断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

Scott Fullwiler の話③''

2015-03-01 12:39:00 | 欧米の国家貨幣論の潮流

前回の続き。今日はここまでにしておくけれど、

実はまだ半分も進んでいない。。。。(しかも、

中途半端なところで終わっている。。。。)

とても読んでくれる人がいるとも思えないが

(ワードで入力してある方は、もう少しましに表示されているんだけれど。。。)

ともかく、終わるまで続けるつもり。(いつ挫折するか、わからないが。)

あと、たまに(注〇)とあるのは、原文の注釈のなかで、おいらが

気になったところ。ただし、まだ訳出はしていない。

また、ところどころの[]は、おいらが補った部分(といったって、

そんなのなしに補っているところもいっぱいあるんだけれど)。

あと、[※ ]は、おいらの個人的な注記。

と、いうわけで、また、数週間後に後編を載っけます。。。。。

できれば、ということですが。。。

 

 

P9  4. 利子率及び経済に対する政府赤字の「非伝統的」影響

 

P9:4 表1では、持続不可能な財政経路の最終的結論の例を見ることができた。ところが、正統派経済学は、これよりさらに進み、再び貸付基金市場を議論に持ち込む。この場合、ネガティヴな効果が表れるのは、75年や30年よりもっとずっと早い。例えば、

 

巨大な先進国経済における政府予算赤字[の利子率に対する影響]に関する伝統的分析では、明示的なデフォルトの可能性あるいはインフレーションによる黙示的デフォルトの可能性を深刻に扱ってこなかった。仮にデフォルト回避に関する市場の期待が変わり、投資家が、極端な策[つまり、デフォルトなりインフレ的「マネタイゼーション」なり]を避けることは難しくなったと考えるとすれば、結果が出るのはもっとずっと早く、そしてそれは伝統的に評価されてきたよりはるかに深刻となるだろう。(Gale and Orszag, 2004 p.115)

 

…しかしながら、持続可能な巨額予算赤字の反対の結果は、伝統的分析によって示されているより、はるかに巨大でずっと急激かもしれない。はるか将来まで持続不可能な赤字によって市場の期待が根底から変化し、国内と海外とで確信が失われる…。[旧来の分析では]こうした問題が無視されてきたが、これは赤字が小さく一時的なものであるというコンテキストでは理解できるし、適切でもあった。しかしこうした態度は徐々に支持できなくなっている。赤字が巨額で長期的なものになっているからである。(Rubin et al., 2004 p.1)

 

別の言い方をすると、ひとたび資本市場が政府の財政政策は持続不可能な経路に載っている、と理解してしまえば、デフォルト・リスクあるいは政府債券市場の期待インフレプレミアムは大きく引き上げられ、そしてそこから実質金利が大幅に引き上げられる。それは「伝統的」または「旧来の」見積りである対GDP比18ないし38ベーシスポイントの赤字の増加という、上で述べたものをはるかに上回る。

P10:1 Ferguson and Kotlikoff(2003)は、財政不均衡論が完全に「非伝統的立場」と一致していることを示している。

 

旧来の議論では、もし投資家やトレーダーが政府の財政政策不均衡が拡大すると予測すると、彼らは国債を売却するだろうといわれてきた。これにはしかるべき理由がある。経常収入と支出の差が拡がれば、これを埋めるためには2つの方法がある。より多くの債権を市場で売るか、お金を刷るかである。いずれの手段も、債券価格を引き下げ、金利を引き上げる。国民が債権を購入するために必要なインセンティヴのためである。こうしたインセンティヴは必ず大きくなるが、それは元金プラス金利つまり実質利回りが、デフォルトやインフレによって脅かされるためである。(p.p. 24-25)

 

