・・・・・・実はこの本、2ヶ月前に読み終え、この記事も書きかけだったが、次から次へと《事件》が起こるもので、つい後回しになってしまった・・・・・
ザビーナ・シュピールラインは1900年代の初頭に、フロイトやユングと共に活躍した精神分析学の研究者で医師であったが、その数奇な運命はタイトルからも想像できる。
この本の出るまでの以前の文献では、もっぱら《ユングの恋人》という面を強調して取り上げられていたせいもあって、従来のイメージはスキャンダラスで不運な面ばかりが強調するきらいがあったが、この本を読むと、淡々とした描写の中に、シュピールラインが激動の世界にあって、いかに真摯に精一杯生き抜いたかということがよく伝わってくる。
シュピールライン(1885年 - 1942年)は ロストフ の裕福なユダヤ人の家庭に生まれ、父ニコライは商人、母エヴァは当時のロシアでは珍しい大学卒( 歯学部 )の女性だった。
その生きた時代は、まさに激動の時代だった。
以下、シュピールラインの関連年表から主なものを抜き出してみると
1885年10月25日 南ロシア、ロストフでユダヤ人商人ニコライ・シュピールラインと歯科医エヴァ・シュピールラインの娘として出産
1887年 6月14日 1番目の弟、ヤーシャ誕生
1891年 5月27日 2番目の弟、イサーク誕生
1895年 3月 3日 妹、エミーリア誕生
1896年~1904年 ロストフのエカテリーナ・ギムナジウムで学ぶ
1899年 7月 1日 3番目の弟エミール誕生
1901年10月10日 エミーリア、チフスで死亡
1904年8月~1905年6月 チューリッヒ州立ブルクヘルツリ精神病院入院。ユングが治療を担当
(1905年1月 ロシアで『血の日曜日』事件)
1905年~1911年 チューリッヒ大学で医学を学ぶ
1911年5月~8月 ミュンヘンに滞在(論文「ある統合失調症の症例の心理学的内容について」等発表)
1911年10月~1912年4月 ウィーンに滞在(この間、フロイトと知り合う)
1912年春から1913年秋 ロストフに滞在(この間、敬虔なユダヤ教徒で医師である、バーヴェル・シェフテルと結婚する)
また、1914年までに、「児童心理研究」等多数の論文を発表
1913年12月17日 第一子、イルマ・レナータ誕生
(1914年 第一次世界大戦勃発)
大戦勃発を機に、娘とともにチューリッヒに転居
1914年12月~1915年4月まで チューリッヒ滞在
1915年1月14日 バーヴェル、妻子を残しチューリッヒからロシアに帰国
(1917年 2月革命につづき10月革命が起こり、ロマノフ朝が倒され、臨時政府が崩壊しソビエト政権を樹立
以降、内線をへて 1922年 ソビエト権力が確立する)
1920年9月 デン・ハーグの国際精神分析会議に参加
同9月~1923年5月 ジュネーブのジャン=ジャックルソー研究所に勤務。その間、ジャン・ピアジュに精神分析を実施。
1922年3月25日 母エヴァ死去
1923年夏 スイスを去り、娘とともにソ連に向かう
1924年 ロストフに戻る。その地で精神科診療所の医師として勤務する
1926年6月18日 第2子エヴァ誕生
1930年 マルクス・レーニン主義の導入を巡る論議の開始。ロシア精神分析協会は解散
(1933年 ナチス、政権獲得)
1933年 ソ連で精神分析が禁止される
1935年 児童学者としての職を失い、学校医として勤務。2番目の弟イサークと父ニコライが逮捕され、
イサークは強制収容所へ、ニコライは釈放される
1937年 夫バーヴェルが心不全で死去。イサークは12月26日、「スパイ活動および反革命組織への参加」を理由に、死刑を宣告され同日中に銃殺
1番上の弟ヤーシュは同年9月10日、1番下の弟エミールは同11月5日にそれぞれ逮捕される
1938年1月21日 ヤーシュ銃殺
同年6月10日 エミール銃殺
同年8月17日 父ニコライ死亡
(1939年 第二次世界大戦勃発)
1941年6月22日 ドイツ軍がソ連に侵攻
同年11月20日~28日 ドイツ軍による最初のロストフ占領
1942年 7月11日 ドイツ軍による2回目のロストフ占領
同年 8月11日~14日 ザビーナとふたりの娘レナータとエヴァは、他のユダヤ人とともに、ハインツ・ゼーツェン中佐指揮下の
SS第10a特別出動部隊によって殺害される
(同書から抜粋 一部、加筆)
自分としては、もともと精神分析学にはあまり興味がない。だから、フロイトとユングの学説上の違いには興味がない。さらに、シュピールラインが精神分析学上でどんな研究の成果・功績が見られたかについても無頓着である。
しかしこの本で、第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたる緊迫した情況がよく映し出されているし、その中にあって、まだ学問として充分認知されていない精神分析学にザビーナ・シュピールラインがどのようにかかわったのか、興味深く読んだ。
ザビーナが同時代に同じユダヤ人として生きたフロイトやメラニー・クラインなどとの関わりなども初めてこの本で知った。
最初に入院したスイスの『ブルクヘルツリ精神病院』のブロイラー医師の謙虚で誠実な治療姿勢は、「こんな時代にこういう精神科医がいたんだ」と意外な驚きも味わった。
それとは対照的に、ユングの打算的で無責任な態度には、同じ《男》ながら、情けない感じがする。
残念だったのは、ソビエト政権成立前後の記述が、他の部分の描写に比べて雑だったのが気になる。スターリンが権力を掌握して以降の、《大粛正》は論外としても、トロッキーと他のボルシェビキの『精神分析』への関わり方、考え方の違いについてもう少し突っ込んで欲しかった。
背景を描くにしても、ナチスの台頭と政権獲得もそうだが、あれだけの世界史的な出来事が、個々の人物描写に比べ、いかにも軽く扱われている。そうでないと、スターリンとヒトラーのはざまで生き、自分も含め、兄弟・家族・子どもを虐殺された、その重大な意味が薄れてしまう気がする。
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近々この本を下地に、シュピールラインの数奇な運命の物語が映画化されるという。どんな映画になるか、今から観るのが楽しみである。
蛇足:この本、お勧めするには定価が5000円!とは、ちょっと高すぎである。映画でも、「岩波名画劇場」のシリーズで買いたい、いいのがあったのだが(『アウシュビッツの女囚たち』)1万円を超えるビデオだとおいそれと買えない。自分のところで名作を抱え込まないで『岩波さん』にもう少し考えてもらいたいところである。