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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(8) 日本は道義の大本

2020-06-07 15:42:27 | 頭山 満


頭山満 述 「英雄ヲ語ル」 西郷隆盛(8) 


日本は道義の大本

苟も道を行ふものは、毅然たる態度と信念がなけらねばならぬ。
世の毀譽褒貶など眼中に置くことはいらぬ。

黒田藩主の歌に
   浮雲のかかればかかる儘にして
   澄む空高し秋の夜の月
と言ふのがある。
自分に對する一〇(?印字不明)一笑などに頓着はない。
自分の信する處を堂々と行へばよろしい。

   見る人の心ごこらに任せおき
     高嶺にすめる秋の夜の月 
と言ふのも同じ心境を歌ったものだ。

 大西郷は此信念を、
 「道を行ふものは、天下擧って之を毀るも、意とするに足らす、天下擧て之を譽むるも以て足れりとせざるは自ら信するの厚きが故なり々」と訓へてをる。
 我が皇道は神の道ぢゃ。即ち至誠の道ぢゃ。日本こそ道義の大本とならねばならぬ。
幸ひに北大東の聖戦により、皇道世界に宣くのぢゃ。
先づ日本、ビルマ、印度、支那、と心から提携し、仁義道徳の理想國家を創るのぢゃ。
所謂東亞の皇道樂土を建立するのぢや。

 それには、日本人が大西郷の所調敬天愛人、眞の仁愛の誠を以て、東亞諸民族を友愛しなければならぬ。
此の日本の正義、仁道に對しては字宙萬邦、一指を染むることを許さぬ。
「正道を踏み、國を以て斃るるの精神」を以て此天の道を行ふのである。

文明とは道の普く行はるるもの
 「文明とは道のく行はるを言へるものにして、宮室の壯厳、衣服の華麗、外觀をの浮華を言ふに非す。
 世人の西洋を評する所を聞くに何をか文明と云ひ、何をか野蠻と云ふや。
 少しも了解するを得す。
 眞に文明ならば、未開の國に對しては、慈愛を本としを懇々説諭して開明に導くべきに、然らすして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蠻なりと云ふべヘし」

 これは同じく南洲遣訓効一節であるが、英、米國などの驕慢に對し、更に、我國の西洋崇拜者は當に頂門の一針ぢゃ。大痛棒ぢゃ。
英、米の東亞諸民族に對する態度はどうであったか。
 文明どころか、野蠻行爲だ。
 文明、開化は彼等の假面で、迫害と搾取と侵略が彼等の常套手段ぢゃ。
 今こそ彼等の野蠻行爲を日本文明の慈悲心で、性根を直してやるのぢゃ。

節義廉恥が第一也
 我が大陸経營の究編者、荒尾精は自分と別懇であったが、荒尾が話してをつた。
 何んでも荒尾が大西鄕のところにゴロゴロしてをる頃、大西郷の家は誠にボロ家で、雨が降ると座敷が濡る。便所が漏る。
 到底維新元動の邸宅と思はれぬ粗末な借家ぢゃつたさうだ。


 或る日、例の如く雨がるので奥さんが、

「如何でしようもう雨漏りの屋根位お直しになっては」とおそるおそるきかれると、大西郷は「まだお前には俺の心が解らんか」といたく不機嫌であったさうぢゃ。
 その頃の西郷永世二千石に月給の四五百圓はあったであらうから、屋根位は直すに不自由する身分ではあるまいが、それ等の収入はみんな人にやって終うて、只一念勤皇報國、冷飯草履に尻切羽織で奔走してをつた。
 前にも述べた通り弟の従道が、私かに見の爲に住宅を建てようとして叱れたのも其ぢゃ。

 南洲遺訓に
 「節義廉恥を失うて維持するの道決してあるべからず」と戒めてをる。
 節義廉恥第一也と言ふのだ。

修學の要諦
 大西郷の詩に
   學問無主等痴人
   執英雄心當寫眞
   天下紛々亂如麻
   錬磨肝磨獨成仁 
と言ふのがある。學問は體裁にするのでない。
魂を入れ聖賢道を實踐するにある。

 大西鄕も南洲遺訓に
「聖賢たらんと欲する志無く、古今の事迹を見て企て及ぶべからずと思はば、戰に臨みて逃るるよりも卑怯なり。朱子も「白刄を見て逃げるるものは如何ともすべからずと言はれたり。誠意を以て聖賢の書を讀み、共處分せられたる心を身に體し、心に驗する修行をせず、唯其事項をのみ知りたりとも、少しも益なし、云々」と訓へた。

 學問は飾りものぢゃない。窮行實踐するところに修學の目的があるのぢゃ。
 聖賢の書を只文字だけ誦んじても、實践の件はぬものなら三文の價値もない。
 大西郷は不言實行家だ。常に空理空論を排した。
 大西郷の修錬は陽明學に負ふ所が多いやうぢゃ。

 大鹽中齋の「洗心洞剳記」や、佐藤一斎の「言志録」を座右の銘上とし、書寫し、或は手抄したりなぞして愛讀してをつたことでも判る。

愛国忠孝の心を開く
 大西鄕の南洲遺訓は誠に片言隻句悉く金玉の文字である。

 「人智を開發するは、愛國忠孝の心を開くなり、國に盡し家に勤むるの道、明かなれば、百般の事業は從て進歩すべし、云々」と云ふ一節がある。
 實に學問をして却って忠孝、愛國の心を失ふものがある。唯、文字だけを學ぶからだ。心眼を開かぬからだ。

 更に曰く
 「或は耳目を開發せんとして、電信を架け、鐡道を敷き、蒸気器械を發明するも、何故に電信鐡道の缺くべからざるものなりやと云ふ點に注意せず、獨り外國の盛大を羨み、利害得失を論ぜす、家の構造より玩弄物に至るまで、一々外國を仰ぎ、奢侈の風を長じ、財用を浪費せば、國力疲弊し、人心浮薄に流れ、結局日本は身代限となるの外なし」

 日本精神を忘れた物質文明の弊害と、外國模倣の悪弊を戒めてをる。
形骸に囚はれて精神を忘れ、第を奪はるるの愚を戒めた名文句ぢゃ。

  
天道を行ふもの
 大西郷は南洲遺訓の劈頭

 「廟堂に立ち、大政を理するは、天道を行ふものなり。故に公平無私、正道を踏み、賢人を採り、能く其職に任ふる人を用ひて政権を執らしむるは、即ち天意なり、故に眞に賢人と認むれば、直ちに我職を譲るの誠心なかるべからず、云々」と、實に堂々たる宣告をしてをる。
 併し我日本にも往々、天道に反し天意に戻るやうな政治をやり、人選をするから、天道が行はれぬのだ。
流石は大西郷だ。實に巧いことを言ふたものだ。

 大西郷の詩に

    一貫唯々諾
    従來鐵石肝 
    貧居生傑士 
    勳業顯多難 
    堪寒梅花潔 
    經霜楓葉丹  
    若能識天意 
    豈敢自謀安  

