断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMT⑧‘‘ Job Guarantee Program or Employer of Last Resort と、ケインズ

2014-07-12 00:56:08 | 欧米の国家貨幣論の潮流
ひところ、クルグマンはケインズに言及する際、
トラウマのように「私は、ケインズが本当に言いたかったことが
何かを論じているわけではない。我々がケインズを読むことで
何を得ることができるか、だ」というような枕詞を
繰り返していた。
わざわざこんな書き方をしなければならなくなったのには、
それなりのご事情もあってのことでしょう。
そのあたりに触れる気はないが。。。

先日、サーフィンをやっていたら、
なんだか、クルグマンとWrayのやり取りのページがあった。

クルグマンが、MMTに全面賛成というわけではないが、
当面の政策提案はほぼ同じなので、
今は、論点の対立をあおるような言い方は
避けたい、みたいな言い方をしていたのに対し、

Wrayの方は、
「MMTの主張に対して、
他の主流派経済学者たちがほぼ一貫して
無視を決め込んでいる中で、
クルグマン氏が真摯な対応をしてくれていることについては
敬意を表する」みたいな型どおりのあいさつをした後で、

でもね、実は、私たちの主張は、
クルグマン氏と一致しているといえばしているんだけれど、
それを言うなら
ブッシュ主義とも、レーガノミクスとも矛盾するわけじゃ
無いんですよ。なんとなれば、私たちの主張とは
政策提案ではないから、、、

と、いうようなことを言っていた。
そいや、WrayはTheory of Modern Money の序文でも
そんなようなことを書いていたな。

Wrayとしては、MMTは、経済に対するものの見方・考え方のことを
といっているわけで、短期的な
当座の政策提案などではない、といいたいんじゃないかと思う。

つまり、政府の赤字や債務の累積は問題になりうるのか
(なるとすれば、どのような条件の下でか)、
対外債務の増加は問題になるのか、
対外貿易赤字とは、一国の居住者にとって
利益なのか損失なのか、
現在の政府貨幣の発行が次世代への負担になる
などということがありうるのか、
失業を放置することの方が、雇用することより
本当に一国の居住者にとって「効率的」な
資源の活用方法といえるのか(他方で、
民間営利企業によっては供給されない
サービスに対する(非貨幣的)需要が
あふれているときに)、、、

こうした問題全体に対する見方が、
貨幣や経済に対する歪んだ物の考え方によって、誤った方向へ
導かれてしまっている。
まずは、この見方、思考の枠組み全体を
何とかしましょう、具体的な政策について論じるのは
そのあとでもいいでしょ、
と、いうことだと思う。

Job Guarantee Program にしてもそうで、
これは、短期的な景気浮揚策を云々する以前に、
社会的に必要不可欠な制度として
要求されているわけだ。(確かに、Job Guarantee Program =
Employer Last Resort の考え方は、1990年代にすでに固まっており、
サブプライムローン危機に端を発する失業率急上昇という
「異常事態」に対処するため主張されているわけではない。)

Wray によるなら、合衆国では戦中期を除くと
もっとも景気が良かった時ですら
大きな貧困層と失業者層が存在していた。
短期的な景気浮揚が彼らにアメリカ合衆国の一員として
ふさわしい職と生活水準を与えることは
難しい。だから、景気にかかわりあいなく、
すべて人々(アメリカ人またはアメリカ居住者)に
仕事がいきわたるようなシステムを作り上げることが政府の仕事なのであり、
そのためにJob Guarantee Proigram が、必要不可欠なのだ、
ということになる。与えられるべきものが、十分な「所得」であるべきか
「職」であるべきかを巡っては、ベーシック・インカム派との間で
論争がある。なんでもアメリカ建国の父、トマス・ペインの精神に従うなら
ベーシック・インカム制度のほうが、意にかなうらしいが、
アメリカ精神(プラグマティズム)の体現者であるジョン・デューイの主張に
沿うのは、Job Guarantee Program なのだそうだ。。。(この辺のことは、
よくわからん。。。―もっとも、Job Guarantee Program のアメリカ哲学的
源流はソローだ、みたいなこという人(とある日本人)までいる始末で、
ソローといったって、成長モデルのソローじゃなくて、
『森の生活』のソローだけど、何でもいいけど何が何だか、ホントわからん。
つうか、ソローって、納税拒否者じゃなかったっけ??)


