私に確固とした倫理観なり思想なりがあるわけではなく、気楽に人を批判してばかりじゃないかと言われるのは承知の上で、やっぱり言っておきたいことがある。サンデル教授についてはこれから当ブログで開陳します。内田樹先生については、うろ覚えながら、次のような不満を抱いた覚えがあります。
どちらに与するのかというような二者択一、その最も極端なものが戦争であるわけですが、そこで、どちらかを選べ、と迫ってくるものが権力である。これに対抗するには「どちらも選ばない」態度をとるしかない。こちらが絶対に正義であると思いこんで、その道をつっぱしるとき、人は無際限に暴力を揮うようにもなる。本当は絶対確実な正義などこの世にはないのだから、選択の手前で立ち止まり、「ためらい」続けるのがむしろ適当だ、というのが内田氏のお考えのようです。それには同意できる面もあります。
が、サルトル風に言えば、これは「選ばない」ということを選べ、と言っているのです。時によっては、とても厳しい態度決定になります。そうしているのだという自覚が、どうも内田氏には乏しいように思いました。その詳細は『軟弱者の戦争論』に書きましたので、ここでは繰り返しません。
最後の苦言に関しましては、ありがたくお聞きします。実は、私はいつも、一回だいたい三千字ぐらいを目安に書き始めるのです(それでも充分長いですが)。しかし、途中で、言わなくちゃいけないかな、と思えることがどんどん増えてきて、最近ではいつも四千字を越えます。今回のお返事もこんなに長くなってしまいましたし、やはり、頭が悪いので、上手に、適度にまとめるということができないのですね。御寛恕をお願いするしかないようです。
こんな私ですが、今後も宜しくお願いします。