日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』 實利、我利

2024-02-22 16:18:20 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』 
 
 

 


   
 實利、我利

借妻――賣児――泣き女 ――ロボット ――軍人の念願 ――商業道徳 ――薬瓶

 私は以上で、ほゞ支那人研究の端緒を、書いた積りである。
以下支那人の個性を、解部することに取掛る。


支那人は實利、實益の前には、何ものをも犧牲として悔いない。
換言すれば、冷酷そのものである
と云って善い。
支那には昔から、大義親を減すと云ふ言葉があるが、
彼等は、利益次第では、親をも殺し兼ねないこと勿論である。
  

〔借妻〕
 それから支那には、借妻と云ふことがある。
自分の妻を、幾何かの金で、一年なり半年なり、人に貸與へることである。
またこれと反對に、家郷に妻を残して、遠く出稼に行った夫の留守中に、
妻君は臨時の居候を住み込ませて居り、
主人が歸れば、この臨時の旦那は、幾何かの金を貰って、飄然として去り、
彼我共に敢えて意に介さないのがある。  

〔賣児〕
 支那の各地では貧困者は三つ、つの小児を籠に入れて荷ひながら、市井に賣る習慣があるが、
三元、五元で、街上から買はれた子供等は、男であれば、一生コキ使はれ、
女であれば、年頃になれば、妾にも昇進し、
或いは上官への贈り物などにも代用され、顔の悪いものは、
一生Y頭(ヤトー)、すなはち無給の女奴隷となるのである。 

 支那人のすることは、實利の前には、只蛇の冷たさがあるのみで、
人情味も何もあったものではない。 

 
 支那の笑ひ話に、首つりが腰に縄を括りつけて居る話がある。
『オイそれでは、死ねないではないか』と云ふと、
『實は首にも引っ掛けて見ましたが、どうも、呼吸が出來ませんので』と答へた話があるが、
第六感の敏感な、實利に先見の明のある支那人の、ホントウに遣りさうなことではある。
 
 
〔泣き女〕 
 支那の地に行くと、よく『オーウ、オーウ』と聲を張り上げて、哭く女がある。
泣き女である。
雇はれて、一日二、三十錢で泣くのである。
泣いて居る最中に、話などを仕掛けると『聲の善い悪いで、色々値段も違ひます。

 私などは安い方です』と、一鎖り我々と世問話をして、また「オーウ、オーウ」と、
涙も鼻汁も、一緒にしながら泣くのが、
『聲涙倶に下る』やうで、如何にも眞に迫って居るが、
他面また如何にも、商売らしい冷静さがある。 

 支那人は、利益の爲めには、往々生死の危険を冒して、
敢えて意としない勇敢さを特つ。

 日露戰爭や、幾多の戰乱に、弾丸雨飛の中にある自家の家を守って、動かないのがあったが、
それはマダしも、中には弾雨の中をって、
卵や、食べ物を売りに来たり、薬莢や、弾丸の破片を捨ひに来たり、
死屍の衣を剥いだり、金を盗んで行く者がある。
屍人の衣を剥ぐのは、如何にも支那式である。

 中には金が欲しさに、徘徊中、流れ弾に中るものさへあるが、
コンな時には、命も惜しまないのみならす、
友達が、流弾で死んでも、やはり戦場稼ぎを止めないのには、
コチラがアキれさせられる。
 
 日露戦爭の際、金さへ貰へば、
兩軍の間を来往して、間諜を勤めたのが、彼等の中には澤山あった。


   
〔ロボット〕 
 支那では、白昼強盗が入っても、近所近辺は勿論のこと、
街上に立って居る巡査さへも、ワザと知らぬ顔をして居ることがよある。
他人の危険なんか『我不関』といふのが、街人であるが、
純さ仲間にも『一個月幾塊錢的薪水、賣生命』と云ふ言葉がある。

一ケ月五、六圓で生命が棄てられるものかと云ふことで、
巡捕は職務上の責任なんかは考へないで、只街上のロボットに過ぎないのが常である。

 支那人は、利己の爲めに節を賣り、利の爲めに人を賣り、
主人を毒殺し、妻子を捨てるやうなことは、殆んど朝飯前である。

 つまり彼等に取っては、金銭だけが、一生の伴侶であり、
金故には、國'も賣れば、殺人もやる。

 支那人が、賣國者を出しても、平気であり、
變節や、叛逆が、到るに行なはれるのも、
要は彼等が、餘りに實利本位だからである。


 従って如何に難な交渉も、金次第では、如何にやうにもお天気が變り、
地獄の沙汰も金次第と云ふ俚諺を、
如實に味はゝされたことが、我々の體験にも屡々ある。  

軍人の念願〕
 昭和3年頃の著しき新傾向として、
日本あたりに留學中の、早稻田、慶應出の俊才が、
卒業後さらに日本の士官學校に、入學を希望するものが多々あった。

 それは、今このまゝ支那へ歸ったところで、
何うせ武官にでもならなければ、何事も出來やしないし、
金儲けになる第一近道は、武人になるに限ると、
彼等は考へたからであり、また口に出して、然う云って居たものである。
 
 なるほど、支那の軍人は、兵力を以って、民衆をオドして、金儲けをするので、
師長や、旅長の2、3年もやれば、金の300萬や、500萬は、立ちどころに出来る。
故を以って成金となる捷径は、兵業が第一であり、兵隊になることである。

 前述の士官學校に入らうとする支那人が、多かった理由も、これで分る譯であるが、
實利、實益の前には、何ものも顧みない彼等の犀利なる眼光と、
物ごとに囚はれない點には、全く三嘆させられることが多々ある。  

   
〔商業道徳〕

 日本あたりでも、支那商人は勤勉であり、能く努力し、能く勉強し、
且つその商業道徳は、良好であると云はれるが、
私としては、これもやはり自己可愛いさの故であると、云ひたいのである。
 
 支那人の商業道徳には、非常に信頼し得べき半面と、
極めて不信なる半面とを持って居り、
私は寧ろその極端なる實利主義に、一驚せざることを得ない。

 先年漢口や、上海に居た時、某大商人のことを三井に聞くと、
トテも評判が善く、信用もスバらしい。
 
 そこで或る必要から、これを大倉、三菱などに就いて、調査したところが、
驚くべし、彼れは到るところ不義不信ばかりを、働らいて居ると云ふことを發見した。

 これは支那人でも、商人のみは、信頼し得べしと、信じ切って居った私には、
實に意外なことであった。
 
 そこで爾来色々な支那人の商業道徳に就いて研究して見たら、
彼等は『この店に信頼を得れば、飯の種子に困らない』と見たら、
その方面には、全力をあげて、汗水垂らして忠義振り。

多少の損耗、また意とせないが、その代り他の方面は、總てこれ悪行非道。
商品を誤魔化す。
金は拂はない。

 その商貨を轉賣するといふ有様で、
全く以て手にオエないのが、澤山あると云ふ事實を知った。


 支那人の商行爲は、手形も、貸借證もなしで、面子一點張りで、
信用賣買をやる
ことが多いが、これは彼等同業者の間に、
厳密な制裁があるからである。

 支那にける同業者の圏結、すなはち同業組合とか、幇とかいふものは、
極めて結合の強いもので、
この仲間で、一旦不信を働いたら最後、同業仲間から、未久に放逐されて、
後その商賣には、一切手が出せなくなるのである。

だから相互制裁の不十分な外商あたりが、
ウッカリ支那の商業道徳を信頼するのは、極めて危險なことである。  
 

〔薬瓶〕
 下層の民衆の實利主義では、さらにヒドいのがあり、思はす噴飯させられることさへある。

 日獨戰爭後であったが、日本が、山東省李村の民政署で、無料施薬を爲したことがある。

 支那人の習性としては、水薬よりも丸薬を、然して丸薬よりも散薬を好むものであるのに、
彼等の多くは、何れも水薬を希望するので、
これ畢竟我が薬を、信頼するものであらうと信じて居たところ、
意外にも毎月二回の市日には、夥しき古薬焼が、市場に販賣取引されるに至り、
そこで彼等が水薬を希望したのは、薬瓶が欲しかったのであったことを知って、
思はす吹き出したことがある。

 如何にも民度の低い、生活程度の下卑た、支那人の仕さうなことであるとは云へ、
彼等が知何に實利本位に、透徹して居るかは、これでも分る。

 
 従って支那人を研究するには、
この利己、實利と云ふことを見逃してはならぬ
ことになるのであるが、
これは支那人を通じての性癖である。

 すなはち上は大總統から、下は乞食、苦力に至るまで、
彼等の行動の基調を爲すものは、利己、實利、我利である。

 如何なる場合にも、彼等の進退は、自己の利害を度外視して行なはれるものではない。


 彼の排日排貨も、愛民、愛國運動も、
一寸見ると、大義名分に透徹して居るやうであり、團結や、統制があるやうに見えるが、
實はそれぞれ、自己の取引なり、商策なり、賣名から出た實利本位が、
その基調を爲して居る
のである。

 このことに就いては、筆を改めて述べるが、
この點は我々日本人と、大いに異なって居るところである。

 


笠井 孝著『裏から見た支那人』支那人の宗教観

2024-02-22 16:04:38 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』 




支那人の宗教観 

儒教――経天と天命説――仁義なく忠孝なし
――醜悪の美化――陳平と漢王――弔問の一針
――佛教――現世を楽土――道教は現世教

――一圓か五銭か――功過格――玉皇帝
――荘子の無役無用――老子の三寶――墨子の兼愛 

支那人の心的生活 
 支那人の心的生活を司るものに儒教、道教、佛敎がある。
基督教、回々教、ラマ教などもあるが、基督教以下のものは、餘り大なる関係がないから、
儒、道、佛の三敎に就いて概説しょう。
  
 支那には孔子とか、孟子や老子とか、荘子とか、
昔から有名た道學先生が沢山出て居る。

 これは支那では、古來早くから、哲學的の發達が盛大であっためであり、
殊に周未には孔、孟、老、荘、墨子、烈士など各派の哲学が、
竝び起こると云ふ盛況を、呈したのである。

 その後一進一退はあったが、
支那は思想的には、比較的開化した国であったことは、
爭び難き事實である。

 儒教の如きは、諸士横議、甲論乙駁、その発達が盛大で、
為めに秦の始皇帝の如きは、これをウルさがり、學者を坑にしたことさへあるが、
漢から南北朝や、隋、唐、宋を通じて、為政者、讀書人の間に、
大いに持てはやされたものである。

 また道教は、元来支那人の性格に合した現代主義の教であるが、
佛教の波以後、その刺激を受けて、一脣宗教化して来たのみならす、
今では洽く支那の上下に信頼せられて、世道人心の大半を、支配して居る感がある。

 これに反して佛教は、何となく現世に遠ざかり、
現金主義の支那人には、喜ばれず、寧ろ冷遇されて居るやうに見ええる。

 要するに今では、佛像は骨董屋に葬られ、
孔子廟には、蜘蛛の巣が張って、道教のみが、一般世俗に繁昌して居る観がある。
斯う云った現象からも、支那人なるものの民俗性は、推知されるのである。

儒 教
 儒教は、勧善懲悪の道徳教であって、孝道、敬天、人倫をし喧しく云ふ。
春秋の時代、孔子によって大成され、爾来時の世族救済の爲め利用せられたものである。
週末以來、多くは歴代
の為政者に、治政の方便として推奨せられ、
或いは官吏採用の方式として、百家経書を喧しく云はれた爲め、
學説としては、讀書人の間に相當普及しては居るが、
世俗には餘り實行されては居らぬ。

