日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

桑原隲藏 『支那人の食人肉風習』

2024-03-16 18:20:53 | 中国・中国人

 那人の食人肉風習 
   桑原隲藏 

 

 この論文を讀む人は、
更に大正13(1924)年7月發行の『東洋學報』に掲載した、
拙稿「支那人間に於ける食人肉の風習」(本全集第二卷所收)を參考されたい。

 

 この4月27、28日の諸新聞に、

 目下露國の首都ペトログラードの食糧窮乏を極めたる折柄、
官憲にて支那人が人肉を市場に販賣しつつありし事實を發見し、
該支那人を取押へて、遂に之を銃殺せり。
  
 といふ驚くべき外國電報が掲載されてある。
私はこの電報によつて、端なくも、古來支那人間に行はるる、
人肉食用の風習を憶ひ起さざるを得ないのである。

   

 一體支那人の間に、上古から食人肉の風習の存したことは、
經史に歴然たる確證があつて、毫も疑惑の餘地がない。
古い所では殷の紂王が、自分の不行跡を諫めた翼侯を炙とし、
鬼侯を腊にし、梅伯を醢にして居る。

炙は人肉を炙ること、腊は人肉を乾すこと、醢とは人肉を醤漬にすることで、
何れも人肉を食することを前提とした調理法に過ぎぬ。

 

 降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。
齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、
彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、
晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。
 
 漢楚交爭時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒にし、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。
高祖は之に對して、幸分二我一杯羹一と對へてゐる。
これらの應對は、食人肉の風習の存在を承認せずしては、十分に理會出來ぬことと思ふ。

 

 支那人の人肉を食するのは、決して稀有偶然の出來事でない。
歴代の正史の隨處に、その證據を發見することが出來る。
中に就いて尤も著るしい二三の實例を示さう。 

 第一の例としては隋末の劇賊朱粲を擧げねばならぬ。
彼は人肉を以て食の最美なるものと稱し、部下に命じ、
至る所婦人小兒を略して、軍の糧食に供せしめて居る。

 

 唐末の賊首黄巣の軍も亦同樣である。
黄巣の軍は長安沒落後、糧食に乏しく、
毎日沿道の百姓數千人を捕へ、生ながら之を臼に納れ、杵碎して食に充てた。

 この時討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、
彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。

 隨分呆れた話であるが、支那兵の所行としては、あり得ることかも知れぬ。
朱粲や黄巣の事蹟は、何れも『舊唐書』に見えて居る。

 

 また『五代史記』に據ると、五代の初に、
揚州地方は連年の騷亂の爲、倉廩空虚となつた結果、
人肉の需要が盛に起り、貧民の間では、夫はその婦を、父はその子を肉屋に賣り渡し、
肉屋の主人は彼等の目前で之を料理いたし、羊豚と同樣に、店前で人肉を賣り出したといふ。

 

 更に南宋の初期には、金人の入寇により、山東・京西・淮南の諸路一帶にかけて、
穀價暴騰せし爲、この方面の人々は、百姓も兵卒も盜賊も、皆人肉を食して口腹を充たした。

 當時人間を兩脚羊と稱した。人肉を羊肉と同一視した譯である。
南宋の莊綽の雞に、忠實に當時の慘状を述記して居る。

之にも勝る一層の慘事が、元末擾亂の際に實現した。
その光景は、當時の陶宗儀の『輟耕録』に委細に描出されて居る。
 
實例の紹介は右に止めて、支那人の人肉を食用する動機を考察すると、
大約之れを左の五種に區別することが出來ると思ふ。

 

(第一) 饑餓より來る要求で、勿論之が一番普通である。
支那では凶年の場合に、所謂人相食と申して、尤も露骨に弱肉強食の有樣を現出する。
かかる場合にも、民間ではその子を易へて、甲は乙の子を、乙は甲の子を食して、一時の露命を繋ぎ、
又は公然人肉を市場で販賣するといふ事實が頗る多い。
支那では凶年に人肉を食料に充てるのが、殆ど慣例となつて居る。
  

(第二) 凶年でなくとも、戰爭の際重圍の裡に陷つて、糧食盡くる時は、
支那人は人肉を以て糧食に代用することが、殆ど一種の慣例と申して差支ない。


 唐の張巡・許遠らが、賊軍の爲に雎陽に圍まれて糧道絶ゆるや、
張巡は眞先にその愛妾を殺し、
許遠はその從僕を殺して士卒の食に充て、
續きて城中の婦人を、最後に戰鬪に堪へ得ざる老弱の男子を糧食に供したことは、有名なる話であるが、
かかる事實は支那では寧ろ普通の出來事かと思ふ。

 
 蒙古の太宗が金の都の汴京を圍んだ時、城中食盡きて人々相呑噬して、
一日の生を偸んだ慘憺たる光景は、當時の籠城者の一人なる劉祁の記録によつて、
七百年後の今日でも、その髣髴を想見することが出來る。

 明末の流賊李自成の爲に、長い攻圍を受けて、糧食に盡きた開封の城民は、
父は子を食ひ、夫は妻を食ひ、兄は弟を食ふといふ、
戰慄すべき餓鬼道に陷つた有樣は、當時の籠城者の一人なる李光壂(註、読みは「でん」)の日誌に備載されて居る。

 

(第三) 嗜好の爲に人肉を食用することで、この例は餘り多くない。
五代時代の高灃、)や萇從簡は、相當高位大官の身分なるに拘らず、
人肉を好み、或は行人を掠め、或は小兒を捕へて食料に供したといふ。
 唐代の薛震や獨孤莊なども、人肉嗜好者として後世に知られて居る。
その他にも若干の人肉嗜好者を列擧することが出來る。

 

(第四) 憎惡の極その人の肉を食ふことである。
支那人はその怨敵に對する時、よく 欲レ噬二其肉一といふ文字を使用するが、
之は決して誇張せる形容でなく、率直なる事實である。

 支那人は死後も肉體の保存を必要と信じ、その肉を食へば、
之に由つて死者に多大の苦痛を與へ得るものと信じて居る。
梁の武帝を餓死せしめた反將の侯景が、後に殺害されて市に曝された時、
彼を惡める士民は爭うてその肉を食ひ盡くした。

 唐の楊貴妃の族兄楊國忠が、貴妃と共に馬嵬で殺害された時も、
之と同樣に、彼の肉は軍民の餌食となつた。

 元の世祖の權臣阿合馬アハメツドの如き、明の宦官劉瑾の如き、
その失脚して殺戮に遇つた時、
かねて彼等を憎める人々は、その肉を買ひ取つて、之を生食したといふ。

 

(第五) 疾病治療の目的の爲に、人肉を食することである。
唐の玄宗時代に陳藏器が、その著『本草拾遺』中に藥材として人肉を加へて以來、
支那歴代の本草は、何れも人肉を藥材として取扱ふ。

 人肉を藥材として食用することは、唐以前に殆ど稀で、唐以後に限る。
全く陳藏器が俑を作したものといはねばならぬ。

 かくて宋・元以來、父母や舅姑の病氣の場合、
その子たり又はその嫁たる者が、自己の肉を割き、
藥餌として之を進めることが、殆ど一種の流行となつた。
政府も亦かかる行爲を孝行として奬勵を加へる。

 元時代にはかかる場合に、人毎に絹五疋、羊兩頭、
田一頃を賞賜して旌表(註、セイヒョウ、善行のある人の家の門に、国家が世人に知らせるために旗を立てて表彰すること。)したといふ。

 

