日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

笠井 孝著『裏から見た支那人』 漢民族概観

2024-02-17 22:39:09 | 中国・中国人


    笠井 孝著『裏から見た支那人』
 
  
 

   
 漢民族概観  

   シャボン玉 
 ・・・・・多元的黄河の文明 
 ・・・・・世界の坩堝  
 ・・・・・チャイナ 
 ・・・・・領土観念 
 ・・・・・蝋燭の光 
 ・・・・・國家観 
 ・・・・・社會文化   

〔シャボン玉〕

 日本と支那とは一衣帯水の國であるにも拘わらず、日本人ほど支那研究の不十分なるものは稀である。
従来支那に對する幾多の研究、乃至文献の如をも、欧米人間には相當多数にあるけれども、日本人の研究には、兎角十分でないのが多い。
 
 隣那支那を研究するのに、出来てはつぶれ、出来てはつぶれるシャポン王の如き支那軍閥の興亡を、一喜一憂し、また革命戰や、内爭や、南京事件や、排日や、経済絶交等々、逐次遷り變る事件の根帯を究めすして、只単に目前の時局問題を論じ、支那の将来を議するの輩が、多数にあるが、

〔多元的黄河の文明〕
 四千年来培われたるその國民性と、社會状態の實相、裏面、實に複雑多岐であって、これを追究し、その根本認識を確実にして、不變なる國民性を通じて、時局を論じ對策を講ずることが、支那では特大切であり、その根幹を究めずして、風のまにまに、動くところの枝業末節を見て、徒らに對支策を論るが如きは、愚の骨頂である。

 早い話が、隣人の性格を知らず、経歴も知らずして、これを批判し、これと親善するの、喧嘩をするのと云って見たところで、所詮無駄なことである。
 萬人皆不可解とする隣邦支那を研究するには、先づその国民性を研究せねばならぬが、国民性は地理、歴史、習俗等の反映である。故に先づ支那を形成する主要民族たる漢民族の由来を、厳に討究するの必要があるのである。

 順序として、先づ上古以来の支那歴朝の變遷、日支交通関係等を、想起する必要があるが、それは専門の研究資料にゆづり、今その概要を摘記すれば、次ぎの通りである。

〔世界の坩堝〕
 支那二十四朝興亡の跡を尋ぬるに、それは謂はゆる易世革命であって『天下は天下の天下なり』との思想が、濃厚に動いて居る。然れば、金、遼、元、清の如く、異種民族が、中原を統治しても、彼等漢民族は、少しもこれを不思議とせず、三代以来、未だ曾て厳密なる意味に於ける支那全土の統一を見ず、

 世界即ち天下、天下即ち國土であって、清末を除くの外、何れもの時代に於いて、殆んど厳密なる意味にける國境はなく、一、二の例外を除くの外、歴朝多く豪族及び官僚の壓制政治であって、統治者と被治者とは、永久に分離して居る。
 これ等のことは、後述國民性の研究上に、留意すべき重要なる事柄である。

 支那文化の中心であった黄河流域には、太古でも、夏以外に彭、磐、瓠等の幾多の種族があって、比較的優秀なる漢民族の爲めに、抱擁同化されたけれども、漢民族そのものは、當時からに幾多の人種を合した多元的なもので、決して日本のやうな、純粋無瑕の單民族ではない。

 周の知きは、習俗から言っても、確かに夏、殷とは異り、一説には、夏、殷、周は、同時に存在したとさへも云はれて居る。
周の時代は、孔孟、儒教の哲學、孫呉の兵法等が出来た時代で、實に西暦紀元前五百年、神武天皇の少しアトに、既に子曰くや、社會主義共産主義があり、彼の蜿蜓五千支里に亘る長蛇の如き萬里の長城も、西暦紀元前200年頃に、既に嚴存して居たのである。

 然れば漢民族が黄河の文明を自慢し火薬や、磁石、農耕、養蚕、または航海術等を似て、世界に自慢するのも一理あることで、唐、宋時代の芸術に至りては、ギリシア、ローマの文化と遜色なく、支那人が、古來中國と誇り、中華と自愡れ、日本人を、東洋鬼、欧米人を西洋鬼と言ふのも、強ち無理からぬことと云はなければならぬ。

