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奥州藤原氏の中尊寺-2 弁慶堂

2017年10月21日 | 平安時代

 義経一向が淀のふちに到着したときには叔父行家は80騎を伴い待っていた。そこには金売吉次の姿もあり、一の谷、屋島、壇ノ浦での勇姿をなくした義経の姿を見て、いずれ奮起した際には奥州藤原家の助けを借りるべく、いつでもはせ参じる旨の言葉を残す。また、平大納言の娘・夕花とはここで別れた。能登に配流となった父・時忠のもとへ桜間の介能遠を伴わせて下らせた。もとより夕花へは充分に説得はしていたのである。こうして静と百合野と一部の小女房だけを伴い、250騎は西へ向けて大河の岸を下っていった。義経の250騎が江口の里(現在の吹田あたりの淀川が大きく湾曲したところ)に着いたのは日も暮れ宵の頃である。江口近辺では三河守範頼の配下数百騎が駐屯し、乱酔、遊女泣かせなどやりたい放題であった。義経以下が、ここを通るときには明かりは消え、静まっている。里人くまなく怯えているのである。弁慶が事態のありのままを告げ、夜の炊事にとりかかると次第に里人も安堵したのか、ひとりの里長が妙の御の家を宿にと、江口一番の妓家の女主のところへ案内してくれた。そして、静と百合野は妙の御の家で世話になるのである。そして二人はあわただしく都落ちをしてからというもの、ろくに話もできずにいただけに、心ゆくまで語り合い、慰めあうことができたのである。百合野にはもはや帰る家などはない。判官殿と生涯添い遂げよ と父に固く言われていただけに 去る日は生涯が終わる日と健気にも決めていた。そのようなことを語りながら仲のよい姉妹のように慰めあう。そして判官殿に比べれば・・・・と誓っていたのである。

 すこしして百合野は自分の部屋に戻ると、静は一人眠れずにいた。そこへはいってきたのが、妙の御である。妙の御は静の白拍子の舞を知っていた。御酒を勧めにきたのである。とはいっても、妙の御も静に出会い、昔を懐かしみ話をせずにはいられずに来たわけである。妙の御の幼名は瑠璃子といい、父は伊賀守藤原源為義といい、遠い任地で果てたため、瑠璃子は身寄りの中御門家で育てられた。そのときに祗園女御に可愛がられた。祗園女御といえば、もとは祗園の遊女で白川上皇に愛され、清盛の父・忠盛に 嫁いだ女性である。その後全てを捨てて、ここ江口で色禅尼ともいわれ妓家の主となっていた。そして瑠璃子はまたたく、可愛がられ江口の遊君となった。淀川が湾曲した神崎川との分岐点一帯は江口と呼ばれ、平安時代から水上交通の要所であったこの地が急速に発展し始めるのは、785年に淀川と三国川との間に水路が結ばれてからである。この工事で江口の地は、平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町として繁栄し、とくに平安中期以降は、紀州熊野・高野山、四天王寺・住吉社への参詣が盛んになり、往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られるようになった。遊女たちは群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近づき、旅人の一夜の枕を共にしたと言う。彼女たちは多才で、歌舞・音曲にすぐれ、中には和歌をよくする者もいた。名妓として名を残したのは、小観音・中君・子馬・白女・主殿、その名でもとくに有名なのは、西行との歌問答で「新古今集」に収録されている遊女妙である。1167年旅の途中、雨宿りの宿を断わられた西行が、「世の中を厭う間でこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠んだに対して「世の中を厭う人としきけば仮の屋に 心とむなと思ふばかりぞ」と返した女性です。ここで登場する妙は平資盛の娘で、没落後に遊女となったが、発心して作った庵が江口の君堂(寂光寺)として現在も残っています。

 昔、清盛が熊野詣の際に、ここ江口で泊まったことがあり、そのときの清盛に対する乙女心が芽生えたという。いまこうして昔を懐かしみ、静を長々とおしゃべりをしていたのである。まわりは、俄かに騒々しくなっている。義経を追う数多の郎党がいよいよ迫っているらしい。早々に宿をでると、一向は大物の浦(現在の尼崎)へ急いだ。ところが義経の首を討ち取らんとする輩に阻まれ、大物の浦へ着いたときには天候も嵐のごとくくずれていた。そして、ここから船出したものの嵐に見舞われ、義経一向はことごとく難破し、西国への旅が阻まれたのは有名な話である。泉州住吉神社の宮司・津守国平が浜辺で、女房が死人のように倒れているのを見つけたのは、嵐も静まった翌朝である。国平は義経主従の遭難であることはすぐにわかった。そして摂津源氏の追っ手が、ここへくるであろうことも。かくして女房は国平に匿われた。そのころ百合野は息も絶え絶えで、伊勢三郎に助けられ亀井六郎の背につかまっていた。伊勢三郎が頼ったのは、御陵守の長の邸である。義経の旧御を忘れずにいた長は、伊勢、亀井、吾野、渡辺番と河越殿の百合野を匿い、手厚い養生を施した。しかし伊勢、亀井はいまだに行方のわからない判官、静を求めてあてはないが、風聞集まる洛へと向かうのである。そして百合野は東嵯峨の阿部麻鳥のもとへと、渡辺番、吾野余次郎により送られることになった。義経はというと、泉州の一角に上陸し、四天王寺界隈で身を潜めていた。伊豆有綱、弁慶、堀弥太郎、静の5人である。ここ四天王寺では追捕にさらされ、身を寄せる民家もない。そこで弁慶は、吉野山へ身を隠すのが一番かと・・・。そこは鎌倉の権力にも屈しない輩もおり、安全であると考えたのである。

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Dora (Dora Shi)@台北-1

2017年10月21日 | メッセ 台北 Dora Lora Yoyo Yuna Tina 妙

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