    失 題
    不養虎兮不養豹

    赤是九州西一涯
    七百年來奮知處 
    吉二都城皆我儕 
    壓倒海南三尺劍
    人若欲識余居虐 
    長住麑城千石街  

    武村ト居  
    ト居勿道傚三遷 

    蘇子不希兒子賢 
    市利朝名非我志 
    千金抛去買林泉  

 


頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(7) 生命も要らず、名も要らず 

2020-06-02 11:15:57 | 頭山 満

   
頭山満 述 『英雄ヲ語ル』
 西郷隆盛(7)
   

 

生命も要らず、名も要らず

 生命も要らす、名も要らす云々は、大西郷の金言として、汎く人口に親炙してをる。

 南洲遺訓に
 「生命も要らす、名も要らす、官位も金も要らぬ人は、御し難きものなり。然れども、此御し難き人に非ざれば、艱難を共にして、国家の大業を計る可らす。斯かる人は凡俗の眼には視られざるものにして、
 孟子に『天下の廣居に居り。天下の正位に立ち。天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ。富責も淫すること能はす。貧賎も移すこと能はす。威武も屈する能はず』と云ふが如く、道に立ちたる人に非ざれば、此氣象は出でざるなり」と言ふのである。
實に千古の大名言ぢゃ。孔子も「身を殺して仁を爲す」と訓へてをる。

 慾心がっては大事は成就されるものでない。況んや萬代不易廣大無邊の天下の大道を行ふ、一切の邪念を斷ちきってかからねばためぢゃ。


 高山彦九郎なぞ、さしづめ此型の人物ぢゃ。大西郷も高山を景慕してをつたと見え、獄中の作に、

   天歩艱難繋獄身
   誠心豈莞恥忠臣
   遙追事跡高山子
   自養精神不咎人
と言ふのだ。
 盡忠至誠、野趣滿々の高山は自分も大好きだ。

 自分が愛蔵してをる、高山の詩に
   タ蛍朝雪學何事
   萬巻讀書總放心
   開眼明見古人心
   今人可放迂儒〇
と言ふので、最後の一字が難解だが、推と讀むのであらう。
 盡忠氣一本の高山は實に痛快ぢゃ。


 物徂徠か室鳩巣か何んでもその頃の學者が、楠正成と諸葛孔明と對象して、孔明は、玄徳の三顧の禮を待って徐ろに出盧した。

 楠公出かたが早かった、と言ふやうな批評がましきことをしたのを、高山がこっぴどく叱りつけ、「迂愚何するものぞ、皇國と支那と『國體』の違ふことを忘れてをる。玄徳など王様であっても、元來どこの馬の骨かったものでない。日本は『萬世一系の天皇陛下だ。後醍醐天皇は實に神武神祖天皇以來の光輝ある傳統を繼がせ給ふた萬世一系の天皇陛下だ。日本の忠臣否日本の臣民はおしなべて朝廷の一大事に當っては、夢に見ても飛び出すのぢゃ。楠公の出方が早いなぞ何んと云ふ馬鹿げた言葉か。遅い位だ。迂愚の腐儒輩に忠臣の心事が判るか』と言ふのぢゃ。
 眞にその通りぢゃ。
  


頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(6) 己惚れを排す・肇国の精神に徹せよ

2020-05-31 20:37:21 | 頭山 満


 頭山満 述 「英雄ヲ語ル」
西郷隆盛(6) 
   


自愡を排す
 大西郷の詩に、 
    我有千絲髮
    〇(不鮮明、?)々黒於漆 
    我有一片心 
    皓々白於雪 
    我髪猶可斷 
    我心不可截 
と言ふのがある。

 大西郷は、格別に、大鹽中齋(平八郎)を欽慕してをつたやうぢゃが、大鹽中齋も
「鏡に對し鬢髮の乿るるを憂へず、ただ一心の亂るるを懼れよ」と戒めてをる。
 昔から自惚と何とかの無いものは無いと言ふが、實にうがち得た諺で、自愡のない人間は仲々少いやうだ。 
 併しながら人間、自愡が出たらもう行き詰りぢゃ。
 大西郷は南洲遺訓に、
 「古より君國共に己を足れとする世に、治功の擧りたることなし。自己を足れりとせざるより、下々の言も聴き入るゝものなり。自己を足れりとすれば、人若し己れの非を云へば忽ち怒る。故に賢人君子は之を助けざるなり」と言うのである。
 平几の敎のやうで實は仲々いい訓だ。

外交の要諦 
 大西郷は又外交の要諦を訓へてをる。これも遺憾ながら、我國從來の追従外交に對するに頂門の一針だ。
 即ち、
「正道を踏み、國を以て斃るるの精神無くんば、外國交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に從願するときは輕侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん」と云ふのだ。

 實に名敎だ。併しながら、我國在來の軟弱外交に對しては、大痛棒だ。
近頃は
漸く政治家や外交官連中も少しづつ眼が醒めて來たやうだ。從來我國の外交はどうだ。大西郷の此遺訓を見たら、穴にも入りたい気がするであらう。
 英國の國威に畏れ、米国の國富におののき、阿諛便侫の、追従外交に一時一時を糊塗したのはつい此頃までぢゃ。
「正道を踏み、國を以て斃るるの精神」此氣魄、此信念を以て、從来日本が、樽爼折衝してをったならば、英、米の驕慢を遂うの昔反省せしめてをつたであらう。

肇国の精神に徹せよ
 明治維新以來、我國の朝野は、西欧の文化を吸収するに急にして、到頭外國文物に中毒し、外國文化に眩感し、心醉した。馬鹿々々しきことだ。外國の文明、開化を吸牧するのは、手段ぢゃ。目的ぢゃないのだ。 何も彼も外國文化にかぶれ、その我が肇國の精神を忘れたからだ。

 我國には我國傳統の尊いものがある。即ち我體と日本精神ぢゃ。外國文化は、これを一層輝かすべき、手段に過ぎぬのぢゃ。外國の文物、一にも二にも外國かぶれは、我國自らを卑くするものだ。

 嘗て、國士館の會合の際、金子(堅太郎伯)が、支那人は仲々悧巧で、英語などもうまく話すが、日本人は英語が下手で困ると言ふから自分が即座に言ふたことであった。
 「日本人はそれで結構ぢゃ。英語など下手で結構ぢゃ。國の勢力が隆々となり其國が他國を支配するやうになれば、其國の語が自然と使はれるやうになる。將來は、世界中、日本語を使ふやうになる。又さうさせねばならぬ」と言うたら金子も黙ってをつた。もう今の日本の勢ひだと東亜諸民族は勿論、世界の各民族が嫌でも日本語を使わねばならぬことになる。

