日常というのは自分と言う思いのなかだけで動くから、この身は流転することになる。つまり落ちつきどころがいつまでもない。自分というものを楽しみや意味などで抑えようとしても、つうじない。わたしといっているそれは、存在がそんざいしているからだ。そんざいとはたとえば言葉一つをとっても、くめどもつきぬ深さがある。それは身体のことについてもそうである。私の知っている事は、知っている分だけでそれも底の浅いことしか知らない。けれど、思い込みとしての我は何でも知ったかぶりを発揮して直ぐ得意になる。
存在の深さに気がつくことができるのは、やはり先達から学ぶことがもっとも的確なはず。それはみずからの奥の方から呼びかけている声でもある。
存在の深さに気がつくことができるのは、やはり先達から学ぶことがもっとも的確なはず。それはみずからの奥の方から呼びかけている声でもある。