 併しながらそれは、畢竟早熱した子供が、尋常小學校で優等生だったことを思うて、老後をも誇らうとするのと同じであり、またこれ等の誇り、是等の矜特が、やがて増長限りなき彼等の民族性を造り上げたことにもなる。
 さらに仔細に、漢民族發展の跡を回顧すれば、その裏面には、不健全なる社會組織と、案外民族の間断なき侵略とがあり、これが爲めに天為の文若民族漢族は、歪み歪んで、卑屈に柾げられた點が多く、支那人一流の歪み根性の起因ともなって居るやうに、見受けられる。

 漢民族は、今から五千年前、支那の内域より中原に進出して、黄河流域に擴まって居たと、歴史は語って居る。そして彼等は、自ら文明人を以って任じ、先住民族を視るに、蛮夷と稱して、自愡れて居たものであるが、これは甚だ迷感至極な自愡れで、世界の有らゆる文明は、我々漢民族の發明にかかると、今日尚ほ威張って居るのであるから、呆れたものである。

 火薬の發明、
小銃の製造は素より、近代文明機械のタンク、飛行機の如きものまで、我々が往昔に於いて、既に早くそうし發明したのだと、平然と天下に向かって自惚れて居る。但し感心なことには、ラジオや、無線發明したのだとは云はない。

 斯くて西方より、黄河流域に進出した漢民族は、逐次千十弱小民族を駆逐して、漸次膨大を加へて行った。
 圧迫された先住民で今尚残って居るのは沢山ある。例へば南方福建、廣西及雲南の一部地方に、住居して居る苗族が有る。
苗族は、元来漢民族と、その性格を異にして居る。一例を以って云へば、漢民族は、直接武器を取って、殺人を行ふよりも、好んで暗殺毒殺をするが、苗族は、勇敢に、明殺を敢行するなど、恰も日本人の性格に似たところがある。

 今日苗族中からも、錚々たる人が、随分多く輩出して居り、岑春煊などもその一人だといふことである。苗族の外に、曾ては呉、越地方(上海附近)に、呉族などがあったけれども、これも多く南方に圧迫されて終った。

 さて一度中原には進出した漢民族は、四隅皆蛮族にして、我のみ文明人なりとは自惚れながらも、彼等が賤族からは、絶えず武力的圧迫を加へられて居たのは、奇観である。

 すなはち東北方には蒙古人あり、満洲人あり、南方には苗族あり、西方にはキルギス人ありと云った始末であるのに、脆弱なる漢民族は、これ等諸民族の武力的圧迫に對して、断然兵器を取って戰ふの勇気はなく、只口先ばかりでワメキ立てるに過ぎなかった。丁度虐められた弱虫が、ガヤガヤ口先ばかりで我鳴り立てるに等しいが、斯かる無気力な人種が、次第に卑屈になり、陰険な性格となって行ったのは、當然なことだとも云へる。

 漢民族は、これ等の蛮族によって、間断なく中原を犯されて居たが、約二千百年ほど前、秦は終に中原に国を成して、漢族に向って君臨することになった。
 秦は、北方の蛮族である。秦が天下を取るや、自ら萬里の長強を修築して、北方よりの蛮族の侵入を防いだことは有名であるが、秦自身が、北方より進出した異民族でありながら、更に北方に長城を築いたのは、不思議なやうに思はれるが、實は不思議でも何んでもない。
 何となれば中原に進出した匈族が、漢族の文化に感染して、漸次骨無しになって行ったことの證左に過ぎないからで
る。

 爾来随、唐の末年頃より金、遼の侵入となり、宋末以後、蒙古民族が進入して元の世となり、満洲民族の進出は清の世となつて、幾度か変遷したのであるが、最近漢民族を圧迫せんとするものは、俄然蒙古の辺境に進出して来得べき北方民族だとも云へる。

 斯の如く、幾度かの支配民族は、北方から侵入したが、何れも漢民族の文化を呼吸するに及んで、何時しか軟化し、腐敗して、漢民族に同化して終わったのである。
誠に漢民族こそ不思議な存在である。 