 これは支那人のやうな現実観念の強いものには、
善悪を説き、道徳を勧めた丈けでは、有難味も、功徳もないので、
欣はれないのが、當然であるからである。

 唯その敬天思想と天命観なはち『何事も天の命なり』とする思想は、
何か支那人の気に人るところがあると見えて、
今尚ほ残って居る。支那人の能く使用する『沒法子』なる一語は、
事件の終結と、断念とを表示する最修の言葉であり、
支那人の天命観から出た諦めの言葉である。

 日本に孔孟の敎が輸入せられて以來、
眞に儒教の眞髄を研究したものは、寧ろ日本である。

 日本人は、正直者で自分の道徳観念を以って、直ちに人を類推する。
従って孔孟の敎も、そのまま、研究し、文字のまま採用して、
支那は仁義の國、忠孝の國なりと尊信したもので、
荻生徂徠のやうな中華崇拝論者が出て来たのも、當然ではあるが、

 私に云はせれば、現代支那には仁義なし、忠孝なし、節婦なし、烈婦なし、
忠信孝悌は口頭禅であり、僞物であると、云ひたい
のである。

 また事實然りであり、支那二十四朝の歴史は、美化された醜悪の連続である。
宋の将に亡びんとするや、二十四郡一人の義士もないかと、
天子は地団駄を踏んで口惜しがったではないか。

 清の将に亡びんとするや、大楼樓の倒れるるを支ふペき袁世凱は、
却って清室に迫ったではないか。
 
 何慮に義があり、何処に忠があるか。
尤も支那人にも、タマには支那人らしくない、出来損ひの支那人がないでもない。
顔眞卿や、文天祥や、岳飛将軍や、南京で籠城した張勲の如きは、
支那人としては、出来損ないの奇形児であり、
出来損ひであり、支那人離れのした支那人であり、
支那人の普通の考へから、飛び離れた存在である。

 この故を以って、支那人の忠孝観は、日本人のそれとは違ふ。
個人主義に終始する支那人の忠は、身を犠牲にして、人に捧ぐる忠ではない。
自己の仕事に熱心なること、すなはち忠實の忠(まめやか)であること、
後に述べる通りである。

 支那で『孝は百行の基』と云ふけれども、
併し支那人の孝行は、祖先に対する奉仕より因果応報の観念や、
迷信から来る利己的の考へ方が多い。

 自己や、子孫の幸福を祈らんが為め、自分の金錢を得んが爲めの祈願かから来る孝であり、
爲政者から、褒められんが為めの忠子、節婦であることが甚だ多い。

 私が斯う云ふと、然らば支那に数多き節婦、烈婦の石碑は、
どうし
たのかと云ふことになるかも知れぬが、
裏面の實相は、随分ヒドいいのがある。

 支那の烈婦には、夫に死別しても、
醜婦で手の出し手がなかったからの烈婦であり、
節婦であることが多く、
中には夫の死後親戚、兄弟が死者の妻を殉死せしめて、
お上より節婦、烈婦の恩賞を受けんが為めに、犠牲にするのやら、
家庭的内争から、毒殺して置きながら、ワザワザ殉死の届出をするものも、少なくないのである。

 尚ほ、前清時代の節婦の碑を見ると、
それが多く官吏の婦女であるのも、一奇とすべしである。
官吏の婦女を、下僚が、烈婦、節婦として上司に推薦したり、
官吏の御機嫌を取る為めに、土地の人民から、上司に表彰を請ふことは、
前清時代に各所で行なはれた習慣であるから、
斯の如く似而非なる烈婦、節婦が、發生したである。

 支那の史實には、美化された歴史の裏がイクラでもある。
某侯の死するや、三子互に位を譲り殯せざること三年、禅譲の極みと褒めて居るが、
實は三子相争うて、殯葬し得なかったのでる。 

 齊の桓公は、死後六十七日、終に屍蟲口より出づるまで、五人の公子達は、
相爭うて父を葬らなかったではないか。
自己の利害の為めには、忠孝も、また顧みらないと云ふのが、實相である。

 儒教で一番喧しく云はれた人倫五常の道が、不思議にも、孔孟の子孫たる漢民族から、
喪なはれて居ることは、何と云ふ皮肉であらうか。

 支那を研究するには、その歴史が、美文を以って粉飾せられ、
醜悪を美化されて居ることを見逃してはならぬ。

 
 資治通鑑、十八史略、三國史、知何に我々日本人の頭に、美しく響いて居ることであるよ。
併し一度支那の實情を知って、再び支那史を紐どいて繙るならば、
そこには見逃し得られない歴史の裏がある。
 
 十八史略に、漢の宰相となった陳平が、賄賂を受けたのを咎められたところがある。
陳平が、友人魏無知の紹介で、漢王に見えて、都尉となったが、内密に諸将の金を受く。

 漢これを無知に責めたとこ
ろが
『王の問ふ所は行なり、臣の言ふ所は能なり。
 尾生、孝己の行ありと雖も、勝敗の数に益なくんば、何の用あらんや』と答へ、

 陳平は『臣裸身にして来る。金品を受けずんば、資となすべきなし。
  臣が計にして採るべきあらば、之を用ひよ。
  若し用ふべきなくんば、金は封じて官に輸し、骸骨を請はん』と答へて居る。 

 實利一點張りで、袖の下を受けても、平然たるところに、
昨今の支那人と、相通ずるものがある
ではないか。

 また斉の桓公に、鮑叔が、管仲を推薦する時に、
管仲は、曾て桓公の莒の道を遮って、これを射たことがあるので、
鮑叔大いに仲を辨護する段がある。

『仲曾て鮑叔と賈し、利を分つに自らを厚ううしたけれども、
 仲は貧乏だから、貪欲とは云へない曾て三度戰って、三度負けたが、
 仲は老母があるから、卑怯とは云へない』と云うて居る。

 父母あるが故に、卑怯とは云へないと云うて、孝を、忠よりも重く見るところに、
日本人と、道義観を異にする、支那人の注目すべき點がある。
 
 かって桓公が、管仲に對し、群臣の中から、誰を宰相にしたら善いかと問答したとを、
易牙は何うだらうかと云ふと、
仲の曰く『子を殺して君にすすめる、これは人情ではない』。

 然らば開方は如何に。
『親に倍いて、君に適ふ、人情にあらす』。
然らば 豎刁は如何に。
『自ら宮してに君に適ふ、人情にあらす、共に近づくべからず』と答へたとある。

 日本人の眠から見れば、崇敬すべき忠道であっても、
支那人はこれを人情にあらずと云ふところあたりは、
日本人の忠孝に對する考へと、全く異ることが分る。

 つまり支那人の忠孝観と、日本人の忠孝観との相違が、ハッキリ分る。
然かもその間人情の機微に、虚世の要領を巧みに挿入して、
文章を以て、悪徳を美化されて居るのを見るであろう。
支那の史實には、この種の例が沢山ある。

 儒教の教訓は、要するに孝が第一ではあるが、忠を否認したのではない。
然も孟子は、匹夫の殺すも聞くも、未だ巨の君を弑するを聞かずと逃げて居るが、
孟子様もナカナカヅルいところがある。
 

 湊民族は歴代、北方蠻族から侵入せられては、負け戰をしながら、
史實には常にこれを美文で、誤魔化し、
北蠻が、支那には臣事したやうに書いて居る。

 支郷歴史を研究するものの注意せねばならぬことであるが、
また漢民族の虚言、虚偽に、平然たる性格と、
負けても面子だけは、棄て切らない彼等の性格を、瞥見することが出来る。

 孔孟の敎は、實利主義の支那人には、確かに頂門の一針であるが、
彼等支那人は、表面にこれを唱えふるも、裏面に毫も實行せないのみならず、
却ってこれを悪用して居る。

 支那人の現金本位の我利々々思想に對して
『義理の辨』を説いても『上下交々利を征すれば國危うし』とまで憤慨し、
また梁の恵王に對て『義理の辨』を説いたこともある。

 董仲舒は、仁人は『其の身を正うして、其の利を計らす』と云って居るが、
支那人には
斯んな仁人は居ないので、勿體ないのだが、
孔孟の教は、多く儀禧用、他所行様、聯盟委員に供覧用となり終った観がある。 

  
佛 教
 支那の中世は、佛教全盛時代であったけれど、
佛教は彼等に取っては餘りに理想的である。

『煩悩を滅却して、無我無心の涅槃に入る』と人る云ふやうなことは、
餘りに哲學めいて、現實的な支那人の心理には合ひつこない。


 現世を苦界として、栄地を十萬憶土の方に求むると云へば、
餘りに現世から遠過ぎて、現金的な支那人には、解しがたいことである。

 更に平たく云へは、佛法は、現世を苦界だと云ふけれども、
支那人に云はせれは、出来るることなら、この世を栄土にしたい。
情欲を抑へて、自我に執著しない位ならば、この世に生れた甲斐がない。
  
 佛教の極楽や、基督の天國は、あるものか疑わしい。
タトヒあっても、餘り待ち遠い。
美しいこの世を捨てて、死んで花見がなるものか。

 この世で情死して、蓮の臺に相乗りしたところで、
それは餘りにも馬鹿らしいことであると考へるのが、支那人である。

 だから末世の坊さん達は、流石に気が利いて居つて、
地獄極楽はこの世にあるのだと愚民を説き、
現に四川の鄧都に行けば、地獄も極楽もあると云うことになつてう居る。

 併し現金主義の支那人には、第一その四川省すら、遠過ぎて特ち切れない。
地獄極楽は目前に欲しいので、
その場で、すぐ因果応報があって欲しいといふのが、支那人の本音である。

 享楽、受益の現代を離れて、
そこには死も、哲學も、未来もないのが、支那人の本心なのである。
 
 儒教が形式に終わって、社會に實用されず、
佛教が、迷信と邪教とに合流したのも、つまりこの辺の消息から出たことである。

『名僧は、豆腐の料理気に人らず』と云った趣きが、無いでもない。


道 教 
 道教は謂はゆる老、荘の教義が、多分に採納せられて、
支那人に相応しい教義となったものである。

 道教の起源は、明らかでない。
後漢の張道陵が、老子を舁ぎ出して、これを開祖に率ったとか、
何かと云ふこともあるが、
要するに一種の通俗教として、洽く漢人種に喜ばれて居る。
 
『我れ一毫を抜いて、天下を利する事あるも、敢て人の為に之を為さず』と云った揚子の独善思潮は、
道教の懐く教義の一つであって、
道教は支那に於ける現実主義、實利主義に、最も徹した教へである。

 佛教のやうに、地獄極楽が、十萬億土の遠方にあつたりするのではなく、
その場のことは、その場限りで解決されるといふ點が、
支那人の思想的欲求にも、能く一致して居るのである。

 支那人が、道教を喜ぶ譯は、色々ある。
道教には攝生の法と云ふのがある。

 不老不死の薬を飲んで、仙人になるとか、
静座長寿、人生を享楽する、房中の術などなど、
近代のエロ、グロに相応しい研究が、支那には、古くから進んで居るが、
道教にもチャンとこの秘術がある。
また因果応報、一善を積めば、一過を償うと云ふような、通俗的勧善生利の説もある。

 以上のやうなことがウマく行なはるれば、
肉體は、その儘不死の神仙となって、鶴に乗って神仙界に行けると云ふやうな迷信やら、
色々な迷想などもあるが、
善いことをすれば、この世で即座に善報があるとか、
今日遣ったことには、明日にも善果が来るとか、
善根を施せば、支那人の希望する長壽、多福、多財、
すなはち福禄壽が直ぐに報いられると云ふやうなことは支那人最も喜ぶことであるが、
道教はこれ等の通俗的支那人心理を巧みに捉へて居るところに、その長所がある。

 要するに道教は、老子、荘子の個人主義、自我主義を、その儘通俗的に取入れたもので、
『明日の一圓より、今日の五錢』が善いと云ふ、
現主主義、實利主義が、その根本をなすものである。

