笠井 孝著『裏から見た支那人』
漢民族概観
シャボン玉
・・・・・多元的黄河の文明
・・・・・世界の坩堝
・・・・・チャイナ
・・・・・領土観念
・・・・・蝋燭の光
・・・・・國家観
・・・・・社會文化
〔シャボン玉〕
日本と支那とは一衣帯水の國であるにも拘わらず、日本人ほど支那研究の不十分なるものは稀である。
従来支那に對する幾多の研究、乃至文献の如をも、欧米人間には相當多数にあるけれども、日本人の研究には、兎角十分でないのが多い。
隣那支那を研究するのに、出来てはつぶれ、出来てはつぶれるシャポン王の如き支那軍閥の興亡を、一喜一憂し、また革命戰や、内爭や、南京事件や、排日や、経済絶交等々、逐次遷り變る事件の根帯を究めすして、只単に目前の時局問題を論じ、支那の将来を議するの輩が、多数にあるが、
〔多元的黄河の文明〕
四千年来培われたるその國民性と、社會状態の實相、裏面、實に複雑多岐であって、これを追究し、その根本認識を確実にして、不變なる國民性を通じて、時局を論じ對策を講ずることが、支那では特大切であり、その根幹を究めずして、風のまにまに、動くところの枝業末節を見て、徒らに對支策を論るが如きは、愚の骨頂である。
早い話が、隣人の性格を知らず、経歴も知らずして、これを批判し、これと親善するの、喧嘩をするのと云って見たところで、所詮無駄なことである。
萬人皆不可解とする隣邦支那を研究するには、先づその国民性を研究せねばならぬが、国民性は地理、歴史、習俗等の反映である。故に先づ支那を形成する主要民族たる漢民族の由来を、厳に討究するの必要があるのである。
順序として、先づ上古以来の支那歴朝の變遷、日支交通関係等を、想起する必要があるが、それは専門の研究資料にゆづり、今その概要を摘記すれば、次ぎの通りである。
〔世界の坩堝〕
支那二十四朝興亡の跡を尋ぬるに、それは謂はゆる易世革命であって『天下は天下の天下なり』との思想が、濃厚に動いて居る。然れば、金、遼、元、清の如く、異種民族が、中原を統治しても、彼等漢民族は、少しもこれを不思議とせず、三代以来、未だ曾て厳密なる意味に於ける支那全土の統一を見ず、
世界即ち天下、天下即ち國土であって、清末を除くの外、何れもの時代に於いて、殆んど厳密なる意味にける國境はなく、一、二の例外を除くの外、歴朝多く豪族及び官僚の壓制政治であって、統治者と被治者とは、永久に分離して居る。
これ等のことは、後述國民性の研究上に、留意すべき重要なる事柄である。
支那文化の中心であった黄河流域には、太古でも、夏以外に彭、磐、瓠等の幾多の種族があって、比較的優秀なる漢民族の爲めに、抱擁同化されたけれども、漢民族そのものは、當時からに幾多の人種を合した多元的なもので、決して日本のやうな、純粋無瑕の單民族ではない。
周の知きは、習俗から言っても、確かに夏、殷とは異り、一説には、夏、殷、周は、同時に存在したとさへも云はれて居る。
周の時代は、孔孟、儒教の哲學、孫呉の兵法等が出来た時代で、實に西暦紀元前五百年、神武天皇の少しアトに、既に子曰くや、社會主義共産主義があり、彼の蜿蜓五千支里に亘る長蛇の如き萬里の長城も、西暦紀元前200年頃に、既に嚴存して居たのである。
然れば漢民族が黄河の文明を自慢し火薬や、磁石、農耕、養蚕、または航海術等を似て、世界に自慢するのも一理あることで、唐、宋時代の芸術に至りては、ギリシア、ローマの文化と遜色なく、支那人が、古來中國と誇り、中華と自愡れ、日本人を、東洋鬼、欧米人を西洋鬼と言ふのも、強ち無理からぬことと云はなければならぬ。
併しながらそれは、畢竟早熱した子供が、尋常小學校で優等生だったことを思うて、老後をも誇らうとするのと同じであり、またこれ等の誇り、是等の矜特が、やがて増長限りなき彼等の民族性を造り上げたことにもなる。
さらに仔細に、漢民族發展の跡を回顧すれば、その裏面には、不健全なる社會組織と、案外民族の間断なき侵略とがあり、これが爲めに天為の文若民族漢族は、歪み歪んで、卑屈に柾げられた點が多く、支那人一流の歪み根性の起因ともなって居るやうに、見受けられる。
漢民族は、今から五千年前、支那の内域より中原に進出して、黄河流域に擴まって居たと、歴史は語って居る。そして彼等は、自ら文明人を以って任じ、先住民族を視るに、蛮夷と稱して、自愡れて居たものであるが、これは甚だ迷感至極な自愡れで、世界の有らゆる文明は、我々漢民族の發明にかかると、今日尚ほ威張って居るのであるから、呆れたものである。