 或る人がこれを評して、漢民族は坩堝なりと云った。
正に適評なりと云ふべきである。有らゆる民族を融解同化する恐るべき坩堝である。


〔チャイナ〕
支那地理の概要

 歴史的研究は、本書の目的ではないから、これ位として置いて、さらに地理方面を、概説して本文に入ることにする。
(一)支那の名称
   起源は種々あるも、秦時代の名称Chinが転化してChainaチャイナ、
   或は支那等となったと云ふ説が、有力である。
   またロシア語の支那昔キタイは、契丹から転化したと、云はれて居る。

(二)面積 
   支那本土たけで約百五十萬方マイル。辺彊を合すれば430萬方マイルで、
   欧州大陸よりも廣く、日本の約26倍、四川一省だけでも、人口八千萬。
   日本より遥かに大とせられて居る。

(三)人口約四億
   世界人口の四分の一と云はれて居るが、詳細なる統計は不明である。
   密度は、山東が最大で700人、廣西が70人、蒙古、新彊2人、支那本土平均270人。

(四)人種
   漢満蒙回蔵五属と呼んで居るが、西蔵、外蒙古及び満州は人種的にも、
   これを支那の領土と、看做すべきや否や、疑間である。
   民族的に云へば、漢民族は3億7、8千萬を占めて、支那本土の代表的人種である。
   満州民族は二三百萬と称せらるーが、支那本土に於けるものは、殆んど漢人に同化せられて居る

 蒙古人は、300萬内外を有するも、その分布は廣範囲に互って居り、種族もまた多様である。
囘敎徒は甘粛、新彊地方より、雲南、陝西、河南等その他洽く各地に分布し、豚を喰はす、また宗敎上の信念篤く、團結また固し。

 人口1500
萬乃至2000萬を有すと云はれて居るが、単一民族ではない。
西蔵民族は約700萬と称せられ、ラマ教を奉じ、言語風俗、漢民族と異なる。
但し以上の数字は、必やしも確實なものとは云へない。 

 この外に雲南、貴州地方に苗族あり、その他辺彊地方には、漢土の前住民族である幾多の民俗が混在して居るので、支那人を研究するには、漢民族だけを研究したのでは、十分ではい。

(五)地勢
 南船北馬の語に漏れず、揚子江流域を境として、南北の地理、人心、風俗にも、多大の差異がある。殊に南方両地方は、住民の性質、気風等も、支那本土の漢人と著しく異なる点がる。

 然しながら此の廣大なる土地と大陸的気候の自然が與へたる感化は、支那本土の民心をして、悠久、寛容の気風を招来せしめたことは争はれない。土地が廣大で太陸的であることと、一括して支那と呼ぶよりも、各省ごとに、これを一個の獨立地方と見做すのが、寧ろ至當なやうに思はれる場合がある。


〔領土観念〕
漢民族の特質
  
(一)領土観念 
 元来支那人には領土観念、言葉を換えて云言へば、國家観念なんて云うものは有り得ない。
天下とい言葉がある。
天下はこれ權力の及ぶところ、すなはち彼等の天下である。
權力の及ばざるところ、支那人はにれを化外の地と考へて居る。
満州、蒙古の土地は、支那から云へば化外の土地である。
化外の土物を扱ふのに、何も遠慮などする必要はない譯である。

〔蝋燭の光〕
 斯くの如く支那の政府は、蝋燭の光の及ぶとこら、即ち所謂天下であり、領土であり、政治である
だから蝋燭の光の及ばざる辺境は勝手たるべべきで、現にロシアは、蝋燭の光の及ばざる蒙古の境界に、隈なく哨兵を配置して、ドシドシ進出してくるではないか。
北にこのロシアあり、西に英國の西蔵ありと云う有様で、遣憾ながら、蝋燭の光の及ばざるところ、また政治なきの状態を暴露して居る。 

 漢民族の矜持とする文化的優越感、長城を越えて侵入する寨外民族の武力侵略は、文弱の民、漢民族をして、卑屈なる自己満足によって、一時を誤魔化すことにのみ腐心させ、為めに猜疑心を養ひ、陰険なる習俗を、養成するに至ったが、これ等の侵略者に對する優越感より、却って侵略者を属國扱をし、属國と考へて喜んで居るなど、支那人の領土観念は、一寸一般の領土と違ったところがある。

