歎異抄 1

2017-02-12 21:11:22 | 仏教

 浄土真宗を開かれた親鸞さん(1173年〜1263年90歳)の話を、晩年のお弟子さんである唯円(1222年〜1289年67歳)が親鸞亡き後、親鸞が言っておられた経説とまったく違うものまで流布し流行り、そのことに憤りを覚えて、異なるを歎く書として、唯円が書かれたとされている。後世、親鸞さま肉声の声がすると明治以後多くの人たちにも、読まれるようになったもの。その歎異抄を読んでみようと思いますが。さしあたっては、親鸞の履歴を日本史年表をもとにかんたんに確認しておきたいと思います。

 産まれたのが1173年この時代は平安時代の末期。平安時代(794年から1192年、京都を都として)というのは奈良時代(710年〜793年、奈良に都、その前は飛鳥など)とともに天皇や公家たちが政権をになってきたことを言う。世に言う平家滅亡とともに、武士政権の鎌倉時代にまさに変らんとする激動の時代。同時代の鴨長明の方丈記によれば、京都河原には餓死者がそのまま放置されて、その異臭とともに物乞いの人たちで溢れており、貴族の館は度々盗賊たちに押し入られ、火をつけられ路頭に迷うもの多し、とあるから。その混乱のようすは相当のものであったことが想像される。

 ちなみに1191年栄西が今の中国から帰朝し京都で臨済宗を開いている。

1190年西行法師、山家集をだしている。

親鸞9歳で出家、その後比叡山に入り29歳まで堂僧。

1198年法然、選択本願念仏宗を出す。この当時これはとてもセンセーショナルなできごとであったそうな。当時の仏教界の中心であった比叡山をはじめ、聖なる人として高名な明恵上人でも、そんな修行もしないで、念仏ひとつで極楽浄土にいけるなんてとんでもないまやかしだと、大問題になった。親鸞25歳。

1201年親鸞さん28歳、法然門下に弟子入り。

1207年朝廷、専修念仏を禁じ、法然を土佐に、親鸞34歳を越後に配流。流罪生活は4年ほど。

1214年今の茨城県稲田に、41歳。親鸞は京都時代の29歳のおり、愛欲問題に悩み抜いたあげく恵信尼と結婚。この当時僧が結婚することは珍しきことではない。が多くは隠して女は居らぬものとして、扱っているか、妻帯したものは還俗するか、または沙彌の位のまま祈祷などをしてよすがを送っていたものも多いと言う。そのなかで、公然と結婚宣言してのものだったとか。

1227年道元、中国から帰朝 曹洞宗を。

1235年鎌倉幕府、念仏者取締令を公布。

1253年日蓮、法華宗を開く。

1232年頃親鸞、京都に帰京、59歳。1262年90歳の亡くなるまで京都に。

1275年一遍、時宗を開く。この当時爆発的に大ヒット、踊り念仏が都市に舞い上がった。

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