でも、Job Guarantee Program のことを
「政策提案ではない」と言い切るのは
おいらの印象としては、ちょっと、どうかいな、と。
少なくともMosler にとっては、(なんたって、
上院に立候補したりしたんだから)政策あるいは
政策の根拠となる理論という位置づけでなきゃ
困るだろうし、
現に、Wray自身がTchernevaと共同で研究した
アルゼンチンのケーススタディなどは、
普通だれがどう見たって、英語で言うところの
ポリシー・プロポーザルの問題になるんじゃないの?
という気がするよ。。。

さて、MMTは様々な批判にさらされているが、
その中で、最も多いのが、やはりJob Guarantee Program
に対する批判であろう、という印象を受ける。
MMTer(第一世代)自身がここに理論的弱点があると
考えているかどうかは別として、
やっぱり多くの非MMTの人が、ここにしっくりこないものを
感じるようだ。
だが同時に、彼らがJob Guarantee Program にこだわるのも
わからない気がしないでもない。と、言うのは、
これがなかったら、彼らの言っていることは,
Thomas Palley のいう"Old Keynsian"と、どこがどう違うのか、
わからなくなってしまうからである。

Thomas Palley は、MMTの理論を構成している個別命題のうち、
半分は、Old Keynesian から引き継いだもので、
半分は、新しいオリジナルなものであるとしたうえで、
古いものはすべて正しいけれど、新しいものは全部間違っている、
と、言う。政府と中央銀行を連結して、一体とみなすべきだ、
とか、課税がある限り、最終的に政府債務は必ず需要されることはされる
(インフレにならない、という意味ではない)などというレベルの話は
トービンやらそれ以前の教科書にも書かれている通りで
何も新しいことはない(そして、正しい)が、
Job Guarantee Program (Employer of last resort program)によって、
貨幣価値を安定させるとか、全くナンセンスだ。
こんなものによって、インフレが回避できるわけがない、
というわけだ。
(Palleyの批判は、昔のもの(2001)と新しいもの(2014)とあるのだが、
内容的にはあまり変わりない。
どうも、どちらも、ちょっと的外れな気がする。ラヴォアは、
「MMTに対する友好的批判」というスライド(同タイトルの論文もあり。
実は、スライドも同タイトルで複数あり、そのうちの一つ)の中で、
Palleyやマルコム・ソーヤの批判は、参照するに値しない、とすら言っている。
なお、ラヴォア自身は、MMTではない。)


さて、Pavlina Tcherneva に、ケインズの有効需要論を扱った
面白いワーキングペーパーがある。
"Keynes’s Approach to Full Employment:
Aggregate or Targeted Demand?"
http://www.levyinstitute.org/pubs/wp_542.pdf

本稿は
Job Guarantee Program とケインズを直接結びつけているわけではないし、
上記のPalley あたりの批判に直接答えている者でもないのだけれど、
しかし、それは直接書かれていないだけで、
大いに意識されていることと思う。
Palley やソーヤに対する反論はWray あたりもしきりに行っているが、
中には50ページを超えるような論文もあり(Palley は、倍返しじゃあるまいに
こんな長たらしい反論があるか、と苦情を言っている)、それはそれで
いつか扱いたいが、
今日のところは、こちらの方が面白かったので。


