暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

心地よい秋日が続いている

2015年10月31日 22時50分17秒 | 日常

 

あれよあれよと思っている間に長月が終わりいよいよ霜月に入る。 故郷の大阪南部では霜月といってもその印象は月末や師走まで待たなければならないけれど、ここオランダでは既に車のガラスに付いた霜を掻き落とすことは始まっており、来週月曜日から六日ほどリュックを背負って歩くオランダ南部のリンブルグ州では中旬に空にちらちら白いものが既に認められたと言う長月でもあったのだ。 北部でまだ降っていないのになぜ南部のリンブルグで降るのだということでは大陸の寒気がオーストリアあたりから漂ってきたからだという者さえいる。 いずれにせよそれも自分が帰省していた10月中旬、大阪では毎日25度以上の日々、その時オランダでは最高気温10℃にも届かないというようなそんな時期であり、少々例外的な寒波第一弾がその辺りだけを訪れていたようだったのだ。

この何日か天気が安定していて穏やかな心地よい秋日が続いている。 そんな穏やかで麗らかな秋日の下、外に出て散歩や何かの活動をすればいいものを、何の予定も、取り立ててすることもない自分は相変わらず午後に起き出し町に出て買い物をして帰るだけの単調な日々を過ごし、そんなものだからカメラを向けるにしてもそれはただ陽も傾いた日光に陰りの出る頃でしかなく、日記に書くことも別段思い浮かばずだらだらとこんなものを書いている始末だ。 けれどこの時期になると陽の美しさ、愛おしさを一年で一番感じることになるにしてもヨーロッパの幽き光の覆う光景にカメラを向けて撮ってもデジタル化された画像だと言ってもその光は現実に肉眼で見るものには到底遠く及ばない。 輝く黄葉の金色は幾ら現代技術を駆使しても再現できないのが残念だ。 人間の眼が如何に素晴らしいかを知る瞬間だ。

ほぼ三週間ぶりに土曜の夜家族四人が揃って食卓に就いた。 そこではもうそろそろ師走初めのオランダのシンタクラースの祭りからクリスマス、年末年始の各自のスケジュールについて擦り合わせをする時期にもなっている。


残り物でラザーニャ

2015年10月30日 17時50分36秒 | 喰う

 

火曜日の夜夕食後すぐに出かけるので簡単にスパゲティで済ますことにし、この半年ほどはトマトではなくてモロッコ風にパプリカペーストを使っていたけれどこの日は久しぶりにトマトソースを煮た。 挽肉と野菜を炒めた後水煮したトマトにクローブ、ナツメグ、ローリエに加えて庭のローズマリー、タイム、セージなどの香草をちぎってきて放り込み安物の赤ワインも注いで2時間弱火にかけた。 それにレモンの皮をすりがねでおろして振りかけた。 細めのスパゲッティを6分茹でて出来上がりとしてソースの上にパルメザンチーズをおろし金でおろして振りかけた。  レモンの皮がここでは肝要なのだ。 しつこくなりがちなソースが爽やかでフレッシュになり口当たりがいい。

ソースがだいぶ余ったので木曜日にラザーニャを作ることにした。 ベシャメルソースを片手鍋で作り、フライパンで縦に薄く切った茄子を炒め、長方形の陶器のキャセロールにソース、ラザーニャ、ベシャメルソース、茄子とそれぞれ順番に三層ほどに敷き重ね200度のオーブンで30分焼きその上にオールド・チーズを振りかけ5分焼いて出来上がりだ。 簡単なサラダと安物のワインで喰った。

義兄はシシリア人で家に行くとオランダ人である義姉が姑から習ったシシリアのラザーニャが振る舞われることがあるけれどそれがこれだ。 茄子を入れるのがその特徴らしく、そうなると ラザーニャ・パスタの代わりにジャガイモを加えればギリシャのムサカである。 地域的に近いのだから地中海沿岸ではトルコの辺りまで茄子を使う料理が多くみられる。 ギリシャ風ラザーニャとでも言おうか。 それは普通の何かにパイナップルが添えられていればハワイ風と名付けられるのと同じ理屈だ。 オランダではもやしが入っていれば中国風と思われるのだがそれでは何が入っていれば日本風なのだろうか。


トリシュナ <未>(2011); 観た映画、Oct. ’15

2015年10月30日 04時10分54秒 | 見る

トリシュナ      (2011)

原題; Trishna

イギリス映画   114分

 
イギリスの文豪トマス・ハーディの古典小説『テス(ダーバヴィル家のテス)』を原作に、舞台設定をインドに移して制作された人間ドラマ。ヒロインに「スラムドッグ$ミリオネア」のフリーダ・ピントを迎え、愛によって運命に翻弄される女性を描く。監督は「グアンタナモ、僕達が見た真実」「マイティ・ハート」のマイケル・ウィンターボトム。

インドのラジャスタンにある寺で、19歳のトリシュナとイギリスのビジネスマンであるジェイは出会った。 ジェイは父のホテルで仕事をするためにやって来ていた。 ある時、トリシュナの父が自動車事故を起こし、トリシュナはジェイの計らいによりホテルで働くことになる。 トリシュナは仕事の合間に大学にまで通わせてもらい、経営学を学び始める。 次第に愛し合うようになる二人。 が、ジェイを取り巻く環境やトリシュナの夢や伝統的な生活など、いくつものギャップが彼らを悩ませ始め…。
 