P10:2 面白いことに、こうした主張をする人々は、この市場の変化がいつ起こるのか、この変化の引き金がどのようにして引かれるのか、そんなことはわからない、と認める。しかし、「我々は国債がどの水準であれば投資家の確信にシフトを引き起こすか、という点だけは合意できる」という一方で「政策当事者がどんなに思慮深くても」価格急落の「ポイントを知る機会をものにはできないであろう」(Bell and Mankiw, 1995, p.117)。Engen and Hubbard でさえ――彼らは国債増加が金利に与える影響に関する自分たちのレポートは、経済的に重要なものではない、と論じる点で多くの正統派経済学者とは一線を画するのではあるが――、自分たちの知見が「財政赤字が問題ではない」という意味に理解されるべきではない、という点では同じである。「実際に巨額の、長期的な、持続不可能な政府債務の水準は、最終的には、利用可能な国内外の貸付基金資源を逼迫させる。」(2004、p43)

P10:3 こうした市場の反応によって、政府の財政不均衡には負のインパクトがさらに加えられることになるだろう、と考えられている。というのは、――たとえばだが、――今日の高金利は、今日の新規の、および更改される債務の償還額をさらに膨らませるからである。「これら[金利上昇と債務残高の増加という]効果が互いに成長を促しあって、サイクルをますます強化する可能性もある。例えば、金利が上昇して[その結果として]経済活動が停滞すれば、不均衡がますます悪化する[というのは、財政赤字は典型的には下降期に悪化するため]、そしてそれが更なる確信の悪化と、次のネガティヴ・フィードバックに火をつけることもあり得る」(Rubin et al., 2004, p2)。要するに、

 

ひとたびこうした効果が動き始めれば、[それらは]所与の基礎的財政赤字に関わるコストを大幅に引き上げ、従来の分析で示されていたよりはるかにひどく経済活動を抑圧するであろう。実際、こうした財政・金融的混乱に起因する潜在的コストや副産物[に対する配慮]によって、おそらく巨額の長期的財政赤字を避けようとする強力なモチベーションが与えられる。(前出p2)

 

P10:2驚くこともないが、この財政不均衡文献は、再び同じ結論にたどり着く。

 

現在の財政政策が将来のインフレに関する期待に影響するプロセスは、強力なフィードバック効果を持った動学的なものだ。消費者が金融市場で、一国が破綻しインフレーションに陥るだろう、と判断すれば、実際にこうした結果への触媒作用となる行動をとる。利子率を押し上げることで、政府債務の資金調達コストを増加させ、政府の財務ポジションを悪化させる。(Ferbuson and Ortlkoff, 2003、p26)

 

Financial times 誌への署名記事で、Gokhale and Smetters は、合衆国財務省の債券発行について、近年のカリフォルニア州政府の騒動と同じようなことが近い将来、起こるかもしれない、とさえ示唆している。

 

カリフォルニア州債の金利がジャンク状態にまで陥った――全50州で最低のランク――のは、同州が財政危機と闘っている最中であった。カリフォルニアの価値ある教訓から学ぶべきは、財政政策と金融市場の関係である。不幸にして、これは再び国全体の流れとなりつつあるのかもしれない。極力早く、合衆国の主要な給付プログラムの改革に動き出さないと、ワシントンでも、サクラメントで先に起こったのと同じ危機にぶつかることにならざるを得なくなるかもしれない。。。。解決しなければ、、状況は悪化し合衆国財務省証券利息が急騰し、国民経済は滅茶苦茶になるかもしれない。(2003, p6)

 

P11:1 本稿本節の結語として言うと、かような次第で正統派の持続可能性財政に対するスタントはこうだ。「マネタイゼーション」は避けなくてはならない。なぜなら、これは国債の市場消化以上にインフレ的であり、他方、国債発行それ自体は、貸付資金市場にて決まった市場金利に従わなければならない。政府の財政経路は、将来の基礎的財政収支の黒字の現在価値が現在の国の債務の水準と等しくない限り、持続不可能と定義される。その場合、国債のGDPに対する比率は、現在の水準に収束することなく、際限なく拡がり、最終的には政府をしてデフォルトかインフレ的「マネタイゼーション」の二者択一を選択させることとなる。最後に、もし金融市場が現在の財政経路を持続不可能と認識すれば、政府債権にはデフォルト・プレミアムが付き、結果として金利を急騰させ、これが政府の財務ポジションをされに悪化させ、デフォルトやインフレ的「マネタイゼーション」が起こる時期を、それまで予想されていた以上に、一層はやめる可能性を高めることとなる。