 彼等の所謂領土とは、政治の及ぶととろを称するのではなく、自分と交通往来のある一切のものを領土と称し、
自分の部下と考へる
のであって、つまり、蝋燭の光の及ぶところすなはち
我が天下國家なりと、泰然として考へて居る。

 近来外國との往来頻繁となれる為め、この蝋燭の火光の及ぶ範囲を段々縮小せられ、そこで已むを得すして、ここに及んだもので、彼等本来の観念では断じてない。 

〔國家観〕
(二)國家観念
 『支那は国家に非ず』との説をなす人が、屡々あるが如く、全くその通りであり、これを内部的に解釈して見ると、
支那は、到底近代國家の組織を有して得るものでないことが分る。
或る學者は、支那は人間の一大グループであり、社會ではあるが、國ではないと称して居るが、全く其通りである。

 つまり支那に取っては、國家なる名称は、諸外國との國際條約等を定める爲めに、巳むことを得ず、押しつけられた名称は、支那人の考からすれは、狭量なる國境主義や、領土的國家観念を超越して、國家、君主などを問題にして居ないのである。
 これは政治の要道は、税を徴せないことであ。
治者は関せず、被治者は與らずと云ふて、これを彼等の政治の根本観念として居るのでも分ることである。

 漢民族は、到底我々の心理を以っては、推察出来ない民族である。
彼等が時と場合により、幾多の異なった心理状態を發揮する原因は、以上述べたことの外、次項以下に述べるような家族制度の害、統治者の無力、社會組織の欠陥等も、また大なる原因となつて居ることを、見遁がしてはならない。

 

〔社會文化〕
(三)社會文化
  
 支那文化は、最近まで未だ太古文明の範囲を脱せず、家庭工業と、徒弟制度の経済組織であつた。
従って最近西欧文明の輸入により、急速に工場や、會社が出来て、経済的變革を召来せしめんと、努力して居るけれども、マダマダ近代文明の範囲に転化するには、幾多の難関が横たはつて居る。

 支那は、最近50年前までは全く手工業のみの國で、會社や、銀行や、鐡道工場等の工業の如きものは、主として團匪事件後に於いて、發達したものである。
初めて淞上海間に、汽車がレールの上を走った頃は、ヤレ魔物だとか、或いは怪物だとか唱へて、それに向って投石し、或いはレールの破壊を企てるなどのことを、盛んに遣ったものである。

 それは今から僅か40余年前にぎない。支那ではストライキとか、諸種の労働運動の如きものも、極く最近十数年より
起った現象であって、かかる團體的運動を以って、今日の支郎人を、統制あり、團結ありと観察することは、間違った話である。

 眞實の支那人を観察しようとするならば、その手工業組織卞にけるま家庭工業、徒弟制度方面の舊式支那より、先づ以って観察せなければ、その眞諦れは分らない。



笠井 孝著『裏から見た支那人』 支那を測る尺度

2024-02-17 22:36:37 | 中国・中国人

      笠井 孝著『裏から見た支那人』 
    
     
 
 

   支那を測る尺度 

 研究の手段・・・・横顔・・・・・道徳・・・・・歴史の裏・・・・・尺度 

研究の手段 
 支那を研究するには、その國民性を理解し、之を討究して、有らる方面から、観察する必要がある。斯くてこそ、謎の國支那も、自然に氷解せられ、それぞれの場合に応じて、支那人を如何に扱ふべきかが、自然に釈然たり得ることと思ふ。

 支那國民性の解剖に方り唯単に、我々自己の不完なる過去の常識から、これを類推することは、頗る危険である。例へば女は、マゲを有するものなりとの過去の経験から類推して、芝居の役者は、女なりと速断するのは、笑ひものであると、同一である。

 日本人の支那観には、この種の類推を招き易きものが多々ある。支那人の心理は、日本人の常識では、到底理解し得られざるものがある。
 故に吾々は、先づ彼等の國民性の囚って来
るところの根本原因を、研究して掛らねばならぬ。