以上が映画データベースの記述である。 本作はイギリスBBCテレビの深夜映画としてかかったものを観た。 これを見ることにした理由は9年前にマイケル・ウィンターボトムの作、「イン ディス ワールド(2002)」を観て好感を持ったからでそのときのことを次のように記している。 
 
http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/28590816.html
 
観る前の勘としては単なるロマンチックな話に終わるのではなく異世界との狭間、それぞれの世界を対照的に見せる話であって我々は単なる傍観者としてではなく何かの判断を迫られるような社会性を持ったものだろうと思ったのだったがその感じもあながち誤ったものではなかったように思う。 イギリスの中でアジア人といえば概ねインド・パキスタン系の人々を指すらしい。 だから本作での男女はインド系の男女であってもイギリス育ちの裕福な層に属する「ビジネスマン」と紹介される青年で父のホテルを継ぐことを望まれ、インドの贅沢なホテルににいて卒なくホテル管理の仕事をしていてもそれを退屈するただ人のいいおぼっちゃんであり、一方貧しくみえるけれどそれがインドの大半を占める層になるような子だくさんの家庭の娘との交流譚であってはその対称に自ずと旧式のシンデレラ物語の匂いが漂うことは免れない。 荷物を満載した父親の貨物トラックに乗っていて事故でけがをしたことで両者が出会うのだが、それまでに車というものがどのように使われているのかが紹介されていて、それにより有閑階級と貧しい階級の差が提示され、両者の背景が示されるところで映画は始まっている。 一方、娘の父は生活を支えるものとして必須の車を持っているのだからそれでは「貧困層」とは言えないだろうもののその住まいからすればどのような層に属するかは明らかである。 
 
人のいいおぼっちゃんである青年は見栄えで人を選ぶことが出来るほどの経済力はもっている。 もしこの娘が魅力のない娘であれば果たしてこの青年が彼女に手を差し伸べていたかどうかと思案すると、そうでなければこの話は成立していなかったのではないだろうか。 だから本作での基本構造は次のようなものになるといえるだろう。 
 
裕福な層の青年が「魅力のある」貧しい階級の娘に出会い、青年の善意から彼女に手を差し伸べそれがやがて恋になり、妊娠したことで身を引いた娘と青年のその後がどのように展開していくか、というところが要諦なのだ。 美醜の差は取敢えず置くとして貧富の差、伝統、文化、モラル、男女差がここに影響しているというのは圧倒的な事実である。 
 
青年は父親の莫大な資産を背景にイギリスで大学教育を受けまともなビジネスマンとして遜色のないライフスタイルを身に着けインドに来てからは自分のIDをイギリス人とインド人の両方に置いているのだろうことは明らかなのだが一方、子だくさんの家庭に育った娘は仕事のない田舎で「叔父」のつてを頼り工場で働くのだが父の収入が少なくなればたくさんいる弟、妹たちがすぐに学校に行けなくなるような環境であり、後ほど父が買って来たテレビがうちに届くとそれを観に近所から大挙して人が見に来るというところでもある。 アフリカやアジアで今でも見られるようにここでも娘と母親は牛糞をパンのようにこねて丸めそれを乾かして煮炊きの燃料にする場面も挿入される。 これが田舎に住む大多数の極貧でない人々の住む環境であるらしい。 
 
風呂や煮炊きを薪で済ますということを50年代の日本の田舎で育った自分は経験しているし家族が牛糞を手づかみで野菜の畦のあいだに肥料として間配り、帰宅してから大量の夏ミカンで汚れと匂いを取り手の荒れを防いでいたのを思い出すのでここでは驚きはないのだが自然の資源を家政に使うというのは貨幣経済の影響をすくなくする、ということでもある。 ガス、水道、電気などのエネルギーを使うとなるとそれには対価として金を支払う義務が発生し、薪や牛糞なら要らなかったものがそのエネルギーを貨幣で買うという負担が増えるのだ。 斯くして日本では60年代、70年代を通過して農家には耐久消費財が多く入り込み現金が必要になり生活は相対的に苦しくなるというような逆転した現象が現れる。 しかし日本では何としても子弟には教育が与えられ子供たちに関しては本作に見られるような女工哀史に繋がる貧しさは表層には現れなかった。 
 
自分が妊娠しているということが分かった時点で娘は青年が差配するホテルから黙って田舎に戻って来る。 当然堕胎が行われるのだがそこにはキリスト教的モラルには絡まれないとしても村人の眼がありそこにも居られず「叔父」のつてを頼って別の町に働きに出る。 彼女の収入が家庭のかなりの部分を支えているのだ。 そこに彼女を追って青年が尋ねてきて二人は二人だけで生活を始め蜜月を過ごすのだがあるときに娘が堕胎していたことを青年は知り「キリスト教的」モラルからなのからか自分のこどもを「殺した」彼女の、「勝手」で彼を「無視」した行動をなじりそれが彼らの関係を変えていくことになる。 この部分が本作で重要な役割を果たすことになる。 
 
尚、恋愛における女の妊娠がどのように明治以降の(男性)作家に影響したか日本の文学史を辿って評論した斎藤美奈子の「妊娠小説」には彼女の女性からの視点にそれまでの男性として欠落していたことの蒙を啓かれた思いがしたのだが、それは日本の状況下のことであってインドを舞台とする本作では些か趣が異なっている。 ヨーロッパのモラルと性に関して西洋的自由と一夫多妻制のインドを体現した本作のぼっちゃんには妊娠を恐れることはなく、むしろ西欧的モラルに立脚した愛おしみと自分の後継者としての「財産」であるとする。 一方、身分の違いを自覚しそんな子供を持つ娘の将来を現実的に見た家族との暗黙の合意が娘の堕胎に繋がるのであって、これには日本を含むアジア的思慮が当然として結果するのであるからここで我々はこの若き男女の思惑が悲劇的に交差するという場面に遭遇し、その後の娘を理解できない青年の爛れた生活が本作の終末に向かって行くということになる。 
 
もう何十年も前に女の国民性についてだれかが言っているのを聞いたことがある。 但しここでは男を挟んだ三角関係において女がどのような態度を採るかということについてである。 日本では女は一人自殺する。 韓国では女は男と心中する。 中国では女は男とその相手の女を殺す、と。 
 