 

P11  現代貨幣体制における金利と財政赤字

 

P11:2 前節で述べたことと同じだが、Ferguson and Kotlikoff(2003, p.25)の議論によると、「債券市場ではトレーダーたちは社会保障やメディケアによって生じる「積み立てられていない」債務の増加によって金利が急騰する、と期待しているかもしれない。同論文では、金利が上昇しない理由を、トレーダーたちがまだその負債の意味を理解していないからだ、としている。あれから3年たったが、いまだに国債市場はほとんど反応していない。その一方、「未積み立て」の負債は、かつての、すでに高いレベルだった額から、さらに成長している。しかし、本節で説明する別の見方に立てば、金利がそのような反応を示さないことには何も驚くことは無い。逆に、Furgusn やKotolikoff、その他貸付基金説に依拠している人々を見れば、ケインズの古典派に対するアナロジーを思い出すことになる。「非ユークリッド世界のユークリッド幾何学者たち、つまり平行な直線が時々交差するのを見て、線がまっすくではない、と非難している人たち」(1964、p16)。より一般的に言うなら、前節で論じた正統派の諸文献がベースにしている仮定というのは、固定外国為替レートにしかあてはめられないものなのである(Mitchell and Mosler, 2005; Mosler, 1995; Wray, 2006a)。より深く見れば、財政的持続可能性についての正統派の観念は、Fedと財務省、および合衆国金融システム内の民間諸機関の間のやり取りについて根本的にひびの入ったものであることが示される(Bell, 2000; Bell and Wray, 2002-3; Fullwailer, 2003, 2005, 2006; Mitchel and Mosler, 2005; Mosler, 1995; Wray, 1998, 2003-4)。本節では現代貨幣あるいは主権貨幣体制の下での金利及び財政赤字に関する5つの原則(Wray, 1998, 2003)が、この現実世界の解釈として矛盾がないものであることを論じる。

 

P11   1. Fed のオペレーション目標は、利子率にならざるを得ない

 

P11:3 正統派経済学は今では現代の中央銀行の目標が利子率であると認識している。そしてそうした形で、初期の、金利と貨幣集計量のどちらが目標として適切か、という論争には最終的に決着がついた。正統派の立場からは、貨幣の流通速度が変化しやすく予想しにくいというのが、現代金融システムの(不幸な)現実であった。それどころか、Taylor(1993)および、今では単純に「テイラー・ルール」として広く知られている枠組みのおかげもあって、Poole(1970) や、その他経済に対する非貨幣的ショックがあった時の金利についてのルールがない、という点に関して持ち上がった多くの問題が、沈静化した。今や、多くの「脇目も振らぬ愛好家true believers 」達がおり、貨幣の回転速度と利子率や名目所得との間に時系列的相関関係があると予想したり、中央銀行の目標として「より完璧な」貨幣集計の方法を探る人たちもいる。この件に関して最も熱心なのは――驚くことは無いが――セントルイス連銀であり、定期的に「修正後」マネタリーベース測定値(Anderson and Rasche, 1996; Anderson et al., 2003) 、ディヴィジア・マネー・アグリゲート[※Divisia money supply 集計に当たり各種金融資産のマネーとしての程度を勘案して作成される統計資料。理論的に定式化されたマネーのユーザー・コストをマネーの価格として用い、ディヴィジア指標といわれる一種の統計的指数を作成することにより、背後にある効用関数や生産関数を反映した貨幣の集計量を近似的に求めたもの。](Anderson and Buol, 2005; Barnett, 1980)や、マネタリーベース・ターゲッティング体制内における「マクラム・ルールMcCallum’s rule」(McCallum, 1988)が公表されている。