 雷同性に富み、利慾心の深い支那人は、この政府の奬勵に煽られて、
一層盛に人肉を使用することとなり、弊害底止する所を知らざる有樣となつた。

 明の太祖はこの弊風を矯正する目的で、洪武27年(西暦1394)に詔勅を發して、
今後股を割き孝を行ふ者に對して、一切旌表を禁止して居る。

 されど之も一時のことと見え、明・清時代を通じて、自己の股肉を割いて父母に進むることは、
最上の孝行として社會に歡迎せられ、政府も亦多くの場合之に旌表を加へた。
民國以後の支那の新聞にも、時々かかる行爲が特別に紹介されて居る。

 

 支那人の食人肉風習は、支那歴代の史料に記載されてあるのみでなく、
同時に外國の觀光者によつて保證されて居る。

 唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録を見ても、
その當時の支那人は人肉を食用し、その市場に於て公然人肉を販賣し、
然も官憲は之に就いて何等の取締をなさざりしことが明白である。

  

 この古きマホメット教徒の記録を佛譯して、
之を世間に紹介したフランスの東洋學者レイノー(Reinaud)は、
この記事に疑惑を挾みて、當時支那は擾亂を極めた時代であるから、
或は一時的現象として、かかる事實存在せしや知れざれど、
恐らく之はマホメット教徒の訛傳で、事實でなからうと申して居る。

 然し之はレイノーが支那の實情に通達せざる故で、マホメット教徒の記事に何等の訛傳がない。
元時代乃至明清時代に支那に觀光した、若くば支那に滯在した外國人の記録の中にも、
支那人の食人肉風習を傳ふるものが尠くない。

  

 古代に溯つて稽へると、食人肉の風習は、隨分世界に廣く行はれたらしい。
されど支那の如き、世界最古の文明國の一で、
然も幾千年間引續いて、この蠻風の持續した國は餘り見當らぬ。

 南洋諸島の間には、比較的近代まで、食人肉の風が盛に行はれて居つた。
北方民族の間にも、曾て食人肉の風が行はれて居つた。

 支那に於けるこの蠻風は、外國傳來のものであるか、
若くばその國固有のものであるかは、
勿論容易に決定することが出來ぬ。

 唯極めて悠遠なる時代から、支那にこの蠻風の存在したことは、
記録によつて疑を容るべき餘地がない。  

 日支兩國は唇齒相倚る間柄で、勿論親善でなければならぬ。
日支の親善を圖るには、先づ日本人がよく支那人を理會せなければならぬ。
支那人をよく理會する爲には、表裏二面より彼等を觀察する必要がある。 

 經傳詩文によつて、支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが、
同時にその反對の方面をも、一應心得置くべきことと思ふ。

 食人肉風習の存在は、支那人に取つては餘り名譽のことではない。
されど儼然たる事實は、到底之を掩蔽することを許さぬ。
支那人の一面に、かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦、
支那人を理會するに無用であるまいと思ふ。

 

 支那人間に於ける食人肉風習の存在は、決して新しい問題ではない
既に十數年前から Der Kannibalismus der Chinesen といふ問題は、多少歐洲學者の注意を惹いて居る。

 ただ彼等は文獻上から、十分にこの風習の存在を證明出來なかつた爲、
今日に至るまで、未だこの問題に關する徹底した論文が、發表されて居らぬ樣である。

 

 私も最近二三年間、この問題の調査に手を著け、多少得る所があつた。
その調査の結果全體は、遠からず學界に發表いたすこととして、
今は不取敢支那人の人肉發賣といふ外國電報に促されて、
古來支那に於ける食人肉風習の存在せる事實の一端を茲に紹介することにした。

     (大正8(1919)年4月27日)
       (大正八年六月『太陽』第二十五卷第七號所載)  

   

 


笠井 孝著『裏から見た支那人』残忍と冷酷

2024-03-14 20:28:57 | 中国・中国人

  
    笠井
孝著『裏から見た支那人』 

   
 


   残忍と冷酷
 

馬革・・・・・・妊婦を裂く・・・・・・血染めの饅頭

・・・・・・人肉賣買・・・・・・屍衣・・・・・・子女賣買
・・・・・・香具師・・・・・・火事場・・・・・・ああ無情  

〔馬革〕
 支那人は、個人的にも、團體的にも、臆病で、
勇猛果敢の気象に之しく、
何ちらかと云へば、文弱の民である。
併しながらその反面に於いて、弱者に對しては、頗る残忍性を発揮する通有性がある。

 例へば官吏、土匪、兵隊、警察官などが、力を笠に着て、弱者を威圧するのは、
當然と考へられて居るのみならす、
往々平民ですらも、力のない婦女子に対してすら、
残虐を恣にするのが少なくない。

 民族の残忍性は、その因って来るところ遠く、
習び性を爲したもの
と考へられる。
 
 呉王が、その功臣呉子青を憤死せしめ、その屍を、
馬革に包んで捨てたと傳へらるる如き、
秦の始皇帝が、その儒者を坑にせしが如き、
また漢の高祖が、創業の臣梁王鼓越の肉を裂いて、
諸侯に分配した如き、斯る事例は少なくないが、
要するに人を惨殺することは、
毛虫でも踏み潰す位にしか考へては居ない
のである。
 
 彼等は何の恨みのない場合でも、
その獨特の残虐性を、發輝する場合が多い。

 大正11年(1922年)1月宣昌の上流で、
天主敎の神父チューリアが、土匪に惨殺された時は、
顔から腹部に、80餘豫個所の刃傷があった。


  

 民國8、9年(1919年、1920年)ごろと思ふが、
湖北の督軍王占元は、兵變掠奪に參加した部下2000人を、
故郷に追放すると稱し、孝感県まで連れ出して、機関銃で塵殺したことがある。
 
 先年張學良の奉天軍が、その某衛隊の武装解除をした時とか、
昭和4年張宗昌の部下を、濼州で武装解除した時には、
何れも訓示をするといふ名目で、將校等を集めて、
機関銃でバラバラとやったものである。
これは今尚ほ衆人の耳に新なることであらう。

   

 大正11年(1922年)上海で、日本人富尾某のボーイは、その兄と共謀し、
主人の不在中に、富尾の夫人を細縄で縛り、
發聲をさぬ爲め、口に石炭をつめて、これを惨殺しようとして、
絞殺未遂のまま遁げたことがある。

 唐〇(文字不明)堯に代った雲南の將軍顧品珍はその部下の爲め銃殺馘首の上、
その口に巻煙草をくはヘさせられてあった。

 以上は支那人残虐の手ほどきとして、掲げた数例に過ぎない。


 支那人は、一般に動物を馴らすことが上手であり、
取り扱ひも温和であるにも拘らず、
他の反面に於て、頗る残忍な點がある。

 牛馬を屠殺するに、頗る残忍な方法を用ひ、
豚を殺すのに、その悲鳴最中に及ぶが、
これは、悲鳴を擧げさせるにほど、
その肉が美味いと考へて居るからである。


 ボーイは、家を鴨を毅すのに、
生きながら庖丁で、首をチョン切って平気であり、
豚や、鶏の生血を吸って、婦人でも尚ほ平気の平左である。

 従って動物を愛護すると云っても、温情百草萬木に及ぶと云ふやうな、
慈育の精神から出るのではないこと、勿論である。



〔妊婦を裂く〕
 日清戰爭の際、仲満中尉以下47名の斥候が、
遼東半島で、土人にダマされて、惨殺され、耳を削がれて、
鼻をモガれ、針金で耳から耳へと貫かれて居たことは、
當時有名な話であったが、
昭和6、7年(1931,1932年)の満洲事變に於いても、
鮮人を捉へて、活きながら皮を剥ぎ、眠王を抉って、
公衆の通路に曝したのが、澤山あった。

 四平街東北方附近に逃げた王以哲軍は、
附近の鮮人部落を燒拂ひ、妊娠中の女の腹を断割って、胎児を曳き出し、
マダ動いて居るのに、銃剣をつき刺して、
嬉々として笑って居た。