本作では三角関係はないのだが本作に見るインドの女はどのパターンに属すのか、それとも「インドの」を外した個人としての女の行動を採るのか、それを鑑賞後に想ってみるのもあながち無駄なことではないのではなかろうか。

茶碗蒸し

2015年10月29日 02時06分51秒 | 喰う

 

日本からオランダに戻るにあたって土産物ももうこの何年もあまり買うこともなくなっていた。  それは、子供たちも成人し、オランダの親戚・知り合いにしても自分の日本往復はもう普通のことにとなっているので取り立てて珍しくもなくなり土産物も特別な場合を除いては買う必要もなくなってきている。 しかしオランダから日本に帰省する折にはオランダのキャンディー、コーヒーの粉、にチューリップの球根をどっさりスーツケースに詰め込んで毎度のこととして土産にしている。 それらはスーパーから買ったまま、包装にはお構いなしにスーツケースの隙間に詰め込んできたものだ。 それらを貰う方も毎回同じものなのだが当方、他に思い浮かぶものがないので苦情が出るまでこれを続けようと不遜にも思う。 なんといっても特別なものは何もないオランダのことこれらが無難だと言うのをこの30年で経験しているからでもある。

家人からこれを買って来いというものがあった。 大葉、ユリ根、ぎんなんである。 茶碗蒸しの材料だ。 帰る前日友人と会って食事した後スーパーに連れて行ってもらいそこで買った。 大葉は一週間ももたないのでたくさん買ってもしかたがないので2つだけにした。 炊き立ての白米に刻んだものを振りかけてその香りで喰う。 

前回帰省した折に女友達の一人から胡麻を貰った。 自分で農薬を使わない畑を作っていてそこでの作物の一つだそうで煎ってあった。 それがめっぽう旨くそれをいうとまた呉れた。 今回はこの胡麻をつくるのにどれだけ手間がかかるのかその苦労話と共に赤い唐辛子も一束呉れたので大根を塩で揉んで酢と砂糖を合わせたものの中に入れて一夜漬けにして夕食に添えた。 胡麻の方は様々な使い方ができるけれどほうれん草のひたしに振りかけて醤油をかけて喰うのが旨い。

茶碗蒸しの実は鶏肉、エビ、天然鮭、ユリ根、ぎんなん、しいたけ、ホウレンソウだった。


´15 秋の日本帰省(3)  地車(だんじり)の宮参り

2015年10月28日 03時50分18秒 | 日常

 

2015年 10月 11日

前日老母を連れて母の生家・自分の育った家の仏壇に参りそこから村のダンジリを40年ぶりに見物した。 今回帰省を決めたのも長年無沙汰をしていたこの村祭りをみることもその理由の一つになっていた。 母を村人たちに逢わせ自分も村の友人に会ったのだけれど、翌日叔父の家に寄ってから大阪市内に出るのに駅に向かう途中、二日目のダンジリの宮参りに行き会いそれに暫くついて歩いた。 

何百人もの人が神社の境内に集い村の子供たちや若衆が曳く地車(だんじり)に誰もが興奮状態だった。 50年前に自分がまだ村の青年団の「日の出」とよばれた青年団員候補だったころにはハッピや鉢巻のユニフォームはバラバラでそれさえ着ているものがすくなく、それらは中年の世話人たちや屋根で采配を振る大工方ぐらいなもので今のどこでも服装が統一され整った印象からするものからはほど遠いものだった。 試験曳きのため近隣の村まで出かけたものの引き手が少なかったものだから何トンものダンジリが日暮れて遠い道のりから重すぎすようになりいよいよ引っ張ってくることも出来ず疲れ果て途中で放ったまま村まで帰って来るというようなこともあった。 村祭りは伝統ではあったけれど村の若者、子供たちの数が圧倒的に少なかったということだ。 村は村だけで存立し、周りにもよそから住み着いてくる新興住宅地もなく、関西空港関連のインフラによる幹線道路、高層ホテル、ショッピングモールなどはそれから20年も待たなければならなかった。 そんな時代を通り越して周りが住宅地で埋まり専業農家も自分の母屋ともう一軒ぐらいしかない現在では村の4つも5つもあった溜池もあっても使う田が殆どなくなってしまったのだから金魚や鯉の業者に貸し付けるぐらいにしか用途はなく、百姓の村は姿を変えて中途半端なものになってしまっているから青年団の重要な役目であった盆踊りと秋祭りの中核でも他所からくる青年たちと熟年以上の村人に委ねられているのが現状だ。 

4年ほど前にほぼ40年ぶりに日本語を解しない息子と娘を連れて村の盆踊りに来たのだがそのとき村の青年団の団長はこの村に住んでいなくてほかの町から来ているというようなことも聞いた。 だからこのダンジリ祭りにしても子供たち、青年男女の年齢や数はそろっているけれど彼らは幼稚園、小学校、中学校とともにこの村から通ってきたというようなことは今ではノスタルジックな幻想でしかなくなっている。 逆に今は皆バラバラだから盆踊りやこのようなダンジリ祭りにそろいの法被と豆絞りで疑似共同体感覚をひと時あじわえるとしてこの子供たち、青年たちは村の祭礼をカタカナのフェスティバルとして享受しているのだろうと思う。 

