JEC狭山福音教会(大阪狭山市)の聖書・キリスト教・例話コラム

大阪狭山市にあるJEC狭山福音教会(プロテスタントキリスト教会)の牧会スタッフによる聖書・キリスト教・例話コラム。

メッセージ@2010年12月26日(川崎 豊信)

2010-12-25 20:29:05 | 癒し
日時:2010年12月26日(日)
所:狭山福音教会(第4主日)
聖書:マルコ11:20~25
題:「実をならせる人」

「もっとも無念なことは、送風管による食物の運搬がないことである。ベテラン技術者たちが大勢いることにおいても、返す返すも遺憾に思う。後日のため、特にこの点に注意をしていただきたい・・・。」

 東海道本線の熱海駅と函南駅の間にある7,841mの丹那トンネル工事は世界的な難工事であった。大正中期に着工し16年をかけて完成した。
 しかし67人の犠牲者と610人の負傷者を出した。わけても上記の遺書を残して死んでいった、17名の事故は悲惨であった。

 トンネル入り口から工事現場の先端まで「命の鉄パイプ」が通されていた。落盤事故があり奥に17名の人たちが閉じ込められた。ところがパイプが詰まっていて通信も食糧の差し入れも出来ず、上記の遺書を残して全員が死亡したのだ。
 なんと落盤の真下のパイプの一部が、ゴムホースでつながれていたことが、後日判明したのだ。
(ポポより)

 私たちの人生においても、主との間に「間に合わせ」や「詰り」がないものかどうか、点検が必要ではないだろうか。
 本日の聖句には、神は不可能を可能にしてくださる方であることと、キリストにしっかりとつながることの恵みについて書かれている。この箇所でのアウトラインは以下のようになる。

~~~~~~~~~~~~~~アウトライン~~~~~~~~~~~~~~~~~~
A いちじくが枯れていたこと(20~21節)
―キリストにつながり実を結ぶことについて―
B 祈りについてのイエスの言葉(22~25節)
―思い描いて祈る―
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A いちじくが枯れていたこと(20~21節)
―キリストにつながり実を結ぶことについて―


11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

* 20節「いちじくの木が根まで枯れていた」→いちじくは普通、葉が茂るのと実がなるのが同じである。こののろわれた木は、実を結ばない「ブドウ園」である選民イスラエルが退けられることを例示する。

(中心的メッセージA)
20節を中心としてこの箇所で言われることは次のようである。しっかりと主につながり実を結ぼうということ。

 人間は結ぶべき実が2つある。一つは人格の実だ。ガラテヤ5:22~23「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」こうしたものを麗しい人格という。もう一つは人の実である。つまり世を感化して行くことだ。

 私達の人格は、イエスにつながるなら変わる。これらの実はキリストにつながることによって養分がおりてきて実がなるのである。しっかりとキリストにつながろう。

参照聖句→ガラテヤ5:19~「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

参照聖句→ヨハネ15:1~「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

(例話A)
 私たちが、すべての面において恵まれるには神につながることだ。
神に信仰によってつながると接木のようになる。接木には癒合能力があって新しい細胞であるカルス細胞が形成されるという。
 この結果として養水分の流入が起こりさらに癒着してゆく。一般によく癒着する接木の特色は親和性があることなのだそうだ。
私たちは、キリストを通して神につながろう。すると私たちもキリストのようになるからだ。

 接ぎ木について考えてみよう。根がついて接ぎ木される方の木を「台木」という。一方台木につがれる木のことを「穂木」という。
 接ぎ木が可能な理由は、植物には癒合能力と言うものがあるからだ。穂木と台木の形成層を密着させるとそこからカルス細胞と言うものが出来、その一部がさらに分化して穂木と台木の形成層を連絡させる役割を果たす。
 すると穂木と台木の間に養水分の流動が起こり新しい個体の結合、生育が始まる。これを活着という。接ぎ木がうまく行くかどうかは、穂木と台木に親和性があるかどうかで決まる。一般には同族か近縁のものほど親和性が良いと言われる。

 接ぎ木における「親和性」は霊的には「信仰があるかどうか」に似ている。いかに台木が素晴らしくても信仰という親和性がなければ台木から祝福の樹液を得ることはできない。
(クレイより)

B 祈りについてのイエスの言葉(22~25節)
―思い描いて祈る―


11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

* 22節「神を信じなさい」→神を信じる信仰の重要性を教える。信仰を持っているなら、山を動かすことさえ可能になる。祈りは神への信頼の具体的な表れである。すでに受けたと信じるならそのようになる。
* 23節「動いて海に入れ」→祈りは自分の願望を押しつけがましく要求するのではなく、神の意志に服従する心の姿勢を示すものである。祈りによる勝利は神の意志に喜んで従う時に与えられる。→EG マルコ14:36・イエスのゲッセマネの祈り「私の願うことではなく。あなたの御心のままをなさってください。」
* 25節「立って祈っているとき」→ユダヤ人たちは立った姿勢のままで祈った。神に祈る時に、自分の罪を認めて、神からの赦しを求めなければならない。自分の罪が赦されることを求めるなら、他人に対する恨みがあってもそれを赦してやらなければならない。イエスは「わたしたちの負い目をお許しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」と祈るように教えている。

(中心的メッセージB)
 23節を中心としてこの箇所で本日に学ぶべき点はつぎである。オリーブ山からは死海を望むことが出来た。
 山はここでは困難なことの象徴として用いられている。神は信仰に答えて不可能なことを可能にしてくださることが書かれている。
 
 祈りがかなえられるためには確信することと、ありありと思い描くことが必要である。欠乏や否定、挫折や病気の像ではなく、成功と繁栄、達成と健康の絵を心に描こう。
 祈るときには、神の限りない祝福をうけつつあるのだと信じる訓練をしよう。

参照聖句→マルコ9:22~「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」9:23 するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」

参照聖句→箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

(例話B)
 神は怖い方であると思うと、行いの動機は恐れからになる。神は愛の方であると思うと行いの動機は愛(お返し)になる。
 神を恐れている人は、肯定的な将来を想像しにくい。神を信頼している人は、肯定的な将来を想像しやすい。
 神を恐れている人はパフォーマンス信仰に走りやすい。神を信頼している人は、喜びからミニストリーをしている。
 ルカ10:38~にはマルタとマリヤという姉妹が出てくる。マルタは姉であってパフォーマンス志向的であった。

 マルタはいろいろなことに心を囚われ、主とのふれあいは後回しになった。その結果人を裁くようになった。
 マリヤは主の足元に座ってみことばに聞き入っていた。
 主はマリヤの方を見て、マルタに言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」。

 マルタのように主のみことばに聞き入ろう。主を信頼しよう。神の用意してくださる輝く将来を思い描こう。


(結論)
 実の成らないいちじくの木ではなく実の成るイチジクの木になろう。そのためには主にしっかりとつながることだ。また主と同じように歩みだしてみることだ。

 神にとって不可能はない。神の御旨ならばどんなことでも出来る。神が自分に持っている計画を瞑想してみよう。そして瞑想を妨げるものを取りのける祈りをしよう。