ギリシャ語新約聖書 http://bit.ly/1Jr4TFl
原始キリスト教の時代、最初にキリスト教に改宗したのは多くはユダヤ人でした。
ユダヤ人は本国以外にもディアスポラのユダヤ人が地中海世界に散っていました。特にユダヤ戦争以後は多くのユダヤ人がパレスチナから追われたのでその数は増えました。彼らの中にはギリシャ語を母語としている人もいれば、セム語を母語としている人もいました。
なお、イエスの直弟子はセム系で、ガリラヤ湖周辺に住んでいたので、セム系の言葉が母語です。ディアスポラのユダヤ人も知識層はギリシャ語を母語としつつ、ヘブライ語やアラム語にも通じていました。
パウロもその一人です。しかしヘブライ語を解しない人も少なくないのでその人たちのために訳された旧約聖書のギリシャ語訳がアレキサンドリアで訳されたコイネギリシャ語の70人訳聖書です。
セム系の言葉を母語とする人達をヘブライオイというのに対して、ギリシャ語を母語とするユダヤ人をヘレニスタイといいます。
彼らはヘレニズム社会の中で生活していても、ある意味本国のユダヤ人以上に律法遵守していましたからパウロの宣教旅行の行く先々で妨害しました。
キリストをわが神、わが救い主と告白することにたえられなかったのです。
又、クリスチャンの間でも、ヘレニスタイとヘブライオイの間にも隙間風が吹いていました。
この辺の事情は使徒言行録やパウロ書簡にくわしい。
もちろん、ユダヤ人以外にもキリスト教はヘレニズム社会の異邦人にもどんどん広まっていきました。
彼らもヘレニズム社会のユダヤ人も律法から自由な立場でしたから本国にいるユダヤ人クリスチャンとの間に亀裂があったことは使徒言行録のエルサレム会議の記事を見ても明らかです。
原始キリスト教団の人たちは地中海世界で宣教するに当たって当時の共通語であるコイネーギリシャ語で宣教する必要がありました。
コイネギリシャ語は当時の人が一般に使っていた共通語なのでアッティカ方言(ホメロスが使っていたような)に比べて平易で、双数形が使われず、希求法の使用も少ないのです。
新約聖書がギリシャ語で書かれたのはこの言葉が共通語だったからです。イエスご自身や直弟子たちはパレスティナの地で生活していましたから、セム系の言葉を使っていました。このことは確実ですが、使っていた言葉がアラム語かヘブライ語かについては諸説あります。
通説はアラム語ということになっているのですが、最近、これに対してはユダヤ教の学者やキリスト教界の一部に異論も多くなっているようです。
ルカ4:16のイエスのトーラー朗読はヘブライ語であったはずだし、祈りの言葉もヘブライ語でした。死海文書の解明が進むにつれて、パレスティナの主流言語はヘブライ語だったらしいこと、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の原資料はヘブライ語だったらしいということがエルサレム学派の学者によってなされています。
いずれにしても、地中海世界での宣教はギリシャ語が母語でない人たちが中心だったのでそのギリシャ語には多くのセム語法が見られます。
不幸なことに、過去、反ユダヤ人感情の強かった頃、聖書のギリシャ語にセム語法が使われていることを否定し去ろうとする多くの学者がいて正しい研究を妨げていました。
聖書にみられるセム語法は多くていちいち例を挙げられないのですが、文章にkai.をつかった並列文が多いのです。
一例としてルカ15:11の放蕩息子の例えです。医者ルカはユダヤ人ではないという説がありますが、これを見ると、彼はセム系のシリア人だったという説を採りたくなりますね。たとえ、彼がパレスティナの地理に無頓着だとしても。この並列文はヘブライ語のヴェという接続詞を使うワオ継続法の流れを汲むからからです。新約聖書がギリシャ語で書かれていても母語がギリシャ語でない人たちで書かれていたので、そのギリシャ語がセム系言語の影響を受けていたことは確かです。
聖書にはアラム語やヘブライ語がそのままの形で出てきます。有名なのはヘブライ語のアーメン'です。然りという意味です。
ヨハネ福音書には「はっきり、私は言う」、というイエスの言葉が出てきます。原文はです。ここでは断定的な使われ方をしています。はつきり言っておく、と訳されています。
マタイ27:46十字架上でのイエスの叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この言葉は詩篇22:2章から取られました。
これはヘブライ語です。マルコではこれがアラム語で。となります。マグダラのマリアに復活のイエスが顕現する場面のマリアの言葉ラボニも私の先生というヘブライ語です。
又、マルコ5:41の会堂司の娘をイエスが癒す記事で、「タリタクミ」というアラム語が出てきます。娘よ、起きなさい。と言う意味です。
7:34「エッファッタ」もそうです。新約ギリシャ語にアラム語やヘブライ語をそのままに残したのはイエスから伝えられた言葉を少しでも正確に伝えたいというキリスト教改宗者の思いがあるのかもしれません。
新約聖書のギリシャ語の文体は著者様々でもっともすぐれているのはヘブライ人の手紙で、ルカも文学的表現にすぐれ、華麗なギリシャ語を用いています。パウロかなり程度の高いコイネで、書簡文として優れ、彼の教養の高さを伺わせます。
マルコになるとかなり荒削り、粗野な感じです。
一番、ギリシャ語としてひどい文体はヨハネ黙示録、文法違反が多くてお粗末です。
断っておきますが、ギリシャ語の文体についていうのであって、内容の価値にふれるものではありません。
今、新共同訳聖書がわが国で宗派を超えてもっとも普及していますが、底本はドイツで出版されているNovum Testamentum Graeceで、現在、もっともすぐれた底本ということになっています。
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