ちょっと上でもふれたけれど、ここでは、ケインズの「有効需要Effective Demmand」と
いうのは、いわゆる「総需要Aggregate Demmand」とは全然別概念だ、
しかも、ケインズが主張しているのは、財政支出による
「呼び水」政策ではなく、あくまでも、政府による直接雇用だ、
という内容である。まあ、大量に出版されているケインズの
書いたものの中から、自分に都合のいいところだけを書き抜けば
いろいろなケインズ象が出来上がるわけで、
そういう意味では、「ケインズ解釈(本当にケインズが言いたかったこと)」として、
そんなに重視するようなことでは無いけれど、
ここでは、JGPについて
ケインズの原典とJGP(という言葉は出てこないが)の間の結びつきを
強調しているわけだ。そして実は、これがPalley に対する
間接的な反論になっている。
余談になってしまうが、
MMTの見解を知るうえでブログとともに欠かすことができないのが
大量に発表されているワーキングペーパーである。
(といっても、おいらはブログの方はあんまり読んでいない。)
中には、結構面白いものもあり、
Wrayが、マルクスの価値論とケインズの賃金単位を比較している
論考なんかは、そのうちちょっと触れてみたい気もする。まあ、それはそれとして。。。

さて、Tchernevaによるなら、
ケインズは、民間投資によって完全雇用を実現することは
不可能だと考えていた。
と、いうのは、完全雇用になる前にボトルネックとなる産業部門で
資本稼働率が適正水準を超えてしまえば、
いくら総需要を増やしたところで、雇用はそうは増えない。それに対して
物価の上昇は一層激しくなるのだから。
ケインズ自身は、「労働の弾力性」という表現を用いているが、
つまり、ある産業部門において一定量の需要の増加があった時、
それによって雇用がどれだけ増えるのかを指す言葉である。
総需要が増えたとき、雇用の弾力性が大きな部門の需要が集中して増えれば
その雇用増に対する影響は大きい。他方で、雇用の弾力性が
小さい部門で需要が増えても、それほど雇用が増えるわけではない。
ここで、主流派経済学と考え方の違いが明らかになる。
主流派経済学の限界生産力説では
労働投入量が増えるに従い、労働の限界生産力が減少する。
それゆえ、生産量が増えるにしたがい、
生産を増やすためには(たとえ労賃が一定の場合であっても)
製品価格が上昇しなければならない。
ケインズの考え方では、
雇用の弾力性は、需要が増えるにしたがって、低くなる。
というのは、適正操業水準を超えると
もはやそれ以上、需要が増えても生産を増やすことができなくなるからである。
古典派は、一定量の生産を増加させるのに投入しなければならない労働量が
増える、と考えるのに対し、ケインズは、一定の「貨幣需要」の増加に対し
雇用の増加幅が減る、と考えているわけだ。
この場合には、需要を一層増やそうとすればその分野の製品価格が
急上昇し、それによって、場合によれば物価水準全体の上昇が
生じるであろう。(なお、ケインズの場合、
こうした現象は、すべて相対価格の変化と考えられており
インフレとは考えられていなかった。ケインズの言う「インフレ」とは
いわゆる「真正インフレ」つまり、労働市場が完全雇用に達した後で
発生するものであり、それ以外の物価上昇は、単に賃金とそれ以外の製品の間の
相対価格比の変化として、位置づけられているという―後にはまた違うことも
言い出すんだけれどもね。。)
だから、いわゆる「デフレ・ギャップ」などというものは
ミスリーディングである。完全雇用を達成する特定の国民所得水準など、
存在しない。完全雇用と両立する国内所得水準は無数にあり、
そしてどの国内所得水準が達成されたからといって、
自動的に完全雇用が達成されるわけでもない。
(要するに、経済学以前の基本的前提、
すなわち、一対一対応自体が、現実にはばかばかしい、
ということだ。そして、これがばかばかしいとなると、
連立方程式の解として与えられる一連の均衡方程式が
すべてばかばかしい、ということになる。つまり、
前の世界恐慌以来、この80年にわたり行われてきた
すべての経済「学」なるものが、すべて怪しい、ということだ。
さすがにそこまでは書いてないけどね。)
現在のマクロ経済学における「完全雇用」の含意が
「インフレを発生させない失業率(自然失業率)」へと後退してしまったのは
不思議ではない。もともと「ギャップ分析」なるもの自体が
ケインズの理論を誤って理解したために発生した、
知的混乱の産物だったからだ、というわけだ。デフレギャップが幻想なら、
総需要管理政策による完全雇用も、あり得ない話となる。

