わじゅ カタル

山里・龍昌寺

歎異抄 32

2017-03-23 09:41:56 | 仏教

 第14章原文つづきです。

 そのあひだのつみをばいかがして滅すべきや。つみきえざれば往生かなうべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏のまふされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらふなり。

 

 そういう場合の罪は、どうやって消し去ることができようか。罪が消えなければ往生はできないというのか。あらゆるものが等しく救われるという願をいただいているわれらは、思いもよらず罪を犯して、念仏をとなえないまま最後を迎えても、往生できます。また、最後を迎えるに念仏をとなえることがかなったときも、いよいよ弥陀を頼みそのご恩に、おむくい申し上げます。念仏して罪を消そうとするのは、自力にたよる心で、臨終にさいしても心みださずなどと思うのは、他力にたいして信心がないのです。

 十悪五逆のところをもう一度思い出してみましょう。わたしはそんな殺しや、盗みなどもやっていないし、まぁふつうのものだと思っていますよね。でもこの十悪の内容をよくみると、うそをいう、二枚舌を使う、ののしる、言葉を飾り立てる、むさぼり、憎しみ、怒り、などなどどれもあてはまるのではないでしょうか。どちらにしても、まぁそんなにたいしたことがないなどと踏まえていることそのものが、傲慢だとやられるのですから、ぼくなぞは悪そのものです。ともあれ、助からんものであった。という自覚がたいせつなことなのだと思うのです。もうひとつの大きなもんだいは、すこしばかり信心なるものがあるなどとかんちがいするものは、まるで金科玉条のごとくのようにして、念仏や坐禅をするものがいる。そんな、念仏や坐禅などをしてもなんにもならん。ということだけは、はっきりと知らなきゃだめだとおもうのです。そんなわれの損得のことではないからです。ただここに、わたしというものが、おかれていた。そのことが念仏です。これは感謝などという言葉を持ち出すと、すぐさまなんだか感謝しているような殊勝な面持ちになっているだけの話で、どうあがいても助からんものとしてここにある。です。それはどうじに、どうあがいてもすでに救われてしまっているものとして、ここにあった。ということです。

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歎異抄 31

2017-03-22 09:45:03 | 仏教

 第14章原文のつづきです。

 この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあいだまふすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。念仏まふさんごとにつみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛をせめて正念に住せずしてをはらん。念仏まふすことかたし。

 

  だから、もしもこの弥陀の大きな願いがなければ、われらのようなあさましき罪人は、どうしてこの煩悩から抜け出すことができようかとありがたくおもう。また念仏申すたびにわれの罪を、滅ばさんがためと信じてすることは、われのつとめ、つまり自力でその罪を消して往生するということになるのではないのか。もしそうならば、一生のあいだにあれこれ考え思案するすべては煩悩にむすびついているものなのですから、往生のために息がたえるまで念仏をとなえつづけることになる。われというは、いつもその時々の、業縁によりて生かされている身なれば、これからさき、どんなことに出会うか解らぬものとしてある。病いや苦しみ、痛みに出会うて正気を失って死ぬこともあろう。そんなときに念仏もうすことなどできようか。

 わたしというものの、くせ、成り立ちとして、これまでも自分でなんとかやってきたし、これからもなんとかやっていくだろう。と思い固めている。でも、いろんなつらいこと、困難なことなどに出会ってきた。これからもそんなことは、起こるだろう。だけど、そのときに拝む、助けて頂くような面持ちで、祈りや、念仏などをと、考えてはいないだろうか。そのありようを、親鸞さんは自力作善といわれる。そうではなく、この立っている今この場そのものを、問うている。

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歎異抄 30

2017-03-21 10:22:41 | 仏教

 第14章原文です。

 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をまふさずして、命終のときはじめて善知識のをしへに、一念まふせば八十億劫のつみを滅して往生すといへり。これは十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるが滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明にてらされまひらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定娶のくらいにおさめしたまひて、命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。

 

 一度念仏をとなえれば、ただちに八十億劫(長い長い時間)ものあいだ苦しまなければならない罪も消えてしまうと信ずるのことについて。これは十悪五逆(殺生、盗み、姦淫、妄語、二枚舌、悪口、綺語、貪欲、嗔恚[憎しみ、怒り]、邪見[まちがった考えにふける]、親殺し、殺阿羅漢、破和合僧[教団を分裂させる]、出仏身血、の罪を犯した人、しかもこれまで念仏をとなえたことなきものが、いよいよ息をひきとろうというときになって、はじめて高僧の導きによりて一回念仏申せば、八十億劫もの長い間苦しまなければならぬ罪が消え、十回念仏すれば八十億劫の十倍もの長い長いとき、苦しまなければならぬ重罪も消えて往生できる、というのである。これは、十悪五逆という罪がどんなに重いものであるかを知らせるためのもので、それを一回、十回の念仏で罪も消し去るというものなのですが、それはまだわれらの信ずるところとなってはいないのです。それは、弥陀の光明に照らされて、念仏をとなえようとおもいたつそのときに、すでに金剛のように固く尊い信心をさずけいただいているのですから、このいのち終れば、いままでの煩悩や悪から解放されて、生死の迷いを超えて、ほんとうの世界に帰ることができるのです。

 