 また鮮人婦人を強姦しようとしたが、
背中の子供が餘り泣き叫ぶので、イキナリその子供を玄翁で撲り殺し、
その婦人を輪姦した上、惨殺したのやら、輪姦の上、
押切(牛馬の飼料を切るもの)で、生きたまま、
女を胴中から二つに切ったりしたのがあった。
    
 これ等の慘状を見ると、
彼等は如何にして、殘虐行爲を現はすべきかに、
努力苦心をしたのではあるまいかとさへ思はれる。



〔血染めの饅頭〕
 支那では、今尚ほ原始的な首鰔りや、
磔が、到るところ、裁判なしに行なはれて居るが、
この際に於いて、黒山の如くに、見物してる連中は、
死刑者の首が、コトリと前に落ちるや、
一斉に手を拍いて聲を立て、笑ふ習慣がある。

 これは死靈が取りつかない爲めにやる、
魔よけの迷信からだと、云ふことであるが、
如何に考へても殘忍である。
 
 また死者の局部をナイフで切り、或は胸を斷割って、
その肝臓を持ち歸ったり、或は首が落ると同時に、寄ってタカって、
各自携帯の饅頭に、流れ出る血潮を吸わせて、薬用の爲めとあって、
これを喜んで食ふ習慣がある。


 曾って山東膠州の城内で、馬賊を銃殺した際、
支那兵の一下士は、イキナリ死者の睾丸を、ナイフで切って、
手巾に包んで、平気で持ち去ったが、
これを見て居る見物人は、また平氛で笑って居た。

 さらに忌むべきことは、
廣東でも、済南でも、また満洲でも見たことであるが、
支那兵は、人を慘毅したあと、殊に婦人を強姦慘設した際は、
必ず長さ一尺ばかりの木片を局部に挿入する癖があることである。


 済南事變の時でも、満洲事變でも、
生きながら、石油を掛けて惨殺されたり(生きた者は水泡が出来るからすぐ分る)、
或は局部を切断して胸に載せられたり、
局部を持ち去られたりしたものである。
 

 これ等は、人を殺す場合に於ける、彼等の常習的習慣であるやうである。



 以上の例の如きは、
日本に對する敵愾心、愛國心の發露だと云ふ風に、考へられるかも知れないが、
生きたま面皮を剥がし、手足の指を切り、耳を削ぎ、
妊婦を、車に足を括りつけて引製き、焼篭手をあて、炮烙の刑に處する
などは、
隋の鴆帝あたりが、慰み半分に遣ったばかりではなく、
支那歴代の各所の内乱でも、滿洲事變でも、到る處で、
支那軍から見せつけられた事實であって、
単な敵愾心と云ふよりも、寧ろ残忍行爲として、分類さるべきものである。

 コンな點では、土匪はまだ穏やかな方で、
強姦、掠奪、惨殺は、支那の正規軍の方が、遥かに残酷無道であるのだから、アキれる。


 支那人の残虞行爲には、彼等の人生観、宿命観も、手傳って居るやうである。
支那人が、案外死に臨んでも、平気であるのは、轉生説を信するアキらめの結果である。
   
 中野江漢の説に従がへば、
支那人が土葬を欲するのは、體さへ滿足であれは、再び滿足な人間として、生れ替れるが、
火葬をすれば、轉生が出來ないと思って居るからださうである。

 銃殺は恐れぬが、首を切られるのをイヤがる風があるのも、
首を斬られると、來世に蝎のやうな、
首なし動物となって、生れ替ると、信じて居る爲めである。 
  

 
 

〔人肉賣買〕

 支那には、仇敵の肉を啖ふとか、その骨をシャぶるとか云ふことがあるが、
これは形容詞ではなく、彼等は、實際仇敵を喰ふのである。

  蓋し仇人を食ってしまへば、未來永遠に轉生せぬ。
食はぬまでも、肉を裂き、骨を刻んで置けば、轉生し得ぬから、
仇討ちをされる心配がないと去ふ迷信からである。

 支那の刑罰に『凌遲』と云ふのがある。
手足を、一本々々斬り離し、身體を細かく刻む意味で、
斯くすれは悪人が、再びこの世に再生せぬ爲めである
と云ふ。

 
 史を按ずるに梁の武帝を餓死せしめた反將の侯景が、
後に殺害されて、市に曝された時、土民は、爭うてその肉を喰ったと云ふ話がある。
 
 また殷の紂王は、自分の不行跡を戒めた翼侯を灸(やきもの)とし、
鬼を腊(しほびき)にし、梅伯を魅して、これを臣下に分配したと云はれて居り、

 齊の桓公の易牙は、彼れの子供の肉を、桓公の食膳に上せたとあり、
その他管の文公、楚の項羽、隋末の賊朱燦、唐末の賊黄巣等も、
人肉を喰ったと傳へられ、
 
 五代の初め揚州地方では、年々の兵乱に食用足らす、
貧民は、夫はその妻を、父はその子を肉屋に賣り渡し、
彼等の目前でこれを料理して、
羊豚と並べて、人肉を賣ったことさへあると書いてある。

  
 支那人の人肉喰ひは、美食に飽きたイカモノ喰ひであるとも云へる。

 怨敵の肉を喰ふ等の外、疾病治療の目的から、
人肉を薬材として食用することは、古来公然と行はれて居る。
 
 内部廣西の苗族の一部には、自分の部落に泊った外来人の占びをして、
村に幸福が來るとあれば、優待するが、
不吉な占ひが出ると、これを殺して、その肉をたべる習俗がある。
  

〔関連記事〕桑原隲藏 『支那人の食人肉風習』

            魯迅「狂人日記」(中国の食人の風習を記述)



〔屍衣〕
 支那人は、死體に鞭つと云って、
屍體を虐遇することを以って、非常なる侮辱罪悪とするのであるが、
支那の内亂戰を通覧すれば、兵變掠奪の度ごとに、幾多の残虐が常に行なはれて居る。
   
 民國8年(1919年)、湖南の湘江道に於ける大虐殺は、
全市一空、婦女子の屍體道に横たはるもの2000と云はれ、
民國11年、河南開封に於ける掠奪の翌日、往来には、手足がバラバラになり、
局部を抉られたる婦人の屍體が、散亂して居ったことを、自分は目撃した。

 彼は、殆んど人を殺すことによりて、
愉快を感するのではあるまいかとさへ、疑がはれる。



 然して斯くの如を奪の後には、
性民は、死人の衣をぎ取り、死骸は、その着衣を全部盗まれて、
それこそ丸裸のまま捨てられ、
紅萬字會とか、その他の慈善團體等によって、埋葬せられない限り、
多くは野犬の餌食となるばかりである。

 死人の着衣を剥ぐことは、支那各地とも、民衆の通有性であるらしく、
敢えて玲らしいことではない。


 支那人の習俗で、さらに見逃がすべからざることは、
男女7歳以下で死する者は、父母に對する不孝の児として、これを土葬することなく、
屍を野原にてる棄てる習慣があることである。

 棄てられた屍は、犬や、島の餌食となって居るのだが、
これは支那内地各所で、何時も敬見することである。


 
〔子女賣買〕 
 以上は死屍に加へらる、残忍であるが、
次には生きた人間に加へられつつある残忍を紹介する。
  
 支那の奥地に行くと、今でも奴隷的のことが行なはれて居り、
4、5歳から、11、2歳までの男女を、貸金の担保に取ったり、
金で買っては謂ゆる底下人(下女、下僕)として、一生涯コキ使ふのである。

