流転

2013-04-30 20:51:27 | 日記
 日常というのは自分と言う思いのなかだけで動くから、この身は流転することになる。つまり落ちつきどころがいつまでもない。自分というものを楽しみや意味などで抑えようとしても、つうじない。わたしといっているそれは、存在がそんざいしているからだ。そんざいとはたとえば言葉一つをとっても、くめどもつきぬ深さがある。それは身体のことについてもそうである。私の知っている事は、知っている分だけでそれも底の浅いことしか知らない。けれど、思い込みとしての我は何でも知ったかぶりを発揮して直ぐ得意になる。
 存在の深さに気がつくことができるのは、やはり先達から学ぶことがもっとも的確なはず。それはみずからの奥の方から呼びかけている声でもある。
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詩集

2013-04-29 21:01:25 | 日記
 詩を紹介したいと思いつつ、ぼく自身もう長いこと詩集を開いていないことを、さっき書庫に行ってはっきりわかった。そのせいだろう、萩原朔太郎の詩を眺めてもそんな心躍るものは見つけられない。もとより、じゃじっくりと詩を読んでいられるかと言えばそんなよゆうがない。そのことが現代では詩集が読まれなくなったゆえんであろうか。などとぼやいている。あるところではこんな時代ならばこそ開いているものもいるのだとおもう。けれど毎月新聞に掲載されているものは、ぼくにはあまりひびくものがなく。それでむかし読んだものを、探して読むことに。
 高村光太郎である。
    当前事
 あたりまへな事だから
 あたりまへな事をするのだ。
 空を見るとせいせいするから
 崖へ出て空を見るのだ。
 太陽を見るとうれしくなるから
 盥(たらい)のやうなまっかな日輪を林中に見るのだ。
 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
 海を出ると永遠をまのあたり見るから
 舟の上で巨大な星座に驚くのだ。
 河のながれは悠々としているから
 岸辺に立っていつまでも見ているのだ。
 雷は途方もない脅迫だから
 雷が鳴ると小さくなるのだ。
 嵐がはれるといい匂いだから
 雫を(しずく)浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
 鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のやうだから
 桜の枝の頬白の高鳴きにきき惚れるのだ。
 死んだ母が恋しいから
 母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
 女は花よりもうるはしく温暖だから
 どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
 人間のからだはさんぜんとして魂を奪うから
 裸という裸をむさぼって惑溺するのだ。
 人をあやめるのはいやだから
 人殺しに手をかさないのだ。
 わたくし事はけちくさいから
 一生を棒にふって道に向かうのだ。
 みんなと合図をしたいから
 手をあげるのだ
 五臓六腑のどさくさとあこがれとが訴えたいから
 中身だけつまんで出せる詩を書くのだ。
 詩が生きた言葉を求めるから
 文ある借衣(かりぎ)を敬遠するのだ。
 愛はじみな熱情だから
 ただ空気のやうに身に満てよと思うのだ
 正しさ、美しさに引かれるから
 磁石の針にも化身するのだ。
 あたりまえな事だから
 平気でやる事をやろうとするのだ。
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観自在

2013-04-28 21:54:44 | 日記
 詩を紹介したいと思いつつ、今日もええお天気で、3回目の苗出しやら、布団干しなどがあり、せわしかった。それで唐突に般若心経のはなしを。最初の言葉は、観自在菩薩からはじまる。意味は仏教辞典では、もろもろの存在を見ることが自由自在であること、である。じつは観自在とは誰でものわたし自身のことをいう。人は不自由だから自由を求める。なれどこの自由は自分勝手が出来るの意味である。そうではなく絶対的な力の上に乗っかってまったく自在のものとしておかれていることをいう。
 ことばとは不思議なものというか、ちょっとめぐらせばなるほどと合点されるとおもうが。今私たちが使っていることばはとうぜんのことながら、何百年何千年何万年もかけて、それこそ膨大なあまたな人々がことばに楽しさや虚しさ哀しさを載せて使われて来た。だから般若心経のまことの意味が分からなくとも(意味だけが分かってもそんなものは直ぐ飛んでしまうけんど)お経を唱えるとなんともの響きがからだに入り込んでくるのは、そのあまたの人々の智慧がからだに直感として伝わるからである。
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2013-04-27 20:09:54 | 日記
 桜がようやく開いて来た。今日も寒いかんじだものね。ここでの桜の開花は毎年だいたい青森と同じである。それくらい寒いのかとあらためてびっくりするのである。こういうところでは、春の花は一時に一斉する。ここでも梅、桜もに種ありソメイヨシノは今が盛りだが、しだれ桜も二分咲き、桃も咲き始めて来た。それで、なんとなく萩原朔太郎の詩をと思ったけれど、書庫まで行って探すことを考えると、まぁいいかと言う気分になるが。余談でありますが、このブログ、もとは遠く離れたこどもたちが見ているとのことで、なにやら毎日書いており、たいがいは彼らのことを念頭にある。ときに暴走もしますが。うん、そうだよねこれから詩を紹介したいなと思うたのである。春から桜、花そして詩へと連想して来た。
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ユニクロのこと

2013-04-26 21:00:04 | 日記
 昨日の新聞の一面に、ユニクロの給与が全世界共通にするとのことが、書かれていた。世界戦略をはたしている企業というのは、やれやれ、といったぐらいの見方でしか無かったのですが。よく考えてみるとこの能力主義、なんだか妥当な、まとものことにおもえているから、いまさら不思議なかんじである。それほどにわたしたちは能力主義に慣らされてしまっている。どうもことはそんな簡単なことではないようにおもうのだ。終身雇用というありかたが、やはりとても懐かしいと言うか、地域社会で生きていくにはそのことが外せないように思う。能力だけを問われること。その人個人に見合った評価というのはもちろん大切なことと思う。そのこととそれをその仕事を、できるだけすばやく的確にこなしていくという観点からだけ、決めていこうとするのはまるでロボットに要求することとおなじである。企業だから利潤を追求するのはとうぜんなのだ、そのことが会社を発展し、個人も豊かになるという幻想をまだ持ち続けておる。そうではなく、その企業がそこにあるということそのものが、その地域や巡業員みなが生き生き出来る、そんなありかたがこれからもっと模索されていい。グローバル化などということに幻惑されないで、地道に歩んでいる、優良企業が増えていくことを期待したいよね。
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