境内には隣村のダンジリが宮参りのために入ってきて3度ぐるぐると廻り沿道で待機しているわが村のダンジリが次に入るのために脇に下がってそれを見守ることになっている。 この宮には近郷の二つの村からダンジリが宮参りに来て元来は3台集まるのが普通だったけれど一つが来ていない。 廃止になったのだろうか。 市の祭りになると近郷近在のダンジリが20台ほど集まり、またここから1.5kmほど離れた村境には8台ほどがすれ違うようなこともする。 けれど宮参りに二台というのは寂しい限りだ。 人とダンジリで一杯になった神社の広場を見ていて複雑な気持ちになった。 自宅から小学校まで1kmほどあり、この神社の前を通って毎日小学校に通った。 そのころにはこの辺りは松の並木で覆われ薄暗く境内も同様だった。 今はコンクリート造りの無粋な社務所関連の建物が建って空がバカのように開けっぴろげで神社の威厳は微塵もない。 子どもの頃、学校の帰り寄り道をし境内で木に登りかくれんぼうをし、三角ベースのソフトボールをしたり裏の静かな小さな池の蛙やゲンゴロウ、トンボを追いかけたりした。 そこはいつも薄暗い木立に囲まれ静寂は神社から流れて来るものだと思っていた。 

この何年も帰省は年末年始の季節で大晦日の深夜、1月の戎祭りには夜にここにくることがある。 その時には沿道や境内に点される提灯、境内の中心で焚かれる大きな焚火が多少とも建物の壁をほの白く見せるけれど本来の闇は保証され昔の境内が偲ばれるのだが今、ダンジリと法被に豆絞りの人々で埋まっていてもどこか白々しいように感じるのはそんな昔がダブって見える年寄りの愚痴なのだろう。 それならば建物の屋根に上った人々の隣に立てば後ろに見える無粋なホテルのビルも開けっぴろげの空間も見えず昔からの神社の本殿とその後ろの木立が見えるではないかと言うのも聞こえそうだが問題はそれで解決できるだけのものでもないのだ。 

先月岸和田のダンジリでは人が死に、昨日二つほど先の村でも壮年の男がダンジリに巻き込まれて死んだと聞いた。 子どもの頃、自分も刈ってもらっていた村の散髪屋の男がダンジリと建物の間に利き手の右腕を挟まれ使い物にならなくなり幾何かの補償金をもらいどこかの警備員になったこともあるのだからこの祭りはいいところばかりでもないのだ。 


今年最後の薔薇

2015年10月25日 23時24分46秒 | 日常

 

今年は梨の木からは何も採れなかったし庭のドングリの木からはバラバラと沢山ドングリが落ちて辺りに散らばりそれを何回か掃いて捨てたのだけれどそれでもまだ次々に落ちてくるこの頃、道楽で肉や魚を燻製にしている甥からそれは燻製を焚くのにいいので取っておいてくれと頼まれ、こんなものでも役に立つのかと思い、そういえばこういうどんぐりを豚に喰わせていることも思い起こし庭を眺めているとこの家に引越してくる前からもう60年近く植わっている何本かの薔薇の古木から今年最後の大輪が咲いていたのに気付きその根元に沢山バラバラと落ちているどんぐりを踏んでその薔薇を切り取った。 

大体初夏から咲き始め5つある株にいくつも開いては枯れ、枯れたものをその下10cmほどで切っておけば秋からまた数は少ないものの2回目が咲きそのシリーズも晩秋が近づくこの時期で終わりとなるのだがこれがその一輪だ。 これからあとは正月頃に枯れ枝を短く剪定しておけばそれで来年の初夏まで何もすることはない。 自分のような怠け者にも楽な植物で日本では今まで薔薇についてはいろいろ聞いてきた虫や菌の害など何もないから薔薇はやはりこのあたりの寒冷で湿度の低い土地のものなのだろうかとも思案する。

敢えて手入れをしないというのにも理由がある。 この薔薇の中途半端なピンクがあまり気に入ってはおらず枯れてしまえば抜いて新しく赤か白、もしくは黄色にしようとおもていたのだが幾ら放っておいてもこの24年間毎年律儀に咲いているからわざわざ引き抜くこともせず今に至っていると言うわけだ。


2週間というのは幾分か地球が動いたことを確かめさせるものなのだなあ

2015年10月25日 17時50分16秒 | 日常

 

オランダを離れる前にいつものように濠端を通って買い物をし、その時に感じたのは今年は秋が遅いのじゃないか、と思ったことだった。 その理由は日差しも気温も下がってきているのに木々の色がまだそれに追いつかないように蒼かったことだ。 

日本の村祭りに合わせて戻った。 もう45年ほど経験していなかった祭りである。 あのころからは随分変わったことに驚きもし、そこで自分が育ったことなどを想いながら車椅子に乗った老母を押して小さな村のメインストリートを歩いた。 自分の習字の先生で柔らかい字を書く、割烹へも調整して卸す魚屋はもうとっくに店を閉めていた。 子どもの頃手先が器用だったからか男勝りの八百屋の女将さんの趣味であるプラモデルで外国製の帆船造りを手伝ったことが思い出される店も閉めていた。 同然のことだ、あれから後を継いでこの村で周りに出来たショッピングセンターやモールにどのように対抗できるというのかということを知っている子供たちは家業を継がず他の「堅気」になっていたのはそれは「何処も同じ秋の夕暮」であってそれは世界のあちこちで今まで起こってきたことの繰り返しであるのだが、それが自分たちの身の回りに起こっているのには寂しい思いがする。 けれどそれでもそこを百人以上の日頃はそろわない大人や子供たちが曳きまわすダンジリが賑やかに通るとそんなことも帳消しにせよとどこかで言われているような気がする。