 國の本體を忘れ道義風教を怠り、一にも二にもい歐米諸國の模倣に汲々として魂まで奪われた時代が馬鹿馬鹿しい。昨今漸く目醒めて来たのが何よりぢゃ。

 大西郷は南洲遺訓に
 「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、まず我國の本體を立て、風教を張り、而して後徐に彼の長所を斟酌すべし。然らずして猥りに彼に倣はば、国體は衰退し、風教は委縮して、匤救すべからざるべし」と訓戒してをる。
 實にいい戒めぢゃ。
 明治以来、我國政治の運營はどうであつたか。思想問題はどうか。
風教はどうか。
 政治家も教育家も、西郷さんに、お恥ずかしい話だ。我國體と相容れざる、自由奔放の政治、経済が跳梁する。共産思想までが流行する。男女の風儀は目を追うて浮華淫蕩となつた。
 幸ひ、満州事変以来、國民の大部分が、日本精神に歸り、互ひに反省し相戒め来たのは喜ばしい。 



頭山満 述「英雄ヲ語ル」西郷南洲(5) 國を以て城となす

2020-05-30 16:49:34 | 頭山 満

   
頭山満 述
  西郷隆盛(5)

   

  

國を以て城となす
 古来薩州には城らしき城はなかった。
 「國を以て城となす」と言ふ言葉を實踐したものだ。實
に愉快な言葉だ。

 戦爭をする以上は國の生命、全國土を擧げ敢えて一歩も譲らざる、大信念と覺悟が肝要だ。

 國土全部、國民全部が皇室の城であり、要塞であり、兵隊であるのだ。
此覺悟と信念がなけ
れば、所調、擧國一致は出來ない。

 南洲遺訓に實にいいことを訓へてをる。
即ち
「國の淩辱せらるに當っては假令國を以て斃るるとも正道を踏み、義を盡すは、政府の本務なり、然るに平日金穀利財の事を議するを聞けば、如何なる英雄かと見ゆれども、一朝血の出る時に臨めば、頭を一所に集め、唯目前の苟安を謀るのみにして、戰の一字を恐れ、政府の本務を墜さば、商法支配所と言ふ可きのみ、更に政府には非ざるなり」と喝破してをる。
 實に痛快ぢゃ。

 遺憾乍らつい近頃まで、日木にもこん政府が全然なかったとは断言出來まい。
要路の者が一身の苟安のみに執着し國家生民の爲に計らず、一身一家の名利に念にして、國家の大局を誤った例は枚擧にいとまないのだ。
 大臣宰相たる者は一死君に報じ、社稷の人柱となる覺悟がなければ、決して善政を敷くことは出來ぬ。
 古歌に
    事
とあらむ君が御楯となりぬべき
       身をいたづらにくだしはてめや
とあるは此間のことを詠じたもの切だ。
 
   

己れ其人に成るの精神

 後藤(象二郎)であったか、副島(種臣)であったか、自分に、近頃は人物がなくて困る、と言ふから自分が、貴方が人物になったらよからうと言ふとヤーと言うてをつた。
 大西郷の「南洲遺訓」に、
 「人は第一の寶なり、己れ其人に成るの精神肝要なり」と言うのがある。

 即ち、
「何程制度方法を論ずるも、其人に非ざれば行はれ難し、人有て後方法の行はるるものなれば、人は第一の寶なり。己れ其人に成るの精神肝要なり」と言うのだ、寳にい、言葉だ。
 千古の金言だ。

 名将黒田如水の歌にも
    人多き人の中にも人は無し
       人になれ人人になれ人 
と言ふのがある。仲々人らしき人はないものぢゃ。法や制度は死物、之を運用するのは人ぢゃ。如何に制度、方法を巧妙に精備しても之を運營する人に、眞の人を得ざれば、三文の價値もない。
結局、眞人は第一の寶ぢゃ。


頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(4) 故山に於ける大西鄕 

2020-05-28 14:34:14 | 頭山 満


 頭山満 述  西郷隆盛(4)
   


故山に於ける大西鄕

   學問なければ痴人に等し
   英雄の心を執って眞を寫すべし
   天下紛々亂れて麻の如し
   肝膽錬磨して獨り仁を成さん
と詩った、大西鄕は征韓論で決裂後、飄然と故山に歸臥したのだ。
   正邪今安ぐ定らん
   後世必す清を知らん
とは、大西郷が帝都を去る時の心境を述べたのだ。

 大自然の好愛者である大西郷には都門紅
塵萬丈の地は到底不似合ぢゃ。
 故郷の山川は、大西郷安住の地だ。
   山老元帝京に滞り難し
   絃聲車嚮夢魂驚く
   探塵耐へず衣裳の汚るるを
   村舍避け來って身世清し 
などと言ふも、歸臥早々のと思はれる。

 短衣無帽止、瓢々然として、山紫水明の故郷のの山川を跋渉し、愛大を驅って兎を追ひ、入って
は自ら肥をくみ畑を耕し、悠々たな田夫野人の生活に詩情を養った。
 併しながら只徒らに安慰を愉むのは大西郷の本意でない。
憂国の至情抑へ難く、餘生を青年
子弟の敎化錬成に捧げようと決心したものと見え、茲に、愛民主義の「私學校」の創設を見

た譯だ。
大西郷は私學校の創設に自分の賞典祿二千石全部を投げ出しこれが費用に充て、自ら左の如き主義綱領を認め學校に張り出した。
一、道同じ義協ふを以て暗に聚合せり。故に既理を研窮し、道義においては一身を顧みず必ず踏み行ふべき事
一、王を尊び民を憐むは學問の本旨、然らば此天理を極め、人民の義務に臨みては一向難に當り、一同の義を立つべき事
の二項に存する。

 忠君愛國、敬天愛人、正義公道を踏み、一朝有事の際身を挺して國難に殉ずべき有爲の資士を養成するにあった。
私學校は本校の外城下に十二、更に各郷に百數十校、澌時創設され、大西郷の風格に傾倒せる青年子弟蝟集して國内を風する尨大なものとなった。

 別に開墾社や砲隊學校なども創設した。開墾駅の社生は晝は耕作し夜間修學する組織であ廬った。勤労、實践の上杉鷹山の主旨を實行したのであるが、大西郷はこの敎育法が大賛成で、自ら耕作し、糞尿を汲み、卒先して社生に範を示したと云ふことだ。

 かくして、大西郷は、武村の草廬自に俗塵を断ち一個の田園漢になりすました。大西郷が高踏
勇退して一介の百姓として悠々自適してをる間に、西郷の意志とはかかはりなく鹿児島は勿論各地に欝然たる西郷黨が結成された。

 この間、大西郷をして再び廟堂に起たしめ、國家経綸の策を建てて貰はうと、幾度か大西郷
の出廬を促す者も多かったが、固辭して起なかった。
 後進大山彌助(巌)に送った手紙のにも當今は全く農人と成り切り、一向勉強いたし居の候、初めの程は餘ほど難儀に御座候へ共、只今は一日二日位は安樂に鋤調へ申し候、もう今はきらずの汁に芋飯食ひなれ候處、難澁もこれ無く、落着はどのやうにも出來安きものに御座候、御一笑下さるべく候云々。
と返書もしてをる位で、一切の政治を断って、田園の一農夫になりすましてをつた。