 この辺のところは、如何にも能く支那人の嗜好に、當嵌まって居ると云ふべきである。
 
 そもそも、老子の教えは、基督教と、佛教とをせ合をたやうなもので、
幽玄なる哲學を根として字宙の道を道を説き、時間、空間を超越して、
萬物の一元的實在を云ふところなぞは、新約全書のヨハネ傳を彷彿せしめ、
基督も老子も、畢竟同一體ではあるまいかとさへ思はせるほどである。

 それから佛敎の混淆であるが、
これは道救の説く善悪と、因果応報の過程に、明白に現はれて居る。

 道教では、因果応報は、この世で来るのであるが、
イクラ悪いことをしても、報いの来ない奴は、地獄に行く。

 ところがその地獄も、餘り遠いとこらでは、利目が無いと云ふやうなことになって居る。
 こ
の辺などは、確かに佛教の教へる所と、同一系統に属するものと、考へられる。

 また道敎では、一年中の善悪を、功過と云ふもので決めて、
一年の終わりに、それぞれの總決算をすることになってる。

 例へば人に錢を施せば、善五十點、人のものを盗めば、悪百點。
それも金高によって、一圓を盗めばイクラ、著物を盗めばイクラと云ふやうに、
善悪の點数をつけ、それで年末になると、神様が、總勘定をなさることになって居る。

 そこで何處の家でも、年の暮には、通年(正月を新年と云はない)と云うて、
癒しのお祭をして、各戸各家の竈の紙様が、一年間の功罪を、天帝に報告することになって居る。

 そこでこの日には、神様に飴を供へ爆竹をならす習慣がある。
飴を供へるのは、竈の神様が、天帝のところへ報告に行っても、
飴が歯に箝まって、シャベれないやうにするのださうな。
  
 それから爆竹を鳴らすのは、神様が天帝に報告されても、
天帝の耳に聞えないやうにするのだと云ふにのである。

何處まで現實的であるのか、奥底の知れないところが支那式であり、
神様に飴をネブらせるところなども、振るって居る。 
 
 道教は、春秋戰國の時代を経て、人心漸く内省となり、
何か心に頼るものもがなと、
寂寞と頼りなさ、淋しさを感じた時に、世に擴まったもので、
世道漸く経世至用の學から
遠ざからんとして、
秦皇、漢武のやうな人でも、神仙不老の術を求めたり、
方士を招いて、怪術に耳を傾けるなど、
兎角心の慰安を欲した時代相に投じたから、
存外人心に合したものであると云はれて居る。
 
 道教の教義に老、荘の事やら、その時代の迷信やら、諸説やらを巧みに取人れて、
心の平安と、長生保健の道を説いたのは、
彼の張道陵(後漢順帝の時代)である。

 老、荘の如きも、謂はばこれに利用せられたまでで、
何も老子が、自ら道教の開祖として、祖述した譯ではないのでであるが、
何時の間にか率られて、祖師とか、玉皇帝、神仙などと呼ばれて、
今でも民衆俗教の祖神と思はれて居るのである。

 尚ほ道教と離すべからざるものに鬼神説やら、
風水説やら、支那特有の迷信、信仰どがあるが、
これは別に機會を得て述べることにする。

老子と楊朱と荘子
 支那人の人心を支配するものは、老荘だけではないが、
支那人に個人主體を鼓吹したものは、
この老、荘の説が、與って力がある。

 老子の知きは、末年『關を出で、その落つる所を知らず』と傳とへられて居るが、
老子の仙骨は、『世の中が何んなにならうと、自分の関知の知したことではない』と云ふやうな、
絶對個人本位の態度を、明らかに表示して居る。 

 荘氏に至りては、無用説を称へて、何等世のなかに役立たないものが、
最もよく天命を完うすることが出來る。 
 
 橘(たちばな)、梨の如きは、食用になるが爲めに手折られるけれども、
樗(註、ウルシ科の落葉高木)、櫟の如きは、無用であるから、
天命を完うすることが出来る。

 吾人もまた世に処するには、無役無用であることが、大切であると云って居るが、
荘氏の説、老子楊子とは異る點が多い。

以下老、楊に就いて、少しく達べて見よう。

 老子は、秋時時代、孔子より先きに生れた人であるが、
彼れは自然の道、赤裸々の人たることを説いたので、
一に清浄寡欲を説き、欲望は罪悪邪心の基因である。 
 
二に人爲を去り、天眞であれ、禧法繁くして智智好偽飾あり、
大道廃れて仁義あり、一切の人爲を去りて、自然の純眞を保ち、忠信の人たれ。

 三に自謙の柔徳をへ唱へ、水は卑をに就きて、浄はざるも萬物を利す、
柔よく剛に勝ると、驕慢を排斥し、
消極に謙徳の重んずベきを教へたが、
『我に三寶あり、一、慈、二、儉、三、不敢為天下先』と云って、
寡欲、天眞、自謙の線合を説いて居る。

 この内で、柔徳、無抵抗主義の如きは、消極一途のものと見られ易いため、
却って後人から、謬って見られた鮎もある。
 
 荘子は、老子のことを至人、眞人などと云って、これを神仙化し、
後漢の張道陵に至りては老子を神仙三尊の一に祀り上げ、
トウトウ、道教の祖神に舁ぎ上げたのである。

 楊朱(楊子)の説は、老子の獨善、獨全思想、自然思想の足らざる他の半面を補うたもので、
その説を補充したものである。

『禧文虚偽をカナぐり棄てよ、仁者必らずしも壽ならず、義者必らすしも富ます』
『實に名なく、名に實なし、名とは偽のみ』
『得難き人生を、名誉や、富貴に空費するのは愚である。
宜しく自然欲に盾ひて、悦楽すべし』と云ふのが、
その根本である。

 掲朱は、他人のめに、一毛を抜くことを欲せず、
天下の物を盡して我れに奉ずるも、
自己を束縛するものは、我れ之を採らずと云ったのは、  
有名な話であるが、彼れが個人の利己的享楽主義を、
能くまで透徹せしめようとしたこの態度は、
墨子などの犠牲的奉他思想と、兩立しない鮎がある。

 これを討究するには、
楊朱と、墨子の弟子禽子との対談を、對談を、述べるのが捷徑であらう。

 禽子曰く『アナタの一毛を被いて、一世を済むべくん如何に』。
 楊朱曰く『世は固より一毛の能く済ふとこらにあらず』。
     『「済へたとしたら如何に』と遣ったところが、楊朱応へず。

 禽子出でてこれを孟孫陽に語る。
そこで猛がヒヤヒかして曰く
『子、夫子の心に達せざるなり。若(なんじ)の肌膚をして、
   萬金を獲るとしたら如何に』。

 禽子曰く『我之を爲さん』。
孟孫楊『若の一節を断ちて、一國を得るとしたら如何』。禽子黙然たり。
孟の曰く『一毛は肌膚より微に、肌膚は一節より微なること省(あきらか)なり。

 一毛は固より一體萬分中の一ではないか、
禽子が困って仕舞って 
『何と答へて善いか分らないが、子の説は、老聘(老子)、
關子(西蘭の尹喜びは老子隠遁の際老子に道を求めた人、)に聞けば分るだらうし、

 私の説は大禹、墨翟(墨子)に聞けば、分かるだろう』と答へて、
別れたさうであるが、
この問答は、楊子と、墨子の思想の違いを示して居る。

 支那人仲間では、その社会状態から、個人的的科己的心理が、昔から發達し過ぎて居たし、
これを助長し、これに理屈づけたものは、老荘の學と、道教あたりの俗教が、
やはり多くの責任がある。

墨子の兼愛説
 老楊の個人主義と対立するものに、墨子の兼愛説がある。

 墨子(墨翟)の兼愛説は、彼れ自から云ふが知く、
利己主義、實利主義の時弊を救済せんが為めの、
對症薬と考へられたのでもあらうが、
この教義は、他人の親を視ること、我が親の知く、
他人の身を視ること、我が身の如く兼ね相愛し、
兼ね相利すると云ふ、平等無差別を、強調するところにあり。

 學事の根拠を理論に措かす、天神、天意を採用し、
鬼神の存在を信じて『上は天を尊び、中は鬼神に事へ、下は人を愛す』と、
古賢の事蹟よ帰納して、宗教的信念によって、兼愛公利を図ったのである。

 ところが徹底的に個人主義である支那人仲間に、
この説が實行される筈はないので、
却って彼の唱へた非戰的平和主張のみが、
支那人一部の人心を支配して居るのみで、
昨今の支那に兼愛なるものはない。
  


笠井 孝著『裏から見た支那人』匪賊の國  

2024-02-22 11:42:28 | 中国・中国人


    笠井
孝著『裏から見た支那人』
 
 
 
 
 匪賊の國
  

 兵匪・・・・・士匪・・・・・學匪・・・・・中華匪國  

〔兵匪〕  
 支那は、古来匪賊の國である
昇匪(官匪)、土匪、學匪、政匪、
これ等のものは、昔から支那に横行する名物であって、
支那の民族性に及ぼす影響が、少なくない。

兵匪とは、云ふまでもなく軍隊のことである。
支那の軍隊は、元来土匪、浮浪人、乞食の集團である。
  
 漢の武帝の時には、死刑囚、亡命者、浮浪人、有罪の官吏を以って、
兵と爲したと云ふことがある。

 唐の五代には、兵の逃亡を防ぐ爲めに、入墨をしたが、
それが却って入墨をされた者は、悪者であるとの代表語になった。
  
 支那では『好不打釘、好人不當兵』
 (好い鐡は釘にしない、好い人は兵にならぬ)
と言ふ言葉があるが、
兵には、すなはちゴロツキの寄り集りであるから、然う云ふのである。

 支那の或る地方では、兵のことを丘八(キウパ)と云ふが、
これは支那語の悪口『王八』(馬鹿野郎)といふことを、
モヂって使ふ
ものである。
四川の或る地方では『棒客』(鐡砲を舁いだ御客なぞと
言ふ意味に使はれる)と呼んで居るが、
これなども、兵に對する侮辱の言葉である。

 兵は斯やう嫌われるものであるが、
これは支那には、國を護る為の國軍は、事實上一兵もなくて、
却って兵は、内乱と、利權争奪と、私利私欲を肥やすめの道具に、
使用せらる
るからであって、支那軍は私兵、すなはち兵匪である。

〔土匪〕   
 次ぎは土匪、すたはち馬賊、匪賊である。
浮浪人は、兵隊になるか、
然もなければ、土匪になるのが、支那の實情であり、
軍隊でも、金を貰へなくなれば、直ぐに兵變を起したり、
逃亡して、土匪に變って終ふ。

 だから軍は、土匪の収容所、土匪は反對に軍隊の出張所見たやうなものである。
都合の善い時は兵になり、都合の悪い時は、土匪で稼ぎ、
結局政府で養って居る時は、軍隊と云ひ、
自分で稼ぐ時は、土匪、匪賊と云ふだけの差しかない譯である。

 張作霖や、張宗昌が、土匪の親方であり、
明朝や、清朝を拵らへた朱元璋や、愛新覚羅も、源を凱せば、皆匪賊である。

『王侯将相豈種子あらんや』で、土匪も風雲に乗ずれは、
昇天して天下を支配をするのが、支那である。

 また支那では、士匪と、軍隊とは、富者から金を取上げて、
貧乏人に振りまく一つの社會的中間機関とも見得るので、
無くてはならない一つの存在であるとも、云ひ得らるる。

〔學匪〕  
 つぎは學匪である。
 支那に、讀書階級と云ふのがある。
 昔から官吏は、出世の登龍門である。
官吏になって、タンマリ金儲けをせんが為めに、経書を讀み、學を習ふ。
併し官界には、色々私情があって、中々容易には官吏になれれぬ。
官吏にありつくことが出来なかったものは、滔々相率ゐて、學匪になるのでのである。

