朝からからりと晴れあがり、今日は苗床にお米の苗を移動する最後の、4回目の日。無事に終りてこれで、苗は全部苗床にそろったことになる、900枚。いよいよ、畑の耕耘だ。菜の花が盛りとばかり咲いているなか、先ず草刈り機で草を刈って、それを始末してから、耕耘。夕方に里芋を植えた。
一輪草も咲き出した。このひとは、陽当たりのいいところよりもどちらかと言うと、杉林なんだけれど、奥の方の暗いところではなく、明るめのところが好きそうだ。毎年決まったところに咲いてくれるから、心待ちにしているようである。
野の花にももちろん色んな姿があり、今をたのしませてくれます。イカリ草、精力剤として使われるそうだけれど。ここらあたりでは白いものばかりなれど、赤やピンクもあるとか。なんだか、こんな可愛いすがたで道ベリに咲いていると、いつもはっとさせられるんだ。
昨日ひさしぶりに雨が降ったせいだろうか。いやほんと、雑木の山々も野の花も草たちも、一日たっぷりと降ったせいであろうか、今日はもう新緑状態である。うーむ、いっときも休むことなく、刻々と諸行無常しているのだ。
今日は一日雨でした。ここしばらく降ってなくて、畑も庭もからから状態で水を欲しがっていたのです。そんな中、午前中は合羽を着て、稲の苗出しでした。合羽を着ているから汗をかいたのでしょう。それで、しばらく雨の中をやっていたら、いい合羽を着ていかなかったせいで、しみ込んでしまいだいぶ濡れたのです。そんな調子で七尾まで行ったのだ。なんだか鼻がぐじゅぐじゅでくしゃみの連発でした。いやはや、会のメンバーにはごめんなさいでした。
この贈与論今日で終ったのですが、結論として石器時代から続いている贈与、交換の儀式が今の世でも形を変えて、あり、それが地域社会の円滑な人間関係の運びになっていたり、地域を活性化させているとのこと。その意味では、暮らし向きやもののあり方はずいぶんと変ったとは言え、人の基本的な行いはそう変りようがない、ということを示してもらったようです。そのなかの一説にこんな下りがありました。物のほとんどが金銭的価値になっているけれど、金銭的価値だけでは押しはかれない、感情的価値が物には付いている。などという指摘も、贈与の名残であるというのです。そういうまなざしで、わたしたちの周りをもう一度見直すと、たとえば葬儀や結婚式のあり方などというのは、典型的な互助システムになっているとのこと。その場そのものが、癒しや融和になっているのだということも思いました。