そしてまた、労働者の側にも、民間投資の増加によっては
雇用されない層が存在する。
終戦直後、戦時需要の激減から発生するであろう失業者を
どのようにして救済するべきか。
ミードとの書簡によるやり取りの中で、
政府による公共支出を減らし、民間支出の増加を促すことで
民間部門の雇用を増やすべきだ、というミードに対し、
ケインズは反論する。
大量の復員兵たちが、いったいどうしてそんなにすぐ民生工場で
働くことができるようになるというのか。
復員兵たちに必要なのは
単なる民間企業での雇用機会ではない。彼らが
民間であれ公共であれ、生産力として能力を発揮できる現場なのであって、
あるいは、それを可能にするために必要な再訓練なのだ、
というわけだ。たとえ景気が浮揚し、民間企業がフル稼働し、
完全雇用の近傍にあったとしても、こうした、そのままでは民間企業で
働くことが不適切な層が、どうしても存在する。
Tcherneva によれば、アメリカでは戦後、
どれほど景気がよくなろうとも、絶対に完全雇用には
到達することがなかった。それには摩擦的とか技術的とか
自然失業率とか、
いろいろな名前がかぶせられているけれど、
要するに、民間投資がいくら増えたところで
完全雇用には到達しえない、これは、
社会構造の問題であり、個人の責任に帰すことは
必ずしも適切ではないのである。

だから、ケインズに従うのなら(と、Tcherneva は言う)、
景気がよくなり、完全雇用に近づいたから、といって
失業者救済のための公共事業が必要なくなるわけではない。
逆である。公共事業の規模は縮小されても
最後に残る人々こそ、本当に政府の事業による雇用が
必要な人々なのである。これを民間の事業拡大によって
吸収しようとすれば、
上記のとおり、雇用の弾力性の低い部門でボトルネックが発生し、
インフレ(一般的物価水準の上昇であって
ケインズの言う真正インフレではない)が急拡大する。
重要なのは、総需要の量なのではなくて、その質である。
質、といったって、近年日本でよく言われるような
「公共投資の質」のことではない。「無駄な公共投資は
やめて、国民に役立つ公共投資を」などといっているのではない。
(全く言っていないわけじゃないけど。)
そうではなくて、公共事業によって
「需要」を分配する、ということなのだ。
確かに公共事業が、国民に役立つものであれば、
それに越したことはないであろうが、
景気対策として大規模公共投資(国民生活に役立つもの)を行っても、
その政府支出により経済的に救済されるのは、
まずは、中央のゼネコンおよびその多くが巨大銀行である
ゼネコンの債権者であり、ゼネコン勤務の高額所得者である。
ついで、その下請け、孫請けと流れてゆく中で
少しずつ雇用への効果も生まれてくる。とりわけ、
今日の大規模公共投資では、高度な技術水準が要求されることが多く、
労務者も、だれでもいい、というわけではなくなりつつある。
下手をすると、失業者が全く救済されることのないまま
予算だけが積み増しされてゆく、ということにもなりかねない。

そんな現在の日本の状況が
ケインズの念頭にあったかどうかはともかく(あるわけ無いが)、
いずれにせよ、ケインズが唱えたのは、
政府は公共事業によって、
まず、民間では雇用されにくい人の直接雇用や再訓練を行うべきであり、
また、地域的には、経済活動の中心部よりは周辺地域で投資するべき、
ということだった。ケインズも「総需要」について語っていないわけではないが、
それは「製品」に対する総需要のことではなく、「労働」に対する
総需要のことだ、という。
さらに、ケインズは、
「普段から」、投資の社会化、つまり、大規模投資を民間ではなく、
政府が、景気変動にかかわらず計画的・安定的に行うことによって
景気の変動そのものを小さくすることを主張していた、という。
ケインズは、上記ミードに対する回答の中で、
投資の社会化を、対処的なものとしてよりは、予防的なものとして
必要と主張している。つまり、投資の社会化とは、
それを裁量的に操作することによって
景気変動の動きを事後的に相殺しようというのではなく、
社会全体の投資の変動を小さくすることによって、
景気変動を小さくしようとすることが狙いだ、というわけだ。
公共投資は、社会全体の投資の2/3あるいは3/4を占めることになるだろう、
と、ケインズは言っている。
そして景気循環に際して発生する失業―あるいは、好景気の時にすら
存在する失業―対策として、それとは別枠の公共事業が必要になる。