 併しながら、天下は物情仲々騒然たるものがあ七年の佐賀の亂に次いで、九年熊本、神風連、つ、いて秋月の亂、更にこれに呼應して、前原一誠の萩の叛亂となった。
 何れも反政府、國内刷新の旗擧げである。

 その頃、大西郷は、日當山の温泉に氣を養ってをつたが、血氣の、邉見十郎太や、永山彌一郎、野村君介など前原を救けて呼應して起ち、大西郷の威風と徳望を以て、國政を改革すべきだと迫った。

 大西郷は、何時になく色をなし、彼等の軽擧盲動を厳戒し、前原等の企圖、只徒らに國家民人の不幸を招くのみだと痛歎し、彼等を追ひ返してをる。

 一方、江藤新平にせよ、前原一誠にせよ、更に神風連にせよ、秋月黨にせよ、大西郷の呼應することを豫期し、西郷の側近者の内でも、これ等の機會に蹶起せんにとを暗に慫慂したであらうが、大西郷の心境は不動心、更に動揺しなかった。即ち、大西郷の目的は更に數段高い處、遠大な處にあったのだ。勤皇愛國の至情、更に、更に、深く厚い處にあったのだ。

    

 私學校生徒の養成、開墾社の創設、何れも国家百年の大計を建つる爲めであった。大西郷が容易にに起たぬのは當然のことだ。その大西郷が、十年には到頭、郷黨、子弟に擁立せられ、遂に彼の不遇なる最後上なった。
 甘んじて鄕當子弟に托した。そこが又、大西郷の大英雄たる所以た。達人大觀の境地だ。



頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(3) 征韓論の眞相 

2020-05-27 09:15:54 | 頭山 満


 頭山満 述  西郷隆盛(3)
   

  

俊傑、四人兄弟
 大西郷は四人兄弟ちゃ。
 長兄が南洲、次が吉次郎、その次が愼吾、その次の四男が小兵衛で
ある。
 二番目の吉次郎は餘程の傑物であったらしい。
 惜しいことに、島羽の戦ひで戦死した。
 そ
の時、大西鄕が大いに其死を惜しみ、泣いたそうぢゃ。

 さうして出來ることなら愼吾と代らせ
てやりたかったと殘念がったそうぢゃが、代らせてやりたかった、その愼吾が、後年、日本になくてはならぬ、國の桂石たる、西郷從道となったのだから、惜まれた、吉次郎は餘程の人傑であったことは想像がつく。
 兄弟四人、人傑揃ひであった。

 從道の愼吾が大西郷にえらく叱られたことがある。
 気を利かせたつもりで、五百圓で家を建
てて失策ったのぢゃ。

 大西郷は、實に簡單な人で、金のいらぬ人ぢゃ。浴衣の着代へ一枚持って居らん。
 無論住む
家なども考へても居らんのに、從道が氣を利かせて、家を建てたので、大西郷は大いに怒って怒鳴りつけたさうぢゃ。いつでも死ぬ用意をして居る身體に家などがいるものかと言うて手嚴しく叱りつけたさうぢゃ。

 又大西郷が、明治政府に居った頃、英國公使・ハーグスが、大西郷の家を訪ねて、其簡素なのに驚いたそうぢゃ。
 パークスが訪問した時、門前で草取りして居る大兵の書生があった。
 近づいて見るとそれが
當の主人の大西郷であったので、先づ面喰った。
 案内された家が、實に、簡素なので二度ビッ
クリしたさうぢゃ。

 萬事がこんな風で、粗朴、簡潔であったのぢゃ。
 「我家遺法人るや否や皃孫の爲に美田を買はず」の詩の通りぢゃ。
     
      
征韓論の眞相 
 大西郷は征韓論に破れたとよく言ふが、さう言ふ譯ぢゃない。
 あの頃、日本政府が歐米諸國
に脅かされてをるのを見て、韓国では、日本を西洋の奴隸の如く心得、西洋の奴隷に、韓國の土を汚さ亡る譯にいかんと言ふので、例の大院君が「日本人は洋人と交通し、夷狄の民と化したるを以て、自今日本人と交るものは死刑に處す」と言ふが如き、無禮の排外令を出し、あまついさへ、在韓國、日本人全部の引上げを要求したのぢゃ。 

 そこで、大西鄕が、出かけて行って判るやうにする、意氣込んだのぢゃ。
 彼の頃の人物、
木戸も岩倉も三篠も、相當のものだが、議論では、板垣(退助)が一番出して居った。
 板垣の
意見では、岩倉や、大久保などの西洋かぶれの意見に対し、「近い隣同志の國の始末さへつかんのに、西洋の眞似ばかりすると言ふことがあるか。
 先づ以
って、近い隣り同志の、韓國や支那との折合ひをつけにやいかん」と言ふのだ。
 大西郷も全く
これと同意見ぢゃ。

 但し、ヤの南下は手厳しくやつつけねばならぬと言のであったさう
して、韓や、支那とは、仲よくしようと言ふのちゃ。併し西鄕の言ふ通りに、若し西郷を韓國にやったらどんなことになるか判らん。
 是非、西郷が
行くと言ふなら、護衛の名義で、兵を附けてやらう、と言ふ意見もあったと言ふが、大西郷は笑って、「兵隊など附けて貰ふても、おいどんは戦は下手ぢゃ。

 なんの、韓國位に出かけるのなら、竹
の杖一本と、薬草履一足の外別段何もいり申さん。きっと譯の判るやうにしてみせる」と意気、軒昂たるものがあったそうぢゃ。
 併し一部の反對で到頭成り立たなかったのは遺憾
ぢゃ。  

大陸經營の泰斗 
 大西郷は、我國、大陸経營の泰斗だ。日本民族發展の一大象徴だ。 
 近頃、大東亞共榮圏だの、大東亞建設だの、色々と新しい言葉が出来るが、大西郷はすでに遠く百十年の昔、日本民族展の基地として大東洋主義の具現、皇道大亞細亞の建設を實踐せんとしたのた。
 
 それがために、韓國と支那と善隣し、露西亞の南下を抑へ、止むを得ざれば
之を撃ち、日本精神の殿堂を大東亞に打ち建てようとしたのだ。
大西郷が、征韓の正論を主張し、太政大臣三條に迫った際の、大陸経營意見書と言ふやうなものが、内閣記録として遺ってをると云ふことを誰か言うて居った。

 その一節に何んでも、
「太政大臣な篤と聞いて下され、今の太政大臣な、昔の太政大臣でなく、王政復古、明治維新の太政大臣でごはす。
日本を昔からの小日本で置くも、大神宮の神勅の通り、大小、廣狭の各國を引寄せて、天孫のうしはき給ふ所とするも、皆おはんの双肩にかかって居り申すでごはす。
 日本も此儘では何時までも島國日本の形態を脱することは出來申さぬ。今は好機會でごはすので、歐羅巴の六倍もある亜細亜大陸に足を踏み入れて置かんと、後日、大なる、憂患に遇ひ申すぞ。