寺の門の前に来ると母を認めた村の老人たちがいて互いに変わったことを笑いながら10分後には同じことを尋ねる母にも厭わず答える村人にも老人同士の交歓が感じられ村の同級生がダンジリの責任者だとしてそこにいるのを知らされたけれど幼かった頃の顔をまるで他人の顔から思い出すのには苦労した。 二週間の滞在中はほぼ毎日地元の駅に近い旅館から老母の住む介護施設に通ったのだが暑いのには驚いた。 暖かいということは分かっていたけれど暑いと感じるのは意外だった。 4年前に引き払うためのごみ屋敷で7月8月の2か月を過ごし30年ぶりの夏を経験しているから今回はそれから推して秋の感触を勘案しそれに見合う着替えを持ってきていたのだが予定していたものが間に合わず急遽下着やシャツを買って凌ぐほどだったのだから25度を超す毎日には戸惑った。 これではオランダの夏だ。  まあそれでも寒くないには越したことはないけれどこれには戸惑った。 それも無いものねだりなのかとも思いそれなりに滞在を楽しみ、10人を超す友人たちにもそれぞれ会い、電話でも話しているとこれは10年前では考えられないことだとも思う。 今皆定年退職の時期を超えた者たちなのだ。 余裕は何時まで経ってもできないけれど多少の暇はできているからこういう風に集まれるのだろうと思う。 

左膝がまだ怪しいからできるだけ長く歩かないようにしようと思っても歩いてしまう。 大抵は勝手知ったるところであるのでそういうところがどんな風に変わってきているかというのを確かめるためでもあり体に汗を感じて歩くのが心地いいからそうなるのだろう。 故郷は遠くにあって想うもの、を現前しているのだから記憶に留めておこうという意識がそうさせるのだろう。 異国にある自分の家が普通になり、生まれ育ったところが昔の面影がうすくなるのを見る旅だった。

オランダの我が家に戻り相変わらずの買い物袋を提げて自転車を漕いで濠端を行くと周りは薄曇りの下で落ち葉の黄色に染まっていた。 自分がここにいない間には最高気温が10℃、夜間には氷点に近い日々だったそうだ。 そのころ自分は安宿の蚊取り線香の匂いの沁みついた部屋で窓を開け放して裸で寝ていた。

 


´15 秋の日本帰省(2) 飛行機での行きかえり (下)

2015年10月24日 14時03分39秒 | 日常

 

(上から続く)

朝の7時に関西空港駅に着きそこで借りていた携帯を返し空港カウンターに来てみれば自分の乗る便名も目的地もない。 またやったかと思った。 二年ほど前に娘が朝早く帰って来るので車でスキポールまで迎えに行ったことがある。 出発地・便名を探してもその時間帯にはない。 係りに訊いてみるとその便は明日のだというので手帳を見たら一日早かった。 だれにもそのことを言わにずすごすごと帰宅し翌日またそこに行くと南米の研修旅行から戻った娘に、迷わずにすぐ来られたね、と言われたので、昨日下見に来ているから迷うはずはないだろうと言い、食卓で皆にそのことでバカにされた経験があるからまたそれかと手帳を見ると日にちは間違ってはいなかった。 出発の72時間前からネットのサイトに予約コードとEチケットの番号を入れるとチェックインができるのにそれをやってもはじかれた。 オランダのKLMで注文したからオランダのグーグルでKLMサイトに行っても日本のKLMサイトになる。 コードと番号を入れても受け入れられなくてはじかれていたからそれをインフォメーションカウンターで言うと本日の便ではEチケットに書かれたものは無いといい、それではKLM・エアーフランスのカウンターが開く時間まであと40分ほどお待ち下さいと言われたのでそばのベンチに座って本を読んでいたのだが20分ほどすると人気のないカウンターに女性たちが集まり始めたので自分のEチケットを見せるとカウンターの若い女の子が今日から新しいスケジュールになったのでKLMのこの便は廃止になりました。 ついてはエアーフランスのパリ経由に振り替えさせていただきます。 席は希望通り通路側にお取りします。 スーツケースを秤の上にお乗せくださいというのでそうすると31kgになっていた。 土産物や本があって宿舎で上に乗って無理に押し込みちょっと重いなと思ってはいた。 リミットは23kgだからだいぶ超過している。 料金はかなりになるだろうけれど振替えの便はパリ経由で時間も2時間以上余分にかかり直行便よりも安いのだから重量超過分と相殺してもいいと気楽にそういっていたらこれだけの超過では自分の判断では決めかねるのでここのマネージャーを呼んで相談しますとスイッチを押して呼んでいた。 

40半ばの日本女性が来るまで時間があったのでアクセントが違うので笑顔の若いカウンターの女性に中国人?と訊くとネパール人で7年日本に住んでいて自分が生まれたこの市の一つ山手の村に出来た観光大学を卒業してここに就職して半年ほどだということだ。 うちの村にネパール人がやっているカレー専門店があるというと知っていると言った。 大阪弁の方が共通語より話しやすいと言っている間にフロアマネージャーが来て規定になっているのでこれだけの超過では何ともならないといい頭だけをお座成りに下げ申し訳ありませんと受け流しの風が見えたのでカチンと来た。 変更の通知はメールでして来ない、チェックインのサイトは受け付けない、直行便を途中で乗り継ぎさせ本来なら2万円ほど安いものをそれに口をつぐんで払い戻しもしない、超過料金を規定道理払えとはどういうことだ、ここ最近のサービスの悪さを言い、超過料金を払うから直行便に振り替えてくれと少々声を荒げたらマネージャーがちょっとお時間をと言って下がっていった。 ネパール人の受付がびっくりしてしたけれど笑ってこれで今日はこれでこういうのが10人ほどになると言った。   しばらくしてその女マネージャーが戻ってきて今回はこういうことですので超過料金は結構ですのでこの件はご内密にというのでここにそれを書いている。 朝食を摂っていないので下に行って蕎麦で朝酒を飲み時間を見ると土産物を買う時間がなかったので通関のところで指紋で通関検査を待たずにできるところがあるので3月に出来なかったセンサーの感度の悪いものが新しくなっているかとそこに行ったら来年までだめだという。 3月には10月には出来ていると言ったのにそうならなっていなかったから仕方なく列の後ろに付いて通関した。