 彼等の武器は言論であり、筆である。
口に親日を唱へるものがあれば、親英を唱へるものもある。
國權回収を叫んで、日貨排斥や、愛國運動に聲をカラすものもあり、
時の政府の秕政を擧げて、土匪と相結んでで、國を奪はんと図るものもある。
皆これ學匪である。

 古来學匪は、圧政の統治者を困らせたもので、
流石の秦の始皇帝も、これ等の學匪には腹らを立てて、これを坑にし、
諸士横議を禁じたが、
これは適ま登龍の門に落第した學匪の災害をなすこと、古今無数であることを、
反面から証明するものである。

 官吏となって、我利を積まんとして、敎育を受けたるものは學匪となり、
學問もなく、官吏にはなれないものは、兵匪となり、土匪となって、
直接行動を採るだけで、匪たるに於いては、何れも同じことである。

 『官たるも安からす、匪たるも靖からず」と云ふ譯で、
流離變轉の定めない支那に於いて
は、上は大總統から、下はボーイ、小僧に至るまで、
手つ取早いところ皆匪であ。
 それが居る地位によって、官匪、土匪、學匪と云った工合に分れるだけで、
何れも匪たるに於いて、擇ぶとこらがない。

〔中華匪國〕
 大谷光瑞氏は、
謂はゆる『中華民國にあらすして、中華匪國なり。」と、断案を下して居るが、
全くその通りで、
極端な悪口を云ふならば支那をリードするものは、
生きんが為に働らく土匪の集團であると云ふことが出来る。

  

 普通の日本人は、
喧々騒々たる排日運動を見て、これは大變だと、喫驚するが、
これな別に驚かんでも善い。

 あれは要するに學匪共の排日屋とか、愛國屋のする仕事である。
彼等等は、排日業が商売であり、愛國業が本職なので、
諸君が會社員であり、銀行員であるのと何等變りはなく、
愛國屋、排日屋等は、所詮は飴屋のラツパ見たやうたものである。
  
 元来支那三億九千百萬の庶民階級は、排日屋、愛國屋には無関心である。
讀書階級、治者階級(別の名を學匪、政匪と云ふ)と、
庶民解級とは、全然別な軌道を歩いて行くものであり、
この兩者
は最初からレールが違ふので、永久に異なる途を行くべき運命にある。

インテリ階級は、飴屋のラッパを吹き、
庶民階級は、イヤイヤながら、飴が欲しさに、このラツパに跟いては、踊るのである。

 支那の實際を知ろうとすれば、この飴屋のラツパに、惑わされてはならない。
何となれば、あの八釜しいラッパ吹きの飴屋がなかったら、
自分達は、何んなに幸福であらうかと考へるのが、
彼等庶民階級なのであるからである。

 彼等庶民階級は、自ら耕し、自ら労働し、營々とし努力し、
郷村は郷村、錢業は錢業、小賣屋は小賣屋と、
それぞれ環境第に応じて、自ら社會社を形成し、
その上に國家も、統治者も、何も存在すべき必要を認めない。


 民衆は平穏に生存が出来、生命財産の保護をして呉れるものさへあれは、
その英たると、米たると、将た元たると明、清たるとは、
彼等の問ふところではないのである。


 だから支那は、國家にあらずと云ふので嫌がる坊や裃着せて、
千秋は萩の千松様で奉られるよりか、
泥のついた飴玉でも大をいのを一つ貰う方が、庶民の本當の喜びである。


笠井 孝著『裏から見た支那人』 國家組織と社會組織

2024-02-21 22:34:12 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』

  
  

 
   
國家組織と社會組織
 

 端的に云へば
支那は國家でなく、民家の寄り集まった一つの社會に過ぎない。
民衆は、多年無慈悲なる統治者によって、苛められ、搾取せられ、
そして然かも年々北方の寨外民族からは、迫害を受けて來て、
ツクヅク、政府の不甲斐ないのを、熟知すること、ここ四千年。

 政府が、自分達の實生活に、寄與するところのないことを、
ツクヅク政府の不甲斐ないのを知って居る。

 従って彼等は、自ら自己を保衛するのに急であって、
また他人をアテにしない。加ふるに支那の社會的實況と、
民衆の間に行はれて居る利己本位の宗教的観念とは、
人の為めに奉する義務犠牲の観念から遠ざかって、
極度に、自己防衛のみに專念する
やうな状態となり、
これ等の思潮は、相率ゐて國家否認の思想となり、
統治者を呪ふ心理となる。
 
 殊に歴代の政府は、何等かの名目で、
金踐を横領し徴収し、税金を横領し、
權力を笠に着て、賄賂をフンだくるし、
さらに軍隊は、その上に民衆
を、武力を以って搾取する。

 ところが人民も、また斯んなことには諦めが善く、
天災、水災の外避け得られないものに、兵災と云ふやうなところで、
安心立命して居る。

 兵災と云ふのは、兵乱や、掠奪やらのことである。

 内乱の度ごとに、今年は兵災だからとて、
沒法子(仕方がない)と諦めると云ふのが、支那人である。

 彼
為政者、軍隊に對する人民の観念は、斯の知くであるから、
その結果勢ひ自衛の團結たる自治の社會が出來、
自存自立の集團が出來て、利害相通する一村一族、または同一業者が、
一つの結社結合を形成することになること、上述の如しである。
 
 話が少し横道にソレたが、上に述べたところだけでも
『支那は社會ではあるが、國家の形態を備えて居ない」と云ふ命題が成立っことが分らう。

 前にも述べた如く、この國民には、國家思想と云ふものがない。
また從って国家観念がないのみならす、
國内の政治も、亂脈なる場合が多い。

 彼等は自からを、中華など、云って、ま威張って居るけれども、
實際のところは成って居ない。

 例へば、清末の革命以来ことにここ20年になるけれども、
その謂ふところの統治の内容を見たならば、法律関度は整はす'内治は擧らす、
さらに警察でも、刑務所でも、官吏の服務でも、
有らゆる方面に於いて、國家の實質を備へたものが一もないと云ってよい位である。

 孫文出でて、三民主義、五憲憲法なぞと、一廉心得たやうなことを云うけれども、
總てこれ口頭禅。官吏の搾取上の新看板に利用された外、
何等の實質もないと云ふのが、遺憾ながら事實である。

 斯くして支那は、依然として四千年来の郷村政治であると云ふのが、
適評であり、少なくとも近代的國家組織の要件を、備へて居るとは云へない。
すなはち表面的にも實質的にも、世界稀れに見るの非法治國である。

 支那を斯くならしめた原因の一つは、
この國民の極度の融通性、御都合主義にある

 彼等は、外國を眞似て憲法を作り、法律を發布し、商法、民法を公告して居るが、
一度その制度の運用を直視したならば、全くアキれ返る。 

 例へば司法制度の内幕を窺って見よ。
その裁判が、如何なる事を爲しつつあるか。

 その刑務所が、如何なる状態にあるか。
統治者は、無裁判で以って、死刑やら、首切りを、今尚ほ平然として行ひ、
青龍刀を以ってする野蛮なる首切りと、街上の晒し首とが、
今尚ほ公然と行なはれつつあるのである。
 重ねて云ふ。彼等は御都合主義である。

 さらに禪學者でもある。
故に二と二を加へて、五にもなれば、
その時の風向き次第で、三にも
なること位は、平気の平左である。

 従って刑法でも、民法でも、そめ時の賄賂と袖の下次第、彼等の風向き次第で、
如何やうにも變更し得るのである。
彼等は端的に云へば、法的無責任者なのである。

 それにも拘わらず、彼等が、國権とか、愛國とか、八釜しく云ふのは、
彼等の對外、對内上の一種の體面からであって、
外國に對する必要上からのみ、國家と云ふことを意識するけれども、
支那人なるものは、煎じつめたところ、個人以外には、何ものもない民族である。
  
 だから支那人の用ふる國家とか、國民とか、愛國とか、国權とか、国益、國境などの言葉は、
悉く『國』の字を取り去って『我』と云ふ字を、置き換へるべきもの
であり、
然うすれば意味は極めて明瞭になってくる。

 また、従って愛國とは利權回収とか云ふものは、名前は堂々として居るけれども、
所詮は我利、我欲を遂げるまでの売名的看板に過ぎない場合が、頗る多い。 

 支那人の統治観念は、前にも述べたやうに、國威の及ぶところ、
すなはち天下である。『天下は天下の天下である』との観念が濃厚である。

 すなはち蝋燭の火光の及ぶところが、天下なのある。
従って國境観念などは、極めてアヤフヤであり、
この民族は、何處までも超國家的の民族であるか、
分からない一種のコスモポリタンであると云ふ、
強い印象を受ける。

 國民教育などと云うものも拠るべき根拠はなく、
孔孟の教のようなもので、為政者の便宜主義から、
利用せられて居たに過ぎないし、社會主義、共産主義の如きも、
早く四千年の昔から、唱へられ、考へられて来たと云う國柄で或る。

 かかるが故に彼等に取っては、國家組織など云うものは、
他人の着ているオーヴァー・コート見たやうなもので、
彼らに何等の實在と利害があるものではないと云ふものは、
當然以上の當然でなければならなぬ。

 これを要するに、漢民族は、謎の民族である。
ユダヤ民族と共に、世界に於ける最も頽廃したる、
然かも社會的、民族的には、未久不減の民族である。

 支那人は、能く我等に向って云ふ。
『我々はアナタよりも、数百年だけ、文化が進んで居る。
 だからモウ二、三百年も経てば、歐米人もアヘンを吸い、
 麻雀もやる、賄賂も取ると云ふことになる。 
 さらに五、六百年もすれば、日本人も、我々と同じ程度の個人主義となり、
 バクチでも毒殺でも、アヘンや、モヒでも朝飯前になる』と。

 これは彼等の眞實なる半面を遺憾なく發揮するところのエピソードである。

 つまり支那人は、散砂の如き民族である。
水か、
セメントか、強力な媒介者があれば、團結し得るが、
一度強力のタガを取去れば、砂は何処までも砂である。

 個人として、良好なる勤勉家であり、
個々の砂は、堅實そのものであって、永久に不減であるが、
他力なしては、國家組織などの出来る國民ではない。

 再言するが、支那は、國家でなない、社會である。
 或は民衆の集團村である。


笠井 孝著『裏から見た支那人』 統治者と被治者 

2024-02-21 22:23:56 | 中国・中国人

   笠井 孝著『裏から見た支那人』 


 
 統治者と被治者
 

  官吏不要・・・・・良政は無爲・・・・・賣官と換地
・・・・・軍用金・・・・・影法師と金だけ・・・・・糞厄介な政府
 

〔官吏不要〕
 支那二十四朝の史は、易世革命の歴史であることは、前に述べた通りであるが、
そもそも支那人が、官吏になり、政治家になるは、何の爲めかと云ふに、
それは天下國家を治めんが爲あでなく、一に金を儲けんが為である。

 支那では、統治者と被治者とは、判然区別せられて、
永久に一致することのない、別な軌道を、歩いて居るのであるが、
その内治者は、如何にして民衆から金を搾り、
如何にして金を儲けるべきかを考へるのみで、
治めらるる者の利害なんか、全く問題にして居ない。

 『依らしむべく、知らしむべからす』とは、
支那の封建制度時代から、今日まで終始一貫、
奉じて易らざるところの統治者の鐡則である。
 
 支那人には國家観念がない。
否、國家観念がないのみならす、被治者は、一種の無政府主義者である。

 勿論、歐米諸國に於けるアナーキストとは異なるけれども
『官吏と、土匪と、警察とが無くて、
法律や、租税が、無かったならば、
 何んなに有難いことだろうか』と思ふのが、
支那四億の庶民の考へ方である。
  