 
 飢饉の際などには、食に窮した親が、各地で子供を賣る。

 上海閘北では、一人7、8元で賣られて居たのを、私も目撃したことがある。
民國9、10年(1920、1921年)ごろであったか、
河南の田舍では、飢饉の為め、子供一人と、饅頭2つと交換したのもある。
またヒモジさの餘り、子供を殺して、その肉を喰った支那人もあった。

 親子の情愛の薄い支那人にあっては、此の種のことは幾つもある。

 父母が、その子女を懲戒するのに、鞭撻數十、悲鳴庄里に徹し、
衆人黒山をなすも、誰しもこれを止める者がない。

 又Y頭(下女)を虐待する惨状は、言語に絶し、
半死半生のまま路上に投げ出したりするが、
衆人みな累の身に及ばんことを恐れて、敢えて口を抉む者さへもないのである。



〔香具師〕
 親子でも、冷酷情愛のないこと、
これでも人類かと、アキれるやうなのが沢山ある。

 先年山東鐡道の沿線で、一轢死人があったので、
その16歳の實子を、現場に連れて行ったとこら、
彼は毫も愁傷の色をしないで、反って斯の如き場合には、イクラの慰籍料を貰へるかと、
聞かれたのには、一同亜然たるものがあった。

 また反對に子供が重病で、手當て不十分の爲め、瀕死の状態になって仕舞ふと、
最早天命なりとして、落命を目の前に路房に置いて、省みない親がある。 

 
 民國9年(1920年)、山東郭店で、重傷をした一支那人があった。
中に若千金もあるから、警察に引き取って、個人的に世話をしてやっては、何うかと勧めたところ
『若し死ねば、その所特金だけでは不足である』と云って、取り合はない。

 傷も致命的ではないから、その内住所も分るだらうし、
相當の商人らしいから、謝禧もするだらうではないかと、勧めたけれども、
『それは未定のことである』と云って、敢えて應じなかった例もある。

 
 支那の田舎を歩くと、子供を誘拐し、手や、足を切断し、
まは関節を捻轉して、不具廃疾とし、これに乞食を稼がせ、
或は見世物に使ふことが數次ある


 子供の四肢の閼を、反対の方向に抂げて、獣類に似せ、
所々の皮膚を剥ぎ取って、豚毛を植ゑ、豚の聲色を使はせて、
人と豚との混血児で御座ると稱したのを、大正10年(1921年)坊子で見たことがある。
 
 確か大正15年(1926年)頃満州でも、
子供の顔や、背中に獣毛を植ゑて、見世物にして居た香具師の残虐が、
新聞にあったと、覺えて居る。

 
 それから大正13年(1924年)杭州で、
10歳位の子供に、棒を兩手に握らせたまま、
頭上から背中を経て、兩足を通じて回轉させて、見物の金を集めて居ったが、
その子供は、兩方の肩が、半脱臼状態になって居って、
涙をボロボロ出しながら遣って居た。
 いま思び出しても、悲慘な感じがする。



〔火事場〕
 さらに見遁がすべからざることは、火事場に於ける彼等の冷酷な態度である。
  
 普通何處でも、支那人は、火災等の場合、
自分の家が危險でない限りは、決して消防に努めたり、手傳びなどはしないで、
大きな口を開いて、笑って見物をして居るのが、風習ではあるが、
家人は煙の渦く内から、必死となって荷物を運搬して居るのに、
見物人は手傳はないのみならす、
には未だホヤホヤ暖かみのある焼殘りの反物等を盗んで来て、
見物人に賣って居るのに、警官も、また黙って居る
などは、
到底支那でなくては、見られない図である。

 大正13年(1924年)3月のこと。
本渓湖太子河の坑木會社が燒けた時である。
會社では、折柄居合せた支那苦力30名に、應援を求めたところ、
彼等は『賃銀は幾何出すか』と云って、頑として應じない。
會社は已むを得す、別に賃銀を仕拂ふことを約して、手傳はせたことがある。

 
 故に火災の場合、何等関係のない日本人が、必死になって手傳ふのを見て、
彼等が不思議がるのは、無理もない話である。


 所は山東鐵道の一駅柳家荘、時は大正10年(1921年)のことである。

 タマタマ、火事があって、近所の井戸を使用しようとしたところが、
井戸の水が減ると云って、何うしても使用を肯じない。
 後で謝禧をするからとの約束で、漸く火を消し止めたことがある。

 火事場で、桶一杯の水を、イクラといふ代金をセシめて、賣る
と云ふのは、
支那各地に行はれることで、自分も杭州で見たことがある。


 
〔ああ無情〕
 確か大正5年(1926年)のことであった。
 暮の12月25日に、大連から芝罘へ入稿せんとする阪鶴丸が、
折柄の大吹雪を喰って、咫尺を解ぜす、遂にその進路を誤り、
島の東端、裏勾の沖合にある小岩石に座礁し、
船員等400餘名が、救助を受くるを得ずして、70餘名を除いて、
総てが凍死するに至った大悲慘事があった。
 
 ところが、その當時、該船の遭難が、全市に傳はるも、
支那の官民は、袖手傍観、一人のこれを救はんと、弃走するものがない。
全く以って馬耳東風である。



 北海を、急激に襲った烈風と、大吹雪は、當船よりの通報により、
翌日救助のため、旅順より駆け付けた我が千代田艦をして、
阪鶴丸に近づくことを得せしめず、
またポートを下すに由なからしめ、
救助の目的を達することなくして、旅順に引返へさしめたほどであったが、
何とかして、この多数の同胞の難境を救はむとする義気と、意志の閃きは、
同市の支那人間には、徴塵だも動くを見なかった
のである。


 幸ひにして、この遭難者の中で、27日まで生残った70名は、
義侠に富む我が在留邦人の、非常なる苦心と、献身的手段によりて、
瀕死の際に救助されたのであるが、
是等邦人の義勇なかりせば、残った人々も、また見殺しにされたことであらう。

  
 斯う云ったことから推断すると、
支那人には、何うも義侠的精神など云ふものはないやうである。
身を殺して仁を爲す底の義に勇むことは、
到底支那人に、見られざるものである
と云って、
差支へがないと思ふ。
 
 『君子は危きに近よらず』とは、
何等の例外をも設けすに、如何なる場合にも、
一般支那人に遵奉されて居ると見て善いと思はれる。


 これも阪鶴丸の時の出來事であるが、
我が日本領事の勧告と、慫慂とによりて、
支那側に、漸く官民合同の救済會なるものが設立され、
船上、海底の幾百の死屍を陸上に移し、
それぞれの処分を講ずることとなった。

 ところが支那の水上警察の巡警共は、
これ等死屍をジャンクで運搬途中、死屍の身體を檢し、
目ぼしい携帯品や、金員を、殆んど全部橫奪し、
甚だしきは、衣類までもぎ剥ぎ取った
のである。

 これ等の死屍は、多くは出稼苦力と、出稼商人で、
皆相當の金品を懐にしての歸郷の途上であったから、
巡警は、非常なる不義の収穫を掴んだ譯である。

  
 然ればその直後水に濡れたロシア紙幣の500ルーブルのものを、行使した巡査もあり、
また2萬ルーブルを携帯して、歸芝した某店員の全額の有金を盗み取り、
これを多人數で分配し、水上廳の重もだったもの共も、
殆んどその分割に與ったことが曇露された。

 これ等のことを見ても、彼等が如何に平気に、
かつ當り前のことのやうに、
この残酷事を行なったかを知ることを得よう。

 要するに彼等は、些の憐憫の情をも持たない
のである。

 彼等は、知人朋友にあらざる他鄕の者に對しては一點の人間味すら持合せて居ないのである。
何處に仁があり、何處に義があらう。 



   裏から見た支那人 終 


笠井 孝著『裏から見た支那人』 忘恩 

2024-03-14 12:07:19 | 中国・中国人

   
    笠井
孝著『裏から見た支那人』

  




