わじゅ カタル

山里・龍昌寺

歎異抄 12

2017-02-25 09:35:54 | 仏教

 第6章の原文です。

  専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ 相論のさふらふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにてひとに念仏をもふさせさふらはばこそ弟子にてもさふらはめ。弥陀の御もよほしにあづかって念仏のまふしさふらふひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

 

 一心に念仏するしかなきわれら、それをわが弟子人の弟子などと言い合うことが、あるとか、もってのほかのことだぜ。念仏をわたしが教えた、弘めたというさまで申せるものではない。弥陀のちから、大いなるもののご縁をたまわりて申すことができるものを、わが弟子などということ、とりとめもないこと。如来よりたまわりたる信心。だいたいこれを自分の信心などといわれることやまして、わたしが信心をあたえたなどということ、なんというかんちがいであろうか。

 いまから800年ほど前に書かれたものなれど、ふつうに読める。ゆっくりと読んでいると、その息づかいまでも聞こえてくるようだ。この時期すでに道場を構えて、門人が増えていった。それくらい流行ったんだと思う。こういう事件が起こるのも、ある意味もっともなことだとも思う。この時代になるまで、ふつうの人々に仏法というものが届いてなかったんだと思う。時代の不安定さとともにある意味急激に広まったらしい。そののち一遍さんの踊り念仏がでてくる。これもこれで爆発的にヒットしたらしい。この時期よりもう200年ほど経って蓮如さんが登場する。そのときは、本願寺以外の派、道場の門流のところでは、仏陀から祖師方、そして親鸞さまの姿絵を図案化しわれの絵姿もそこに連ねて、正当のというのか、こちらこそが本家(元祖)だというのか、そういうものまでも流行って、信者の奪い合いがあったそうである。どこまでもわれら人の浅ましさを、知ることができる事例だと思う。もう一つの問題は、こういうことは本で読んだからとか、今流行っているから自分でも言ってみた。などでは、称名することはできない。かならず人から人へと口伝えのようにしてでないと、念仏もうす機縁が生まれない。そのことが、つい先生づらに、弟子づらに思い違いしやすい。

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歎異抄 11

2017-02-24 10:02:41 | 仏教

 第5章の原文です。

 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世 々生々の父母兄妹なり。いづれもいづれもこの順次生にほとけになりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を回向して父母をたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、六道四生のあひたいづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもてまづ有縁を度すべきなりと云々。

 

 親鸞さんは言われる。わたしはいままで先祖供養のためとかで念仏を申したことがない。それはいまこのわれというものが、ここに在せりと言うことそのものがすべてのすべてのもののお陰、またはともにおかれているということであればこそのもの、ゆえ、しいて先祖供養などと言わなくともよい。六道とは六つの迷いの世界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上。地獄にいるものも、天女さんも迷いのものだというのが、いいこというよなぁ。四生とは迷いつつ生きるものの四つのかたで、胎生・卵生・湿生・化生。 衆生ということ、生きとし生けるもの、すべてのものをいう。人だけがえらいなどと言わない。この六道は輪廻するものと考えられていた。が、この島国ではあまりはやらなかったそうな。ベトナムなどではこの輪廻思想が強く、戦争の時、死を恐れずに戦ったのは、みなのために戦うことで成仏し人間に帰ることができるということだったとか。地獄・餓鬼・畜生は宮崎駿の映画「千と千尋の物語」のなかで、父母が急に餓鬼・畜生に落ちていくシーンがあり、そうだと。われの暮しのなかでこの六道をめぐることはすくなからず経験することである。ちなみに天上とは、有頂天になることであろうか。

 この先祖供養のこと。ぼくはそこまでいまは思っていない。父母や爺様婆さまに手を合わせる心情はとても素朴で自然なことだと思うからである。それに先祖とはけっきょくぐるりと巡って、この自分自身のことになる。両親祖父母などと10代さかのぼると1014人いるそうな。それが20代で100万人、30代で10億人とか。それでもせいぜい700年ぐらいしかさかのぼれないのだ。この島国にかぎっても4万年前からと計算すると、もう無量ということになるらしい。だからして先祖供養というても、すべてのすべてのものにおもいをささげていることになる。ちなみに、守護霊などといってあなたの先祖のだれかが祟って成仏できないでいるから、いまあなたは病気であるとか、不幸である。などと、脅迫するものが今も昔もいる。人はこの見えないなにかを恐れていることも、たしかに片方ではとてもだいせつなこととおもう。が守護霊で騒ぐとなれば、ちょっとね、あまりにも幼稚なんじゃないかと、思うけんど。これまた人というのは、すこぶる幼稚なものでもあるよね。

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赤蛙

2017-02-23 21:12:26 | 日記

 ここ2、3日気温がすこし上がったのだろう、蓮田からきゅるきゅるきゅるんという春一番を告げる赤蛙の声がする。だれもまだ外敵が目覚めていないあいだに、産卵して子孫を孵そうという戦略らしいんだ。で、産みつけたあと親たちはまだ寒いから、山の方に帰ってまたしばらくは眠るらしいんだ。これって、なんだかじつに戦略的にするどいよね。あのトランプさんやジョンウンくんなんかより、計画的だとおもうよね。

