(ウパク財神)
タイ仏教の ウパク財神を供養する事で
幸魂の増長が得られ
幸運や良い人縁を増し 物事が順調に進み
泥棒の被害に遭わなくなるとされます。
正式には ウパク財神の仏像や仏画の前に
3本の線香と黄色の花 一対の灯明 供物と
一杯の浄水を捧げて 呪を誦して祈るべきとされますが
全ての供物が揃わなくても
準備が可能なものを捧げる事でよろしいと思われます。
(ウパク財神の呪)
「マハウォクタ・オゥマハヘゲー
ナナパラメ・サンバンノウ
マハラバ・マハオゥシュウ
マハツァヤクティ
サルカクテイ・パクテイメ。」
詩からの囁きは未だ聞えない・・・・・・嗚呼
以下こぴぺ 感謝
ポール・ヴェルレーヌ
『言葉なき恋唄』
巷に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?
やるせなき心のために
おお、雨の歌よ!
やさしき雨の響きは
地上にも屋上にも!
消えも入りなん心の奥に
ゆえなきに雨に涙す。
何事ぞ!
裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず。
ゆえしれぬかなしみぞ
げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みもなきに
わが心かくもかなし。
しとしとと街にふる雨は、
涙となって僕の心をつたう。
このにじみ入るけだるさは
いったいどうしたことなんだ?
舗道にそそぎ、屋根をうつ
おお、やさしい雨よ!
うらぶれたおもいできく
おお、雨の歌のふしよ!
ゆきどころのない僕の心は
理由もしらずに涙ぐむ。
楯をついたりいたしません。
それだのになぜこんな応報が…。
なぜということがわからないので
一しお、たえがたいこの苦しみ。
愛も、憎しみも棄てているのに
つらさばかりでいっぱいなこの胸。
詩集のタイトルも、金子訳では『言葉なき恋唄』になっています。二つをならべてみるとほんとうにおもしろい。金子光晴も、堀口大学も、通 りすぎたあとに芳香をのこすような、まぎれもない詩人でした。二人の詩人の、外国の一つの詩に対する取り組み方のそれぞれの激しさがよくつたわってきます。これはまた、外国語で書かれた詩を日本語に訳すときの困難をあらわしています。響きと、意味と、ともにつたえられないなら、どちらをとるか。金子光晴も書いています、いままでヴェルレーヌはどちらかというと、詩のなかみよりも、調子を伝えようと腐心されていた、僕は「敢て、彼の詩の意向の細部の意味を追窮」しようと、流暢を避け、ぎごちなく訳したと。
1871年、新婚のヴェルレーヌのところに、17歳の、かがやくような少年ランボーがあらわれました。しばらく前に、少年が送ってよこした詩稿『酔いどれ舟』に感激しヴェルレーヌが招いていたものです。二人は、ベルギー、イギリスと漂泊の旅にでます。しかし、1873年以降、二人の間は険悪なものになっていて、ヴェルレーヌがランボーの手首をピストルで傷つけるという事件を起こし、ヴェルレーヌは18ケ月を監獄ですごすことになります。監獄で、過ぎた放浪の日々を整理したのがこの詩集『無言の恋歌』であるといわれます。
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タイ仏教の中にも 尸解の初段まで到達した僧が何人もいるという事なのだけど
やっぱり 尸解成就者は
中国・チベットが最多ばい。
特に中国・チベットは
僧のような聖職者だけでなく
一般の信徒でも
初段以上の高度な尸解の段階に至る人が多いというのが特徴のようばい。
キョンシーは肩身が狭いのでは・・もうサモハンキンポー
もいないしジャッキーは酔えないだろうしね・・
仮に今リバプールに4人の若い甲虫が出現して
キヤーバンクラブで歌ったところで二番煎駄目だろうね。
つまり良くも悪くも時節到来の暁・・・つまりは
彼方まかせ・・・彼方次第
マドンナもライク 亞 道程 歌ってもさ
すべては時節との一瞬の際会の中での風
人為では如何する事も出来ず、秋に旋風機はもう
いらないしね・・・オウム世代の子供達が いまや
この国を支える年齢に・・・相変わらずサリン飲んでる
みたいだしね・・・となると近未来はジェラシックパーク
なのかも
T rex の音源 もみさん 何かリクエスト希望
よろしく
芹洋子さん 希望 こちらららも
〆はもみさん たのんますばい・・・
ゆーちゅー&もみさん 感謝
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アメリカでは タイ仏教の寺や 専門店も多いので、
求めれば簡単に タイの護符やお守り
高僧が加持を与えたものなどが 安価で手に入るのだけど
もみと どうしても気線が合わないのか
どうしても 手に入れて研究するという気になれず
酷い時は タイ仏教関係のものを眺めていて
軽い頭痛を起こす、見るのを止めたら すぐ頭痛が解消するという事が何度もあったりするばい。
靜かなるわが妹(いもと)、君見れば想いすゞろぐ
朽葉色の晩秋(おそあき)の夢深き君が額に、
天人の瞳なす空色の君がまなこに、
憧るゝわが胸は、苔古りし花苑の奥、
淡白き吹上の水のごと、空へ走りぬ。
その空は時雨月、清らなる色に曇りて、
折節のきはみなき鬱憂(ものうさ)は池に映ろひ
落葉の薄黄なる憂悶(わづらい)を風に散らせば、
いざよひの池水に、いと冷やき綾は亂(みだ)れて、
なかなかし梔子(くちなし)の光さす入日たゆたふ。
マラメル『詩集』
おうふう 嗟 嘆(といき) 現代詩研究会編