免税品のところで息子に買ってくると約束していた、自分が学生のとき高級ウイスキーだったサントリーの「達磨」オールドを買おうとしたらこのチケットはパリで乗り換えですから液体は100mlまででパリまでに飲んでしまうかパリで廃棄処分になってしまいますと言われミニボトルを探してもなく仕方なくみやげはその辺のオーデコロンになってしまった。 家人や娘の土産になるようなものは高すぎて手が出ず日本の饅頭を中国人、韓国人の間に混ざって買い急いでシャトル電車に乗った。 ここでもアジア人で混雑し日本もアジアだと思った。 出発まで待合所で隣になった二人のポーランド人のオバサンたちと話して時間を潰し時間が来て列に入ると前に20代中頃のフランスの若者が二人いたのでニューカレドニアから戻ったのかと尋ねると2週間の日本旅行で楽しかったというので話を続けようとするともう一人がいい顔をしなかった。 英語が出来ず嫌だと思ったのか他に何か理由があるのか分からなかったけれどそこで止めて機内に入ると二人は自分の前の席だった。 ゲイのようにも見え嫉妬からなどかと思ったけれどこんな爺さんに嫉妬するならよっぽどのことだと一人笑った。 映画を一つ観てからトイレに立ち紅茶で窓の外を眺めながら小型の紅葉饅頭を摘まんでいるとビジネスマンに見えそうもない同年配の男がいたのでこのバイカル湖上空あたりで墜落するとどうなるかと話を振ってみた。 30年以上前にはアラスカの上を飛んであんな氷ばかりの山の上に落ちるとゾッとするというとその通り、そのころ大韓航空がこの辺りでロシアに撃ち落とされた後に日本を往復したから冷や冷やしたのだけれどここでは何か月も前にウクライナでミサイルに落とされたようなことはないから幾分かは安心だけれど何かの不都合で落ちればシベリアの何もないところでどうするのかな、と笑いあった。 そのころから大阪大学と水利工学研究で行き来しているフランス人の大学の研究者だと言った。 その男はこの饅頭は旨いと言って二、三個を片手で摘まみ席に戻っていった。

席に戻ると乗客は喰い物と飲み物の影響か殆どが暗くなった機内で寝ていた。 自分の隣の20代中頃の日本人男女の男の方が妙な空気の入った晒し首になったような首輪をしている姿を自分の席まで倒れ掛けているので注意しもとに戻し新聞を読んだりメモをし居眠りをしているとそのうちまた飯だと起こされトマトソースに肉でまぶしたパスタが出たので赤ワインの小瓶をもらった。 食事のあと大分経って通路を後ろまで歩いた。 最後尾のキッチンで日本人客室乗務員がいたので今日は忙しいでしょう、と話を振ると、380人もいるからてんてこ舞いです、フランス人は働くのが嫌いだから仕事がこちらにまわってきて、とこぼす一幕もあった。 今月の初めにパリでエアーフランスの労働組合が賃上げを要求してやったデモの前に説明に出てきた雇用責任者の背広を破いて裸にしその男が柵を乗り越えて逃げている姿がニュースに出たけどオランダから来るときにまたストライキで運休するのかと冷や冷やしながら空港に来た、と言うと、あれはヨーロッパでは大きなニュースだったけれど日本ではまったく報道されなかったみたいですよ、私は20年乗務員をやっているけれどそんなことは多いです、といってランプのついた客のところまで要件を訊きに行った。 そして15分ほど遅れてシャルルドゴール空港に到着しそこでスキポールへの乗り継ぎはFゲートだと言われた。 パスポートコントロールの通関を済ませまた荷物の検査だった。 ポケットのものを全部トレーに入れ、ベルトも外し言われるままにセンサーの方に向かうと女の警備員がスランス語で喧しく何か言うので分かる言葉で話してくれ、何を怒鳴っているのか分からないというと靴、靴と英語で言った。 今回はオランダでもこの空港のKゲートでも脱げとは言われなかったと言っても聞かない。 英語なら語気が弱まるというのはどういうことだ。 こんな横柄な関吏は経験したことがない。 そこを通過してベルトを通し直しポケットにものを入れている時にもう一人の大人しい女性関吏がデイパックの中のみやげもののオーデコロンと飲み残したワインの小瓶とミネラルウオーターのペットボトルを見つけワインと水は廃棄処分にしますと言ってゴミ箱に放り込んだ。 そこを出るとスーツを着た日本人が日本人らしい人に何処行きは何番ゲートと言いながらそれぞれの目的地を聴き自分にはFの33番ゲート、このまままっすぐいけばすぐそこですと言った。 空港に雇われている人でツアーガイドではなさそうだ。 大きなグループで来ているツアーでは特にシャルルドゴール空港では迷わないようにグループをできるだけ固まって行動させようとツアーガイドは声を挙げ額に汗して働いている。 一人でも迷えばまったく別の遠いところに行ってしまって簡単には見つからないからそれで乗り継ぎが出来なくなるのでガイドも必死である。

スキポールまでの機内では簡単なチーズサンドイッチがでたけれど不味くて残した。 旨ければまた赤ワインをもらうのだが不味いので同じく不味い紅茶で済ませた。 もともとの直行便だったら3時半ごろに着いているところが着いたら7時を周っていた。 どういうことか通関がなくそのまま荷物がぐるぐる回っているところに出て重いスーツケースをカートに乗せてスーツケースの検査の職員もいないゲートを通って待ち人の間を抜けて電車の駅に降りるまえに5000円札をユーロに替えたら35ユーロほどになった。 プラットホームで待っているとたくさんの荷物をもった中国人の中年夫婦が大声で何か誰彼に話しかけていたがだれもそれが分からず一人が上を指さして「インフォメーション・カウンター」と言うとそれは分かったのかエレベーターに乗って上に行った。 言葉が分からず一人で外国に来る度胸は流石中国人のものだと関心はするけれどあの騒がしさ、喧しさには皆思うところがあるようだ。 それは日本人とは違うところだとだれもが言うことでもある。

