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今日いち-2025年6月11日

2025-06-11 21:34:11 | 日記


襲撃事件

2025-06-11 16:27:00 | 日記

ここを開くのは、久しぶりである。

するとこのグーブログはもう終了するのだという。

今その引越しの手続きを始めた。

 

鶏を散策させている。昨日もあるご夫婦が来られて自慢したばかりだ。

その自由に散歩している鶏を見て、

あるものはこんな光景に出会ったことはないと、

その都会育ちの御仁は言う。が、きっとじっさいの

養鶏場のさまも映像以外には知らないと思う。

 

その庭の鳥が騒がしいので、庭先を見ると

1匹の猫がもっとも元気な鶏の首先に噛みついているではないか。

慌てて、玄関に飛び出すと猫は一散に逃げ出した。

そこに倒れている鶏を抱えると、もうぐったり

しているから、もうやられたか、としばしそこに

おいた。すると後の二羽の鶏がそばにきて、

大丈夫?とばかりツンツンし出すと、その倒れている

鶏がヨロヨロと立ち上がった。

ので、小屋の中へ3羽とも仕舞い込んだ。

すると、しばらくしてうちの猫が警戒体制で身構えているので

そおっと見ると、さっきの猫が忍び足で偵察に来ている。

それで、裏から回って石を手に抱えて、しばらく追い回した。

 

どこかの野良猫だと思う。鶏を放すようにしてから

近所の飼い猫たちが、その様子を見に来ていた。

それはこの家の猫と同じく、飼い猫たちはその庭の鳥には

近寄れなくて遠巻きにしていたから、こちらもすっかり

安心していたのだ。

 

そういえば、龍昌寺の鶏たちも野犬から飼い犬、狐、

テン、イタチといろんな動物たちにやられたが、

一度猫に毎晩襲われたことがあった。

その猫、何度目かの襲撃の時、夜に鶏たちの悲鳴で

小屋まで駆けつけると、猫だったのだ。

その猫は、小屋の狭い隙間から入ったから、

慌ててそこから逃げることができなくて、小屋の中で

ウロウロしていたから、スコップで叩きつけた。

 

だから、猫が襲うということは知ってはいたが・・

ここらあたりは飼い猫ばかりだと勝手に判断していたのだ。

きっと猫の溜まり場の井戸端会議で、

鶏が散歩しているところがあるぜ、などという情報が流れて

腕自慢の悪ガキ猫がついに現れたのだ。

 

 


図書館のことなど

2024-11-01 16:08:05 | 日記

 昨日親しい友と語らっていて、ここ最近胸の中にあったもぞもぞしていた思いを語ってみた。それは、この寺の活用をもう少し広げてというか、広がるのあるかたちで提供できないものかとここへ入る前から模索している。

 今、月に4度ほどの勉強会があり、それである意味本人とすればぞんがいせわしい思いで暮らしている。畑を少しとよろみの方には田んぼの手伝いもさりながら、今年は地震や豪雨などがあり微力ながらでも手伝いに通っていたから、気持ちの上でも何やら詰まってはいたが。せっかくの贅沢な暮らしをさせてもらっているのだから、なにかふつうの人たちとの交流、出会いの場ができないものか、と。

 ここにきて、図書館に通うことが増えた。2週間に1度通うことで新しき本や先生と出会えないものかと思いながら。じっさいの図書館の現状は熱い夏の間などは、独人暮らしの方か、家にいても用向きのない人、ほとんどがそのまま言えば暇つぶしをしている老人たちだ。新聞や週刊誌などを広げながら、もそっといる感じである。あとは中学生か高校生の試験勉強をしている姿である。

 そんなせいか、図書館そのものの空気までもなにやらどんよりとしたものがある。本の在庫も、型通りのものばかりで書架ではなく検索して探そうとすると、あまりないのだ。県立図書館から借りることもできるシステムだけれど、期限が迫ると電話で催促されるしで、なかなかにメンドウなのである。

 そんな中で、私設図書館なるものがあることは知ってはいたけれど、それをするにはあまりにもハードルが高いと思っていた。で、そんなことを思っていて何か。よき知恵がないものかと検索していたら、一箱図書館なるものをやり出した青年がいるとのこと。この一箱とは、誰かに読んでもらいたい自分の蔵書を、その私設図書館の一箱のスペース分を毎月2千円を払って、提供するという仕組みだ。オーナーになるその人が自分でお金を払って本を置くことによって、そこから新たなドラマが、出会いが生まれるという。初めこそお金を払うということに抵抗を感じたらしいが、それが逆に新しい展開があるのだという。

 この新しき展開というフレーズに心が動かされて、その友に語ったのだ。友はそりゃ面白そうだ、だったけれど。じっさいそれをするということを、イメージするとそれをするまでの工事や費用のことなどは、横においても、こちらが一人で店番やらの世話など、スタッフというか協力してくれそうな人を呼び込むつもりでいるものの、ちょいとこれは手に余るなぁだった。

 それで思い巡らせたことは、月に2度、近くのコミニティーセンター(旧小学校、グランドはサッカー場になっていて、立派なところ)で哲学の会などをしているが、ここで子どもと大人のための読書会なるものができないものかと思ったのだ。子どもに対しての読み聞かせ、や朗読会は、七尾にもあり活動している。けれど、それは大人がいいと思っている本を朗読するスタイルだから、ある意味一方的な感じがする。そうではなく、子どもでも大人でも自分が読んで面白かった本を読む、朗読する。そこに何かしらの広がりが生まれるのじゃないか、と想像するのです。