忘 恩
 

肺肝と天日・・・・・反逆の名人・・・・・利用された日本・・・・・御禮は現場で

・・・・・親切は斧で・・・・・恩義は商取引・・・・・神様も商売・・・・・豫譲野暮
・・・・・命がけも表情で  

〔肺肝と天日〕
 支那の歴史を通覧するに、歴代の革命なるものは、多く忘恩反逆の歴史である。
 古代では、商の夏を亡し、周の商を滅ぼしたるが如き、春秋戦國の興亡の如き、
は漢の高祖の創業の臣、張良、韓信が、諸侯に奉ぜられるや、
これを機として叛逆を翻したと傳へらるるが知き、唐の案禄山が謀叛せるが如き、
最初忍従を以ってし、然して暫らくして勢力を得るや、
俄然爪牙を露はして、主家の転覆を図る。
 
 恩を蒙むるも恩とせず、徳に浴するも徳とせず、反ってこれを利用して、
私利を図るとふ風が、昔から濃厚である。

 利己に底して居る徒等は、人に恩を享けても、恩を施すは利用の手段であり、
報酬を得る爲めの売買である位にしか考へて居ない

 
 柳子厚といふ人の墓碑銘に
『手を握り、肺肝を指して、相背負せすと誓ふ。
  直ちに信ずべきが如きも、一旦小利に臨めば、
 纔かに毛髮の如きも、相識らざるが如し云々』と書いてあるが、
實に支那人の不信を穿ち得て妙である。 

  
  

〔反逆の名人〕  
 支那人が、恩の人に叛いた例は無数にある。
 宣統三年(1911年)、武昌に革命起るや、
袁世凱
は、内閣總理の地位を利用して、反って清朝を裏切り、
段祺瑞、馮國璋、曹錕等を利用して、國體改革と、清帝の退位を迫り、
百年の恩に報ゆるに、仇を以ってし、
特別なる恩顧と、隴遇とを捨てて恥ぢとせなかった。
 
  

 民國になってからでも、四川の熊克武は、劉存厚を駆逐せんが爲めに、
雲南の唐繼堯の力を利用し、一度その地位を得るや、陸榮庭と通じて、
唐繼堯に反対し、その軍隊を攻撃した。

 震南の顧品珍は、唐繼堯設肱の部下であったが、
唐の大震南主義が敗れて、名聲地に墜ちるや、
自らこの機に乗じて、唐を省外に駆逐した。

 さらに湖南の趙恒楊は、謝延闓の後輩なるに拘はらす、譚を圧迫して、
自ら遂に湖南省督軍兼省長の位置を奪った。

 
 それか呉佩孚は、元と港北督軍王占元の知遇により、第三師長の地位を得たのであるが、
王占元部下に兵變あるや、これを機會として、〇〇南(注、〇〇不明)をして、
遂に王占元を駆逐して、これに代らしめた。
 
 最後に馮玉祥が、民國十三年(1924年)、呉佩孚の窮境に乗じ、
反って奉天軍と通じて、叛旗を翻がへし、北京に侵人したことや、
同十五年(1926年)郭松齢が、〇(注、不明)州に叛旗を翻して、
張作霖に叛いた如きは、餘りにも顕著なる事實である。

 

〔利用された日本〕
 支那の続治者が、自己の利害と、打算の爲めに、叛逆を敢てし、
忘思的行動を爲したことは、二十四朝の歴史が、餘にも多くこれを語り過ぎて居る。

 一般に志那人は、極度の利己観念より、
昨日の味方も、今日の敵となり、今日の友も、
明日の仇となる
ことが通常である。
    
     

 日本の志士は、孫逸仙や、黄興が、
日本の保護を受けて、革命運動を成就しながら、排日運動に加擔したり、
或いは梁啓超、谷鑪秀等、日本の援助を受けたものが、一度相當の地位を得るや、
賣名と、自己の都合から、反日的態度となり、排日となるに驚いて居るが、
昭和二年(1927年)、蒋介石が失脚して、日本に遊ぶや、
利害を超越して、これを援助したものは、日本の朝野であった。
 
 然かも排日悔日の急先峰鋒となって、國民黨をリードして、
學良を煽てて、遂に満洲事變を勃發させたものは、彼れ蒋介石ではないか。
  
    


 日露戦爭の間、露軍の別働隊として、一時日本に反抗した張作霖が、
福島大将に助けられるや、彼れは三拝九拝して、
我れ日本の爲めに、この以を報ぜんと、誓ったではないか。

 然かも被れの晩年が、如何に排日であり、悔日であったかは、今さら述べるまでもあるまい。
 
             

 歴史上の主要なる人物にして既にこれである。

 その以下の人士が、恩を仇で返へし、
冷酷と、叛逆を以って、舊恩に應酬するのは、
敢えて珍しいことであるとは云へない。

 これに就いて、以下さらに數例を加へる。


 日露戦役の末期に、法庫門の野戦病院に動務して居た一看護長があった。
彼れは土人の施療を負餮したことから、土地の人々と懇意になり、
彼等から別れを惜しまれるやうになった。

 そこで彼れが、現地を引揚げんとするや、
土地の某々有力者等から、平和克服の後、
再び是非この地に來て、開業して貰ひたいと懇願されたので、
土人の言を信じた彼れは、凱旋後遥々と、この地に来たが、
某等は、彼れを待つに路傍の人の知く、
頗る冷淡で、何等の便宜をも與へなかった。
    
 これは支那人の御世辭、謂はゆる『官話』と云って、
御座なりの御愛想を云ったので、この御世辭そのものが、
つまり単なる御禮の積りなのであるが、
これを知らないところから起った、氣の毒な話である。
 
  
〔御禮は現場で〕
 北清事變の際、日本人から危急を救はれた一支那人は、
京都の商業學校へ、支那語敎師として世話されたが、
後年彼れは、奉天中學に轉任し、世話した人も、奉天に商業を營んで居たけれども、
その支那人は、生命の親であるこの日本人を訪問もせず、
途中出逢っても、逃げるやうに隱れて居た。
    
 支那の諺に『生命の親に二度會ふな』と云ふことがある。

 命を助けられたやうな恩人には、
何時何んな謝禮を、要求せられるかも知れないから、避けろと云ふのである。
 
 私も、支那の要人を、兵亂の満中から救出したことが、一再ならずあるが、
多年この諺の眞味を、實地に體験させられて、徴苦笑を漏らしたものである。
 
 大正六年(1917年)漢口で、支那の某大佐は、
母規が、難病で入院を嫌ひ、且つ苦しむと云ふのでを強ひて日本医に自宅手術を懇願し、
『母の大病なれば、如何なる犠牲もイトはず』と三拜九拜しながら、
手術後、二、三日で、悪性の〇(注、不明)疸も直ほり、
月餘にして復したが、彼れは爾後治療費も、薬價も拂うはず、
途中では、顔をソムけて通ると云ふ有様であった。 
   
 雲南某高級武官は、
幼少から身體が弱く、親の懇切なる指導で、漸く相當の位置を得たが、
一旦兵亂に逢ふや、親を捨てて一人亡命し、
両親は、爲めに憤怒失望の極死亡するに至った。
 
 昭和の初めごろ、満洲その他に於ける學生の状況を見るに、
成績悪ければ先生の罪だとし、
落第すると、先生が自分に親切でないと恨み、
数年の學校生活を送りながら、一度門を出づれば、
また振り向きもしないのが、ザラにある。
 
