暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

息子の友人の誕生日パーティーに出かけた

2017年10月15日 12時41分00秒 | 日常

 

 

金曜、土曜の夜はパーティーが多い。 それはまだ家族自体がまだ若く子供たちも小さく、兄妹親戚やその年寄りたちさえまだ元気な時代、友人、知人たちも壮年であるようなそんな時期には一か月で半分の週末が各種パーティーで埋まることもあった。 けれどそれも徐々に子供たちも成長していくにつれてそんなパーティーも株別れするようになり世代の分極化が進み、自分たち年配のものたちのパーティーは落ち着いてルーティーン化するのも当然の流れではある。 そしてどちらかというとパーティーを好まずできるだけ義理を欠くように心がけていた自分は今の時期となれば殆どパーティーなど義兄弟の義理の場合でしかなく、週末は特に何の予定もない日々が続く。 そんな中でも時々ほんの偶に出かけるパーティーもある。 それがこの土曜のパーティーだった。 息子の友人が30になるのでその大台に乗った友人が大きなパーティーを開くというのに我々夫婦も招かれていたのだ。 

この晩の主役は91年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争直後にユーゴスラビアから一家離散して避難してきた家族の一人息子である。 家族といっても母親一人、息子一人だった。 越してきた時は3つ、4つだったのだろう。 中高一貫校はうちから歩いて5分ぐらいのところにあって中学校の時から今でも続いている同級生仲間が6人集まった。 町の或る地区の室内プールの階上にあるパーティーセンターを借りて100人弱が集まるのだから毎年の誕生パーティーとは少々異なる。 大学も卒業して仕事にも就き、それぞれが仕事にも慣れ、これからというときに30歳になった記念に知人・親戚も集めての大きなものになった。 若者7割、壮高年3割というところだっただろうか。

夜9時をまわって息子の運転する車で家人と自分も会場に着くと見知った顔は主役とその母親、仲間の若者たちぐらいだったが向うから久しぶりと握手を求めてくる自分たちと同年配の夫婦がいた。 息子の仲間の両親たちだった。 このまえ会ったのはもう5,6年前の同じようなパーティーで我々が話していると彼らの息子たちも来るので、ああ、そうだったのかと顔を比べて分かるのだがそんな夫婦たちに道で会っても分からない。 誰も自分の手術のことは息子から聞いて承知していた。 それだけで10人が旧知の人となる。 彼らとは子供たちがまだ中学・高校のときから時々は顔を合わしていたのだがしょっちゅう会うという事はないので覚えていないし今日会ってもすぐ忘れる。 そこに息子の友人たちのガールフレンドたちが加わるので少しは華やぐようになりそれぞれの近況も少しづつ分かるようにもなるのだが、そのうちこのグループがマイクの前に並び、誰からもどこにいるのか分かるように青いカツラを被らされたこの日の主役に余興のクイズを始めた。 他愛のない主役のMの性格を揶揄するものでそこからMの愛すべき過去が浮かび上がる仕組みになっている。

彼らが中学の時に知り合ってそれが13の時で、それから17年間そのあいだに大学はそれぞれ別だというけれどいつも一緒だという事だ。 今では皆180cmを越して大体同じような背格好になっているけれど当時は皆まだ成長がバラバラでデコボコがあったようだ。 16になった時主役のMはもう一人180cmに届いていてこのグループでダンスクラブに行こうということになり18歳以下では入れないクラブの入口の警備にMが何か囁くと小さい少年たちでも大手を振って入れたのでそれ以来皆Mを尊敬しているのだが、一体あのときどんなことを警備に言ったのか今でも謎だ、あれは何だったんだ、と一人が尋ねるとMはそれを聞いた当人に聞けばいいといってがっしりとした大男を指さした。 それはMの叔父でそのときの警備・バウンサーだったのだ。 「今日は友達にいい格好を見せたいから頼む」、と言ったとその男は言った。 同級生仲間のMへのプレゼントは金曜のフライトでアイルランドのダブリンへ飛び、日曜の夕方帰って来るという旅行パッケージだった。 彼女との旅行はそのうちハネムーンか破局旅行でやればいい、今回は仲間6人で行くのだ、飛び切り安く、これぐらい値切れるものはないほどの安っぽい宿に皆が泊まるのだという、もし問題があればこれを企画して予約した旅行会社に勤めるMのオーストラリア人の彼女に文句を言え、という。 これを聞いて、何のことはない夏のバカンスと変わりがないじゃないか、もっとまともなプレゼントを呉れとMは嬉しそうに文句を言うとライブの音楽が始まった。

Mの家族は戦争で国を出て世界中に避難した。 母親と父親は別れ父と兄はカナダに移住した。 200万人がそんなぐあいに世界中に散らばったという。 こんな町でもこの日のパーティーの中年以上の殆どがボスニア人だった。 だからギター・デユオもボスニアの民族音楽を演奏して興が乗ると多くがその音楽と歌に合わせて踊った。 中東とスペインが混ざりジプシーの香りもするような音楽だった。 テーブルにはボスニアの料理が溢れワインを飲んではそれを摘まみ、若者はサラミや乾燥肉の切り身でビールを飲んだ。 自分の体が恢復していれば自分もその音楽に合わせ踊り、汗を流し、ビールで喉を潤しエスニック料理をたらふく喰っていた筈だ。 残念なことに飲んだのはガス抜きの水二杯と肉片を包んで焼いたパイ二個、サラダにチキン、ハーブが効いたミートボール1個で満腹してしまった。 誕生日のケーキは残念ながら見るだけに終わり腹がこなれて暫くしてから各自に挨拶をして会場を出た。 11時半だった。 このままいたらまだあと1時間半は続いていたに違いない。