法隆寺の五重塔は、1300年の歴史を持ち、最古の木造建築の一つとして国宝に指定されています。その五重塔が、戦争末期の一時期に解体されて疎開した、という事実を知っている人は少ないでしょう。私も昨日、専門に研究している人から直接話しを聞いて、初めて知ったものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/5f/aa755932550f1c9a445ab8653b443cbe.jpg)
解体するに当たっては、3ヶ月を要して小屋がけを作り、その後分解して運んだものです。大戦の最中ですから、男子は軍隊と工場に動員され、残っているのは老人と女子のみとなり、満足な人手もないはずです。今日のクレーンなども無く、運送器具も大八車を使って、数キロ先の疎開先まで運んだようです。大変な苦労が偲ばれます。
戦後1年経ってから、部材を戻して再建されたのですが、その間はこの塔が存在しなかったという事実を知って驚いたことです。私のブログの目的とは関係ないことですが、一つの記録として残しておきます。
(下の写真は、昭和17年10月より12月まで3ヶ月を要して建設され、五重塔にすっぽりかぶせた須屋根の貴重な記録です。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/5f/aa755932550f1c9a445ab8653b443cbe.jpg)
解体するに当たっては、3ヶ月を要して小屋がけを作り、その後分解して運んだものです。大戦の最中ですから、男子は軍隊と工場に動員され、残っているのは老人と女子のみとなり、満足な人手もないはずです。今日のクレーンなども無く、運送器具も大八車を使って、数キロ先の疎開先まで運んだようです。大変な苦労が偲ばれます。
戦後1年経ってから、部材を戻して再建されたのですが、その間はこの塔が存在しなかったという事実を知って驚いたことです。私のブログの目的とは関係ないことですが、一つの記録として残しておきます。
(下の写真は、昭和17年10月より12月まで3ヶ月を要して建設され、五重塔にすっぽりかぶせた須屋根の貴重な記録です。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/4f/25ac31b33b7fffd3a153bfd58fe074dc.jpg)
見せられると信じざるを得ません。作業に携わった方々の苦労が偲ばれます。
早速飲み友達の中で話題にさせて頂きます。
それにしてもアメリカさんは粋なもんだよ古都には手を出しませんでした。
米軍は、京都や奈良の爆撃を回避させたのだから、法隆寺の疎開は無駄骨だった、という人も居るそうです。
しかし、それは歴史の結末を知った今だからいえる。当時の日本としては、最悪の事態に備えた見識、として評価するべき、ということです。
(このことも飲み屋の話題に付け加えてください)
非とも五重塔を訪ねたいと思います。貴重なお話ありがとうございました。
全部で120トンですが、100トンを運んだとして、1台の荷車で300キロ運べれば、延べ330台が要ります。1台が66往復することになるそうです。それもゴムタイヤの車ではなく、鉄輪の荷車が、石ころだらけの悪路を運んだ、ということです。
それから、資金については、三菱の岩崎小彌太が資金の提出を申し出て、三井・住友・安田などのの富豪が協力して資金を調達した、とのことです。
解体して・・・また組み立てたんですか。
そう言ういきさつをもっと公にしたらいいのに、と思いました。若い人たちにも知らせてこれからず~~~と大切にしていかなくちゃ!!
私も初めて聞きました!
そういう物事を大きな観点から見られる人がいるからこそ、いろいろなものが伝えられるんでしょうね
歌舞伎座なども戦後6年後には復興したそうですが
当時の都知事とかたくさんの方の協力があったからこそという話を先日伺いました
文化財だから保護しよう、だから爆撃はしないなんて考えてはいませんよ。現に東京だって焼け野原になっていますし名古屋城も爆撃され焼失しています。ドイツだって空爆され古い町がボロボロにされました。
それを調べていく中で、建築史家の岡田英男氏が書き残したものに「この工事の主任は杢正夫氏」とありました。
杢氏は文化庁を昭和48年に退官するまでに千件以上の国宝・重文の解体・修理などに関わった人です。