 なんかね、ここのところずいぶんややこしく、書いてありますが、要はこんなことだろうと、思っているのです。わたしたちが祈りをささげるときの、心情はいつでも未来にたいしてです。健康でありますように、とか、幸せになりますようにとか、人類みなが云々とか、みんな今のことでなくて未来のことです。もうひとつは過去のことを反省するときにも、こんなことをしました申し訳ありません。これからは云々というのも、そうです。で、そういうことではなくて、いまここわたしと言わせているこれそのものが、いますでにここで救われています。です。ナムアミダブツとは、わたしそのものが、ナムアミダブツとしてここにいませり。の宣言だったのです。これはなにも神秘的なことでもなんでもなく、そのままのことです。ここからは説明すると、ことばにひきまわされるように、おもう。というか、いまのぼくではそこのところまだちゃんと、言うことができないのでしょう。

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春仕事

2017-03-20 20:17:20 | 日記

 このところお天気よく、それまでは半日だけ外仕事をしていたのですが。いよいよ玉葱畑の雪も3日ほど前から溶け出し、朝からさっそく追肥をしました。玉葱は去年の8月に種をまき、10月に定植、そして長い間雪の下に埋もれていましたから、ペッタンコになっている。そこを鍬で、真ん中に軽く耕して、ボカシを入れたのでした。昼から、かねてより懸案の参道の桜並木、どれも天狗巣病にかかっており、これを切り落とす作業です。天狗巣病とは、文字通りその枝がまるで天狗の巣のように繁り、その部分は花はつけないのです。これはソメイヨシノが全国に植えすぎた?とかで、いわゆる伝染病らしいです。

 基本的に枝の先の方に、突然変異みたいなものがでてくるのです。その枝をばっさり根元から切り落とすのですが、最近、高いところがめっぽう怖くなり、梯子いっぱいに伸ばして、枝にかけて登ると、とうぜんゆらゆらとゆれるわけで、いやはや冷や汗かきながら、そして梯子のうえで、長いノコギリを使うのですが、これがまたヒィヒィもので、なかなかのものです。しばらくこの作業は続きそうで、お陰さまでお陽様のもとで、慣れぬことをしているせいか、夜はそうそうにダウンです。

 そんなことをしていて、本堂前の梅に花が開いていました。ここもつい10日ほど前は雪の海だったのですが。雪はある温度になると、上から溶けるのじゃなく、まさしく大地から一気に溶け出し、それは春の力なのでしょうね。

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歎異抄 29

2017-03-18 10:08:31 | 仏教

 第13章原文、最後のところ

 『唯信抄』にも『弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業のみなればすくはれがたしとおもふべき」とさふらふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなはち仏になり、仏のためには五劫思惟の願その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄具足せられてこそさふらふげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ。いかなる悪かほこらぬにてさふらふべきぞや。かへりてこころをさなきことか。

 

 『唯信抄』(法然さまの弟子、聖覚さんが書かれたもの)にも書かれてある通り「弥陀のお力が大きくて深いものであることを、知っていて自分のような罪ぶかいものはとうてい救われないと、思うのであろうか」とありますように、悪人であっても本願の前にあまえるほどの気持ちがあるからこそ、他力に頼る信心も決まるというものです。悪い行いや煩悩をすっかり断ち切ってから、本願を信じようなどと思っても、断ち切ることができれば、仏になり本願にあまえるということもなくなる。五劫思惟の願(法蔵菩薩がすべてのものを救いとると、長い長いときをかけた願い)も必要でなくなるということではないですか。本願にあまえるなと言われる人も、煩悩や汚れを身につけていられる。そういうことを言っている彼らこそ、すでに本願にあまえているのではないですか。いったいどんな悪が本願にあまえるというのか。本願にあまえるのをむやみに、非難するというのは、かえって考えの浅きことではないのでしょうか。

 

 悪にそまりしものも、善にそまりしものも、自分という思いの囲いのなかでがんじがらめに、なってしまう。で、その自分をなんとかして、と自力の思いはやむことがない。ひとつには、いのち自身が持っている生命力、「もっともっと」のおもいと、自分のなかにある向上心(それはプラスの方にもマイナスの方にも向くことがある)とを、混同しているようだ。この身そのものがさずかりものとして、ここにあったということと、自分自身ではもはやどうすることもできない。だれかにこのまま、あずけるしか手がない。ということと同じである。さらにいえば、悪の強い人も善なること正しき人もどちらも、自分に頑迷である。その頑迷さゆえに「悪」も「善」もなにかふまえてしまっていて、身動きが取れない。

 この本願ほこりの問題は古来より、いまも論じられており、まぁ、いいかと思ったのですが、そのようなことをあまり知らない方には不親切かなぁ、と思いすこし思うところを書いてみます。

 あらためて本願をほこりに思うということはどういうことであろうか。悪人をも救い往生をかなえてくれる如来の本願を頼っていることをいう。すると、おれはもう往生をとげることができたものであるから、なにをしても許される。そんな人やなにをしても、往生をとげることができるとなれば、世の倫理観は吹っ飛び、とんでもない者が出てきたであろうことを、この13章は告げている。蓮如さん云く『われということが、すでに罪である」との言われかたは、自分というものの置き場所がすでに無いということを、示されている。それゆえ、念仏して本願にお頼み申すことしかできぬ身であることを、さらにせまられる。それほどにわれらの、自分というものへの囲い込みは、しつようで頑固きわまりない。しかしながら、以前にここでも紹介した浅原才市さん「やれうれしや、弥陀のはん(判)わしのこころについてある。なむあみだぶつと申すはんこ、おやのはんこ。こどもがもろうて、なむあみだぶつと申すばかりよ」とじつにあっけらかんとしている。じぶんを明け渡しながら、すっきりと自身をやっている。鈴木大拙はそこの消息を「どうしてもひとたびは大風に吹き巻かれねばならぬ。分別の糸が切れて無分別の大空に打ち上げられなければならぬ。しかし、それだけではいけない。どうしても法につき当らなければならぬ。」

 

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