雪中甘藍

2024-03-09 19:52:58 | 日記

 雪中甘藍ってご存じだろうか。キャベツのことなのですが、冬の間中畑にそのままおいていたのだ。雪降る前にも、収穫して食べていたよ。でも肥料のたくさんくう野菜のせいもあって(化学肥料は入れないし)大きさはまずまずなれど、中身があまり詰まってなかった。でもそれはそれでうまかったのだ。雪が畑から消えてキャベツが丸見えになったこともあり、収穫した。それが雪の中でじわじわと大きくなったのでしょう。ぎっちりと実も充実してこれがあなたうまいのだ。まずは単純なキャベツ炒め、キャベツばかりベーコンがほんの少しだけ。それはキャベツそのものを食べたいからで、案の定すこぶるつきにうまかった。それでストーブ料理で蕪、玉ねぎ、人参、それにキャベツ大量。もうこれだけで、塩、酢、酒、醤油ちょいこれだけでもう抜群の旨さである。ストーブ上での大根煮もそろそろあいたのだ。いやこれもうまいのだが。ここ最近はキャベツのストーブ料理にはまっていて、なるほど雪中甘藍という意味がようやく納得できるほど、その美味さに堪能しているという報告でした。

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紅梅が

2024-02-15 13:17:45 | 日記

 この温さはなんなのだ。以前に書いた寒試し(村里近くに住む農機具屋さん、自分なりに工夫しながら暮らしを、仕事をやっていた方)なるものがあって、大寒から立春までの2週間までの気温や天気などで1年間の天候を占うという昔ながらの、やり方。そのやり方でいくと、今日のこの温さは、およそ半年後の天候異変を占うことになる。風そのものは北極で生まれるにせよ、赤道上で生まれるにせよ、それが地球上を巡り巡って今ここに到達するのだから、常に各地の生のあり方に影響されながら、日々われらは文字通りなまなましく暮らしているのだ。

そこで今回は、ここでの避難暮らしのありようなどを書いてみようと思う。門前黒島で鍼灸院を鎌倉から来て、8年ぐらい。直ぐ前に海が見えて。しかもこの黒島というところは、總持寺祖院と今は呼ばわれているけれど、その昔この地を拠点に全国に曹洞宗という教団が広がった大切なところ。その玄関口がこの黒島だったらしく(昔は海運で旅をした)、今でも当時の面影が残る地域、ここだけ京都の町並みが並ぶ風情ある場所。最近では、この地に惚れて料理人やホテル業を展開する事業家から漆作家たちが住み着いて、新しき気運が広がり始めた矢先の地震だった。後日その弟の雅哉さんとともにこの黒島地区に入った時の惨状は、忘れ難い。その風情ある町並みが一瞬で廃墟の町に変わり果てた姿だったから。

 その彼と、光雲寺での暮らしが始まった。彼とはご縁がある。こちらが龍昌寺を山に移築した頃、彼は大学を終えて、インドの放浪の旅へ。日本に帰りついたものの、そのあまりにも違いすぎるこの島国のありように、馴染むことができず自らを落ち着かせる場所を、探していたんだ。そこで彼曰く、はじめて禅道生活や農耕生活を経験し、その2年後の冬に神概念が腑に落ちたらしい。それは自分が自分自身に出会ったとでも言おうか。それは互いにまだ30前後の時だから、論議も激しいやり取りがあっただろうと思う。ほとんどその当時のこと、こちらは覚えていないが。その時から、兄弟というよりも同じ道を歩む同志になったのだ。その後、彼は信州に住む神父さんで坐禅や農耕生活もする押田茂人神父の元に修行に。その途中身体を壊して近くに、鍼灸道場をされていた伊藤真愚先生のところに投宿しながら療養を。その流れでやがて伊藤さんのお弟子さんになり、鍼灸師にそして鎌倉で診療所を構えていた。そんな折も与呂見の冬の勉強会や5月の勉強会にも夫婦して参加して、こちらを陰ながら支えてくれていた。それでこの地震である。彼は鍼灸師でありながら坐禅を毎日欠かさず、気の稽古も日々怠ることなくのいつも懸命な彼。そんな彼とほぼ40年ぶりのここでの暮らしであった。彼は朝目が覚めたら、ともかく坐るという人だから4時から坐ることも珍しいことではなく、こちらなどのように朝、ぎりぎり6時に起きてぼんやり坐るものとは、おのずと違う。そんな違いが、いろんなところで、一つのこと、一つの言葉をきっかけに喋り始めると止まらなくなる。このありようは、40年前と少しも変わりないようだ。なにかね、これだけ語れる相手がいるというのは、互いにとってもうれしきことで、その事を再確認したような生活だったと思う。