 貪欲なる官吏と、残忍なる土匪とは、共に何時でも人民に對する加害者である。
だから人民共は、常に斯んな者が無かったら、何んなに善いだらうかと思ふのである。

 『政家顧蒼生之計、蒼生不天下之策』と云ひ、
また『日出でて耕し、日暮れて寝ぬ、井を掘りて飲み、
田を耕して喰ふ、帝力我に何か有らん』とも云ふ。

 支第人の腹の中を断ち割ってれば、古今を通じてこの観念が濃厚である。

〔良政は無爲〕
 また昔から政治の要道は『無爲にして化す』
『良政は徴税せす』『無政が最良の政治である』と云はれて居り、
民衆に拘束を加へず、租税を徴せす、時にモラトリウム、
すなはち徳政をして、窮民を救済するなど、政道の簡易が、
一番の善政とされて居る。

 従って支那では、煙草でも、鹽でを関税でも、
その種類が関節税たる消費税であり、イクラ高くなっても、人民は平気であり、
餘り高価になれば、下紙品で我慢するだけのことで、
この辺極めて靭軟性に富んで居る。
 
 ところがこれが直接税、
すなはち個人割税の税金になると、俄然形成が一転する。
直接税になると、少しでもこれを徴収することは、民衆の頗る喜ばざるところである。

 支那人が官吏になるのは、前云った通り、金儲けの為めであり、
従って自己本位である
ことに於いては、實に徹底したものである。

 従って人民の實状を能く心得て居て、巧みに誅求の方法を考へ、
裏面的に、民衆から金を搾ることに掛けては、實に驚嘆すべきものがあり、
また徴税も多く請負賄で、何県から幾何、何村が幾何と、
何等かの名目で搾り取る為め、人民は極度に税金をイヤがるのである。

 試みに官吏の悪行方面をを素破抜くと、
昔から支那では、何県の知事は一萬圓、何町の警察暑長は三千圓、某地郵便局長は二千とか、
云った工合に、官吏の株や、価格が決まって居る。
 
 今でも尚ほこの種類の売官制度が、窃かに行なわれ、
官吏になりたいものは、何千圓か出して、窃かに前任者の地位をひ買い
取り、
人民から、成るべく多くの」税金を取り立てて、成るべく早く、代金を回収してやるのである。

〔賣官と換地〕
 清朝時代には、一省の官吏を、同一の土地に固定させない為め、
換地の法を行なったが、これ等の制度は勢ひ、官吏として、年限と、時間の許す限り、
成るべく速やかに貪り得るだけの金を、搾り取る習慣を、養なはしめたものである。

 官吏の態度が、斯ういふ工合であるのに搗
てて、
加へて、人民の保護に任すべき軍隊も、警察も、また何とか口實を設けて、
人民の懐を搾ることに餘念がない。


 支那で喧嘩をして、警察にでも訴へようものならば、
金持は金持なみに、貧乏人は貧乏人なみに、
何とか口實を設けて原告、被告兩方面より幾何かの金をセシめない限りは、
到底結末をつけて呉れないのが常であり、
何の爲めに警察に訴へたのか、全く分らなくなるのが通則である。
これは明らかに、喧嘩兩成敗と云ふべきであらう。

 また國家の保護に任ずべ兵隊は、別に國家の保護などは遣らぬ。
 お互いに内乱に没頭するはマダしも、
何とか口實を設けて、住民地の傍らに陣営を張り、今にも戰争が起りさうな様子をする。

 ソコデ自分の街の傍らで、戰争をされては困るから、
何んとか戰を止めて貰ふやうに、商務總會辺りから懇願するけれ共、
幾何かの軍用金を奉納せない限りは、何んなに言うても止めるものではない。

〔軍用金〕
 仕方がないので、十萬なり、二十萬圓なりの軍用金を整へて、
御願ひに上ると、ここで始めて『我良民を泥炭に苦しむるにし忍びず』とか、
何んとか、尢もらしい世間へ口實を設けて、また次の村に行く。
だから何のことはない、兵隊は、銃を特ったたユスリの團體である。
 
 斯くの如く官吏は駄目、兵警も駄目だとすると、民衆は諦めよく、
自分で自己を防禦するか土匪にでも、保護を頼むの外ない
のである。

 支那の土匪は、一定の地域に縄張りを特って居て、
それを、それぞれの村から冥加金を徴集して、
その代りに、これ等の村は荒らさないと云った仕組みのものが、沢山ある。
 だから官吏よりか、軍隊よりか、土匪の方が、村人には有難いのである。

 その外自己防衛の爲めには、村々には自衛團なるものがあり、
これは金を出して村に警護兵を養って居る組織である。

 また間断なき官吏の圧迫に對抗する爲め、
自然に同業者、同郷者が相團結して自己防御をやることとなる。
各地にある山西會館、廣東會館とか、山東同郷會、錢業公會とか、青帮、紅帮と云ふやうなものも、
それぞれこの種團結の現れに外ならぬ。
 

 統治者が、無力であり、不誠實であり、
それで自己以外には、何物も頼ることの出来ない民衆は、
その複雑なる家庭生活の中に於いても、また同様であって、
親も頼りにならす、妻も、子も、アテにならない。

 お互びが疑ひ合ひ、ヒガみ合って生をて行くと云ふことになる。

〔影法師と金だけ〕

 誠に気の毒な話で、徒等支那人としては、自己と、生死を共にするものは、
只影法師と、お金だけである
から、金なるかな、金なるかなと考へ、
金と心中する支那人、金故には何んな屈辱も、
意とせない支那人が、少なくないのも、
また無理からぬことである。
 支那人が、利己主義になるのも、自然であると云はなければなられ。


 これを要するに、支那には政治はないのである。從って政府もないのである。
然して官憲は、會社、銀行と同様単なる利殖機関、金融機関であるのである。

 彼等は知何にして、最も多くを民から搾り取るか、
これ以外に考へて居ることはない
のである。
 そこで反對に被治者であるところの國民は、オレが儲けた金で、オレが暮らして居るのに、
何で治者の必要があるかと、考へることになる。

 治者、被治者の頭が、斯んなである以上、
全く以って、政府もなけれは、政治も何にもなく、
また政府も、政治の必要もない譯である。
 
〔糞厄介な政府〕
 卑近な例を擧げると、ここに盗難があったとする。
そこでこれを届け出ると、届けた奴を、警察は却って拘禁する。

 泥棒の這入るやうにしたお前が、第一悪いと言ふ理屈である。
そして取られた本人から、五圓か、拾圓の袖の下を取って追い帰へす。
萬事が斯うであるから、良民は、泥棒に取られ、警察に取られると云ふのだから、
誰も警察などを相手にせぬやうになる。
 つまり政府は、民衆に取って糞厄介な存在なのである。
 


笠井 孝著『裏から見た支那人』支那を禍する家族制度

2024-02-21 22:14:07 | 中国・中国人

      笠井 孝著『裏から見た支那人』 

   
 


  支那を禍する家族制度
 

  畜妾と陰険・・・・・・同種團結・・・・・・食客三千人・・・・・・質屋と骨董屋  

 諺に『氏より育ち』と云ふことがあるが、支那人の國民性を観察するには、
その因って来るところを窺って見ることが、特に必要であると思ふ。

 支那は、大家族制度の國である。
古来姓氏族裔の維持保存を、八釜しく云はれた開係もあらうが、
同族の給合は鞏固であり、家々には、各々族長があって一切資産を管理すると共に、
一切の家族も、皆その権力下に擁護せられて居る
のが多い。

 換言すれば、私が家長だとすると、一切の財産家族は、私の管下にする。
その代り妻子兄弟は匇論、叔父、叔母、弟の妻、妾からその子に至るまで、
生きとし生ける者は、皆その管轄扶養を受けるであるから、
依頼心と、無自覚とが、この間に培われるのも自然である。 

 また一方支那人の習慣として、血族の断絶を嫌ふ関係から、
妾を蓄える習慣がるが、金持になると、3人も、5人も、7人もの妾を蓄へ、
それが皆同じ一家の中に、正妻などと同棲し、その御住人になる。

 これ等の妾や妻が、御互に鎬を削り、裏面の暗闘に、
日もこれ足りない有様になる
のは、當然の次第であろう。

 支那人が陰険、残忍であるとか、且つ陰謀性に富み、
毒殺姦通等各種不道徳の多いのも、起りはこの辺から
である。

 一夫多妻で、一家の中に多くの妻妾同居し、
これ等の妾が、それぞれ、多くの子供を生む。
子供同志は、何の関係もないので、盛んに相排斥する。

 妻妾は、黨中黨を建て、召使まで黨同伐異、裏面の暗闘をやる。
これ等の反面には、またお互いに子供同志夫婦になるのもあるし、
妾の子供と、他の妾とが姦通したり、
宝族の某と、妾とが貫通するとか云ふやうな、陰険奸悪絶え間なしで或る。
  
 大きな一家になると、このやうな人間が、百人も、五十人も、同居するものがあるが、
斯うなると自然相互ひに葛藤を生じ、
相排斥の結果は、陰険極まる性格となり、中傷離間讒訴を事とし、
終には人を殺すのやら、殺人をせざるまでも、
毒薬を盛ると云ふやうな手段を取るに至るので、
これが今日の支那人の性格の半面を作り上げて終わったとも云経る。
  
 斯くして残忍にして陰険な性格は、この家族制度から發生した最大の産物であり、
この複雑な家庭的
環境から培われた、根抵深きものである。

 さらに支那人には、同族、同郷、同學、
或は同業者なるもの相團結する習慣が、生れて居る。

 同族は、血縁團體として、同業者は地縁團體として、
その外に同業團體やら、職業團體やら、社會的に、
この種同種類のものが相聯合して、圏結する習慣がある。

 これは支那のやうな、國家の統治力の弱い國では、
一族一村の自衛上からも、この種の團結が必要となるのであるが、
その結果は、頗る變挺なものとなる。

 例へば私が、假りに知事になるとか、或いは他の役人になったとすると、
そこへ先づ一族相携へて、中には妻妾迄も召し連れた食客が、押しかけて来る。
同郷者は、同郷者で、何とか云ふ名目で訪ねて來る。

 同期生は、同期生で、同學であるとか、同校出身であるとか、
盟々なる口實で訪ねて來ると云ふことになる。

 ところで支那人の習慣として、
この種の食客を、一月でも、ニ月でも、快よく置いて、敢て嫌な顔もしない。
これは慣例上然うする迄であり、また、面子上然う努める點もあるが、
兎も角大變なことになる。

 従って
孟甞君の謂はゆる『食客三千人』の知きも、
必らすしも法蝶ばかりではなかったと思はれる。 

 支那の社會制度が、右のやうな有様であるから、
家長、族長になる者は、自然多額の経費を必要とし、
妾を連れて食に来る次男坊、三男坊から、
その下女、下男までも養って遣らなけばならぬのであるから、
その経費たるや、また到底少しでは済むべき筈がない。
 
 日本あたりに留學した新進の若者が、非常な意気と、決心とを以って、
心窃かに青雲の志を抱いて帰郷するのであるが、
一度郷里に入れば、右のやうな家族関係から、有象無象を、
一切自分の手に引受ければならぬ。

 廉潔政治を謳歌して、同天の意気を以って、官途に就いた新青年も
この雰囲気の中では、トウトウ己むを得ず、やはり金錢の爲めに、
働かればならぬ破目になり、やがてそれが収賄となり、不正事件となり、
金銭に餘念なきに至る
のも、また已むをないことではないか。
  