自分の駅のエレベーターを降り構内を重いスーツケースを引っ張ってタクシー乗り場の方に向かっているとタクシー運転手が来てスーツケースを運んでくれた。 うちまで駅から2kmちょっと、13ユーロだった。 帰宅すると8時を周っていた。

 

(参考)今年の3月中旬にゲートで待っていても飛行機が来ず日本行の便が急に取りやめになって一旦うちに戻って夜再出発したときの話

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/64548147.html

 


´15 秋の日本帰省(1) 飛行機での行きかえり (上)

2015年10月23日 15時37分31秒 | 日常

 

日本に約2週間帰省していた。 いつものようにこれからまたその時の事どものことを少しづつ記していこうと思うけれど昨日、日本から戻って今回の飛行機の旅での行きかえりであったことを記しておこうとも思ったのでそれでこのシリーズを始める。 それはこの35年何回も行きかえりしてそれまで何事もなかったものが前回にしても今回にしても予想しなかったことが幾つかあったからだ。 尚、これらはどうでもいいような些末なことでもあるし読んで為になるようなことも大してなく、またゴチャゴチャしたことでもあるので多くの読者にはあまり興味が湧くものではないと思う。 ただ、この日記は元々自分の忘備録として書いているのでそれでもこれを読み進める暇な方にはそんな面倒くさいものとしてお付き合いいただきたい。 

今回の帰省に関して飛行機の行きかえりに何かと戸惑わせられることが多かった。 一か月以上前に往復便の座席をネットでで選んで予約してあった。 安くするためには3か月ほど前に予約し、その際には目的地が同じで乗り継ぎ便があればそれを使うと時間はかかるけれど安くなるので自分は行きは乗り継ぎをして少しは安くするのだけれど帰りは日本滞在の疲れもあるのでいつも関西空港からは直行便にして帰っていた。 そのように一か月ほど前に予約すると今回は850ユーロほどだった。 前回のように3か月ほど前にしているとそれが650ユーロほどだったけれど行くのを決めたのは予約の前日だったからそれは甘受した。 今は円が弱いからユーロから円に換算すると11万円ほどとなるけれど自分の長年の感覚では8万5000円ぐらいだと思っている。 出発の二日ほど前にインターネットでチェックインをしそのEチケットをプリントアウトしてそれをもって当日スキポール空港で荷物をセルフサービスのベルトコンベヤーに放り込むと搭乗券が出てきたのでそれを持ってパリ行きの便に搭乗した。

パリまでの便は距離が短いからか席の予約はできない。 それでも飛行時間は1時間半ほどだからどうということはない。 パリのシャルルドゴール空港は広大で屡接続ゲートが変わり行くたびに端から端まで移動しなければならず乗り換えにはいつも戸惑わせられる。 搭乗券に印刷されたゲートの情報ではそれが確かではなくただKターミナルゲートとだけ書かれていただけで実際あとでわかったのはそれには1から3まであった。 長い長いあちこちで枝分かれ分散離合する通路をKの表示を辿っていくと幾つも免税品店があるところで突然Kの表示が消えた。 大分そこから行くと出発便の表示ボードがあったので時間と便名をみてもこころあたりのあるものは何もない。 アフリカや南米にいくものはあってもアジア方面の名前がない上に窓口もカウンターもないのでそのあたりの暇そうな店員に尋ねると他の知ったものに尋ね、今来た方向を50メートルほど戻ってそこにある通関のゲートを出て左だというので外から荷物検査のため上着や持ち物をトレーに入れてこちらに入って来た人たちがスキャナーから取り出した荷物を受け取っている隣の端に開いているゲートを出ようとすると官吏に止められた。 その男に理由を話しKゲートを探しているのだと言うとその男も知らない。 自分の搭乗券を渡すとだいぶ向うの余り表示のない機械に搭乗券を差し込むとスキャナーで探しだす機械があり、それによるとK3だという。 それには左側に折れて大分向うに行ったところにKターミナルだけに繋がるシャトル電車があるからそれでK3に行けばいいというのでそこにいくとガランとしたところに無人の電車が来た。 関西空港ではそれは乗ると1分ほどのシャトル電車だがここではその3倍はある。 降りて外に出ると空港内にも関わらずまた荷物・身体検査だ。 この3年ほどで同じところを通過したことはない。 いつもエアー・フランスかKLMなのに来るたびにゲートは違う。 今年だけで3回目なのに違う。 そしていつも乗り継ぎの歩く距離は長く、時には歩くだけでゲートに着くけれど時にはバスで飛行場の中を運ばれ今回のようにシャトル電車で移動することもある。 殆どはスキポールで通関・荷物・身体検査をしたのにまたここでされるけれどそれがなく「普通に」すんなり行ったこともあった。 一度などは空港の外に出され門のところで自動小銃を持った警護の兵隊に場所を尋ねて自分の来た経路が間違っていないことを確認し今タクシーを降りて空港に入る人の列に加わって通関した奇妙な経験もある。 