 然してこれがために研究すべきことは
(一)支那民族の歴史的、地理的、民族的地位
(二)支那國民性の根本である道徳観念
(三)支那人の民情と、大をな関係を特つ其の家族制度、統治者と被統治者、國家及び社會組織の得意なる點
(四)支那の文化の特別なる状態
等であらねばならぬ。
    
 これを更に約説すれば、日本人と支那人との間には、これ等の諸現象の間に、著しき根本的の観點の差異があり、
またその原因となるべを生活状態、風俗、習慣の間にも、甚だしきを過程のあることを考へねばならぬ。

 以下これ等に関する二、三の注意を概説して本文に入らう。

支那人の横顔 
 支那の研究な必要であらうが、さて然らば如何に研究するかと云ムことは、必らすしも簡単なる問題ではない。
研究方法と云っても色々ある筈であるが、私は先づ初學者に、支那人及び支那が、如何に日本と異るかといふ點だけを、研究することを切望する。
これが釈然たり、會心の了悟を得られない限り、支那の研究は、未だ門に入らずと云はれても致方がないと思ふ。

 従って本書には、その研究の便宜上、支那人なるものを知るべき極めて初歩のアウトラインを記述して見たいと考へる。
率直に言へば、日本人の支那研究は、頗る浮調子であると云び得らるる。日本人は國際聯盟や、欧米諸國の支那に對する認識不足を攻撃するけれども、日本人もまた支那に對する認識不足に於いては、敢えて聯盟や、は欧米諸国に劣らない方である。

 近頃一部識者の間には『支那通支那を誤る』」と称し、欧米仕込みのハイカラ道徳を以て、直ちに對支態度を決せとする人々があるし、さらに『支那通は、支那だけしか知らない。彼等は我々の如く欧米を知らない。
 欧米を知らずして支那が分るものか』と云ふ欧米通もある。

 かと思ふとまた2、30年来の謂はゆる支那浪人を以って、一括してこれを支那通と考へる人もあるが、これ等のもの總て適富な態度ではない。
余談ではあるが、謂はゆる支那通にも色々ある。一は、支那
通りである。

 謂はゆる支那に對する旅行で、上海から漢口、北平、天津と、汽車で一巡して、早速支那通を振り回す、つまり支那を素通りする連中である。
 その二は支那問題で、一年に一度か二度、支那の政情視察のため支那に通うて、支那最近智識の保有者と、自惚れる連中である。

 それから三は、支那に多年在住して、支那を知れりと自ら任するが、然りとて支那語語すらも、十分には話せず、支那の奥地すら旅行したことすらなく、只自惚れと、大言壮語以外には何も研究もしない謂ゆる自称支那通である。

 併しながら今や支那は、是等の欧米通や、支那通によって、料理せらるべき時代ではない。
日本は、自己の死活問題といふ點から、率直、且つ赤裸々に隣人の内容を解剖して掛らぬばならぬ。

 支那人は、世界稀に見る複雑なる心理状態の持主であ。多面體心理の保持者である。
由来研究には、先入主となることは、禁物であるけれども、彼等の著しき特異點は、大要だけは、必ずこれを心得て掛らねばなられのである。

複雑なる支那人心理 
 日本人は途上で友人に出逢ふと、『ヤア』『イヨウ』と、まるで物の掛聲のやうな挨拶をするが、そこに、日本人の竹を割ったやうな心理が表現されて居る。
 併し支第人は、この場合、『ワアイ」とか『ウェイ』と呼ぶ。呼ばれた本人は、何事だらうかと、先づ一思案した後、後ろに身體を捻ち向けて、『ウワイ』とか、『ウウウエイ』とか返事をする。

 この事が、また頗る曖昧模糊として居って、イエスであるか、それともノーであるか、またその中間であるのか、ハッキりして居ない。これは支那人の習慣として、黒白をハッキリしない方が、通例であり、かつ保身の術にもう叶うて居るからである。

 支那では、黒白を明言せず、黒から白に至るまでには、鼠、灰色・淡泊など幾百の色別け、使び分けがあるので、日本人のやうにイエスか、ノーの二色だけでは、行けないのである。

