鏡餅

2016-12-30 20:25:10 | 日記

 一昨日から大掃除を始めた。本堂の内陣から、各窓のガラス拭き、家の玄関の戸まで。やはりやり終えると、すっきりする。最後にご本尊さまから、玄関、庫裡、風呂場、トイレなどとそれぞれ神さまが祀ってあり、そこにもお供へを。それらの神さまは、玄関なら韋駄天さまが台所なら、大黒さまがお守りしてくださっているところだからね。ふだんはほとんど、ほったらかし状態なれど、新しき年が明けるからね、丁寧に。またよろしくと。

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万葉集

2016-12-28 21:23:05 | 日記

 昨日は一日雨降りだった。この時期の雨には、だいぶ違和感がある。今朝は冷え込んで朝から雪が、それでうっすらと雪化粧、なぜか安心する。

 昨日は万葉集の会だった。先日、「よみがえる万葉人」永井路子著を読んだ。そのなかで、こんな句を紹介していた。「世の中を何に喩へむ朝開き 漕ぎ去にし舟の跡なきがごとし」沙彌満誓。それを永井は自身の体験を踏まえて、以下のように。“広い水面にたった一隻、舟はパントマイムを演じているかのようだった。その姿はやがて、朝霞に融け、ひとすじ残った水尾も、いつか消えた。大伴旅人の「世の中は空しきものと知る時、いよよますます悲しかりけり」これは観念的、単調にすぎる。上の歌の詩境には及ばない。”と。  あの水面に舟の跡がすーっと伸びてゆく情景は、いつでも印象に残るものとしてあった。それを無常観をあらわすものとしてとらえていた。ここは能登で、航空自衛隊の緊急発進の戦闘機の航跡をいつも目にする。あの飛行機雲も、ほんにしばらくの出来事で。そう言えば、内山老師も雲がふわっと湧いて、すっと消えるのも、人の一生のできごとと同じだねぇ。と、いつも言われていたな。

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ある大学生

2016-12-26 21:41:50 | 日記

 先日、金沢の畑尾さんがいろいろな方5人ほど連れて、呑んで語っていった。そのなかで、畑尾さんもその日に初めて会ったと言う大学生がいた。その彼、金沢大学の経済学部4回生だと。環境問題を考えていったら、結局のところ、自身が存在していることそのものが、もっとも自然世界にとっては邪魔な存在なのではないか。と、考えついたら息苦しなって、とてもしんどかったと。今はそこまで、思い詰めるのはどうか、などと言っていた。彼の卒業論文が、「倫理的消費」というものらしい。この矛盾する世の中で、すこしでも是正するためにできることはなんなのかを、考えてみたいとのことだった。その彼、昨日の餅つきにも、金沢からバスでやってきて、みんなと餅つきをやっていた。将来彼も山暮らしをしたいとのことらしい。こんな人が出てくるとうれしいね。じっさいに現物に示してくれる人が、出てくるとどんなに、頼もしいことであろうか。

 彼云く、そうおもってから、ふつうに就職を選択しているうれしそうな学友たちをみると、ぼくはとんでもない方向を選んでしまったのじゃないかと、思って、まだぐずぐずしてます。と言われるから、おもわず大丈夫、ぼくなんぞいまだに、へんなことしてしまっているんじゃないかと、悔やむことあるからね。ぐずぐずしながら前に一歩ずつ進もう、と。

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味噌仕込み

2016-12-24 21:53:27 | 日記

 今日は毎年恒例のお祭り、味噌仕込み、明日は餅つきである。6時過ぎから竃に火を入れて、3斗の大豆を蒸し上げた。それを、大きな臼に入れて杵でつぶし、塩きり糀と混ぜて、味噌玉をつくる。最後に8斗の樽に仕込む。仕上がりは6斗。多勢の人がそれぞれの持ち場でのはたらきがあって、なりたつ仕事である。こちらは竃がかりである。蒸篭の大豆の蒸し加減や、蒸篭やふきんを洗ったりと、火と水を使う仕事。一日でいっぺんに手が荒れる。そんな年配になったのだなぁと、このときばかりは思うのだ。

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陰影礼賛

2016-12-23 20:23:37 | 日記

 谷崎潤一郎の「陰翳禮讃」(いんえいらいさん)から。

 

 「われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して、自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁書や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。これは簡単な技巧のやうであつて、実は中々容易でない。たとへば床脇の窓のくり方、落懸の深さ、床框(とこかまち)の高さなど、一つ一つに眼に見えぬ苦心が払われていることは推察するに難くないが、分けても私は、書院の障子のしろじろとしたほの明るさには、ついその前に立ち止まって時の移るのを忘れるのである。」

 

 ここだけ取り出して、読んでもらってもはなはだ困るのだが、これは谷崎が、日本座敷の書院のすばらしさを微に入り、あざやかに示している下りである。今のものからすると漢字の多さや、読みにくさは多少あるのかもしれない。なれど、段落や行間の空きがほとんどないまま、3ページほどもつづけさまに、書き付けながら、なにかゆったりと文中に流れているなにかがあり、こんな文をかいてみたいなどと、とんでもなく言えるものでないことぐらいは、こんなものでもすこしは解っているらしいのだ。

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