インフレについては、どうであろうか。
『戦費調達論』において、ケインズは、次のように述べる―MMTの
IRMAの考え方の源流になるものだ―。
一般にインフレが発生した時の対処法は3通りある。
一つは、うっちゃっておくこと。これは、
完全雇用に到達する前にインフレになるようなケースでは
それなりに有効である。これはインフレというよりは、むしろ
商品間の相対価格の変動なのであり、
早晩、不足部門の投資が増え、生産量が増えれば
ボトルネックは解消されるだろう。
しかし、完全雇用が達成されたときに発生するインフレは
うっちゃっておいては、インフレスパイラルに陥ることとなり、
解決にはならない。
第二の方法は、増税(あるいは金融引き締めや財政支出削減でも
いいかもしれないが)によって景気を冷ます方法である。
だが、ケインズにとっては、この方法は受け入れ不可能なものであった。
需要の増加による雇用増の恩恵をやっと得られた失業者を
また失業させることで景気を安定させるなどということは
ケインズにとっては、自己否定に他ならないからだ。
そこで第三の方法である。

第三の、そしてケインズ自身の提案として提示されたのは
「賃金の繰り延べ払い」という方法である。
政府は、所得税を増税する。この際、税率には急激な累進制を採用する。
そしてこの税収を、政府は預金する。この預金には、
過去の債務の支払いのためにアクセスすることはできるが、
新規の製品需要のためにはアクセスできないとされる。
(つまり、政府が課税するというより、一種の強制貯蓄のことで、
一般的に払い戻しは認められないが、
ただし、過去の債務の返済のために債務者から債権者へ名義振替するのは
認める、ということだ)
そして、戦争が終わり
軍事産業の民生産業への切り替えが終わるまで、政府が預金として
キープし、民生化が進むにつれて解放される、ということである。

ケインズのこの提案は、政府及び労働界の両方からの批判にさらされ
日の目を見ることはなかったのことであるが、
しかしTcherneva の言いたいことは明らかであろう。
要するに、雇用を増やすためにいくら政府がベースマネーを発行しようと
それが銀行預貯金(とりわけ、銀行自身による
中央銀行への預金)ストックの形で維持されている限り、
インフレなど引き起こしはしない、ということである。


とりあえず、Tcherneva の議論の紹介は、この辺までにしておこう。
Tcherneva は、これをケインズ解釈として提示しているわけだが、
明らかに、そこにとどまらない含意が含まれている。
だから、ここでは細かいことを除いて、これ自体が
MMTによって主張されていることだ、としてしまおう。
(Mosler なんかは、公共投資なんかもっと減らせ、減税だ! 減税!
みたいなこと言っているんだけど。)
そう考えることにすると、さて、どうなるだろうか。

以前にも書いたことがあるけれど、
MMTの議論の枠組みは、3枚のグラフにまとめることができる。
横軸にYを取り、縦軸にTとGを取ったグラフ、
労働市場のグラフ、
貨幣(債券)市場のグラフ。
これらグラフの間には、相互に関係はない。

実は、Palley は、
Y = c0 + c (Y -T(Y)) + I + G + (M-N)
の周知の公式から
Gを増やすこと(このGには、JGPによる賃金支払いも
含まれる)によってYが増えたとき、
Tは絶対にGを上回ることはないので(簡単な微分で求まる)、
MMTの言っていることは論理破綻している、というが、