 私に一人の友人が居る。
彼は聯隊長であった。位は陸軍の少將、月給は300圓である。

 彼は日本留學時代に、相思の仲となった日本娘と、
支那の家族制度から押付けられた第一婦人と、
第二、第三、第四婦人とを特って居た。 

 これ等夫人との間に出来た子供が、大小合せ17人、その子供等に、一人々々の頭、
すなはち召使と、外に門番、馬夫、掃除苦力、コック及びこれ等の妻子まで合せると、
如何に少く見積っても、一族50人である。
  
 これだけの人間の衣食を預かって居たのでは、月300円では到底足らう筈がない。
そこで已むをず、悪いとは知りながら、月々官金をゴマ化したり、
部下の頭を刎ねたり、乃至はヘソクリで以って、
別に何等かの商賣でも、兼業せなければならぬことになる。
『これでは私が貪官汚吏たるも、また已むを得ないでせう』と、
ツクズク、彼は、私に述懐したことがある。

 支那人はよく初對面に際し『アナタは何商賣ですか』と聞くが、
イヤ私は官吏でこれこれだど云ふと、
『それは知ってるが、御商賣は何ですか』と聞きへす。 
 
『官吏や、公吏に、商賣があるはないではないか』と云ふと、
彼は如何にも不思議さうに、腑に落ちない顔をして、
支那では將軍でも質屋をやり、
知事が、骨董屋や、女郎屋を経営するのが、當然だと返答する。
 
 斯くの如くにして、家族制度そのものは、必らすしも悪いことではないとして、
支那に於いては、その弊害の趨くところ、
腐敗の種因が、こゝに蒔かれることを、遺憾とも為し難い。

 以上述べたことは、
家族制度の不良なる反面のみを、記述したのであって、
五世、六世にも及ぶ百何十人かの大家族同居も、珍しくないのみならず、
實に一糸紊れず、感心させられるのも少なくはない。
 
 この家長が、絶對の權利を持って居り、
各人は、金を得ても、勝手には使わず、
共有財産として、一家の生活に當て、一家中誰彼と云はす、
良く扶け合って、誰れの子と云はず、泣いて居れば乳もやり、世話もしてやると云った、
誠に靄然たる點もないではない。

 従って支那では、
一家の繁栄、一族の榮誉の為め働くのが、固定せられた習慣となり、
また從って君恩、國恩よりも、先づ以って家門の為めを考へる。

 その代り一人悪ければ、一族が誅せらるる、
即ち罪九族に及ぶと云ふことなども、珍しくない。

只ここでは家族制度の内容を、詳述するのが、目的ではないから、
これを省略して、唯家族制度が資らしつつある悪い面のみを述べて置く。

 


笠井 孝著『裏から見た支那人』 漢民族概観

2024-02-17 22:39:09 | 中国・中国人


    笠井 孝著『裏から見た支那人』
 
  
 

   
 漢民族概観  

   シャボン玉 
 ・・・・・多元的黄河の文明 
 ・・・・・世界の坩堝  
 ・・・・・チャイナ 
 ・・・・・領土観念 
 ・・・・・蝋燭の光 
 ・・・・・國家観 
 ・・・・・社會文化   

〔シャボン玉〕

 日本と支那とは一衣帯水の國であるにも拘わらず、日本人ほど支那研究の不十分なるものは稀である。
従来支那に對する幾多の研究、乃至文献の如をも、欧米人間には相當多数にあるけれども、日本人の研究には、兎角十分でないのが多い。
 
 隣那支那を研究するのに、出来てはつぶれ、出来てはつぶれるシャポン王の如き支那軍閥の興亡を、一喜一憂し、また革命戰や、内爭や、南京事件や、排日や、経済絶交等々、逐次遷り變る事件の根帯を究めすして、只単に目前の時局問題を論じ、支那の将来を議するの輩が、多数にあるが、

〔多元的黄河の文明〕
 四千年来培われたるその國民性と、社會状態の實相、裏面、實に複雑多岐であって、これを追究し、その根本認識を確実にして、不變なる國民性を通じて、時局を論じ對策を講ずることが、支那では特大切であり、その根幹を究めずして、風のまにまに、動くところの枝業末節を見て、徒らに對支策を論るが如きは、愚の骨頂である。

 早い話が、隣人の性格を知らず、経歴も知らずして、これを批判し、これと親善するの、喧嘩をするのと云って見たところで、所詮無駄なことである。
 萬人皆不可解とする隣邦支那を研究するには、先づその国民性を研究せねばならぬが、国民性は地理、歴史、習俗等の反映である。故に先づ支那を形成する主要民族たる漢民族の由来を、厳に討究するの必要があるのである。

 順序として、先づ上古以来の支那歴朝の變遷、日支交通関係等を、想起する必要があるが、それは専門の研究資料にゆづり、今その概要を摘記すれば、次ぎの通りである。

〔世界の坩堝〕
 支那二十四朝興亡の跡を尋ぬるに、それは謂はゆる易世革命であって『天下は天下の天下なり』との思想が、濃厚に動いて居る。然れば、金、遼、元、清の如く、異種民族が、中原を統治しても、彼等漢民族は、少しもこれを不思議とせず、三代以来、未だ曾て厳密なる意味に於ける支那全土の統一を見ず、

 世界即ち天下、天下即ち國土であって、清末を除くの外、何れもの時代に於いて、殆んど厳密なる意味にける國境はなく、一、二の例外を除くの外、歴朝多く豪族及び官僚の壓制政治であって、統治者と被治者とは、永久に分離して居る。
 これ等のことは、後述國民性の研究上に、留意すべき重要なる事柄である。

 支那文化の中心であった黄河流域には、太古でも、夏以外に彭、磐、瓠等の幾多の種族があって、比較的優秀なる漢民族の爲めに、抱擁同化されたけれども、漢民族そのものは、當時からに幾多の人種を合した多元的なもので、決して日本のやうな、純粋無瑕の單民族ではない。

 周の知きは、習俗から言っても、確かに夏、殷とは異り、一説には、夏、殷、周は、同時に存在したとさへも云はれて居る。
周の時代は、孔孟、儒教の哲學、孫呉の兵法等が出来た時代で、實に西暦紀元前五百年、神武天皇の少しアトに、既に子曰くや、社會主義共産主義があり、彼の蜿蜓五千支里に亘る長蛇の如き萬里の長城も、西暦紀元前200年頃に、既に嚴存して居たのである。

 然れば漢民族が黄河の文明を自慢し火薬や、磁石、農耕、養蚕、または航海術等を似て、世界に自慢するのも一理あることで、唐、宋時代の芸術に至りては、ギリシア、ローマの文化と遜色なく、支那人が、古來中國と誇り、中華と自愡れ、日本人を、東洋鬼、欧米人を西洋鬼と言ふのも、強ち無理からぬことと云はなければならぬ。

 併しながらそれは、畢竟早熱した子供が、尋常小學校で優等生だったことを思うて、老後をも誇らうとするのと同じであり、またこれ等の誇り、是等の矜特が、やがて増長限りなき彼等の民族性を造り上げたことにもなる。
 さらに仔細に、漢民族發展の跡を回顧すれば、その裏面には、不健全なる社會組織と、案外民族の間断なき侵略とがあり、これが爲めに天為の文若民族漢族は、歪み歪んで、卑屈に柾げられた點が多く、支那人一流の歪み根性の起因ともなって居るやうに、見受けられる。

 漢民族は、今から五千年前、支那の内域より中原に進出して、黄河流域に擴まって居たと、歴史は語って居る。そして彼等は、自ら文明人を以って任じ、先住民族を視るに、蛮夷と稱して、自愡れて居たものであるが、これは甚だ迷感至極な自愡れで、世界の有らゆる文明は、我々漢民族の發明にかかると、今日尚ほ威張って居るのであるから、呆れたものである。

 火薬の發明、
小銃の製造は素より、近代文明機械のタンク、飛行機の如きものまで、我々が往昔に於いて、既に早くそうし發明したのだと、平然と天下に向かって自惚れて居る。但し感心なことには、ラジオや、無線發明したのだとは云はない。

 斯くて西方より、黄河流域に進出した漢民族は、逐次千十弱小民族を駆逐して、漸次膨大を加へて行った。
 圧迫された先住民で今尚残って居るのは沢山ある。例へば南方福建、廣西及雲南の一部地方に、住居して居る苗族が有る。
苗族は、元来漢民族と、その性格を異にして居る。一例を以って云へば、漢民族は、直接武器を取って、殺人を行ふよりも、好んで暗殺毒殺をするが、苗族は、勇敢に、明殺を敢行するなど、恰も日本人の性格に似たところがある。

 今日苗族中からも、錚々たる人が、随分多く輩出して居り、岑春煊などもその一人だといふことである。苗族の外に、曾ては呉、越地方(上海附近)に、呉族などがあったけれども、これも多く南方に圧迫されて終った。

 さて一度中原には進出した漢民族は、四隅皆蛮族にして、我のみ文明人なりとは自惚れながらも、彼等が賤族からは、絶えず武力的圧迫を加へられて居たのは、奇観である。

 すなはち東北方には蒙古人あり、満洲人あり、南方には苗族あり、西方にはキルギス人ありと云った始末であるのに、脆弱なる漢民族は、これ等諸民族の武力的圧迫に對して、断然兵器を取って戰ふの勇気はなく、只口先ばかりでワメキ立てるに過ぎなかった。丁度虐められた弱虫が、ガヤガヤ口先ばかりで我鳴り立てるに等しいが、斯かる無気力な人種が、次第に卑屈になり、陰険な性格となって行ったのは、當然なことだとも云へる。

 漢民族は、これ等の蛮族によって、間断なく中原を犯されて居たが、約二千百年ほど前、秦は終に中原に国を成して、漢族に向って君臨することになった。
 秦は、北方の蛮族である。秦が天下を取るや、自ら萬里の長強を修築して、北方よりの蛮族の侵入を防いだことは有名であるが、秦自身が、北方より進出した異民族でありながら、更に北方に長城を築いたのは、不思議なやうに思はれるが、實は不思議でも何んでもない。
 何となれば中原に進出した匈族が、漢族の文化に感染して、漸次骨無しになって行ったことの證左に過ぎないからで
る。

 爾来随、唐の末年頃より金、遼の侵入となり、宋末以後、蒙古民族が進入して元の世となり、満洲民族の進出は清の世となつて、幾度か変遷したのであるが、最近漢民族を圧迫せんとするものは、俄然蒙古の辺境に進出して来得べき北方民族だとも云へる。

 斯の如く、幾度かの支配民族は、北方から侵入したが、何れも漢民族の文化を呼吸するに及んで、何時しか軟化し、腐敗して、漢民族に同化して終わったのである。
誠に漢民族こそ不思議な存在である。 

 或る人がこれを評して、漢民族は坩堝なりと云った。
正に適評なりと云ふべきである。有らゆる民族を融解同化する恐るべき坩堝である。


〔チャイナ〕
支那地理の概要

 歴史的研究は、本書の目的ではないから、これ位として置いて、さらに地理方面を、概説して本文に入ることにする。
(一)支那の名称
   起源は種々あるも、秦時代の名称Chinが転化してChainaチャイナ、
   或は支那等となったと云ふ説が、有力である。
   またロシア語の支那昔キタイは、契丹から転化したと、云はれて居る。

(二)面積 
   支那本土たけで約百五十萬方マイル。辺彊を合すれば430萬方マイルで、
   欧州大陸よりも廣く、日本の約26倍、四川一省だけでも、人口八千萬。
   日本より遥かに大とせられて居る。

(三)人口約四億
   世界人口の四分の一と云はれて居るが、詳細なる統計は不明である。
   密度は、山東が最大で700人、廣西が70人、蒙古、新彊2人、支那本土平均270人。