 従ってコンな妙な返事が、持ち出される譯であるが、曾て張作霖が、北京入城の途中、天津に滞在したことがある。
 『何日まで御滞在ですか』と問ふたところが、『佳一天』と答へた。
 翌日また尋ねたところが、また『住一天』と答へた。
 『住一天』とは『一晩泊まる』と言ふことである。
 斯て新彼は十日餘りも、天津に滞在した。

 支那人は、彼等の愛蔵の骨董品を褒めて、幾何位しますかと尋ねると、彼等は『一百多塊錢』を答へる。
百圓餘りと言うことである。百圓餘りとは、百一圓から百九十九圓迄のことの積りである。ここ等にも、彼等國民性の曖昧模糊たる特殊な閃きがある。

支那人の道徳観  
 凡そ一国の國民性は、その民族の歴史、文化、政治組織、社會状態、環境等によりて、左右せられるるものであつて、我々日本人の道徳観を以って直ちにこれを支那人に適用せんとしたり、我々日本人の普通の尺度、我々の心理状態その儘を、直ちに支那人に適用とするのは、間違いである。

 日本人の中には、我も人なり、彼も人なり、苟も至誠を以ってこれを導けば、支那人と雖も、必ず反省するだろうと考へたり、自己の環境と、自己の習慣から、その儘これを支那人に適用し、支那人を批判しようとする者があるが、これ等は何れも至當でない。

 二、三の例を擧ぐれば、支那人は、好んで人の品物を盗むが、これが發見せられても、別に悪いと思はせないみならず、その品物を取戻すと、折角取ったものだから、幾分か手間賃を呉れろと言ふ。斯んなのが日本人では、一寸理解し兼ねる心理状態である。

 また支那には『男女七歳にして席を同じくせず』とか、または『途に遣を拾はず』などと云ふことがあるが、これは七歳で同席したり、遺失物を横領したりするからこそ、是正の必要があり、その爲めに發生した道徳律であり、警戒の言案であるに過ぎない。
 これを、エライなどなど、誤って考へるは、親子を取り違えたような事件である。

 支那人は忘恩的であって、御礼を言はないと、八釜しく憤慨する人があるが、支那人に言はせれば、一度御礼を言へば、それで沢山であると考へて居り、日本人のやうに、出逢ふ度毎に、何回も御礼は云はない。またそれが彼等の習俗である。

習慣風俗の差異
 一々この種の心理状態の相違を、捨び擧げて居たのでは、際限がないが、日常の風裕習慣の上からも、支那人と、日本人とは、甚だしく相違して居る。
 日本人のマツチの擦り方や、鉛筆の削り方と
支那人のすることは、全然アベコベであり、日本人は、鉋や、鋸を、自分の方に引くが、支那人は、先方に推して行く。
   
 食事の時に、我々は橋を横に置くが、支那人は必らず縦に置く。
洗面するにも、日本人は、両手に水を持って、手でプルプルとやるけれども、支那人は、手の中に顔をつけてをクルリクルリと廻す。一事が萬事、所變はれば、品變はる。日本人と、支那人とは、色々に違ふものである。

 支那は、婦人の室を窺くことを極度に嫌ふ。
また足首を出すことを、非常に淫猥なことと考えるなど、習慣上からも、種々違って居る。また同じ支那人でも、北方人は、気が長くて、ユックリして居るが、南方人は、気短かで、多少日本人に似た點がある。
  
 この外日本人の皇室に對する観念の如きは、支那人には、到底理解し得られない事件であって、日本人の皇室観と、支那人の君臣観念との間には、全然合流し得ない根本的相違がある。

 國境観念や、國家観念も、また全然途方もなく異なったととろがある(これは別に後でべる)。
宗教的な考へに於いても、支那人の考へ方は、何處までも現實主義、その場主義であることは、これまた後にはべる通りである。

美化された歴史の裏 
 支那研究に方って、心得なければならぬことは、支那の文献は、美文を以って、悪を美化し、不仁不義を覆ふて居ると云ふことである。このことに就いては、支那人の『宗教観』なる部分に於いて述べるが、支那歴代の史實の記録を以って、その儘支那の實状と解することは、大なる危険である。

