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花山法皇誤射事件と藤原伊周失脚

2010年06月19日 | 平安時代

 996年1月16日、伊周・隆家の従者が花山法皇を射るという事件が起きた。 このころ花山上皇は為光の四の君の許に通っていた。少し前には藤原伊尹の娘で九の御方という姫君の許に通っていたが、この姫君に仕える女に手をつけ、そのまた娘をも身篭らせてしまった。九の御方に気が咎めた花山上皇は異母弟の弾正ノ宮・為尊親王をあてがっている。為尊といえば和泉式部を寵愛した色男で有名である。事件で殺害された者は花山の従者であったが花山上皇はこれを隠し為光邸へのお忍びの遊蕩をも隠そうとした。 しかしこういう事が広まるのは実に早い。この頃伊周は為光の三の君に通っていたが花山のお忍びを同じく三の君へのお忍びを勘違いしたようで、威嚇の為に伊周の弟・隆家が矢を放ち従者を殺害したのである。 かくして4月24日伊周・隆家兄弟は法皇を射た罪で23歳の伊周は大宰権帥に、18歳の中納言隆家は出雲権守に処せられることとなった。 中宮・定子は伊周らの不祥事件を憚って内裏を退出し、一週間後の5月1日に落飾している。

 羽柴秀吉が整備を行った京都・寺町通には誠心院があり、この境内には和泉式部の墓と伝える石碑がある。 藤原道長の娘・彰子に仕えていたのが和泉式部で、晩年に一庵を建ててもらったとし、それが誠心院の起源だという。 なお、誠心院の本堂には道長、式部の木像が安置されている。 

 この年に倫子は二人目の男子・教通を出産している。将来を有望視された伊周、高階一族の政界追放、伊周の母・貴子の死に対して道長の運の強さが現れているとしか言いようがない。 7月に、道長は正二位・左大臣に昇進している。 また同日、大納言公季の娘・義子(後に弘徽殿の女御といわれた)が入内した。同じ頃、顕光と盛子内親王の娘である元子も入内している。またしばらく後の約1年後であるが道兼の娘・尊子も入内している。 尊子の母は藤原繁子といって一条帝の乳母であったが一条側近の女官の中では最も有力な一人である。彼女は道長の兄・道兼と密かに通じ尊子をもうけていたのである。中宮・定子が内裏を退出したあと里邸の東三条邸の東、二条北宮にいたため、さっそく母・繁子が働きかけてきたのである。 花山法皇狙撃事件以降一条帝はより一層定子を寵愛し続けたと見えて、この年の暮れ12月16日に第一皇女・脩子を出産したのである。後に入内した義子、尊子、元子は一条帝に寵愛されることはなかったようである。入内に際しては道長にとっては大きな賭けである。もしも彼女達に男子が生まれれば、その男子が次期東宮になる可能性は大である。 ところが一条帝は定子以外の女御を愛することはなかった。また何より一条帝が寵愛した定子に女子が産まれたのであるから、これも道長の強運を象徴する事柄のひとつである。 定子の出産に先立って実は道長の妻明子が三人目の男子・能信を生んでいる。詮子にもひやかされたように道長の妻・倫子、明子がお互いに順番に子供を産んでいるからなかなか道長も器用な御方である。

 さて、定子の懐妊騒ぎに翻弄されていた最中に東宮の后で麗景殿尚侍と呼ばれていた綏子(道長とは異母妹)が身篭ったという。 先頃定子が産んだのが女子であったから綏子の子つまり東宮の子が男子であれば皇位につく権利を得ることになる。ところが身篭った子の父は東宮ではなく、寂しさから情事に耽っていた遊び人の源頼定であった。ほんとうに身篭ったのかどうかを確かめるために道長は東宮の命により綏子本人に尋ねている。頼定の母・保子と道長の妻・明子は異母姉妹で源高明の娘である。頼定は大胆にも東宮の御殿にも忍び込んでいたとか・・・、東宮はここのところ綏子がいる麗景殿には渡っていないとかの情報を得て問い詰めるが綏子は何も言わずに黙っている。子供の頃気安く遊び戯れたことのある二人であったが、男を引きこむような綏子の物腰に今気付くと東宮が妬ましくなる道長である。頑なに沈黙を守る綏子に業を煮やした道長は彼女の肩を覆っていた紫苑色のものを引き剥がしてしまった。残ったのは薄物の単ひとつで上半身は裸に等しく、道長が触れた乳房は豊満に盛り上り、乳首は黒ずんでいた。思わず力をこめた瞬間、白い液体がほとばしった。妖艶で豊満な肢体は懐妊の事実を告げていた。と、そのとき綏子は静かに倒れ伏し、絵のように美しくすすり泣いている。 事の事実を東宮に告げると、同情の念を抱いていたようであるが、綏子が後宮にもどることは二度とないであろう。  997年、伊周・隆家の配流が落ち着いた翌年詮子の容態が悪くなった。読経や祈祷の効果がない場合、伊周一族の凋落ぶりに気が咎め、祟りのせいではないかと囁かれるのである。赦免そして帰京と口々に公卿が言うと、4月5日に恩赦が決まると隆家はさっそく4月21日に上洛している。 初夏の7月5日には人事異動が行われ、大納言・公季が内大臣に昇格した。そして大納言の後任には異母兄の道綱に与えた。 こともあろうに自分よりも後に中納言となった無能な道綱なだけに、藤原実資は不満の日記にぶちまけている。 道綱といえば蜻蛉日記を記した藤原倫寧の娘を母に持ったが、美人で才女の誉れ高い血が道綱には流れていないのか・・・。

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