 今のところ、そんな場が具体的にあるのか、あるとすればそこからどんなことが動いているのか、またはじっさいにわたしはこんなふうにしているよ。でもそれに関わることなどがあれば、知恵を欲しいのです。情報でも、なんでもいいのでください。待っております。

 この島国においても色んなもんだいそれは、子どもたちから大人たち。政治のこと経済のこと多岐にわたってありますが、何か小さな一歩でいいのです。ぼくの身の回りのことから、探っていきたいと思っているのです。よき知らせ、思いを届けてください。よろしくお願いします。


本居宣長のこと

2024-09-10 11:12:58 | 日記

  夏になって暑さにうめくようになると、そうめん茄子というものを食べようと気になる。聞けば金沢の郷土料理だという。母は料理上手だったと思う。けれどその料理はいつもあり余るほど作るというか、豪快な感じなのだ。テキトウでカンタンなのだ。ナスを鍋でゴマ油で炒める、程よくナスに油がしみた頃、水を入れて味付けをする醤油と多分お酒だけで決めていたのだと思う。そこにソーメンを乾麺のまま入れる。とうぜんソーメンはぐじゃとしてるが、それが妙に美味しくて・・

 そんなわけで今夏もソーメン茄子を作った。お袋さんのは、おかずというより汁物(汁はほとんどないが)だった。けどこちらは、それがメインのものやから、少し手を加えごま油で茄子を炒める時に、ベーコンがあったからベーコンをそれに今オクラが毎日たくさん取れてオクラも、ソーメンはゆがいたものを最後に入れて、これで味を整えて、それをこれから昼も、夜の分までもまだある。堪能できるようだ。

 

 本居宣長のこと。小林秀雄に学生の時に出会ってしばらく小林にかじりついていた事がある。数学者の岡潔との対談は何回も読んだと思う。その小林が晩年10年ほどもかけて本居宣長を書いたという。それは、とても大部の本でベストセラーになる程売れたらしいが、本居のこともよくは知らないし本そのものも高かったし買わなかった。けれどある人が、こんな本を買ったけれど、わじゅさん読む?とか言うてくれたのだ。開くと、小林のことだから重層的に書いてあり、なかなか読みずらかった。でもなんかよくはわからないままに、ともあれ読んだと言うことで納得していたんだ。最近になってようやく古典を開くようになって、古事記から古今和歌集、万葉集と今みなして読んでいる。そんなおり、図書館の新刊コーナーで見つけた「万葉集」(もののあはれ)と(日本)の発見 先崎彰容著 新潮選書 

 この先崎さんは、調べると今売り出しの若手研究者ならしい。ともあれ、いろんなことを教えてもらった。本居宣長の周辺のことはもちろんなことながら、古文のことそこからくる「日本」と言うことなど、色々巡らせる事ができたようだ。なんだか久しぶりによき本と出会うと、言いふらしたくなる。


和歌のことなど

2024-05-24 21:15:12 | 日記

 言葉の深さ、奥行きは汲めども汲み尽くせないことを、歳ごとに感じているようだ。なにせこの自分というものが、生まれるはるか以前から言葉はあり、(約3万年から言葉が出てきたと)文字は紀元前3世紀ごろだから、5千年の時間が経過していることになる。それゆえとてもではないが、深さとしてある、らしい。不思議のひとつに、頭の中でもやもやとしていろんなことばが、飛び交っていてもじっさいにことばが出てくると、違うものになったりするし、会話の時などは相手から引き出されるようにことばが出てゆき、その言葉で自身が驚いたり、学んだりすることもしばしばある。それを文字に表す作業は、もう一つの作用がそこから加わるというか、培養するらしいのだ。ようは自分で書いたことなのに、その自分自身に大きな意味を与えることになる。

 FB上で短歌の会(磨曜会)を開いている。アタマに浮かんだモチーフを歌に、5・7・5・7・7でまとめようとする時には、とうぜんのことながら、思案せざるをえない。そうやって出てきたもので悦にいったり、驚いたり、さまざまなことなれどその悩ましさが、ある種の醍醐味のようだ。この自分のものでさえ、そうやって一喜一憂している。そこに人さまの歌も読み込んでいろんなことをそこから味わうことをしているようだ。これは言葉のもつ最高の巡り合わせ、喜びなのではないかとさえ、思う時がある。この世のこと現世のことをうつしというらしい。歌ができるモチーフはほとんどがうつし(現世)のことである。それが歌ができて並べてしばらくするとうつ(空)になっていくらしい。この辺りのことは今詳しくは語れないが、とてもおもしろき世界だと思う。

 先日21日に短歌の歌会2回目がありました。7人の歌詠みがそれぞれ5首投稿し、その互いの投稿したもの、今回は7人だから35首あり、その中で特選を1首秀逸を3首選んで歌会の席でそれぞれ感想を言い合う。今回は、ある意味特定の歌に集中することなく満遍なくそれぞれの歌が選ばれていた。見事にそれぞれがそれぞれの思いの中で出てきたもので、決してこのわたしから出てきた言葉ではないのにもかかわらず、そこからまた新しい地平、新しき世界を見せてくれるようで、何だかね、こんなことができる仲間といることのうれしさを感応した一瞬でもあったね。