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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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牧師・余白余録 

2018年01月31日 08時58分46秒 | メッセージ
デニス・キンロー著  「キリストの心で」P36,37
アブラハムとサライの物語に照らして見るとわかるように、罪の贖いに対する現代福音派の見解は、私たちの問題やそれに対する神の応答の全容を捕えるために、この世界に来られたわけではありません。もちろん主の御業の中には、私たちが神に従う者となるということも含まれています。しかし、服従は、神の子とされることの本質ではありません。また服従を持って、キリストの花嫁に例え得るような、私たちと天の父との関係を説明することもできません。
 愛は服従よりも偉大です。それと同じように、神からの離反は不服従よりも重大な問題なのです。
 アブラハムとイサクは、人間による律法規定に完全に服従していました。なぜなら彼らは神が約束されたことを奇跡をもって実現されるとは信じていなかったからです。跡取りを求めるあまり、神が保証しておられるのに、自分たちのやり方を画策したのです。
 神は私たちの人生に何を願っておられるのでしょうか?単純に神の律法に服従して生きることでしょうか?その程度の理解では、人間の罪深さも、キリストはもたらした贖いの恵みも十分に理解できません。
 改革派に属する友人の神学者たちの多くは、神は絶対主権者であり、この世界の事柄一方的に命じられると信じます。しかし私は絶対主義者なる神という考え方は、神についても人間についても、罪についても、極めて不十分な理解しか提供していないと考えています。「主権」という概念をもって神の本質を理解することは不適切ではないでしょうか。

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