 支那人の議論、乃至文章を見るに、如何にも大義名分に透徹し、愛國心に、燃えて居るかに見えるが、
その裏面には、彼等個々の個人的利害とか、売名観とか、打算的の原因やら、動機が多分に働いて居るものであって、
表面の美化を以って、直ちにこれをその儘受入れるのは、支那では、夥しく考へものである。

認識と尺度 
 つぎに間違ひ易いことは、儒教に對する日本人の違算である。
 由来日本人は、支那人を見るに『支那は孔礼の國なり』『彼も人なり我もひとなり』などと、支那人を日本人扱する癖がある。通例的に云へば、世界の道徳は、多くは共通的であるから、日本の道徳習慣を以って、これを欧米人、インド人に適用することは、必ずしも誤りではない、併し我等の道徳観を以って、直ちにこれを支那人に適用することだけは、偉大なる誤りである。
 私にに云はせれ『支那人は人に遠く、寧ろ豚に近い』。 

 彼等は仁義もなく、忠孝なく、義務心なく、犠牲心なし。
況や人倫の道、五常の徳の如きは、四百余州を探しても、薬にしたくもあるものではない。 

 日本人が支那を研究するに方りては、先づこの道徳観念の根本から、その尺度寸法を改造して掛からねはならぬ。
 また支那人は、増長限りなき民族である。

 『隴を得て蜀を望む』といふ諺があるが、支那人は、如何にしても、遠慮を知らぬ増長民族で、相手弱しと見れば、何処までも附け上るか分らない民族である。
 欧米人からは『チャイナチャイナ』とばれ『メード・イン・チャイナ』で、別に異議なくやりながら、日本人に對しては『支那』と呼ばれることを忌避し『中華民國』と書かなければ、公文書を受取らないなど云ふのは、そもそも日本の温和政策を、馬鹿にして居るからである。

 従って支那の研究に遠慮は無用である。
赤裸々に忌憚なく、その内幕をサラけ出して見ることによってのみ、支那研究は可能
である。

 以上の諸點は、民族の研究上、必らず考へねはならぬ豫備智識を掲記したまでで、これだけで勿論足れりとする次第ではなく、またこれで主なるものを、晝して居るでもない。
只単に支那研究上の手ほどきを、述べたものにぎない。


笠井 孝著『裏から見た支那人』序に代へて 、緒言

2024-02-17 22:35:39 | 中国・中国人

  
 笠井 孝著『裏から見た支那人』  

 序に代へて 

一 本稿は支那人、特に支那の主要民族たる漢民族の特質を、拾び上げたものであって、
就中その悪徳方面のみが、多過ぎる嫌びがないでもない。
素より支那人にも美點はある。

 併しながらそれあるが故に、その悪徳方面を見逃がす譯には行かない。
そこで私は、この方面について、私の體驗を、極めて率直に記述した次第である。

 
ニ 満洲の漢人と、支那本土の漢人とは、
血族に於いても、性格に於いても、多少の差異はあるが、
満洲國が出來たからとて、その爲め満洲の漢人だけが、
一躍美化された譯ではないから、本記述は、この點にも取捨をして居ない。


三 本稿は主として昭和五、六年の頃、
業務の餘暇を以って、已に記されありしものを蒐集して、
随筆的に書き改めたもので、内容の檢討、記述の整理共に不十分ではあるが、
過去多年に互り、洽く出先きの者の實地體験せる報告を基礎とし、
これに筆者の十数年間に滿喫せしめられた實例や、
支那人から飲まされた煮え湯の味感やらを、加味して記述したものである。
 
 恐らくは大多数の者な
「イクラ支那人たって、マサか斯んなんではあるまい、支那人だって人間である」と、
御考への向もあることであらう。それはそれで宜しい。


四 併しながら、やがて幾年かの後に、
諸君が支那人と死生を共にし、利害を共にしようとして、
幾度か鮮やかに背負い投げを満喫せしめられた時に、
この小冊子を鐇もかれたならば、
思はす小膝を叩いて「ナール程」と三嘆せられる場合があり得ると、私は確言して置く。
 