 朝鮮と清國とは、こけ威しで決して恐るるに當り申さん。露西亜は國民の耳目を外国にそらさんことを終始致し申さんでは、自己の身體が危いでごはす。

 大兵を出して我日本を、征するなんちうことは迚も出來申さん。
 今おいどんが言ふ事を聽きに
ならんと、後日、此倍も又その倍も骨が折れ申す。さうしてどう骨折っても、おいどんが今言ふことをせんばならんどうごはす。どうでもこうでも日本の神慮大職でごはすけん、結局、朝鮮を外垣として、後に朝鮮を策源地とし申して、魯西亞と手を引き合ふ事になり申す。

 然し一
度は戦爭をし申さんと、相手の事情も結極本當に呑み込み申さんから、假令仲好くなり申しても、皮相の同盟で、誠意の同盟は出來まつせんから一寸の利害ですぐ崩れ申すぞ。此通りになり行くことは、既降盛が判断したことではなか。實は、天祖の御神旨、日本の國令が此通りでごはすから、いやでも遲かれ左様なり行き申す。 

 おはんは、おいとんより、年下ぢやけん、おいどんより後に生き残りましようで、只今申した事はよう覺えちょって下され。云々」
と言ふやうな意味で痛烈に訓へてをる。

 仲々痛快ぢゃ。今より数十年以前に、きつばり言ひ
きったものだ。其達識と明察に驚くではないか。
又、大西郷が、征韓論を提唱する迄には、實に眞摯なる省察と周到なる用意があった。

 大西郷は、これより早く、復心の府介、北村重賴を韓國に派遣し、著く鷄林八道の實状を踏査せしめ、同時に同じく門下の池上四郎、武市熊吉等を、滿洲地方に出向かせ、朝鮮と支那と而して露西亞との、関係を精査、考究せしめ、更に又、板垣(退助)、伊知地(正治)等にをを含めて作載を樹てさせてる。
 一方外務卿副島(種臣)は、清及び露との折衝に對する準
備をしてをるなど、誠に重を極めて居ったのだ。

 これ等は言ふまでもなく、ロシヤ並に西歐諸国の暴慢と其侵略とに備ふるのみならず、進んでで、我肇園の大精神を具現する爲め、大陸進出の第一段階を作る爲めであつたのだ。

 大西郷を以て皇道亞細亞の建設、日本民族發展の表徴と言ふのは此のことだ。
 大西郷の主張通り、日本の大陸進出が實行されて居ったならば、今少しく我國の犧牲を少くして、日本の大飛躍の機會を早めて居ったに違ひない。即ち、大東亞の建設が一世紀前に其緒について居ったことと思ふ。
 
 況んや、大西郷の経綸が用ひられなかった爲、大西郷の最期を早めたことを思へば、惜しみても猶餘りあることぢゃ。
 併しながら遅れたりと雖も、御稜威の下大東亞戦争の赫々たる戦果が着々具現せられつ、あり、大東亞の建設を見ては、地下の靈も定めし満足であらう。  



頭山満述「英雄ヲ語ル」西郷隆盛(2) 勤皇報国の念願

2020-05-26 10:23:32 | 頭山 満


 頭山満 述  西郷隆盛(2)
   



勤皇報国の念願

 大西郷は、自分より三十二歳の年長で、年代が違って、遂に親しく共謦咳に接する機會を得なかっのは、如何にも殘念に思ってをる。

 西南戦役の際、自分は、二十三歳の一書生であったが、その前年明治九年の秋、自分等は、
大久保利通暗殺、政府顛覆の陰謀をなすものとして、捕へられて人獄し、翌十年九月出獄したが、其の時はすでに、西南戦役は終結し、大西郷は、空しく故山の露と清えた後であった。

 明治八年の交、自分は、女傑高場亂先生の人蔘畑の高場塾に學んでをつたが、国政改革、勤皇報國實践を念願し、同塾の進藤喜平太(後の玄洋社々長)、箱田六輔(初代玄洋社々長)、武部小四郎(西南役に呼應して斬せらる)などと矯志社を創立し、讀書、修練は勿論、堅く血盟して
勤皇報國、邦家の爲一身を抛たんことを盟約した。
當時、征韓論が沸騰し、天下の輿論は囂(ゴウ、かまびす)々たる秋であった。大西郷以下桐野、篠原などの諸豪も故山に歸臥し、大いに私學校に人才を養成中であったのだ。

 征韓歯で正面衝突した、大久保利通などの官憲は、決裂後の急迫せる事態と世相をいたく憂慮し、大西鄕と其一統は勿論のこと、佐賀の江藤新平や、土佐の板垣退助、菻の前原一誠どに對し、實に峻厳なる警成をしたものだ。從って、自分等の矯志社も何度と注視の的となった。
江藤新平の佐賀の亂に次いで、明治九年には、能本の神風連、更に前原一誠が萩に旗擧げすると云ふ風で、天下の風雲愈々急となった。

 其動機や手段、目的に多少の相達はあっても、大體に於て、君側の奸を一掃し、國政を刷新することにあった。
官憲は血眠となった。矯志社に對する官憲の疑感は遂に爆酸し、政府顧覆の陰課をなすものと決めて終った。
一日自分どもは、近郊に近郊に兎狩りに出かけた。社員の留守を見計って、家宅搜査をした。
空巣狙ひをやった譯だ。さうして盟約書其他の文書を押収した。

 その中に「一、大久保を斬る事」と言ふ文書や、政府顛覆に關する計晝書などがあったのだ。
自分ほ、急を聞いてり、いかに警察でも人の留守を狙って家宅搜をするとは怪しからんと、署長の寺内とか言ふのに會って嚴談したが、肝腎の、文書を押牧されて居るので致し方なく遂に下獄した譯た。
 自分を初め、大倉周之助、林斧助、進難喜平太、宮川太一郎その他十數名、國事犯の嫌疑で、福岡監獄に収監された。
      
     

 然るに、十年、西南戦役が起るや、自分等も、大西郷一統と一脈相通づる者として、内外相呼応することを恐れ、自分等十名は福岡監獄から、徴収萩の牢へ移された。警成された譯だが、これが爲、却って長州では、格別の優遇を受け、修錬にもなった。
 而して在獄一年、前述べたやうに、十年九月には出獄したが、大風一過の後であった。こんな風で到頭、大西郷の風格に親しく接する機會を失ったが、其烈々たる、忠君、愛國の至誠はよく心魂に徹してをる。
   
願留魂魄護皇城
   朝蒙恩遇タ焚坑 
   人世浮沈似晦明 
   縱不囘光葵向日 
   若無開運意推誠 
   洛陽知己皆爲鬼 
   南嶼俘囚獨竄生 
   生死何疑天附興 
   願留魂魄護皇城  

 一誦、惻々として、人の心魂を打つ、これは、大西郷が流罪で沖の永良部島へ流され、例の大西郷の心友、川口雪蓬老と、詩や書の研究をしてをつた時代の詩だ。 

 大西郷の詩は、誠に天眞流露でいいが、書も亦、仲々いい。奔放自在、雄渾な書風は又一種常人の眞似の出来ぬ風格がある。出獄後の自分共は、愈々身を挺して、廟堂の廊清と、國威の發揚に盡さねばならぬと決心し、大いに同志の糾合に努め、福岡の向ふ、向物に向濱に向濱塾を開を、講書、錬武を毎日の日課とし大いに励んだ。