(四)人種
   漢満蒙回蔵五属と呼んで居るが、西蔵、外蒙古及び満州は人種的にも、
   これを支那の領土と、看做すべきや否や、疑間である。
   民族的に云へば、漢民族は3億7、8千萬を占めて、支那本土の代表的人種である。
   満州民族は二三百萬と称せらるーが、支那本土に於けるものは、殆んど漢人に同化せられて居る

 蒙古人は、300萬内外を有するも、その分布は廣範囲に互って居り、種族もまた多様である。
囘敎徒は甘粛、新彊地方より、雲南、陝西、河南等その他洽く各地に分布し、豚を喰はす、また宗敎上の信念篤く、團結また固し。

 人口1500
萬乃至2000萬を有すと云はれて居るが、単一民族ではない。
西蔵民族は約700萬と称せられ、ラマ教を奉じ、言語風俗、漢民族と異なる。
但し以上の数字は、必やしも確實なものとは云へない。 

 この外に雲南、貴州地方に苗族あり、その他辺彊地方には、漢土の前住民族である幾多の民俗が混在して居るので、支那人を研究するには、漢民族だけを研究したのでは、十分ではい。

(五)地勢
 南船北馬の語に漏れず、揚子江流域を境として、南北の地理、人心、風俗にも、多大の差異がある。殊に南方両地方は、住民の性質、気風等も、支那本土の漢人と著しく異なる点がる。

 然しながら此の廣大なる土地と大陸的気候の自然が與へたる感化は、支那本土の民心をして、悠久、寛容の気風を招来せしめたことは争はれない。土地が廣大で太陸的であることと、一括して支那と呼ぶよりも、各省ごとに、これを一個の獨立地方と見做すのが、寧ろ至當なやうに思はれる場合がある。


〔領土観念〕
漢民族の特質
  
(一)領土観念 
 元来支那人には領土観念、言葉を換えて云言へば、國家観念なんて云うものは有り得ない。
天下とい言葉がある。
天下はこれ權力の及ぶところ、すなはち彼等の天下である。
權力の及ばざるところ、支那人はにれを化外の地と考へて居る。
満州、蒙古の土地は、支那から云へば化外の土地である。
化外の土物を扱ふのに、何も遠慮などする必要はない譯である。

〔蝋燭の光〕
 斯くの如く支那の政府は、蝋燭の光の及ぶとこら、即ち所謂天下であり、領土であり、政治である
だから蝋燭の光の及ばざる辺境は勝手たるべべきで、現にロシアは、蝋燭の光の及ばざる蒙古の境界に、隈なく哨兵を配置して、ドシドシ進出してくるではないか。
北にこのロシアあり、西に英國の西蔵ありと云う有様で、遣憾ながら、蝋燭の光の及ばざるところ、また政治なきの状態を暴露して居る。 

 漢民族の矜持とする文化的優越感、長城を越えて侵入する寨外民族の武力侵略は、文弱の民、漢民族をして、卑屈なる自己満足によって、一時を誤魔化すことにのみ腐心させ、為めに猜疑心を養ひ、陰険なる習俗を、養成するに至ったが、これ等の侵略者に對する優越感より、却って侵略者を属國扱をし、属國と考へて喜んで居るなど、支那人の領土観念は、一寸一般の領土と違ったところがある。

 彼等の所謂領土とは、政治の及ぶととろを称するのではなく、自分と交通往来のある一切のものを領土と称し、
自分の部下と考へる
のであって、つまり、蝋燭の光の及ぶところすなはち
我が天下國家なりと、泰然として考へて居る。

 近来外國との往来頻繁となれる為め、この蝋燭の火光の及ぶ範囲を段々縮小せられ、そこで已むを得すして、ここに及んだもので、彼等本来の観念では断じてない。 

〔國家観〕
(二)國家観念
 『支那は国家に非ず』との説をなす人が、屡々あるが如く、全くその通りであり、これを内部的に解釈して見ると、
支那は、到底近代國家の組織を有して得るものでないことが分る。
或る學者は、支那は人間の一大グループであり、社會ではあるが、國ではないと称して居るが、全く其通りである。

 つまり支那に取っては、國家なる名称は、諸外國との國際條約等を定める爲めに、巳むことを得ず、押しつけられた名称は、支那人の考からすれは、狭量なる國境主義や、領土的國家観念を超越して、國家、君主などを問題にして居ないのである。
 これは政治の要道は、税を徴せないことであ。
治者は関せず、被治者は與らずと云ふて、これを彼等の政治の根本観念として居るのでも分ることである。

 漢民族は、到底我々の心理を以っては、推察出来ない民族である。
彼等が時と場合により、幾多の異なった心理状態を發揮する原因は、以上述べたことの外、次項以下に述べるような家族制度の害、統治者の無力、社會組織の欠陥等も、また大なる原因となつて居ることを、見遁がしてはならない。

 

〔社會文化〕
(三)社會文化
  
 支那文化は、最近まで未だ太古文明の範囲を脱せず、家庭工業と、徒弟制度の経済組織であつた。
従って最近西欧文明の輸入により、急速に工場や、會社が出来て、経済的變革を召来せしめんと、努力して居るけれども、マダマダ近代文明の範囲に転化するには、幾多の難関が横たはつて居る。

 支那は、最近50年前までは全く手工業のみの國で、會社や、銀行や、鐡道工場等の工業の如きものは、主として團匪事件後に於いて、發達したものである。
初めて淞上海間に、汽車がレールの上を走った頃は、ヤレ魔物だとか、或いは怪物だとか唱へて、それに向って投石し、或いはレールの破壊を企てるなどのことを、盛んに遣ったものである。

 それは今から僅か40余年前にぎない。支那ではストライキとか、諸種の労働運動の如きものも、極く最近十数年より
起った現象であって、かかる團體的運動を以って、今日の支郎人を、統制あり、團結ありと観察することは、間違った話である。

 眞實の支那人を観察しようとするならば、その手工業組織卞にけるま家庭工業、徒弟制度方面の舊式支那より、先づ以って観察せなければ、その眞諦れは分らない。



笠井 孝著『裏から見た支那人』 支那を測る尺度

2024-02-17 22:36:37 | 中国・中国人

      笠井 孝著『裏から見た支那人』 
    
     
 
 

   支那を測る尺度 

 研究の手段・・・・横顔・・・・・道徳・・・・・歴史の裏・・・・・尺度 

研究の手段 
 支那を研究するには、その國民性を理解し、之を討究して、有らる方面から、観察する必要がある。斯くてこそ、謎の國支那も、自然に氷解せられ、それぞれの場合に応じて、支那人を如何に扱ふべきかが、自然に釈然たり得ることと思ふ。

 支那國民性の解剖に方り唯単に、我々自己の不完なる過去の常識から、これを類推することは、頗る危険である。例へば女は、マゲを有するものなりとの過去の経験から類推して、芝居の役者は、女なりと速断するのは、笑ひものであると、同一である。

 日本人の支那観には、この種の類推を招き易きものが多々ある。支那人の心理は、日本人の常識では、到底理解し得られざるものがある。
 故に吾々は、先づ彼等の國民性の囚って来
るところの根本原因を、研究して掛らねばならぬ。

 然してこれがために研究すべきことは
(一)支那民族の歴史的、地理的、民族的地位
(二)支那國民性の根本である道徳観念
(三)支那人の民情と、大をな関係を特つ其の家族制度、統治者と被統治者、國家及び社會組織の得意なる點
(四)支那の文化の特別なる状態
等であらねばならぬ。
    
 これを更に約説すれば、日本人と支那人との間には、これ等の諸現象の間に、著しき根本的の観點の差異があり、
またその原因となるべを生活状態、風俗、習慣の間にも、甚だしきを過程のあることを考へねばならぬ。

 以下これ等に関する二、三の注意を概説して本文に入らう。

支那人の横顔 
 支那の研究な必要であらうが、さて然らば如何に研究するかと云ムことは、必らすしも簡単なる問題ではない。
研究方法と云っても色々ある筈であるが、私は先づ初學者に、支那人及び支那が、如何に日本と異るかといふ點だけを、研究することを切望する。
これが釈然たり、會心の了悟を得られない限り、支那の研究は、未だ門に入らずと云はれても致方がないと思ふ。

 従って本書には、その研究の便宜上、支那人なるものを知るべき極めて初歩のアウトラインを記述して見たいと考へる。
率直に言へば、日本人の支那研究は、頗る浮調子であると云び得らるる。日本人は國際聯盟や、欧米諸國の支那に對する認識不足を攻撃するけれども、日本人もまた支那に對する認識不足に於いては、敢えて聯盟や、は欧米諸国に劣らない方である。

 近頃一部識者の間には『支那通支那を誤る』」と称し、欧米仕込みのハイカラ道徳を以て、直ちに對支態度を決せとする人々があるし、さらに『支那通は、支那だけしか知らない。彼等は我々の如く欧米を知らない。
 欧米を知らずして支那が分るものか』と云ふ欧米通もある。

 かと思ふとまた2、30年来の謂はゆる支那浪人を以って、一括してこれを支那通と考へる人もあるが、これ等のもの總て適富な態度ではない。
余談ではあるが、謂はゆる支那通にも色々ある。一は、支那
通りである。

 謂はゆる支那に對する旅行で、上海から漢口、北平、天津と、汽車で一巡して、早速支那通を振り回す、つまり支那を素通りする連中である。
 その二は支那問題で、一年に一度か二度、支那の政情視察のため支那に通うて、支那最近智識の保有者と、自惚れる連中である。

 それから三は、支那に多年在住して、支那を知れりと自ら任するが、然りとて支那語語すらも、十分には話せず、支那の奥地すら旅行したことすらなく、只自惚れと、大言壮語以外には何も研究もしない謂ゆる自称支那通である。

 併しながら今や支那は、是等の欧米通や、支那通によって、料理せらるべき時代ではない。
日本は、自己の死活問題といふ點から、率直、且つ赤裸々に隣人の内容を解剖して掛らぬばならぬ。

 支那人は、世界稀に見る複雑なる心理状態の持主であ。多面體心理の保持者である。
由来研究には、先入主となることは、禁物であるけれども、彼等の著しき特異點は、大要だけは、必ずこれを心得て掛らねばなられのである。

複雑なる支那人心理 
 日本人は途上で友人に出逢ふと、『ヤア』『イヨウ』と、まるで物の掛聲のやうな挨拶をするが、そこに、日本人の竹を割ったやうな心理が表現されて居る。
 併し支第人は、この場合、『ワアイ」とか『ウェイ』と呼ぶ。呼ばれた本人は、何事だらうかと、先づ一思案した後、後ろに身體を捻ち向けて、『ウワイ』とか、『ウウウエイ』とか返事をする。

 この事が、また頗る曖昧模糊として居って、イエスであるか、それともノーであるか、またその中間であるのか、ハッキりして居ない。これは支那人の習慣として、黒白をハッキリしない方が、通例であり、かつ保身の術にもう叶うて居るからである。

 支那では、黒白を明言せず、黒から白に至るまでには、鼠、灰色・淡泊など幾百の色別け、使び分けがあるので、日本人のやうにイエスか、ノーの二色だけでは、行けないのである。

 従ってコンな妙な返事が、持ち出される譯であるが、曾て張作霖が、北京入城の途中、天津に滞在したことがある。
 『何日まで御滞在ですか』と問ふたところが、『佳一天』と答へた。
 翌日また尋ねたところが、また『住一天』と答へた。
 『住一天』とは『一晩泊まる』と言ふことである。
 斯て新彼は十日餘りも、天津に滞在した。