火薬の發明、小銃の製造は素より、近代文明機械のタンク、飛行機の如きものまで、我々が往昔に於いて、既に早くそうし發明したのだと、平然と天下に向かって自惚れて居る。但し感心なことには、ラジオや、無線發明したのだとは云はない。
斯くて西方より、黄河流域に進出した漢民族は、逐次千十弱小民族を駆逐して、漸次膨大を加へて行った。
圧迫された先住民で今尚残って居るのは沢山ある。例へば南方福建、廣西及雲南の一部地方に、住居して居る苗族が有る。
苗族は、元来漢民族と、その性格を異にして居る。一例を以って云へば、漢民族は、直接武器を取って、殺人を行ふよりも、好んで暗殺毒殺をするが、苗族は、勇敢に、明殺を敢行するなど、恰も日本人の性格に似たところがある。
今日苗族中からも、錚々たる人が、随分多く輩出して居り、岑春煊などもその一人だといふことである。苗族の外に、曾ては呉、越地方(上海附近)に、呉族などがあったけれども、これも多く南方に圧迫されて終った。
さて一度中原には進出した漢民族は、四隅皆蛮族にして、我のみ文明人なりとは自惚れながらも、彼等が賤族からは、絶えず武力的圧迫を加へられて居たのは、奇観である。
すなはち東北方には蒙古人あり、満洲人あり、南方には苗族あり、西方にはキルギス人ありと云った始末であるのに、脆弱なる漢民族は、これ等諸民族の武力的圧迫に對して、断然兵器を取って戰ふの勇気はなく、只口先ばかりでワメキ立てるに過ぎなかった。丁度虐められた弱虫が、ガヤガヤ口先ばかりで我鳴り立てるに等しいが、斯かる無気力な人種が、次第に卑屈になり、陰険な性格となって行ったのは、當然なことだとも云へる。
漢民族は、これ等の蛮族によって、間断なく中原を犯されて居たが、約二千百年ほど前、秦は終に中原に国を成して、漢族に向って君臨することになった。
秦は、北方の蛮族である。秦が天下を取るや、自ら萬里の長強を修築して、北方よりの蛮族の侵入を防いだことは有名であるが、秦自身が、北方より進出した異民族でありながら、更に北方に長城を築いたのは、不思議なやうに思はれるが、實は不思議でも何んでもない。
何となれば中原に進出した匈族が、漢族の文化に感染して、漸次骨無しになって行ったことの證左に過ぎないからでる。
爾来随、唐の末年頃より金、遼の侵入となり、宋末以後、蒙古民族が進入して元の世となり、満洲民族の進出は清の世となつて、幾度か変遷したのであるが、最近漢民族を圧迫せんとするものは、俄然蒙古の辺境に進出して来得べき北方民族だとも云へる。
斯の如く、幾度かの支配民族は、北方から侵入したが、何れも漢民族の文化を呼吸するに及んで、何時しか軟化し、腐敗して、漢民族に同化して終わったのである。誠に漢民族こそ不思議な存在である。
或る人がこれを評して、漢民族は坩堝なりと云った。
正に適評なりと云ふべきである。有らゆる民族を融解同化する恐るべき坩堝である。
〔チャイナ〕
支那地理の概要
歴史的研究は、本書の目的ではないから、これ位として置いて、さらに地理方面を、概説して本文に入ることにする。
(一)支那の名称
起源は種々あるも、秦時代の名称Chinが転化してChainaチャイナ、
或は支那等となったと云ふ説が、有力である。
またロシア語の支那昔キタイは、契丹から転化したと、云はれて居る。
(二)面積
支那本土たけで約百五十萬方マイル。辺彊を合すれば430萬方マイルで、
欧州大陸よりも廣く、日本の約26倍、四川一省だけでも、人口八千萬。
日本より遥かに大とせられて居る。
(三)人口約四億
世界人口の四分の一と云はれて居るが、詳細なる統計は不明である。
密度は、山東が最大で700人、廣西が70人、蒙古、新彊2人、支那本土平均270人。
(四)人種
漢満蒙回蔵五属と呼んで居るが、西蔵、外蒙古及び満州は人種的にも、
これを支那の領土と、看做すべきや否や、疑間である。
民族的に云へば、漢民族は3億7、8千萬を占めて、支那本土の代表的人種である。
満州民族は二三百萬と称せらるーが、支那本土に於けるものは、殆んど漢人に同化せられて居る。
蒙古人は、300萬内外を有するも、その分布は廣範囲に互って居り、種族もまた多様である。
囘敎徒は甘粛、新彊地方より、雲南、陝西、河南等その他洽く各地に分布し、豚を喰はす、また宗敎上の信念篤く、團結また固し。
人口1500萬乃至2000萬を有すと云はれて居るが、単一民族ではない。
西蔵民族は約700萬と称せられ、ラマ教を奉じ、言語風俗、漢民族と異なる。
但し以上の数字は、必やしも確實なものとは云へない。
この外に雲南、貴州地方に苗族あり、その他辺彊地方には、漢土の前住民族である幾多の民俗が混在して居るので、支那人を研究するには、漢民族だけを研究したのでは、十分ではい。