 するとその翌年、大久保単東(利通)は石川縣の島田一郎等に暗殺された。之で大事が今にも起きるやうな氣もしたので、自分は土佐に板垣を訪ひ、蹶起の意志なしやを糺したが、別段のこともなかった。

 土佐から歸った十二年の暮、自分は同志、松本俊之助、吉田震太郎、浦上勝太郎、伊知地迂橘等の四人と一緒に、かねて憬憬してをつた南洲の故山を訪ねた。
 無一文で、福岡から鹿児島まで歩いたのだから、仲々、元気なものであった。
直ちに大西郷の舊宅を訪ふた。前に述べた、西郷が、沖の永良部島流罪中の知己、小口雪蓬老が、大西郷の死後もそのまま居殘って遺児の訓育に當ってをつた。

 雪蓬老は白髯を蓄へ、眠光烱々として犯しがたい風丰であった。
來意を告ぐると、雪蓬老は、仲々慇懃に應応對してくれ、
「遠路わざわざ、お出下さったが、鹿児島は今では大木の伐り跡と同然、何にも御覽に入るるものもない。此間まで、天下有用の材も茂ってをりましたが、今ぢゃ伐り倒されて、まるで禿げ山も同様であります。これから苗を植ゑつけても大木になるのは容易なことではない。殊に大西郷程の大木は何百年に一本、何千年に一本出るか出ないか判らない程のもので、誠に殘念なことをし申した。」
如何にも殘念さうに暗然としてをつた。

 此の時、雪蓬老から、大西郷愛讀の、大鹽平八郎の「洗心洞剳記」を借りて來たのだ。

 「洗心洞剳記」は大西郷が幾度も幾度も繰り返し、餘程愛讀したものと見え、摺り切れた處へ、大西郷が自ら筆を取って書き入れたり、紙の取れた處があつたりしてをつた。大西郷、愛蔵の大鹽平八郎の書幅も見せて貫ったが、物に顧着せぬ大西郷が、此書幅の表装たけは仲々立派なものであったのを考ふると、大鹽中齋には、餘程傾倒してをつたものと見ゆる。



頭山満述「英雄ヲ知ル」西郷南洲(1) 天人合一の大人格

2020-05-25 11:10:52 | 頭山 満


 頭山満 述  西郷隆盛(1)
   

  
人合一の大人格 
 夥(おびただし)くある大西郷の詩の中に、
   世上の毀譽、輕きこと塵に似たり
   眼前の富貴、僞邪、眞邪
   想ひ起す、孤島幽囚の樂
   今人に在らず、古人に在り 
と言ふのがある。
人生を達観した、達人の詩として自分は永く愛場し來ってをる。
此詩を通
じても、大西郷の錬達された、大人格が歛墓せらるるのだ。

 又、南洲遺訓の一節に
「人を相手とせす、天を相手にすべし。天を相手にして己を盡し、人を咎めす、我誠の足らざる所を尋るべし」と言ふのがある。これは、千古の名言として汎く人口に親炙してをる。
「人を相手にせす、天を相手にすべしとは實に、神韻だ。此超脱せる大精神が、大西郷をして、萬古不易の大人格としたのだ。
 而も
 「天を相手にして、己を盡し、人を咎ず、我誠の足らざる所を尋ぬべし」
と喝破してをる、誠に至言である。天を相手とし、自分の全神、全靊を献げ、至誠を傾倒しさてその成敗は一切、天の攝理に委ぬるのだ。
 
 更に又
「道は、天地自然のものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛すべし」
と訓へてをる。
 敬天、愛人、天人合一の大人格、大西郷に依って始めて之を観るの感がある。
古人も「誠は天の道なり、之をして誠ならしむるは人の道なり」と敎へて居るのもここのことちゃ。
貧富、賢愚、美醜、強弱と色々、形は變ってをつても、人間は、各々、天の與へられたる使命がある。
  
    巨大なる風格 
 海南の奇傑、坂本龍馬が、初めて、大西郷の風才に接し「西郷と言ふ男は、實に奥底の知れぬ大人物ぢゃ」と感瑛したと言ふ話であるが、同じく土佐の人傑、中岡慣太郎も、大西郷を評し、「此人、學識あり、膽略あり、常に寡にして、最も思慮雄斷に長じ、適ま一言を出せば、確然、人腸を貫く、且つ徳高くして人を報し、屢々、艱難を経て頗る事に老練す。其誠意、武市(瑞山)に似て、學識有之者、實に知行合一の人物也。此則ち、當世、洛西第一の英傑、云々」
と言ふやうに極めて南洲を、賞揚してをるのを観ても、如何に大西郷が偉大であったか凡そ想像が出來る。

 大政奉還の際、幕府の代表的人物に勝海舟があった。仲々の傑物で、大西郷と肝膽相照し、此兩雄の方寸、遂に、江戸を兵火の惨より救った。談笑の間、江戸城明け渡しをやり、大政奉還の大業を成就したのであるが。
大西郷は、其の以前、傑出せる勝の風格を墓って、勝が、海車練習所を預ってをる頃、人を介して初めて會ってをる。而して、勝との初對面の印象を、大久保(利通)に言ひ送ってをる。
 
「勝氏に初めて會ったが、實に驚き入った人物ぢゃ。實は事によったら、やり込めてやらう位思って會ったが、仲々どうして、頓と頭を下げ申した。どれたけ智慧あるやら知れぬ鹽梅に見受けた。英雄、肌合ひの人物で、佐久間(象山)より一層物事の出来るやに思ふ。學間と見識とでは、象山抜群のことであるが、現在事に臨んでは、勝先生だと、ひどく惚れ申した。」
と言ふやうな意味のことを書き、勝海舟の人物風格を激賞してをる。
英雄、英雄を知ると言ふ譯だ。
  
 このやうに、勝海舟翁も亦、大西郷の心事を一番よく知ってをる。大西郷が、●(印字不明)勃たら勤皇報國の赤誠を蔵しながら、空しく山の露と消えた時、心友、勝海舟はいたく大西郷の死を悼み、心境を洞察し
  亡友南洲氏風雲定大是云々
の詩を手向けたが、さすがに南洲翁の心事を最もよく知るだけ實によく出來てをる。
   亡友南洲氏
   風雲定大是
   拂衣故山去
   胸襟淡如水
   悠然事躬耕 
   鴫呼一高士 
   豈竟紊國紀 
   甘受叛賊訾 
   笑擲此殘骸 
   以付教弟子 
   毀譽皆皮相 
   雅能察微旨 
   唯有精靈在 
   千載存知己 
 
