暇つぶし日記

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夏目漱石 著 「虞美人草」を読む

2017年11月12日 16時24分01秒 | 読む

 

 

夏目漱石 著

虞美人草 (明治40年、1907年)

新潮文庫 1981年 第61刷

巻末の本田顕彰の解説にこうあった。 「虞美人草」は明治四十年、漱石41歳の作であり、6月23日から10月29日まで127回にわたって朝日新聞に掲載された。 漱石は、この年の三月に東大講師、一校教授の職をなげうって、朝日新聞に入社して、一大センセーションをまき起こした。 漱石としてはすでに「吾輩は猫である」によって一躍名声を馳せ、つづいて「坊ちゃん」「草枕」等によって不動の地位を築いており、、、、。世間が彼の最初の一動を固唾をのんでみまもったのはいうまでもない。 彼が、いよいよ「虞美人草」を連載するという予告を自ら書いて新聞に発表すると早速三越は虞美人草浴衣と銘打ったものを売り出すし、玉宝堂は虞美人草指輪というものを売り出した。 始めての長編小説を書くという事で既に十分緊張していた漱石は、一世の期待を身に感じて、ますます緊張した。 その緊張を我々は「虞美人草」の文体に息苦しいまでに感ずる、という具合だ。

本作を読む前に半年ほど前に「こころ」を最後の20頁ほど残して読んでおり、その文庫本は去年帰省した折に買ったものだったけれど、その後その文庫本の行方が分からなくなり、結末は分かっていたものの肝心のところが分からなく、それを残したまま放っておいた。 それがひょんなことから書庫の隅で、80年代の初めにグロニンゲンに住んでいた時日本に帰省した折りに新潮文庫本で漱石の作を殆ど全て買ってきて読んだものが見つかったのでそれで残りを読み終え、続いて一緒に自室にもってきていたのが本作だった。 本作を読了した今、次にはそのとき書庫で見つけた「草枕」を読もうかとも考えている。 漱石を読んだのはこれが初めてではない。 こどものころから「猫」や「坊ちゃん」を読み、日本の文学史上頂点に立つ文豪の一人と誰もが理解しているように意識していたし、80年代には「こころ」にも「草枕」にも本作にも目を通していたのにその記憶がない。 辛抱が続かなく途中で放ったのかもしれない。 興味がなくなったか、当時の自分に響くものがなかったか、文豪の文豪たる所以が理解できなかったのだろう。 そして自分には感受性が欠けると見做して当時自分の興味のある作家の作にばかり向いていたのだがそれでも様々な作家論、日本文芸が語られるところでは漱石は必ず引用されているから無視しては通れないし避けられないのだが自分にはどこかはっきりしないところが霞のようにいつも棚引いていた。 それは今でも変わらない。 

「こころ」を読了して少し時間が経った今、こころに残るのは「こころ」のお嬢さん、つまり先生の奥さんになる女性のことなのだが、本作でもこころに残る魅力ある女性がいる。 それが藤尾である。 漱石の作では男性たちは饒舌であるけれど女性に関しては若い女性はしとやかで年配になると世間知が勝つ。 その中で本作の藤尾の性格はクレオパトラに喩えられている。 解説によると、後期の作の中心的問題となるのは我の問題である、男女間の愛情と理性と正義の問題である、と言う。 具体的に本作で言えば、我の人として藤尾があると説明される。彼女は明治四十一年にはなかった新しい型の女であり、後の新しい女を予言する女性とされているが、あれほどまでに才を頼み、虚栄心が強く、我を押し通して一切を踏みにじって顧みない女は、今日もなお珍しいかもしれないという。 あれほどまでに才を頼み、虚栄心が強く、我を押し通して一切を踏みにじって顧みなかったからその罰として漱石に殺されたのだ。 才があって虚栄心がほどほどで我を押しても一切を踏みにじっても少しはそれを顧みるならば、恩賜の時計を持っていても財産をもたない小野さんをみごと掌中に収めて一生自分の掌で転がすことができたのだ。 そうなると金色夜叉の男女逆バージョンが出来上がり小野君は小夜子さんや糸子さんから下駄で多少は蹴られることになるのかもしれないけれど将来は安定する。 これが世間で起こる蓋然性が甚だ高い結末だがそれでは余りにも普通でドラマにならないから「我」をカリカチュアライズして藤尾さんに被せその挙句が彼女を殺してしまうのだから漱石のモラルの強さは大変なものだ。 こうでなければならない、という確信をもって説くのが藤尾さんの葬式が済んで甲野さんが書き込んだ日記の件である。 これが明治の世間の期待を一身に感じて肩に力が入った漱石の講談なのだと思う。 強いて言うなら講談の機能である俗情を扇動しそれと結託しているのだ。