(五)地勢
南船北馬の語に漏れず、揚子江流域を境として、南北の地理、人心、風俗にも、多大の差異がある。殊に南方両地方は、住民の性質、気風等も、支那本土の漢人と著しく異なる点がる。
然しながら此の廣大なる土地と大陸的気候の自然が與へたる感化は、支那本土の民心をして、悠久、寛容の気風を招来せしめたことは争はれない。土地が廣大で太陸的であることと、一括して支那と呼ぶよりも、各省ごとに、これを一個の獨立地方と見做すのが、寧ろ至當なやうに思はれる場合がある。
〔領土観念〕
漢民族の特質
(一)領土観念
元来支那人には領土観念、言葉を換えて云言へば、國家観念なんて云うものは有り得ない。
天下とい言葉がある。天下はこれ權力の及ぶところ、すなはち彼等の天下である。
權力の及ばざるところ、支那人はにれを化外の地と考へて居る。
満州、蒙古の土地は、支那から云へば化外の土地である。
化外の土物を扱ふのに、何も遠慮などする必要はない譯である。
〔蝋燭の光〕
斯くの如く支那の政府は、蝋燭の光の及ぶとこら、即ち所謂天下であり、領土であり、政治である。
だから蝋燭の光の及ばざる辺境は勝手たるべべきで、現にロシアは、蝋燭の光の及ばざる蒙古の境界に、隈なく哨兵を配置して、ドシドシ進出してくるではないか。
北にこのロシアあり、西に英國の西蔵ありと云う有様で、遣憾ながら、蝋燭の光の及ばざるところ、また政治なきの状態を暴露して居る。
漢民族の矜持とする文化的優越感、長城を越えて侵入する寨外民族の武力侵略は、文弱の民、漢民族をして、卑屈なる自己満足によって、一時を誤魔化すことにのみ腐心させ、為めに猜疑心を養ひ、陰険なる習俗を、養成するに至ったが、これ等の侵略者に對する優越感より、却って侵略者を属國扱をし、属國と考へて喜んで居るなど、支那人の領土観念は、一寸一般の領土と違ったところがある。
彼等の所謂領土とは、政治の及ぶととろを称するのではなく、自分と交通往来のある一切のものを領土と称し、
自分の部下と考へるのであって、つまり、蝋燭の光の及ぶところすなはち我が天下國家なりと、泰然として考へて居る。
近来外國との往来頻繁となれる為め、この蝋燭の火光の及ぶ範囲を段々縮小せられ、そこで已むを得すして、ここに及んだもので、彼等本来の観念では断じてない。
〔國家観〕
(二)國家観念
『支那は国家に非ず』との説をなす人が、屡々あるが如く、全くその通りであり、これを内部的に解釈して見ると、
支那は、到底近代國家の組織を有して得るものでないことが分る。
或る學者は、支那は人間の一大グループであり、社會ではあるが、國ではないと称して居るが、全く其通りである。
つまり支那に取っては、國家なる名称は、諸外國との國際條約等を定める爲めに、巳むことを得ず、押しつけられた名称は、支那人の考からすれは、狭量なる國境主義や、領土的國家観念を超越して、國家、君主などを問題にして居ないのである。
これは政治の要道は、税を徴せないことであ。
治者は関せず、被治者は與らずと云ふて、これを彼等の政治の根本観念として居るのでも分ることである。
漢民族は、到底我々の心理を以っては、推察出来ない民族である。
彼等が時と場合により、幾多の異なった心理状態を發揮する原因は、以上述べたことの外、次項以下に述べるような家族制度の害、統治者の無力、社會組織の欠陥等も、また大なる原因となつて居ることを、見遁がしてはならない。
〔社會文化〕
(三)社會文化
支那文化は、最近まで未だ太古文明の範囲を脱せず、家庭工業と、徒弟制度の経済組織であつた。
従って最近西欧文明の輸入により、急速に工場や、會社が出来て、経済的變革を召来せしめんと、努力して居るけれども、マダマダ近代文明の範囲に転化するには、幾多の難関が横たはつて居る。
支那は、最近50年前までは全く手工業のみの國で、會社や、銀行や、鐡道工場等の工業の如きものは、主として團匪事件後に於いて、發達したものである。
初めて淞上海間に、汽車がレールの上を走った頃は、ヤレ魔物だとか、或いは怪物だとか唱へて、それに向って投石し、或いはレールの破壊を企てるなどのことを、盛んに遣ったものである。
それは今から僅か40余年前にぎない。支那ではストライキとか、諸種の労働運動の如きものも、極く最近十数年より起った現象であって、かかる團體的運動を以って、今日の支郎人を、統制あり、團結ありと観察することは、間違った話である。
眞實の支那人を観察しようとするならば、その手工業組織卞にけるま家庭工業、徒弟制度方面の舊式支那より、先づ以って観察せなければ、その眞諦れは分らない。