五 行文拙、爲めに意到らず、
往々にして徒らに支第人の悪徳汚點だけを摘發物するに却って感情的に過ぐるやに思はれる點さへあり、
支那人の美點を賞める暇のなかったことを、御詫びすると共に、
他日続編に於いて、支那人の美點を褒める機会を、
特ちたいものだと念じて居る。
従って本第な、云はばその前編である。

                               著者誌

 

 

緒言
  謎の支那 
  ・・・・・支那は国家にあらず
  ・・・・・日支は兩立せず
  ・・・・日支親善は大馬鹿
  ・・・・・同文同種は愚案也

 華府會議に於て佛國代表ブリアンは
『支那とは何ぞや』と云ふ謎の様な疑問を舁ぎ出したが、
確問題に如何にも認識不足であり、また如何にもアヤフヤであったのはマダしもであるが、
お隣りの日本人も、また支那の實體を、究明することが、如何にも不十分ではあるまいか。
 
 日本人は、従来口を開けば、直ちに日支共存共栄を唱へ、同文同種を振りかざし、
 或いは日支の黄色同盟を唱へるものすらあるが、
これまた支那に對するベラボウな認識不足と云はなければならぬ。
 
 外國育ち似而非支那人孫中山が、
三民主義の大旗を振りかざして、中華民族の革命を提唱するや、
恰も新興支那人の復活であり、明治維新の再来ででもあるかの如く、
支那革命に瑞気の涙を流した日本人も、決して少くはなかった。
 
 併し私をして言はしむれは、
如上の支那観は、憐れむべき謬れる支那観であって、
支那の主要民族たる漢民族の性情を知らず、
世界文化のバチルスである漢民族の暗黒性状を、顧慮外に置いたものであり、
結局は日本人の支那に對する研究不足に出発して居るものであると言はねばならぬ。
 
 私をして忌憚なく云はしむれば、
漢民族は四千年来のスレッカラシであり、
頽廃民族であり、
従ってまた支那は、東亜平静の癌である。
 
 支那は一つの社會ではあるが、國家ではない。
少くとも近代組織の法治國と見做すべき國ではない。

 或いは寧ろ支那は、匪賊の社會であると云った方が、適評である。
然して土匪、政匪、學匪これ等は支那に横行するパチルスである。
 
 日支共存共栄など云ふことは、
複雑なる漢民族の心理状態から見れば、
實に嗤ふべき口頭禅であるに相違ない。


物質の貧弱な日本が、物質の豊富な支那に對し、
 文化の貧弱な東夷日本が、文化の優れた大中華に對する欲求から出た叩頭である』と
見るのが彼等であり、
且また支那人固有の道徳観念、ならびに心理状態から割出たされた日支親善観
なのである。

 然して
『日本は貧乏で、支那に求むるところあるが故に、親善を云ふのである。
 日本のやうな小國は、嚇しつけてしまへば、譯なくヘコムだろう』と考へて、
 持ち出されたのが、すなはち、数年前の排日運動である。 


 自尊と自惚れと、利害打算の排日は、恐らく今後も永久的であると見るべきであらう。
 永久の排日と、日支の共存共栄? 
それは餘りにも解決の困難なる、然して到底兩立すべからざる二つのテーマではある。

 昨今の言葉を借りて言へば、
満蒙は日本の生命線であり大日本の死活問題であらうが、
併し満州全土にも匹敵すべき、然して日本の26倍にも相當すべき四百餘州の大地域と、
多大なる物資とを擁して、支那第大陸に頑張って居るものは、漢民族である。

 従って漢民族との関係を調整せずして、満蒙を語ることは、末葉である。
然もこの民族の複雑なる、多面的の心理状態と、その傳統的以夷制の政策とは、
永久に日本と兩立すべからざるものがある。

 この故に支那に對する穏和主義、叩頭主義をカナグリ捨てて、
新たなる立場に於て、日本の死活問題を考へ、
新アジアの行途に立脚して、
冷静にこの民族を研究し、冷静にその對策を講ずることこそは、
日本刻下の急務
であらねばならぬ。

 この意味に於て、私は次に忌憚なき漢民族の内幕を、解剖して見ようと思ふ。
これやがて日本の執るべき對支政策の基調とり、
また對支發展の礎石ともなるべきものである。