この膨大な空港は絶えず変化しているような感じがする。 大抵乗り継ぎには1時間以上もあるのでその間に簡単な食事もできるのだがスキポールからの便が20分ほど遅れたのとグルグル歩いたのでやっと搭乗ゲートに来てみると書かれた搭乗時間になっていた。 けれどここでも搭乗時間が20分ほど遅れていたので今まで急いだのが馬鹿らしく思えたのだが考えてみるとここでのシステムはまともではない。 自分は或る程度の各地の空港の経験があるので大体時間の配分は分かるから書かれたものを基にして表示に沿ってそれを辿るのだけれどここほど距離が長く表示がハッキリしていないところはない。 尋ねようとしても係り員でもちゃんとした情報を持っているものが少ない。 第一にゲートからゲート間の距離が長すぎる。 同じように広大な空港でもヨーロッパ最大といわれるドイツのフランクフルト空港はこれほどではない。 尚、我々が学生時代成田空港建設のために土地を買収するのに数百人の農民と折衝しなければならなく無理押しをして建設したのだがその当時に同じく建設した成田より広いこのシャルルドゴール空港の地主は数人だったということを聞いている。

機内に入り横に3人、5人、3人と続いたエコノミークラスの自分の通路側の席をと搭乗券に書かれたものを見るとパリから関西空港までの座席は自分の予約したものから変わっていた。 窓際は悪くはないが10時間以上ある飛行中には席を外れてトイレに行ったり体の節々が痛む頃になると通路を歩いたり飛行機の末尾で窓の外を眺めたり暇な搭乗員と四方山話をしたりするのにどうしても通路に出る。 人にいちいち断ってその人たちを立たせ外に出るのは気が引けるのでいつも通路側の席を取る。 今回もそれをしていた。 ところがここで自分の座席を探しているとどうも違う。 ははん、又だ、スキポールで機内に入ると自分の前に坐ったポーランド人の男の前にオランダ人の中年女性が来てここは私の席よ、と言うのだが男は自分の携帯を見せてここは自分の席だと言う。 乗務員が来てオバサンの紙の搭乗券にも同じ番号とアルファベットが確認されダブルブッキングだということが分かりどういうわけかポーランド人の男が後ろの方の席に移っていったことがあり、いままでにこのようなダブルブッキングを見ていたので、ああ、自分にもこれが回ってきたのか、それにしてもダブルブッキングだったら自分の予約したところにだれかが来るのだし、そもそもこれをダブルブッキングというのだろうか。 けれどここに他の人が来て自分の席だというものも来ないから通りがかった搭乗員に自分のEチケットの席と搭乗券の席の違いを言うと、急に乗客の数が増えたから急遽大型の飛行機に変更して移したからこうなったので希望の席とは違うかもしれないけれどご容赦をと涼しい顔で向うに行く。 何と事前に何の説明もなくこれだ。 普通であれば文句を言うのだけれど人に挟まれてはいても前のセクションと隔てる壁が前にありそこには乳児を入れる大きなバスケットを置いて若いお母さんを助けるための棚を設けられるスペースがあるので足を延ばして壁にもたれさせゆったりとできる。 これであれば前をだれかが通っても別段立ち上がることもなくちょっと足を下げればそれだけでことは足るから文句は言わないでそのままにしておいた。 自分の左はツアーガイドの日本人女性、右二人はドイツ人の若い女性二人、その右は日本人の中年女性、自分の後ろはドイツ人の若い女で横の2人と友達らしく日本人の中年女性に席を変わってくれないかと頼んでいたけれど断られていた。 それが正解だった。 この二人はマナーはいい方ではなく喧しくはないもののドイツ語のシャキシャキいう音が耳障りだったから3人並んでいればどうなるかとひやりとしたものだ。 持って行った良質のイヤープラグを使って映画を観、テレビのコメディーを見、新旧の音楽を聴きつつそれまでの機内で呉れる使い捨てのちゃんと音が聴けないものと比べると大したものなのだがそれでもエンジン音は聴こえるので映画の細かい所では聞き取りにくいところがあるけれど機内で配られるものではとても聴こえないから自分のものを使うまでは映画はもとより音楽は聴かなかった。 2度ほど飯を喰いスコッチを飲み幾分かまどろみ合計で3時間ほど睡眠を摂り地元の祭りが始まっている秋日和の空港に予定より1時間半ほど遅れて降り立った。

ここでは行きかえりの話なのでここからは2週間ほど経って帰るのに関西空港に戻ってきたときのことから話を再開する。

(下に続く)

 


ドングリはたくさん落ちるけれどまだ落葉はないようだ

2015年10月08日 15時59分07秒 | 日常

 

うちの前庭に何もないところからニョキニョキ伸びてこの24年でもう15mほどになった木が立っている。 オランダ語で Eik,英語で Oak,和名はナラ(楢)というのだが、家人や隣人は小さな庭には大きすぎるから伐ったほうがいいと言うけれど自分には愛着があってなかなかその気にはならない。 ただ風雨の時には枝が揺れて軒や窓を叩きかねなくなっているし祭日の旗を掲げるときには枝の中に紛れて見えないということもあるのでその枝は掃わなければいけないと思っているのだけれど、それに加えて木蓮の老木にせり出し覆い被せるようなことにもなっているのでその部分は何とかしなければならないと思う。 

この2,3年そのように思っていたのだけれどなかなか思い切りがつかなく、けれどここに来てその時期が来たと思う。 これから葉が枯れてカサカサと音を立てて茶色のものがそのあたりを覆うようになるのだけれど木を見るとまだ常緑樹のように青くまだその気配はない。 けれどドングリがあたりに散らばり歩道にも零れ落ちて自転車や歩行者の邪魔になるようになってきているので今日はそれを掃いて片付けた。 2週間ほど前にも家人がこれをしたのだがそれももう一杯になって堪らず今日したのもまだこれから何回か続く掃き掃除の中ほどなのだろうと思う。 まだ2回はやらなければならないだろう。 明日の朝から2週間家を留守にして短期帰省する。

明日の朝スキーポール空港を発ってパリ経由で関空に飛ぶ。 したがってこのブログも24日ごろまでお休みとなる。

それまで読者各位 ご健勝のほど。