 日本人の敎育を受け、日本人の親切によって、相當の地位を得ながら、
一度その位置を得るや、地位と、力を濫用して、私利私慾に沒頭し、
恩義よりも自分が大切、他人よりも、自分が大切と云ふことを、
露骨に表示するのは、常に彼等であった。


  
〔親切は斧で〕
 下級の支那人の忘恩的行動は、更にヒドいのがある。
 青島で、多年支那に居住した一外國人は、
或る事情の爲めに、歸國することになったが、
その準備中、多大の私財があるのを見た支那人ボーイは、
数年間使はれた、極めて正直なポーイであったにも拘はらず、
その外國人を殺して、金を盗んで終わった。

 利欲の爲めには、反覆常なく、恩を仇で報ゆる實例である。
 
 大正十年(1921年)のこと、山東鐵道の丈嶺駅前の一支那人は、
用心棒に雇ってあった支那人から、百元内外の金を見せた爲め、毅されたことがある。
金が欲しさに、恩顧の人を殺すことは、彼等としては平気である。

 支那の下級使用人は、金を得ることが容易でないのと、
雇用関係は、恩義的でない商取引であると考へる爲め、
数字金錢の爲めに、非道なことをするのである。
 
 彼等は、利己心の爲めには、十数年来の雇人でも、時に主家一族を塵殺し、
或は放火する等の例は、殆んど枚擧に遶まないほどである。

 大正五年(1916年)、奉天の一市街で、捨てられた八歳の小児を拾うた山本某は、
懇切に保護を加へ、十五歳まで靴工として訓練を與へたが、
自己の職業を覺えると共に、
店にあった若千の靴を入質して
『自分は無給であるから、過去の労働に対する報酬としては、これでもまだ安いものだ』と、
平然として去ったのがある。

 大正五年(1916年)、四平街の特産物商岡薬方の十年間も使用せる支那人ボーイは、
主人の不在中、細君を殺して、金を窃取逃亡した。

 大正十年(1921年)、四平街小迫幸太郎は、
家族同様に優特し、八年間も使用したボーイから、
主人の不在中三千五百圓を持ち逃げされた。


 大正七年(1918年)、奉天在住某下駄商は、
五年間使用した支那人ボーイに、一家四名が、
下駄製造用の斧で以って惨殺せられ、前日手に入れた百餘園を取られた。
 

〔恩義は商取引〕
 奉天の某病院長の感想を聞くに、
支那人患者は『命の恩人だから、必す報恩する』と口に云ふけれども、
後になって訪ねて来るものは、三十乃至四十分の一である。

 これに反して蒙古人は、黙々として去るが、
五年、十年の後に至るも、機會あれば、必らず來訪して、
謝恩の意を表する
と云って居る。
  
 支那人の謝恩観念は、日本人のそれとは、多大の懸隔がある。
志那人と雖も、謝恩観念が、絶無ではないけれども、
報恩は一種の禮節と心得、禮節は衣食足って、始めてこれを全うし得るもので、
要するに謝恩は取引である。
 

 自分の都合が悪いのに、無理に奉仕謝恩をする必要はないと考へて居る。

 また報恩は、その思の輕重、大小に應じ、
相對的、打算的に報恩すべきものであって、
一事をなせば、報酬的に代金を與へるのと、同一であると考へ、
精神的よりも、物質的に謝恩を考へる風がある。
御禮も、交換的であり、その場主義、刹那主義なのである。
 
  
〔神様も商売〕
 従って支那人は、神様を拜むにも、謝恩主義ではなくて、因果應報主義である。
昨夜悪いことをしたから、明日にも崇られては困ると云ふ考への爲めに神様を拝むのであって、
故なく神を拜むなどのことはない。

 財神廟、馬神廟、鳩々廟など、
試みにその扁額を仰げば『有求必應』と書かれてある。

支那では、神様までも、ナカナカ、實利的である。
神様も『オレに御願ひをすれば、必らす御利益を授けてつかはすぞ』と云ふ譯で、
どこまで即効主義、交換主義であるのか分らない。
  
 我々日本人は、社寺の前を通ると、自然に拝みたくなる。
私が曾て田舍族行をした際、孔子廟の前を過ぎて、脱帽敬禮したところが、
ポーイ曰く『旦那、昨夜何か悪いことでもしたか』。
イヤと云ったら『では何か御前は、孔子様の親類か』と云ったことがある。

 自己の祖先でもなし、また何等求むるところなく、
さらに罪減しの爲めでもなくして、他家の神様を拜むなどは、
彼等の到底理解し得られない謎である。
 
 だから日本人は、能く日支親善等と云ふけれども、
この一評を聞いて、支那人の頭に、ピンと来るものは、利益交換主義である。
求むるところなくして、我れに近接することはない筈であり、
不可解至極なことであると、彼等は不思議に思ふ。
  
 そこで
『ハハア日本は、土地貧にして、五殻豊かならナ、
 石炭なく、鐵なし。成るほどこれで分った。
 善哉々々、我に好策がある。経済絶交!』だと考へるのも、
彼等として當然なのであらう。

 一體に物事を僻んで考へることと、
機會あるごとに、自己を成るべく高價に、
人に賣附けようとするのが、彼れの傳統的政策
である。


 だから日支親善を舁ぎ出すと、
彼はすぐその裏を考へ、反って日本の困るところを、
成るべく強く厭へて、自己を有利に展開しようとして

彼等一流の駆け引き勘定に、入るのである。
  
 支那人の道徳観は、
親子の孝道を第一とし、『孝は百行の基』として、
流石に親子の關係は離散することは稀であるが、
孝道は供物、奉仕、慰安、尊崇等の外に、
祖先崇拜、家門、子孫の繁榮にまで及ぶけれども、
謝恩的ではなくして、多少交換主義、因果應報主義なところがある。

 親を大事にし、祖先を祭れば、自己に福が來ると云ふ現實主義が、
何所までも附うて居る。
  
〔豫譲野暮〕
 師弟の恩に至りては、時々美談を聞くこともある。
謝恩會とか、老師を敬ふとか、曾て大隈候の死に對して、
早大支那學生の拂った衷情の如きも、見るべきものがないではないが、
最近の學生根性は、前に述べた如く、多く交換主義であり、代償主義である。 

 
 君臣の關係に至りては、謂はゆる知遇に對する應報主義であって、
三顧の恩に感激する孔明の如き、豫譲の死節の如きも、
何所までも知遇の報酬本位である。
  
 『豫譲野暮、女郎買ひでも忠は出來』と云ふ川柳があるが、
大石と、豫譲を比較した譯でもあるまいが、
カタキ打ちの切賣をやり、商取引なみにやるのなら、
何も乞食の眞似までせんでも、日本の大石は、祗園で遊んで居ても、モッとモッと、
大業を遣ったぞと、皮肉られても一言もあるまい。
  
 『民從はざれば王去る。』これが君臣の道に對する支那人の考へであって、
日本人の如き感激と、犠牲とを本位とする忠道は、支那にはないのである。


 主従関係は純然たる雇用關係のみで、
報酬の外に、門錢を取り、賄賂を貪り、
他に善い奉公があれば何時でも去る
のが、彼等である。
 
 或る日本人は、青島で、某支那人を、支那の役所に斡旋したことがあるが、
その支那人は、経済上頗る不如意であったので、
就職前、一時生活の金錢までも、援助して遣ったものである。

然るに彼れが一度び職を得るや、月日と共に、過去のことを忘れ、
後には先方から、コッチを虐めるやうなことすらあった。


 先年膠州の或る日本人の家で、
二人の支那人が増俸を要求し、家計不如意の故を以って、
相前後して暇を取ったことがあるが、数日を出ですして、
その一人は舊主に舞戻って、恬然とし、再び使傭を乞ふたことがあるが、
コンな例は、蝕りに沢山に有り過ぎる。
 