P12:1 異端は経済学者――とりわけ、ポスト・ケインズ派、サーキット・セオリー派――は、反対に、中央銀行は利子率を目標にせざるを得ないのだ、と論じてきた(Fontana and Polacio-Vera (2004) は、伝統的正統派の「手段instrument と目標」アプローチに対する異端派による議論の近年の批判について、手広く参照できる)。彼らの主張によれば、実務的には、中央銀行は公開市場操作、あるいは当座貸越/割引によって、一定の価格で準備預金を常に供給している。これは危機の時期に銀行システムを崩壊から守るためでもあるし、平常な時期に、オーバーナイト物の金利が大きく上昇することを避けるためでもある。合衆国について言うなら、Meulendyke(1988) が明確にしているが、1979-1982の時期、つまり連銀が準備および貨幣残高を目標にしていた時期でさえ、日々のオペレーションあるいは日常戦略レベルでは、金利目標の手順をとっていたのである。彼女の説明は、基本的には、Moore(1988)の、よく知られている正統派批判を裏付けるものである。もっと近年のFullwailer(2003) およびLaboire(2005) が示している通り、中央銀行が決済システムのスムーズなオペレーションを維持することに責任を持つ、ということは、準備残高を裁量的に動かすことなどできない、ということなのだ。例えば合衆国では、1営業日に約2兆ドルが準備預金口座を通じて決済されている。そしてこの金額の大きな部分は、実はより大きな金額の取引の一部で、実はそれ以前の段階で諸種の決済制度を通じて相殺された帳尻netの部分なのである(Fullwiler, 2006, p.p. 505-510)。準備預金による決済を容易にするため、Fed は銀行に対し、日中、常時、平均して300億ドルを供給しているのであり、決済のピーク時にはこの金額は1000億ドル以上になる(Panigay and Coleman, 2002, p.76)。要するに、一定の価格で銀行が決済を行うのに必要とする量の準備預金を供給しない、という選択肢は、ただ単純に、存在しないのである。と、いうのは、そのような選択肢がとられれば、国内決済システムの統合が脅かされることになるからである。

P12:2 正統派経済学は、永らく準備預金が銀行の融資を生み出す能力を束縛するものと考えてきた。そしてその所要準備を貸す能力によって、マネーサプライをコントロールする能力が得られるとも想定してきた。この観点は1980年の貨幣管理法Mnoney Control Act の諸条項の中心に置かれている。この法律では、すべての銀行――Fedシステムの一部を構成していない銀行であっても――にFedの所要準備に従うことを求め、かつFedには、例えば定期預金等、他の[?otherだが、、、「要求払い預金以外の」という意味か?]貨幣集計額に対しても所要準備を設定することを求めた。この「貨幣乗数」観は、入門レベルからドクターレベルまで、実質的にすべての経済学の教科書でいまだに広範に使われている。貨幣乗数パラダイムの欠陥については、その主だったものについては折に触れ、ポスト・ケインズ派やサーキット・セオリー派により言及されてきた。準備預金は、ただ単純に、銀行融資にとってオペレーショナルな制約などではない。貨幣乗数アプローチの想定では、銀行が準備預金を必要とするのは融資のためであるとするが、しかし準備預金は銀行の支払いを決済するため、あるいは所要準備を満たすためにしか使えない。他方で、融資は信用力のある顧客の要請によって行われ、預金を創造することで実行される。一例をあげると、これはMoore(1988)が記しているものだが、銀行は事前に顧客と交渉し、実質的な預金枠を決めるケースがある。この場合、顧客が必要といえば、必要とする量を貸出しせねばならず、銀行側は直接コントロールすることができない。さらに、Mooreが説明する通り、もし貸出による預金の創造あるいは予想外のタイミングでの預金のイン・フローがあった場合、銀行は追加的な準備が必要となるのであり[※預金インフローではなくて、現金の流出を伴うアウトフローのことでは?アメリカの場合、日本と違って銀行手持ちの現金もvault cash として所要準備の計算に含めることができる。したがって、預金が増えるときには必ず同額の準備の増加が伴うわけで、これはむしろ超過準備を発生させることになる。他方で、現金あるいは準備の流出を同時に伴う預金アウトフローの場合、預金と準備が同時に同額減少するため、準備率が低下することになる。]、銀行は貨幣市場で追加的準備預金を借り入れようとするであろう。貨幣乗数は、準備預金によって銀行の貸出または貨幣創造に限界が設けられると想定しているが、それに反し、実際の世界では貸出が先で所要準備を満たす方が後なのである。