 やがて、そんな暮らしのなかへ娘一家が、彼らはその与呂見の寺から10分余りの集落で被災。ほとんど家が潰れるかの体験だったらしい。2・7歳の楽くんと3ヶ月の爽くんを抱えての被災。はじめは寺の兄たちが助けに来たらしく、その集落の中の道路が崖の崩落のため彼らの家ともう1軒だけが孤立してしまったのだ。寺に入ったものの電気はない。水は出ないの暮らしだから、金沢の友のところへ厄介に。けれど彼らが大分の時から、飼っていた猫が道路崩落とともに家に帰ってくることができず、その猫を探すということで金沢からここへ。娘の風とは彼女の高校の時から、なぜか母親よりもこちらによく学校などのできごとを喋ってくれていたんだ。だから今でも、こちらもつい気を許してなんでも語ってしまうようだ。その2・7歳の楽くん、ちょうど自我が芽生えたころでこちらが先に何かを言うと、必ず反対を言う。弟の爽くんを抱っこし可愛がろうとすると、その間に割って入るようにしてダッコとせがむ。この彼のダッコと今ご飯が済んだばかりでも、美味しそうなものがあるとお腹かが空いたの連呼だ。煎餅や甘いものも半分にしようものなら、地団駄を踏むようにして悔しがりやがて泣く。なんかね、この姿を見ていてなんとも面倒くさいと言うか、いちいちのことが引っかかって自分する姿に妙に愛おしいとでもいうのんか、ここからしばらくで成長すると、そうやって自我を振り回さなくなったぶん自分という物語が形成されてくるのだろうなぁとか、こちらも同じようにダッコ、お腹が空いたと素直にその時言えればどれだけ楽しいことかとも、思ったね。自分というあり方に真っ直ぐなんだと。だから彼がどんなにぐずっていても嫌味とか意地悪などというところから、もっとも遠いところにいるせいでしょう。こちらの胸の中がいつも明るい、清々しいのだ。こんなことはきっとこちらなぞのように短気でわがままなものには、親のときにはかんじることができなかったことだろうと、としみじみ思ったことでした。

 こんなことどもは、地震のお蔭と、すなおに思ったことでした。自力でできることではないもの、ほんとうは自力でできることなんてなに一つないのでしょうが。知らぬ間に力が入ってるものね。

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山茶花の赤

2024-01-28 16:39:24 | 日記

あれからほぼ1ヶ月が経とうとしている。独りの暮らしにも、ようやく慣れてきて寂しさをある意味、素直に受け入れつつあるようだ。そんな元旦の夕近くグラグランの地震で、暮らしが一変。

 これは相当な地震だと直感。台所の食器棚(ここの本堂に置いてあった小ぶりの本棚)が倒れて見事に食器が割れて散乱。そういう凄まじい音などまったくと言っていいほど、耳に残ってない。

 耳より身体の振動(地震の上下運動が激しかった)の方がはるかに大きいようだ。膝の上で寝そべりながら、共に本を読んでいた猫、何事が起きたのかと、一目散に彼の安全のところに入り込んでいった。 

 ストーブの上にやかんとうどんを湯掻くために、鍋に湯を沸かせていた。ストーブの火を消さんと思い立ち上がり、消そうとするもぐらついて上手く立ち上がることができない。四つん這いになりながら、火だけは止めたもののやかんや鍋がストーブの上で飛び跳ねて、今にもひっくり返そうだった。それを見つめるだけで、身体が動かない。あとで思い返すたびにそのことが、やたらフラッシュバックするようでスローモーションの映像が頭の中を今も、駆け巡る。

 ともあれこんな大地震の後は、余震もすごいというがまことに余震が夜昼関係なく揺れる。あとでみんなの話を聞いてみると、あの余震が強かったから、動くことを諦めて、避難所に逃げ込んだとのことであった。こちらはある意味習い性のことなんだろう。ごじゃごじゃになっているのをそのままにすることなどできず。余震がくるたびにその食器棚などを抑えながら、割れたものの始末を。そうやって台所、トイレ、茶の間、寝る部屋と普段使いのところだけを、ともあれ片付けてご飯を食べたらもう夜の10時ごろだった。

 翌朝やはりいつも通り6時前には起きだし瓦礫をよかして坐禅、朝課と梵鐘とあまり何も考えもせずいつも通り動いている。身体がそうやって動いていることになんだろう毎日のやっていることの力とでもいうのんか、すごいもんだと感心している。

庫裡の棟瓦が地震で2メートルほどずれてしまった。ブルーシートを金沢まで買いに行くも、すでに棚には何もない状態。それで友たちに声をかけたら、ブルーシートが集まりその翌日は晴れるけれど、2日後にはまた雪だという。それで近くに住む青年(ソウル)に頼むと一つ返事で、彼がいなければとてもじゃないができなかった。ずれてしまった棟の瓦を棟のところに置いてから、ブルーシートをかけるのだが棟瓦の赤土が流れ出しており、必然的にその上はちょっとでも体重をかけて足をかけようものなら、ツルン、ザーと滑る。そこで命綱のロープを頼りながらの作業。2人いてどうにかだった。後半ブルーシートをかけ終わるころから雨がぱつぱつ降り始め、最悪の感じに。というのもここらへんの瓦は、雪国特有の凍よけの釉薬をかけてあり、この瓦が遠くから見るとよく反射して黒光の瓦だ。幸い雨降りポツポツ程度で無事かけ終わったのだ。