 それにしても、この春一番の声を聞くと、うれしいんだ、わくわくして。どうじにあれっもう冬終っちやうのかと、さびしくもなるんだ。

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歎異抄 10

2017-02-22 11:40:31 | 仏教

 第4章の原文です。

 慈悲に聖道浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて、   大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏まふすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。

 

 慈悲とは仏・菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむ心。あわれみの心。聖道とは聖者の道。浄土門(易行道)の対。この世で自力の修行によって聖果をさとる自力門をいう。(中村元、仏教辞典)

ここでも念を押して自力ではだめなんだといわれる。このことを現成公案では「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」と言われる。聖書からひいても基本はおなじである。この自分ということのありようそのものを、問うている。ここのところは、わたしが、の「が」といわせているものはなにか。もちろんこの自分が、言っているに違いないのですが。親鸞さん用語にしたがえば、絶対他力によってこれはいつでも動いている。もうひとつ注意しなくてはならないと思うことは、自力または他力といっても言葉のあやのなかに隠れてしまって、大事なことを見失う。自力他力を超えたこれそのものが、この身であったということである。またこんがるかもしれないが、どこまでもいっても自力そのものであるしどうじにそれは他力であるということである。

 「今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし」

ここのところ、こんなふうに訳すこともできようか。このわたしがそれをいかにかわいそうと思ったり、平等でないと思っても、それはどこまでもあなたの「かわいそう」「平等」で、そうである以上、根本的な解決にはならないだろう。だからこのわたしは、手を抜いてもいいとか、一歩下がって客観的態度で処せ。などではない。そのときその時、全力で問われているなぁ。いつも抜け落ちてしまっているけんど。

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歎異抄 9

2017-02-21 11:46:10 | 仏教

 第3章の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」この言葉、歎異抄のことを知らなくともこの言葉だけは、耳に残っているという方も、多いのではないか。それくらいインパクトのある言葉だ。人と相対する時、自分のことをいい人と言うか、悪いものじゃないよ、と知らぬまにアピールしている。極端なことをいえば、危害を加えないですよとか、ものを盗んだりしないよというものをおのずから、発しているように思う。それがあってお互い安心して、同じ場を共有できているようにも思う。最初から、人様に嫌われたくないし、できればうれしく出会いたいと、いつも心底探している。なればこそ、他人からどう思われているかというもんだいは、じつに大きい。それがまして十代の自意識の尖っているときならば、なおさらである。それゆえ、ちょっとしたことでイジメにあったり、仲間はずれにされたりする時の、恐怖感はとても重いものがある。比べ合いのなかで、イモの子洗うようにしているから、そこからはずされるともう生きる場がないように思ってしまう。そこでの善きものとしていることの気持ちよさや、ずるいこと、悪さを隠していることの自分への見方は、ずいぶん人としてのというか、自分というものへの、内面を掘り下げる作業をしらぬまに積んでいたりもする。それほどにこの善悪のもんだいは、根が深い。

 それと、もうひとつは集団の問題というのか、教団の問題もそれに付随するようなかたちである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の言葉がずいぶん前に、流行ったことがある。それはある意味、わたしのある部分を言い当てているものがある。戦争中に普通の人たちが、赤狩りをするというか、自分たちとは違う人の存在を認めない。とても狭い世間の、同じ価値観を強要することに異和感が無くなる。近くはオウム真理教のことでは、ある意味とても優秀、現社会にたいして憂いている。なんとかしたいと思っている、その善良さが暴走することは、しばしば現在も昔もある。「沈黙」遠藤周作を最近読んだとき、その前後の歴史もすこし調べた。沈黙という小説は、1600年代キリスト教が当時の日本で流行り、それが40万人もの信者が増え、ついに幕府が禁止令を出す。それによって、ヨーロッパからきた司祭者たちのまたは信者たちの悲劇を、踏み絵というものをとうして描いたもの。彼ら信者たちの視点から描いている。が、幕府が禁止令を出すに到った理由は、一部の信者たちが暴徒化してお寺や代官所を襲い、それまでの秩序を壊す運動が引き金になっている。自分たちのやっていることが正しい。正義であるという旗を掲げることができるのは、集団というものが大きい。「正義」「平等」「自由」「平和」「愛」などの人権としての基本的な概念であるだけ、みずからのなかの善なる部分が、いつも問われているように思う。

 ついでながら、教団のはなしを。キリスト教(各派あるが)も仏教もそれぞれの教団によって維持されている。この教団というのは、かなりエゴイズムのつよい集団である。これはどの教団も基本的に「正義」「平等」「自由」「愛」などをそれぞれの表現で、押し出している。しかしそれは同時に他を誹謗し疎外することにも通じる行為になってしまう。この矛盾は大きな教団組織でなくとも、小さな仲間内の内のことでも、日常に経験することでもある。われらが善としていることのありようは、つねにいまの日本や世界の在り方、常識感と一体になっており、そこをもこのわたしはしらぬまに問われているように思う。

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