P12:3 集計レベルでいうと、もしFedが、銀行が必要とする準備と比べて多すぎる、あるいは少なすぎる準備預金を供給しているとすると、その結果、FFレートが下落あるいは上昇することとなる(Mosler,1995; Wray, 1998)。繰り返しになるが、銀行は準備預金を持っていても、所要準備を満たすか、決済以外に何も「で」きないbank can not “do” anything 。そればかりか、Fed のバランスシート上の負債科目として流通している準備預金の集計量が変化するのは、Fedのバランスシート上の他の科目の変化を相殺する場合だけなのである。[※ここではFed自身による自己勘定取引のことが無視されている。と、いうより、バランスシートは四半期ごととか、年に1回ではなく、あらゆる取引のつど、更新されている、というCT派的な考え方のようである。もちろん、同時に損益勘定も、取引のつど更新されることになる。この場合、たとえ取引の相手勘定がB/S項目ではなくP/L項目であっても、その都度、繰越純利益が変化することになる。例えば、職員に100の給料を支払った場合、人件費勘定が100増加する。同時に給料が民間銀行に振込まれることによって準備預金勘定が100増加する。この時、人件費勘定の増加によって繰越利益勘定が100減少する。B/S上では、負債=準備預金が、100の増加、当期純利益が100の減少となる。。。。このやり方だと、仕訳の上では、損益勘定は、決算時点における収入勘定と売上原価勘定の差額としてではなく、総記法で求められることになり、ややめんどくさいような。。。。ってか、これに限らず、統制勘定は一切使えないよね。。。まあ、別に実際に決算をしましょう、って話じゃないから、どうでもいいちゃいいんだけれど、でもなあ。。。。。。この辺のことは、ってか、この件に限らず、企業会計における複式簿記システムと、集計レベルでの分析(モデル化)のための複式簿記システムの違い、ということで、一度きちんと整理しておくほうがいいに違いないと思う。。。他にも例えば、現代の企業会計では、時価法/低価法が普通だが、集計レベルではむしろ原価法のほうが適切だろう。実際、集計レベルのモデルで時価法を採用したら、BSの貸借が一致しなくて困ってしまう。だが他方で、現実に資産価格は常に変動している。もしも集計レベルでの分析を原価法で統一するなら、資産価格の変動をどのように扱うかについても、きちんと方法論的に統一しておくほうがいい。おいらはそんなことやっている時間がないから、誰か若い人が。。。。いかんなあ、他人頼みばっかりで。。。ってか、この辺、MMTって、脇が甘いよね。。。]銀行は自分たちの貸付や、互いの借入行動を通じてシステム全体のベースマネー残高に影響を与えることはできない。準備預金の供給が多すぎれば、銀行は報いられることのない超過準備を解消しようとするため、FFレートの入札レートが急落するであろう。準備預金の供給が、銀行にとって所要準備を満たすには少なすぎる場合には、準備不足銀行が、むなしく他の銀行から借入れをしようとして、FFレートは急伸するであろう。この場合、もしFedが必要な準備預金を供給しなければ(このとき、Fedは優良貸付レートより1%上の”懲罰的”金利を採用する)、レートは限りなく上昇することになる。所要準備会計がタイムラグを持っているか、準備を預金と同時に満たさなければならないかは、大きな問題ではない。実際、同時準備会計の主要な効果とは、銀行と公開市場デスクにとって、銀行の所要準備が予想しにくくなる、ということである。これによって、準備積み期間の終盤のFFレートの変動が大きくなるであろう。(Fullwiler, 2003; Moore, 1988; Wray, 1998)[※この点、あくまでも、連銀が目標金利プラス1%でいくらでも準備を供給する、という条件(Fullwailer が繰り返し述べている)が必要である。それがなければ、かつ、不足銀行に対するペナルティーが大きければ、銀行にとって、計算期間と積み期間を一致させるというのは死命を決することになりかねない。]