小野君の優柔不断、気配りに軟弱さは一般のものでその描写は説得力はあるし、甲野さん、宗近君の会話にはユーモアがあり、もう半世紀ほど前に読んだ「猫」をぼんやりと思い出すほどだったのだが最後の場面での宗近君の堂々たるカッコ良さには少々鼻白む思いがした。 これも外交官試験に通った勢いが背中を押しているからなのだろうか。 これでは藤尾さんが浮かばれない。 理性は脇においておいて正義と「我」について考えてみよう。 ここでの正義は法律がからむ社会正義ではなく「義理」という倫理観であり藤尾さんにはなんらそれに反するところがない。 それは主に小野さんの問題でありそこが本作の肝心な点であるから外交試験に通ってロンドンに行く宗近君が必死になって小野君を説き伏せ、みごと「回心」するので小野君はなんら罰せられないのにここでは「我」が少しばかり強かっただけの藤尾さんはあっけなくひっくり返って漱石に殺されてしまうことになる。 つまり「我」もそこそこにしておけ、というのがここでの教訓となる。 

2017年に生きる我々が、110年前に書かれた明治の文学から、とくにロンドンで英国式の考え方と格闘して「自我」の問題をこのような形で大衆に自我を矯め、義理を貴ぶよう漱石が講談調で説くのに接するとき、明治の社会と平成がほぼ終わる現在の「モラル」の在り方を比べそうになる。 明治も今も金色夜叉ではないけれど、とみやまのダイナマイト、いやダイヤモンドに目が眩み世間はそれで動いている風がある。 世間には今風の藤尾さんがその高学歴と美貌で欲しいものを上手に手に入れるのが普通になっているのではないか。 ただ「我」をどのように通すかということになると明治から110年にもなると経験知の蓄積からそこには柔軟性が加わっているのかもしれない。 それとも漱石の講談が功を奏して教訓が行きわたり我を通す女性はいなくなったのだろうか。 出る杭は打たれる、という教訓だけがここに残るのでは余りにもこの小説は通俗すぎる。 自分が読み切れていないまだ深遠な問題が隠されているに違いないのだが自分の耄碌した頭には考えが及ばない。 ここでぼんやりと頭に湧くのは、漱石は男の「自我」は考えたけれど女の「自我」は別物と考えていた風があるのではないか。 それが明治の男として何の瑕疵もない考え方でありついこの間まで普通であり、今でもまだそれが「新しい女性像」として再生産されつつあるのかもしれない。 もうだいぶ前に「妊娠小説」でこの問題を男性の前に突きつけた斎藤美奈子に漱石のこの問題について述べたものがあったかどうか、あれば読んで見たいものだ。

今樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいる。 1896年、一葉24歳没年の作であり本作に先駆ける事11年でありどちらも文語体をとっている。 本作は漱石にとって文語体から口語体に変わる変換期にあたるとあるが「こころ」を読んでから本作に至り、更に「たけくらべ」の文語と比べると本作の「無骨」な「美辞麗句」に肩ひじ張った漱石がみえ、そこから逆に一葉の文体の美しさが浮かび上がるようである。 一葉にしても様々な描写に講談調はみられるのだがそれは淡々として流れるように美しいもので本作でのごつごつした手触りはない。 それは単に男と女の違いだけだといいきれるのだろうか。 一葉も職業作家として独立したところで残念なことにこの年に亡くなってしまう。 一葉も口語体のことを考えていた風があるとどこかで読んだことがある。 もし一葉が職業作家として生き延びていて35歳で本作に接していたとしたらどのように評したのだろうか興味のあるところだ。