これは、人間の頭の中に刷り込まれたモデルというものが
如何に、人間の思考力を、良くも悪くも縛ってしまうか、
ということの見本になってしまっている。
Palleyが言っているのは、標準的なケインジアンクロスの話であって、
MMTとは全く関係ない。Palleyにとっては
政府が政府貨幣を発行することで政府支出を増やし
それによって完全雇用と達成する、ということは、
自動的に、政府が支出によって完全雇用GDPを達成する、
ということだ、と理解されてしまい、他の道筋はないものと
されている。(Palley は、まだましだ。)
だが、MMTは、そうしたことを一言も言っていない。
MMTはIが減少してYが減少した場合に、Gを増やして
Yを増やそうという話をしているのではない。
Yを増加させるにはあくまでもIの増加が必要であろうが、
だが、そのためにGを増やそうというのではない。
G(JGPの賃金支払いを除く)のフローが一定のまま、
Iのフローが増加して、その結果、Yが大きくなり
Tが増えれば、
Mが減少する、という意味でしかない。
実際、GおよびJGPによる支出の拡大の意味は
IやYを直接刺激することではなく、
貨幣流通残高を維持することの方に重点が置かれている。
Iが増えて、Yが増えれば、T>G となり、
その結果、MまたはIRMA(あるいは国債)といった政府債務が減少することは
短期的にはありうる。MMTが言っているのは、そのことであって、
Gが増加した結果、Yが増え、それによってTが増えて
T>Gになる、などということではない。Palley の批判(ましなほう)は
完全に的外れである。
しかも、MMTは、仮にT>G(JGP賃金支出を含む)ということが
あったとしても、それでMが吸収されれば
インフレにならない、などといっているわけではない。
(本当は、しばしばに言っているけど。あややー)
だいたいT>Gになることなど、あっても長くは続かない。
なぜなら(極端なバブルでも発生しない限り)、
ほとんどの民間経済主体は金融負債より金融資産を
多く持ちたいと思うものであり、そうである限り、
(対外部門に変化がなければ)
政府部門が負債を増やさざるを得ないからである。
民間部門は、政府に対する債権を多く保有しようとするであろうが、
それが原因でハイパーインフレになるとしたら、
そうやって保有した政府債務をすべて貨幣として実物商品の購入に
向けるという想定が必要だが、そんな馬鹿げたことがありうるだろうか。
ハイパーインフレ論者は、そうした馬鹿げたことが起こりうる、
と主張しているわけである。(少なくともアメリカの消費者に
関しては、馬鹿げたこととも言いきれないような気もするけど。。。)

え~話がずれてしまったが、

いずれにせよ、ギャップ分析ではないのである。Yが増えたところで、
あるいはYがいくら増えようとも、完全雇用が実現する理由など
ありはしない。完全雇用と両立するYはいくらでもありうるし、
しかし、Yがいくら大きくなろうとも、完全雇用には
到達しないこともありうる。
逆に言えば、たとえ賃金が最低水準(消費支出とわずかな
貯蓄が可能な水準)であったとしても、
完全雇用が達成されさえすれば、
国内所得水準など、どうでもいいとすら言える。
JGPによって、政府による貨幣供給が増えても
そうして雇用を下支えされた労務者の消費支出が
滞留消費財在庫に向かい、
そして、滞留在庫がさばけ、
棚卸残高の減少が貨幣収入として実現しても、
利潤(付加価値)の増加にはほとんどつながらないし、
結果としてGDPの増加にも寄与しないまま、
消費財産業そして投入財産業の債務返済に充てられれば、
貨幣流通残高は、結果としてほとんど増えないことも
ありうる。その間、準備預金だけは増加を続け、
インターバンクレートがゼロにまで押し下げられてしまえば、
今度は決済そのものが機能しなくなり、貨幣制度自体が
破壊される。だから、インターバンクレートだけはIRMA(国債)によって
下支えされなければならない。そして、このような状況(企業が
滞留在庫が捌けるのを待ち、そのキャッシュフローで債務を
必死で返済している状況)の下では、
インフレなど発生しようもない。部分的にはボトルネックが発生し
それによって物価が上昇する、ということはありうる(なんせ、
JGPがあるので、需要が十分に減らないわけだから)が、
それは、その部門で投資が増え、生産量が増えれば
解決する話である。そして、それはこのスチュエーションでは
むしろ望ましい。なぜなら、雇用が増えることを意味するから。
そして、民間部門で雇用が増えれば
自動的にベースマネーの増加を伴う貨幣の新規発行量は減少する。
(銀行に超過準備が発生した状況で民間部門が
新規借り入れ又は手持預貯金を取り崩すことで
増加した労務者の賃金を支払うのだから、貨幣流通残高の減少は
生じない。)
逆に、もしも何らかの意味での供給制約が大きすぎ、
その部門の供給不足だけが続き、
その結果、全般的な物価上昇が生じるのであれば、
JGPを採用しようと採用しまいと国内の貨幣所得を減少させることに
何の意味があるのだろう。
そんなボトルネックが存在するのであれば、
政府部門に限らず、ほんの少しでも民間部門で投資が増えたら
たちまちのうちに狂乱物価に陥るであろう。
だから、そうした極端なケースを除いて(というより、
そのような産業構造があるのなら、それはまったく別の解決方法が
必要とされる)、通常の部分的物価上昇は
その部門での投資が増えることで解決されるであろう。
そして、過剰なベースマネーは、IRMAに吸収される、
というわけである。