 土佐の有志家で、島本仲道と言ふ元気者が居った。海南の奇傑を以て自ら任じただけあって、
仲々気骨のある男ぢゃ。
 島本が司法省に居る頃、たしか、丸山作樂か何かの事件の時と思ふが、島本は衆人調座の中で、西郷を罵倒し、
「西郷々々と曾うて、世間では、貴方のことを何か人間以上のやうに言うてをるが、自分には、トント理屈が判らぬ。同志の者共が、多く、獄裡の人となり、不遇に呻吟してをるのに、貴方のみ、獨り恬然として、維新の元動ぢゃ、何ぢゃと、大道を闊歩してをるのは何たる情ぢゃ。同志の苦を見殺しにするやうな男が、何の大人物ぢゃ。自分の眼から見れば、蟲ケラも同然ぢゃ」
と、持ち前の氣一本で、痛烈に遣っつけたさうぢゃ。

 ところが、大西郷は、只黙々焉として
頭を下げ聞いて居ただけで、遂に一言も發せなかったさうぢゃ。すると、島本は「どうですか、一言の解も出來まい」と追及したさうだが、西郷は、依然、默々として、更に一言の言葉もなかったぢうちゃ。
するとその翌日は、大西郷の崇敬者達はこれを傳ヘ聞いて、いきり立ち、大西郷のとこらに押しかけ、島本の不遜と無禮を罵倒し、「實に不届至極の奴ぢゃ、生かしては置けぬ。あんな奴を同法省に一刻たりとも置く譯に參らぬ」と、口々に島本を罵った。 

 すると、西郷が、徐に口を開いて、「おう、彼の人が、島本さんでごわしたか、仲々偉い人ぢゃ。島本さんに言はれて見れば、どうも、西郷には、一言もごわせん。ああいふ確かりした人が「司法省に居られるので、おいどん達も安心でごわす」と、島本を讃嘆したので、意氣込んでをつた一同、開いた口が塞がらなかったと言ふ話ぢゃ。 
  一方、島本は、大西郷の此一言を傳え聞いて始めて、西郷の偉大さに感動し、「ああ、失禮なことを言うた、自分等とはとてもケタが違う」と、敬服したと言ふことぢゃ。 

  


頭山満述「英雄ヲ語ル」高杉晋作(6) 高杉の活躍 と 松下村塾同人申合

2020-05-23 20:41:16 | 頭山 満


 頭山満 述  高杉晋作(6)
   
     
 
      

高杉の活躍 

 かうなると、高杉の獨檀場だ。高杉は長府に馳せ遊撃隊の軍監高橋龍太郎を説得し、更に、寄兵第の軍監山縣狂介へは、
     わしとお前は燒山かづら
       うちは切れても根はきれぬ  
の都々物にいよいよ兵を擧ぐるに決した。

 「東西南北から進撃を開始する」と書き贈り、雪の中を緋縅の小具足に陣羽織を着こみ、桃色の兜を首に引っかけ、駿馬に跨り颯爽たる高杉は、三篠實美公等五卿の宿所たる、長府城外功山寺に到り、
「長州男児あり、これより長州男児の膽つ玉を御覧に入るべし」

 死を以てお止め中すぞお止まりなされ長門の国にも武士があると歌ひ、あっけにとられた五卿お附の者等を殿目に馬に乗り、待ち受けた一隊のものに、サアーれから進軍だと突進し、伊藤俊輔の力士隊、遊撃隊の二隊と合せ僅かの劣勢を以て一擧に馬關新地の俗論黨の會所を奇襲し、之を掃討し、何の苦もなく、馬關一帯の地を勤皇正義派の手中に収めた。 

 高杉擧兵の報が荻に知れ、長藩では諸藩を動員し討代に向はせた。
 高杉はそんなことに頼着なく、今度は単身三田尻に現はれ、碇泊中の軍艦を奪ひ、馬關に廻航し海上のを砲臺の備を固め、更に改めて正々堂々俗論黨討代の「討奸の檄」を宣布した。

(註 討奸檄)
御兩殿様、御先組、祠春公の御遺志を繼がせられ、正義御遵守被遊候處、好吏共、御趣意に背き、名を御恭順に託し、
共實は、畏縮倫安の心より、名義をも不顧、四境の敵に媚び、恣に關門をう毀ち、御屋形を破り、剰へ、正義の士を幽般し、加之、敵兵を御城下に誘引し、恐れ多くも、種々の御難題を申立、御兩殿様の、御身の上に迫り候次第、
御國家の、恥辱は不及申、愚夫愚婦の切歯する所、言語道斷、我等、洞君恩に沐浴し、姦黨と、義に於て、倶に天を戴かす、
依て區々の精神を以て、洞春公の御靈を地下に慰め奉り、御兩般様の正義を天下萬世に輝かし奉り、御國民を安撫せしむるもの也。 

 此「討奸檄」は非常な反嚮を呼び、各地に伏してをつた正義派が高杉の快擧に呼応した。
 奇兵隊の軍監山縣狂介、雨宮慎太郎は決死の手兵を以て、俗論黨の本營を襲ひ之を破つた。
 高杉は自ら遊撃隊を率ゐ、俗論黨の大軍を追ひ散した。
 斯くて正義軍は連戦連勝し、防長二州ほ悉く勤皇一色に塗り換へられた。
 實に電光石火の勢ひだ。

(姫島幽閉中の野村望東尼救ひ出しと高杉の晩年とは、望東尼のところに話したから略く)

松下村塾同人申合
 松下村塾は創業の吉田松陰を失って後は、松陰が最の愛撫措かなかった松陰門下の雙璧久坂 高杉が恩師松陰の遣志を継承して、修錬に努めた。
何しろ貧乏士族の子弟ばかりで一片の紙も一冊の書籍も仲々自由に買へない、経營は仲々困難であった。


 そこで、久坂、高杉の主唱で一同、手内職をし、それで得た零細な金で、村塾の維持のみならす、國事に奔走した者の建碑などする申合をした。
 之を「貧者の一燈」の意味で「一燈錢申合」と言うて居る。

 松下村塾からは、久坂、高杉を初め、伊藤博文、山縣有朋、品川彌次郎、三浦觀樹、其他明治政府の重きをなした有爲の人才を多數に出してをる。

「一燈錢申合」などやって困苦缺乏に堪へて苦勞力行し、志す處は君國に在り、さすがに松陰の精神が徹底して居った。

(註 一錢申合)
此度社中申合、自分自分の力を盡し、骨を折て些細の事ながらも、相もうけ置度事に候、
非常の變、不慮の念に差懸り候ても、嚢中拂底にては、差閊ものにて候、
追々有志の牢獄に梁がれ又は飢渇に迫候も相助け度、義士烈婦の碑を建、墓を築等にも、
力を盡し手を延し度事に候得共同中有餘の金も有まじき事に候へば、
何れ此方の至誠をのみ貫き度に、されば毎月冩本なりもして、僅の儲致置度、
月末松下村塾まで銘々持寄可致候、半年にもせよ一年にもせよ、塵もつもれば山となる理にて、屹と他日の用に相立、目途かなひて被考候。 