從って志那人を使ふには、他所よりも給料を多くして、
非常に過度の仕事を命するが善い。
斯うするならば、一つ二つプン殴っても、金故に奉公を怠らない。
これは支那人自身の説であるが、穿ち得て砂である。

    
〔命がけも表情で〕
 支那人は、お禮を云はぬ國民である。
 招待をされた時にも、今晩は有難うと云へば、歸り黙って帰る。
歸りにお禮を云へば、明日は云はない。
來る時も、歸りも、翌日も、トウトウ、お禮らしい顔もしないのもある。

 日本人は、道で出會うても『ヤア先日は失禮しました』と思わず云ふ。
四、五日たっても『この間は有難う御座います』と、思はず云ふのであるが、
支那人は、御禮は一度云へば沢山である。

 有難かったと云ふことを、表示するだけで、
命を助けられた御恩でも、帳消しになるものと考へて居り、
恩義が深ければ、態度とか、様子とかで、
念入りの表情をすれば、それで善いと考へて居る。
  
 青島で、或る支那官吏が、三年の刑に處せられんとした時に、
彼れの誠實悔悟に同情した一歐洲人は、彼れの爲めに非常に努力をして、
遂に官に縋って赦免させたことがあるが、
その時彼は三拝九拝して『この御恩は死すとも忘れません』と、述べて別れたが、
爾後途上に出會うても、一面識だにない様子をして、顔をソムけて通過した。
 
 後年この外人が、彼れに一支那人の就職を依頼したところ、言下にこれを刎ねつけた。
そこでこの外人は、腹に据えかねて、
先年の事を語り出すや『あの時云った言は、今でもよく記憶にある。
 併しそれは、人の就職を、世話するとは、約束しなかった』と答へたことがある。
   
 丁度張作霖の福島大将にける例と、一對であるが、
彼に云はすれば、死すとも忘れないと云ふのは、
その言葉そのものが、既に十分謝禮になって居る譯で、
日本人の如く、終生その恩を忘れないと云ふやうな、
律義な観念からではない
のである。 




笠井 孝著『裏から見た支那人』 面子

2024-03-14 11:48:08 | 中国・中国人

                   笠井 孝著『裏から見た支那人』 

 

 


          面子

    ラッキョウの皮・・・・・乞食にも面子・・・・・相見の禧
     ・・・・紙幣ピラで頬っべた・・・・・仲裁と警察・・・・・頌
徳表
     ・・・・・妙な面子・・・・・賣國奴・・・・・三千世界の鳥
     ・・・・・野糞と間男・・・・・友人税・・・・・報國の裏 

〔ラッキョウの皮〕
 支那に、儀禮三千、威禮三千と云ふことがあるが、
支那人位、形式、體面、外形を重んる民族はない。
『門を出づるに四馬を以ってし、仕むに王公の構を以ってする』と云ふことが、
彼等の理想である。
體裁、體面、面子、外形、これは金錢慾と共に、
彼等の日常生活の重大なる半面を形成して居る。


 金も欲しいが、自分の顔も立てたい。これが彼等の切願なのである。
これは矛盾であるが、支那人は飽くまで、この矛盾を通ほさうとする。

 支那人は、矛盾が多くて、色々な相反する性格の持主であると云ふのも、
斯んなところから起る現象である。
 
 例へば哲學者然として、悠々日月の外に、人生を超越する點があるかと思へば、
一錢、二錢の金を爭うて、眠を皿のやうにしてをする。
金錢にケチで、金は咽喉から手が出るほ欲しい癖に、
『男子功名を立てんと欲すれば、錢を惜しむなかれ』などと、洒落たことを云ふ。
  
 人から受けた恨みは、千百年も忘れ得ない癖に、
人の御思は、明日まで待たずに、忘れて終ふ。

 何處まで多面的であるのか何處が奥底であるのか、
その眞、相の掴めないところに、支那人根性の本體がある。
畢竟支那人は、ラッキョウのやうな民族である。

 皮を一枚づつ剥がしてて行くと、トウトウ皮ばかりで、一つも實はない。
併しラッキョウは、やはりラッキョウである。
奥行の分らない、實質の掴めないところが、支那人の本質なのである。

 

〔乞食にも面子〕 
 話が大分脱線したが、
面子とは、體面、體裁、顔を立てる、男を立てるなどゝ云ふことで、
支那獨特の考へ方から、生み出された體面装飾のことである。
紳士も使へば、商人も使び、乞食にも面子がある。

 堂々たるロヒゲの紳士が、ステッキをヒャかして
『お前のやうな斯んな立派な大きな店で、
 斯んなステッキを、十元に負からないやうでは、
 店の面子に拘はるではないか』と云へば、
『オーライ面子』と、スグにも負けたいと考へるのが彼等である。
 
 反對に『アナタのやうな立派な口ヒゲを生やして、
 立派な眼鏡を掛けて、これが十二元に買へないでは、
 アナタの面子(沽券)に拘わりませう』と云へば
『オーライ面子』と、黙って買って行きたいのが支那人であり、
そこに面子生活の裏と表がある。
 
 例へばイクラ買物をネギっても、
歩み寄りが出来ない時には、
『爾的面子、還給五角』(御前の顔を立てて、ではモウ五十仙出さう)と云へば、
先方も『あーよろしい面子、面子』と云って、
納まるが實際である。

 停車場あたり、衆人環視の中で、手抜かりなく、人につき纏うう乞食がある。
斯んな時、纏はれた人は、乞食に一仙ポンと投げ出してやるが、
支那人は、つき纏はれた以上は、イクラか遣るのが、
乞食に對する紳士の面子だと、考へて居るのである。

 

〔相見の禧〕 
 電話の急設を頼んでも、家の修繕を頼んでも、
苦力や、大工は、仕事のお仕舞には、必す酒錢を呉れと云ひ出す。
金特や、紳士は、催促されない内に、これを出すのが、彼等の面子であると考へ、
また催促した以上は、タトヒ十仙宛でも、買はなければ、
納まらないのが、苦力等共の面子である。

 その癖先方から、イクラ呉れとは云はない。
 車夫の如きも『アナタの御随意に』と云って、
決して金高を明示して要求はしない。

 『見計ひで呉れ』と云ふのが、彼等の相手に對する面子であるが、
一度この見計ひが、彼等の目算と違ふ場合には、急に本心を晒け出すして、猛然と喰って掛り、
大に正義論を振り廻すとか、
または最初の君子振りは、何處へやらカナぐり棄てて、
急に極端なる貪欲振りを、發揮する場合が多い。

 支那の高官、顕吏等は、何かの場合に、
突然辭職を申出でたり、或いはあり就任を、辞退することがあるが、
これ等は一應申出て見るだけであって、彼等の本心ではないのみならす、
時としてに、相手の信認を試験する目的で云ふ場合が、数次ある。

 孔明の三顧の禧なども、或はこれかも知らぬ。
支那人を招待した場合に、必す一度は差支ありと、辭して来るのが常である。
これも相手にする自己粉飾や、信任問合わせの面子であり、
遠慮であることが多く、再三勧めると、初めて出宴する場合などがある。

 

 また時として、宴會半ばに、先約ありと称して、退席したり、定刻よりもワザと一、二時間れて来るなどは、
皆彼等の駆引きや、風延である
風延とは、心にもないことを、御追従に合槌を合はすことである。

 