P13:1 エコノミストたちは、伝統的に所要準備をFedのオペレーションに組み入れて分析してきたが、実は所要準備は存在しないと仮定して、こうしたオペレーションの分析をはじめたほうがよかった(Fullwiler)。そうすれば、準備預金は、銀行相互間の為替交換所における決済のためにあるいは、財務省やFedの間での決済のためだけに使われることになる。銀行の準備に対する需要は金利に対しほとんど非弾力的となり、毎日の決済フローの予想だけに依存することとなる。銀行のこうした決裁上の必要より少なく、あるいはそれを超えて、Fedが準備預金を供給するなどということは問題外である。銀行はそれ以上の準備を必要としない。準備預金がそれ以上あったところで、銀行はより多くの貸出ができるわけではないことを思い出そう。同様に銀行が決済のために必要とするより少なくしか準備預金が流通していないとしたら、決済システムという基本的機能が脅かされることになる。各銀行がFedの口座に保有している準備残高に支払われる金利(ゼロパーセント)と銀行がFedから借入れる際に課せられる懲罰的金利(今でこそ目標金利プラス1%であるが、以前はFedからの借入を営業日中に返済することができずオーバーナイトで借り入れた場合の金利は日中物金利プラス4%で、懲罰的と呼ぶにふさわしいものだった)との間のスプレッドが広ければ、Fedが正確に準備預金需要を予想し、それにアコモデートしない限り、FFレートは目標から大きく乖離したことだろう。

P13:2 所要準備は、プロセスの中心からかけ離れており、単なるFFレートの変動を減らすために使うことができる手段の一つにすぎない。所要準備が実際に意味しているのは、銀行は決済のために必要な量を超えて準備を保有しているということ、そして銀行に数日間にわたって平均して準備預金を保有させることができるということ、そして、そうすれば、準備預金が決済に必要な額より多かったり少なかったりしても、FFレートが目標から急激に乖離することは、大概の日について避けることができるということである。いずれにせよ、準備預金は、決済か、所要準備を満たすためにしか使えない。準備預金は貸出創造の原資fund などにはならない。所要準備より、より直接FFレートをコントロールする方法は、Fedの口座に保有されている預金に支払われる金利と、Fedからの借入に対して課せられる金利の間のスプレッドを単に狭めればいいのである。これはすでに所要準備制度を持たない国々の中央銀行が繰り返しオペレーションしてきたことである。これらの中央銀行は、一般的に金利目標を正確に達成できている――たとえ、銀行の準備預金需要が、決済のための必要性という金利に対し非常に非弾力的な場合でさえ――。多くは準備預金に支払われる金利と中央銀行からの借入に対して課せられる金利の間のスプレッドは、50ベーシスポイントで、その中間に目標レートが設定されている。

P13:3 ちょっと脇にそれるが、多年にわたり、数多くの正統派(例えば1990年代後半のスィープ口座が普及した時期)や、異端派(例えばポスト・ケインジアン・ストラクチャリスト)の研究では、中央銀行は信頼できる程度には、あるいは正確には、金利目標を達成する能力はないだろう、と論じられてきた。これらの議論ではしばしば一般ケースと称して、特定の、変動に貢献するようなオペレーション手続きが考慮されていた。実際には、中央銀行が信頼できる程度にあるいは望ましい程度に正確に目標を達成するには、単に、準備預金に支払われる金利と、貸付に対して課される金利を間のスプレッドを、望ましい程度の正確さが達成できるところまで狭めればいいのである。オペレーションにおけるそれ以外の変更、例えば、公開市場操作の頻度を増やすとか、当座貸越金利を下げるといったことでも同様にコントロールの正確さを高めることができる。これらのオプションは、他の中央銀行あるいは連邦政府の目標(たとえば、政府の金利負担削減、積み期間中の銀行の所与準備を満たせるだけの準備預金を供給する必要性、決済システムのリスクを減らすこと、など)と矛盾することもあるため、研究者の中には、こうした方法を用いない、という選択をあやまって、こうした方法が正確なコントロールをするうえで役に立たない、と考えるものもいたのである。



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