 支那人は、彼等の愛蔵の骨董品を褒めて、幾何位しますかと尋ねると、彼等は『一百多塊錢』を答へる。
百圓餘りと言うことである。百圓餘りとは、百一圓から百九十九圓迄のことの積りである。ここ等にも、彼等國民性の曖昧模糊たる特殊な閃きがある。

支那人の道徳観  
 凡そ一国の國民性は、その民族の歴史、文化、政治組織、社會状態、環境等によりて、左右せられるるものであつて、我々日本人の道徳観を以って直ちにこれを支那人に適用せんとしたり、我々日本人の普通の尺度、我々の心理状態その儘を、直ちに支那人に適用とするのは、間違いである。

 日本人の中には、我も人なり、彼も人なり、苟も至誠を以ってこれを導けば、支那人と雖も、必ず反省するだろうと考へたり、自己の環境と、自己の習慣から、その儘これを支那人に適用し、支那人を批判しようとする者があるが、これ等は何れも至當でない。

 二、三の例を擧ぐれば、支那人は、好んで人の品物を盗むが、これが發見せられても、別に悪いと思はせないみならず、その品物を取戻すと、折角取ったものだから、幾分か手間賃を呉れろと言ふ。斯んなのが日本人では、一寸理解し兼ねる心理状態である。

 また支那には『男女七歳にして席を同じくせず』とか、または『途に遣を拾はず』などと云ふことがあるが、これは七歳で同席したり、遺失物を横領したりするからこそ、是正の必要があり、その爲めに發生した道徳律であり、警戒の言案であるに過ぎない。
 これを、エライなどなど、誤って考へるは、親子を取り違えたような事件である。

 支那人は忘恩的であって、御礼を言はないと、八釜しく憤慨する人があるが、支那人に言はせれば、一度御礼を言へば、それで沢山であると考へて居り、日本人のやうに、出逢ふ度毎に、何回も御礼は云はない。またそれが彼等の習俗である。

習慣風俗の差異
 一々この種の心理状態の相違を、捨び擧げて居たのでは、際限がないが、日常の風裕習慣の上からも、支那人と、日本人とは、甚だしく相違して居る。
 日本人のマツチの擦り方や、鉛筆の削り方と
支那人のすることは、全然アベコベであり、日本人は、鉋や、鋸を、自分の方に引くが、支那人は、先方に推して行く。
   
 食事の時に、我々は橋を横に置くが、支那人は必らず縦に置く。
洗面するにも、日本人は、両手に水を持って、手でプルプルとやるけれども、支那人は、手の中に顔をつけてをクルリクルリと廻す。一事が萬事、所變はれば、品變はる。日本人と、支那人とは、色々に違ふものである。

 支那は、婦人の室を窺くことを極度に嫌ふ。
また足首を出すことを、非常に淫猥なことと考えるなど、習慣上からも、種々違って居る。また同じ支那人でも、北方人は、気が長くて、ユックリして居るが、南方人は、気短かで、多少日本人に似た點がある。
  
 この外日本人の皇室に對する観念の如きは、支那人には、到底理解し得られない事件であって、日本人の皇室観と、支那人の君臣観念との間には、全然合流し得ない根本的相違がある。

 國境観念や、國家観念も、また全然途方もなく異なったととろがある(これは別に後でべる)。
宗教的な考へに於いても、支那人の考へ方は、何處までも現實主義、その場主義であることは、これまた後にはべる通りである。

美化された歴史の裏 
 支那研究に方って、心得なければならぬことは、支那の文献は、美文を以って、悪を美化し、不仁不義を覆ふて居ると云ふことである。このことに就いては、支那人の『宗教観』なる部分に於いて述べるが、支那歴代の史實の記録を以って、その儘支那の實状と解することは、大なる危険である。

 支那人の議論、乃至文章を見るに、如何にも大義名分に透徹し、愛國心に、燃えて居るかに見えるが、
その裏面には、彼等個々の個人的利害とか、売名観とか、打算的の原因やら、動機が多分に働いて居るものであって、
表面の美化を以って、直ちにこれをその儘受入れるのは、支那では、夥しく考へものである。

認識と尺度 
 つぎに間違ひ易いことは、儒教に對する日本人の違算である。
 由来日本人は、支那人を見るに『支那は孔礼の國なり』『彼も人なり我もひとなり』などと、支那人を日本人扱する癖がある。通例的に云へば、世界の道徳は、多くは共通的であるから、日本の道徳習慣を以って、これを欧米人、インド人に適用することは、必ずしも誤りではない、併し我等の道徳観を以って、直ちにこれを支那人に適用することだけは、偉大なる誤りである。
 私にに云はせれ『支那人は人に遠く、寧ろ豚に近い』。 

 彼等は仁義もなく、忠孝なく、義務心なく、犠牲心なし。
況や人倫の道、五常の徳の如きは、四百余州を探しても、薬にしたくもあるものではない。 

 日本人が支那を研究するに方りては、先づこの道徳観念の根本から、その尺度寸法を改造して掛からねはならぬ。
 また支那人は、増長限りなき民族である。

 『隴を得て蜀を望む』といふ諺があるが、支那人は、如何にしても、遠慮を知らぬ増長民族で、相手弱しと見れば、何処までも附け上るか分らない民族である。
 欧米人からは『チャイナチャイナ』とばれ『メード・イン・チャイナ』で、別に異議なくやりながら、日本人に對しては『支那』と呼ばれることを忌避し『中華民國』と書かなければ、公文書を受取らないなど云ふのは、そもそも日本の温和政策を、馬鹿にして居るからである。

 従って支那の研究に遠慮は無用である。
赤裸々に忌憚なく、その内幕をサラけ出して見ることによってのみ、支那研究は可能
である。

 以上の諸點は、民族の研究上、必らず考へねはならぬ豫備智識を掲記したまでで、これだけで勿論足れりとする次第ではなく、またこれで主なるものを、晝して居るでもない。
只単に支那研究上の手ほどきを、述べたものにぎない。


笠井 孝著『裏から見た支那人』序に代へて 、緒言

2024-02-17 22:35:39 | 中国・中国人

  
 笠井 孝著『裏から見た支那人』  

 序に代へて 

一 本稿は支那人、特に支那の主要民族たる漢民族の特質を、拾び上げたものであって、
就中その悪徳方面のみが、多過ぎる嫌びがないでもない。
素より支那人にも美點はある。

 併しながらそれあるが故に、その悪徳方面を見逃がす譯には行かない。
そこで私は、この方面について、私の體驗を、極めて率直に記述した次第である。

 
ニ 満洲の漢人と、支那本土の漢人とは、
血族に於いても、性格に於いても、多少の差異はあるが、
満洲國が出來たからとて、その爲め満洲の漢人だけが、
一躍美化された譯ではないから、本記述は、この點にも取捨をして居ない。


三 本稿は主として昭和五、六年の頃、
業務の餘暇を以って、已に記されありしものを蒐集して、
随筆的に書き改めたもので、内容の檢討、記述の整理共に不十分ではあるが、
過去多年に互り、洽く出先きの者の實地體験せる報告を基礎とし、
これに筆者の十数年間に滿喫せしめられた實例や、
支那人から飲まされた煮え湯の味感やらを、加味して記述したものである。
 
 恐らくは大多数の者な
「イクラ支那人たって、マサか斯んなんではあるまい、支那人だって人間である」と、
御考への向もあることであらう。それはそれで宜しい。


四 併しながら、やがて幾年かの後に、
諸君が支那人と死生を共にし、利害を共にしようとして、
幾度か鮮やかに背負い投げを満喫せしめられた時に、
この小冊子を鐇もかれたならば、
思はす小膝を叩いて「ナール程」と三嘆せられる場合があり得ると、私は確言して置く。
 

五 行文拙、爲めに意到らず、
往々にして徒らに支第人の悪徳汚點だけを摘發物するに却って感情的に過ぐるやに思はれる點さへあり、
支那人の美點を賞める暇のなかったことを、御詫びすると共に、
他日続編に於いて、支那人の美點を褒める機会を、
特ちたいものだと念じて居る。
従って本第な、云はばその前編である。

                               著者誌

 

 

緒言
  謎の支那 
  ・・・・・支那は国家にあらず
  ・・・・・日支は兩立せず
  ・・・・日支親善は大馬鹿
  ・・・・・同文同種は愚案也

 華府會議に於て佛國代表ブリアンは
『支那とは何ぞや』と云ふ謎の様な疑問を舁ぎ出したが、
確問題に如何にも認識不足であり、また如何にもアヤフヤであったのはマダしもであるが、
お隣りの日本人も、また支那の實體を、究明することが、如何にも不十分ではあるまいか。
 
 日本人は、従来口を開けば、直ちに日支共存共栄を唱へ、同文同種を振りかざし、
 或いは日支の黄色同盟を唱へるものすらあるが、
これまた支那に對するベラボウな認識不足と云はなければならぬ。
 
 外國育ち似而非支那人孫中山が、
三民主義の大旗を振りかざして、中華民族の革命を提唱するや、
恰も新興支那人の復活であり、明治維新の再来ででもあるかの如く、
支那革命に瑞気の涙を流した日本人も、決して少くはなかった。
 
 併し私をして言はしむれは、
如上の支那観は、憐れむべき謬れる支那観であって、
支那の主要民族たる漢民族の性情を知らず、
世界文化のバチルスである漢民族の暗黒性状を、顧慮外に置いたものであり、
結局は日本人の支那に對する研究不足に出発して居るものであると言はねばならぬ。
 
 私をして忌憚なく云はしむれば、
漢民族は四千年来のスレッカラシであり、
頽廃民族であり、
従ってまた支那は、東亜平静の癌である。
 
 支那は一つの社會ではあるが、國家ではない。
少くとも近代組織の法治國と見做すべき國ではない。

 或いは寧ろ支那は、匪賊の社會であると云った方が、適評である。
然して土匪、政匪、學匪これ等は支那に横行するパチルスである。
 
 日支共存共栄など云ふことは、
複雑なる漢民族の心理状態から見れば、
實に嗤ふべき口頭禅であるに相違ない。


物質の貧弱な日本が、物質の豊富な支那に對し、
 文化の貧弱な東夷日本が、文化の優れた大中華に對する欲求から出た叩頭である』と
見るのが彼等であり、
且また支那人固有の道徳観念、ならびに心理状態から割出たされた日支親善観
なのである。

 然して
『日本は貧乏で、支那に求むるところあるが故に、親善を云ふのである。
 日本のやうな小國は、嚇しつけてしまへば、譯なくヘコムだろう』と考へて、
 持ち出されたのが、すなはち、数年前の排日運動である。 


 自尊と自惚れと、利害打算の排日は、恐らく今後も永久的であると見るべきであらう。
 永久の排日と、日支の共存共栄? 
それは餘りにも解決の困難なる、然して到底兩立すべからざる二つのテーマではある。

 昨今の言葉を借りて言へば、
満蒙は日本の生命線であり大日本の死活問題であらうが、
併し満州全土にも匹敵すべき、然して日本の26倍にも相當すべき四百餘州の大地域と、
多大なる物資とを擁して、支那第大陸に頑張って居るものは、漢民族である。

 従って漢民族との関係を調整せずして、満蒙を語ることは、末葉である。
然もこの民族の複雑なる、多面的の心理状態と、その傳統的以夷制の政策とは、
永久に日本と兩立すべからざるものがある。

 この故に支那に對する穏和主義、叩頭主義をカナグリ捨てて、
新たなる立場に於て、日本の死活問題を考へ、
新アジアの行途に立脚して、
冷静にこの民族を研究し、冷静にその對策を講ずることこそは、
日本刻下の急務
であらねばならぬ。

 この意味に於て、私は次に忌憚なき漢民族の内幕を、解剖して見ようと思ふ。
これやがて日本の執るべき對支政策の基調とり、
また對支發展の礎石ともなるべきものである。