 同社中、身の油を絞出して集る事なれば、容易に費すべきにあらす、
やむを得ざる事なれば社中申合の上にて取抬可申候。
抑々人を救ふも、富貴長者の事ならば、如叶ふベけれど我々にては、
かうまでにするは、「貧者の一燈」と申べき事に候、至誠のつらぬかぬ理は、よもあるまじき也。

依て此度取建候金を、一燈錢とは名づくる也。
一、毎月寫本六十枚宛村塾まで必持寄致置候事
一、寫本料は先師の定める所眞字二十行二十五文、片假名同断四文の事
一、一日僅に二枚宛の事なればさまで勉強のならぬ事は有まじ若此數不足するときは一枚の定をもって相償必持寄可有之候事

 右の條々度申合せ候所是しきの事さへ、首を惜み候位にては、我々至誠貫候事も無覺束候樣相考候、銘々屹と怠らぬゃう致度事は申も誠に候。      己上  
 文久二年酉十二月朔日松陰先生殉難を距つること三年に近し
                  松下村塾同社中 
         弔 久坂玄端      高杉晋作
  埋骨皇城宿志酬
  精忠苦節足千秋 
  欽君卓立同盟裏
  不負青年第一流 

  官祿於吾塵土輕
  笑拗官祿向東行
  見他世上勤王士
  半是貧功半利名  
  

  今宵こそいづこの里を宿とせむ
     筑波の峰にかかる白雲 



頭山満述「英雄ヲ語ル」高杉晋作(5) 高杉と筑前勤皇黨  

2020-05-22 09:53:08 | 頭山 満


 頭山満 述 高杉晋作(5)  
   
     
 
      

高杉と筑前勤皇黨 

高杉が九州に逃れのたは元治元年高杉二十六歳の時だ時だ。
此年の八月、征長の令が下り、征長軍は、長州四邊に迫った。
藩内の俗論黨は此時とばかり蜂起し、勤皇派に抗爭した。さうして其頃、長藩重役中正義派唯一人の長老であった、藤田公輔(周布政之助)も同志を勵まさんとして自邸で憤死し、俗論派が全く藩政を支配することとなった。

 高杉は正義派の領袖として俗論黨から睨まれ、大いに身の危険を感じ逸早く脱奔を企てたのだ。
九州行を高杉に勧めたのは筑前勤皇の浪士中村圓大だ。

 中村は筑前勤皇家中でも、極めて勇壮、熱血の士で、平野國臣と共に、挺身、尊攘運動に實践した志士だ。

 長州では、唯野人と言ふいかにも變名らしき名を用ひてをつた。中村は、長州正義派を救くる爲に、九州連衡の策をたて、矢張り筑前藩の、淵上郁郞と相圖り連絡をとってをつた。高杉は「谷梅之進」の變名で、中村等と九州に渡った。

   心膽未灰欲 國欲灰
   何人拂盡  滿城埃
   變姿各炭  吾曹事
   且瀉丹心  共一杯  

 これは脱奔直前、病中の井上聞多を見舞った際の詩だ。更に彼は奇兵隊の軍監山縣狂介(後の有朋)を訪ひ、物來の囘天の大業を語り合ひ、行燈を引き寄せ行燈の紙に、
    燈火の影細く見る今宵かなの  一句をものした。

 彼は脱藩恍忙の際にも猶綽々たる襟度を見せ、おもむろに、捲土重来の時に備へ、親友井上、山縣を歴訪して將來囘天の大業を打合せたのだ。
 彼等が關門海峡を渡ったのはタ陽海に映ゆる頃だ。高杉は慨然として古詩一篇をし賦て居る。
    一順逆
    一賞罰 
    賞罰與順逆 天理今猶昔 
    東藩暴威盛 大擧來迫城 
    城中俗論起 骨肉欲相爭 
    一夜天花墮 俗議如烈火 
    俗議如火矣 大罰將及我 
    断然脱繋囚 潜伏山亦舟 
    幸有二士在 使吾去吾州 

    君不見楠公護鳳輦  更有尊氏反 
    又不見南宋衰亂間、 生一文々山 
    順逆賞罰尋常事丈夫爲之豈届志。

 又中村圓太の詩の次韻に、
    追君千里獨陪従
    正是微軀危急時
    蠖屈龍伸丈夫志 
    作奴作僕又何差
と詠み雌伏隠忍、囘天の志を述べてをる。 

 舟が福岡に近づくと、福岡城が眼前に現はれ來り、遠く海上に外國船の帆檣を認めた。高杉は意気昂然として、
    玄海洋上行欲半
    波浪高虞見蠻檣 
と詠った。

 福岡に入って、高杉は筑前勤皇の領柚、月形洗蔵の斡旋で、勤皇家、野村望東尼の平尾山荘に世話になることになった。 
      

 望東尼は福岡藩士野村貞貫の未亡人、貢貫と死別後佛門に入り、望東禅尼となったのだ。
望東尼は勤皇の志厚く、筑前勤皇の志士は勿論、各藩勤皇浪士が多く世話になった。 

         

 高杉の山莊滞在は、僅か十日ばかりであったが、尼は月形等と計って至れり盡せりの世話をした。高杉が山荘に落ちついて月形が早速訪ねて來たのに對し、高杉は、

    賣國囚君無不至    
    我呼快擧在斯辰  
    天祥高節成功略  
    欲學二人一爲一人  
と吟じ、月形も亦次韻したが其中に、
    晝策何無草莽臣 
    棒身天日在此辰 
と高杉の心境を詠った。

 望東尼は品高き女文夫であったが、歌は大隈言道の高弟として有名である。

    もののふのやまと心を縒りあはせ 
      すゑ一すぢの大縄にせよ 

 この歌も各藩勤皇の士が大同團結して忠誠を致すべきを説き、高杉を戒めたものだ。 
月形は勤皇黨の一人瀬口三兵衛を、高杉の爲炊事役に小間使に國學者吉村千秋の娘吉村清子を世話した。
 清子は十四歳であった。高杉は試みに清子に大和心を養ってをるかと糺してみたが、清子は即座に筆を執って、

     われもまた同じ御国に生れ来て
       大和心を知らざらめや 
と答へ乙女心の意気を見て、高杉を歡喜せしめた。

 高杉が筑前滞留は僅かに二週間位であったが、此間長州の状勢は急轉直下した。

蛤御門の變に關係した、三家老が切艘を命ぜられ、三條公等諸卿が九州に分送された。正義派は漸く追ひつめられ僅かに長府に餘勢をおさへてをる。三十六藩の征長軍が逷逷境に迫った。長州の正氣は将に地に墜ちんとしてをる。 

 高杉は右の情報を傳へ聞いて、愈々挺身囘天の策を断行することに決し、孤剣慨然長州にる歸ることとなつた。 

 望東尼はかねてより此事あるを信じ、高杉の為に用意して置いた、羽織や袷や襦袢などを取り揃へ
    山々の花散りぬとも谷の梅
    開く春邊を堪へて待たなん
との餞別の歌と共に高杉に贈った。

 月形等筑前勤皇黨に送られ、勇躍して博多を立った。疾風迅雷、驚天動地の高杉の大活躍はこれからだ。