さて、こうして
実際に、政府支出が貨幣流通残高の増加に結びつくようになるまでの間、
つまり、貯蓄が、銀行借入れの返済によるマネーストックの減少という形ではなく
資本支出の増加、つまり民間部門内部での金融資産の増加という形で
マネーストックが増加するようになるまで、政府はJGPによって雇用と
賃金の下支えを続け、貨幣流通残高が低下する中で
インターバンクレートの下支えを続け、民間部門に有利子資産を
提供し続ける。
そしていずれ、民間部門の債務と過剰在庫と過剰設備の圧縮が一段落すれば、
民間投資が増え、国内所得が増えれば、租税も増加し、
場合によっては、"租税>総政府支出" となることもあるだろう。
これで過剰に発行された政府債務が吸収されることもあるかもしれない。
しかし、この場合、気を付けなければならないのは、
民間部門の投資超過によって政府黒字が発生し、そして政府債務
(IRMA)が減少し始めたとき、
将来、本当に民間部門がその膨らむ債務を本当に償還できるのかどうか、
ということである。自国通貨による租税制度のもと(網野善彦先生は、
日本では――ホントに日本だけかどうかはわからないが――百姓一揆の際に、
貢納の減免要求は繰り返し出されているけれど、
貢納を廃止する要求が出されたことは一度もなかった、それはなぜか?
という問題を提起している)、債務が
自国通貨建てで発行されている限り、
デフォルトリスクが(オペレーショナルな範囲では)あり得ない政府債務と違って、
民間部門債務は、いつ債務が返済不可能になるか、わからないからである。


そうすると、どういうことになるのだろう。
政府は、規制緩和によって民間経済を刺激することもできるし、
総需要政策によって、経済を膨らませることもできる。
だが、いずれの政策をとっても、完全雇用など実現しない、
というのが、MMTの発想である。
だから、いわゆる経済政策とは、別の枠組みでJGPが必要になる。
Old Keynsian と(そして、クルグマンとも)違うのは、
この点である。…と、いうのが、
本日の一応の結論。やれやれ。。。




…書きながら、ふと思ったんだけれど、
(文脈を無視して、
ただ思いついただけのことを、だらだら書き込んでいくから、
どんどんわけ分からなくなっていくんだけれど)

MMT = JobGuarantee Program
って、政府貨幣というよりは、
結局、一種の「労働貨幣(労働切符)」論じゃねえのか???
労働の対価として、政府が貨幣を「発行」するわけだから。。。
まあ、他にも政府貨幣発行によってファイナンスされる支出がないわけじゃないから、
「純正」労働切符理論ではないけれど。。。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