 それからよろみの龍昌寺に出かけたり、門前の黒島で鍼灸師をしている家を見に行ったりしているうちに、ここが避難所になり、その鍼灸師の雅哉夫妻と娘一家との暮らしが始まった。2・7歳の楽くんと0・3歳の爽君との同居だ。この幼児たちのスーパパワーぶりにともあれ毎日翻弄されっぱなしの日々が、たのしくもにぎやか、振り回されて家政婦をしているね。

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義援金のこと

2024-01-13 14:41:39 | 日記
昨日、地震後はじめて龍昌寺に行きました。七尾から龍昌寺まで4時間かかって着きました。(ふだんだと1時間弱、帰りも3時間かかった)おりしも福井の友が、珠洲の被災した寺に駆けつける途中に、こちらの道路のことを知って来てくれたのです。
その彼に直接お礼を言いたかったのは、もちろんなのですが遼雲たちやみんなの顔を見たかったのです。寺の惨状は、LINEできていましたから。それよりも彼らはどうだろうと思っていたのです。こちらの予想通り想像以上に遼雲はじめ若者たちの顔が輝いており、それは自分たちがやるという強い思いです。
こちらは、ぼく自身のスイッチを入れ直すために廃寺に入ったのでしたが、その分遼雲にすべてを放り投げるようにして出て来たのです。そんな圧力のなかで、彼はその責任感と行動力でガンバッテきました。それが、この地震でかなりの状況を背負ったのです。
しかしながら、そのことで彼のなかにおのずとスイッチが入ったようで、顔つきも姿もじつにいいのです。
「二代目」としてとか「継続」などではなく、まったく新しい場をこれから彼は創って行こうとしているその姿を、見せてもらったようにかんじて、帰りの車中で熱いものがこみ上げてきました。きっとこれから大きく(いわゆる大小のではなく)羽ばたいていくことでしょう。
とは申しても、現実的にはやはりお金の力は大きいのです。
どうぞ皆さまご支援のほどを、これからの社会の人類のためによろしくお願いします。
 
 
 
 
 
 
 

 

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その世

2023-11-07 19:52:52 | 日記

 ここで一人暮らしをするようになって、ラジオやスマホで音楽や講義などを聞いている。高橋源一郎が飛ぶ教室という番組をやっていて、それも聞いている。

 普段は1時間ものなれど、谷川俊太郎さんちにお邪魔するという2時間番組で、面白かった。谷川さんの詩はたくさん溢れているから、あまり読みもしなくなったが、河合隼雄などとの対話などはよく読んだし、やはり十八歳の時に書いたという20億光年の孤独は、やはり衝撃的だったのだ。

 その高橋源一郎とのやりとりも面白かったのだが、91歳になる谷川俊太郎がプレイデイみかことの往復書簡集を出していて、その中で彼は書簡ではなく詩で応答しているのだが、彼曰く、ぼくは現実のことは疎くあまりよく知らない。ぼくは言葉を現場として生きてきた。と、サラッと言われる。

 言葉を現場として生きているのはわれらも同じである。それは詩人の特権ではない。しかしながらわれらは、ほとんど言葉を現場などと思ってなぞいない。自分はまごうことなき自分を生きているなどと、無闇に思い込んでしまっている。言葉を現場だと言い放つところから見える風景が、おのずと開けているようだ。

        「その世」  谷川俊太郎

この世とあの世のあわいに その世はある

騒々しいこの世と違って その世は静かだ

あの世の沈黙にくみしてない

風音や波音 雨音 しとやかなむつ言

そして音楽がこの星の大気に恵まれて

耳を受胎して その世をすべている

とどまることができない その世のつかのまに

人はこの世を忘れ

知らないあの世を なつかしむ

この世の記憶は こだまのように

かすかに残る そこで 見ない さわらない

ただ聞くだけ

 

    「自分だけ」

2時過ぎ他人がきた

高校の頃から知っている友達だが

自分とは違う人間だから 他人というしかない

お前は昔から詩を書いているが

それはなぜなんだと 珍しく他人が問う

他に楽しみがないと

応えると うそだろうと言う

妻がビールを出してきた

妻も他人だが

妻は私を他人だと思ってない

妻がビールを呑んでいる他人に言う

この人は私を名字で呼ぶんです

呼びつけですか いいえ

さんづけで と応えた

お前は奥さんを詩に書いているか と言うから

もちろんと 応えた

妻が へぇーととぼけている

急に気恥ずかしくなった

この世は他人だらけである

他人でないのは

自分だけだと思うと さびしい

 

こちらのことを思うと、これ91歳の人が書いたとは到底思えない。

その素直さあたりまえさのそのままに、書ける力量が全身詩人だと言ってしまえば

こちらはある意味、ラクだがどうもそんなことじゃないような気がする。

誰かに対してではなく、自分自身というものに向かって親切で丁寧なんだ。だから他人というものにもそうならざるを得ないよな。とおもうた。

コメント (2)
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