 支那人が能く
『御招待したいから、何時が善いか』などと、
御都合を聞いたりするのも、これまた御世辭の場合が多い。

 當方が断って、これ幸ひと、スグ招待を取止めたり、
また善い気になって、招待に応じて、出席して見ると、
ヘンな場面に出っ喰はすことがある。

 だから何れにしても、
相手の面子を潰さないやうに、應答するのが常であると、
唯それだけを考へて、さて實行の能否は、全然別ものとして考へるのが、
安全である。

 支那に相見之禧と云ふことがある。
 
 明日競馬に行かうと誘へば、
先約があっても、先づ『行をませう』とその場は回答し、
アトで用があるから断るのが禧である。
つまり先方の提言を、頭から否定しないことで、
一應顔を立て遣ることである。

 

 併し面子なる語は、
實利的なる支那人に、少なくも自制と、
反省とを與へるものであることは、見遁がしてはなられ。

 個人主義、利己主第の彼等が、
意外に人間らしい行動をすることのあるのは、
この民族の上下を通じて、深くその心の奥を支配する、
面子根性そのものの効果であらねばならぬ。

 

〔紙幣ビラで頬っぺた〕 
 支那人は實利的である。
金餞には目がない。
かと云って、それならば、紙幣ビラで、頬っぺたをプン殴っても、
喜ぶかと云ふと、必らすしも然うは行かない。

 叩かれたことそのことが、彼等の非常な利益であったり、
またはその紙幣束を、そのまま貰ったとしたところで、
周囲に
人が見て居るとか、若しくは他にヨリ以上の利害開係がある場合は、
彼等は敢然として、これに反抗するのである。

 面子とは、顔を立てることであるが、
人が見て居らない時であり、
都合の善い時は、何時でも屈従にもなり得るのが、彼等なのである。

 
 だから支那人は、色々な場合に、色々な意味に、面子と云ふ熟語を使用する。

 例へば斯うして貰へば、自分の顔が善い(面子大)、體裁がよい、キレイだ(好體面)、
私の顔に免じて((我的面子)、何の面さげて(有面子慶)(上海では有面孔否)等と、
色々な場合があるが、愛餞の民である支那人を使ふのには、

また同時に、彼等の面子心を利用することを、忘れてはならない。

 彼等は交渉が困難に逢着するか、事件が難極に向った時は、面子を振り廻すが、

 斯んな時に『お前の顔を立てて』とか、
『私の顔に免じて』等々と、
彼等の退路となるべき方法を與へ、面子を潰さないで、善い案を特ち出す時は、
容易に、且つ腕曲に事作を解決し得るものである。



 民國九年、山東坊子で、數年来支那人劉某から、
土地と家屋とを借り入れて、支那式家屋まで建増しをして、
雑貨商を営んで居た某日本人があった。

 主人の死亡によって、家族は、急に内地へ引き揚げることになったが、
家主兼地主たる劉に相談しても、宝屋の買上げを承諾しない。

 そこで他の支那人に相談したところが、これを知った地主劉は、
支那人の習慣上、所有地上の建物を他人に買はれては、面子が悪いとの観念から、
『他に買手があれば自分で買ふ』と云ひ出した。

 価格七、八百元のものを、三百元と主張し、
他の人々が、汝は面子で買ふのに、三百元では、面子が悪いことはないか。

 『婦女子の帰国に踏倒しては、徳義上悪からう』と云はれて、
遂に五百餘元で買取ったことがある。

 支那人の交渉には、公私ともに、この類の面子が、有効に利用される。

 

〔仲裁と警察〕 
 支那人は喧嘩をしても、第三者が、私の顔に免じてと云ふので、
間に這入れば、その仲裁者の地位とか、立場から、タトヒ多少は不足な條件であっても、
仲裁は、時に取っての氏神、特別の利害のない限りは、先づ解決するものである。

 彼等は、また支那の警察汐汰や、裁判汐汰が、
如何に損害であり、如何にに厄介であるかを、
ヨリ以上に痛切に知って居る。

 だから、厄介な警察なんかに頼むよりも、
自衛自利の考へから、同業者や長老の仲裁に甘んじて、長老の顔を立てることが多く、
斯くて面子は、屡々法律よりも、有効に利用される
ことが多い。
 
 併しまた妙なところに、面子を持ち出すこともあるので、困ることがある

例へば、ボーイに暇を出さうとすると、
何等かの善い名目がない限り、タトヒ泥棒したから、
暇を出されるにしても、長年茲に使はれて居たのに解雇せられては、
友に對して面子が悪いと、勝手なことを云ふ。

その癖自己の過失や、不正のあったことは、勿論知らぬ顔の半兵衛で、
この辺のところは、頗る図々しいものである。

 苦力等が、使用人の云びつけをイヤがる時に、
世話人などが云ふ『我的面子』、
すなはち自分に免じて云へば、彼は諾々として譲歩する。

 何かの際に、汝はそれでも面子があるかと云へば、
大抵のヤツが、顔を赤くして、利害に拘わらず、反省をする美風もある。

 この辺までのところは先づ善いが、
面子も段々形式的に利用せられ、外面を飾り、心を偽り、
或は外面謹直を装び、温顔を装ふやうになったのは弊害である。


 従って直情勁行または温雅の風を失って、
眞心を枉(ま=よこしま)げて、形骸に囚はれ、
口と心と、相反する行爲が、支那人に多くなったが、
これは面子から變化した悪弊の一つ
である。

 だから例へば、支那人に試みに酒を飲むかと云へば、僅かにとか、または否と答へる。
その彼等は、常に大酒飲みであると云った場合が多い。

 また彼等は、数次今晩一緒に御食事しませうとか、或は芝居に誘って呉れたりする。
併しそれは、單に彼等の官話(コワンホウ、応酬語)であることが多いこと、
前に述べた如くであるから、ウッカリ,その手に乗らうものなら、ヒドイ目に合ふ
こと受合びである。

  

〔頌徳表〕 
 彼等には、知事の悪政に困ると、反って奉徳表を奉って、風刺する風さへある。
暗に罷めろと云ふことを示すのである。

 奉徳表を奉られた知事は、四囲の空気を着取して、體裁よく名目を設け、
潮時を見て、その位置を去るのが普通である。

 また賄賂を取るにも、世間の思惑と、面子と口實とを考へる。
つまり日常生活の、些細なことから、天下國家の大事に至るまで、それぞれ面子が入用である。

 國家の體面を衒ひ、自己の體面を衒び、
富を衒び、學を衒び、道を衒ふのが、支那人である。

 彼等は、實利と、體面とを併得しようとするが、
これが兩立せない場合は、世間の人士さへ知らなけりや、
國家の實利を、矢ふとも顧みす、顔に唾きせらるるも、
自己の實利を取らうとする。

 

 交渉事件等の際にも、
自己の将来と、職權上、自己に實利なしと見れば、彼れは口を極めて、
大義正論に言及したり、形式論や、體面論を振翳して、逃口實を求めたり、
または責任転嫁の口實を求め、上司には、體裁の善い報告を出す習慣がある。

 

〔妙な面子〕 
 曾て大正八年だったと思ふが、チチハルで、村井少佐一行が、黒河への旅行中惨殺されたことがある。

 そこで加害者である馬賊告天を、
取調べの際、督軍は、日支共同審問が必要を理解し、
また審問は、我が調査員の技能に待つの外なく、
支那の軍法課長は、単に通訳を送るのみなるに拘わらず、
『審問は、必らず支那軍法務課長の口を経るを要す』と、
外形論をガンばり、問題を實際に取り扱ひたるが如く、上司に報告したことがある。

 それからまた大正十年春のことであるが、
ポクラエーチヤナ事件の交渉後、
支那側代表張某は、調査の為来訪したが、彼の席として、入口に近く椅子を設けてあったら、
彼は彼我左右に對座せんことを請うて巳まず、
また式場では一應挨拶を述べ、然る後謝罪すべしと云ひ、
外観上飽く迄まで彼我體等であって、謝罪の為に来たのではないといふ風に、
部下及び外部に對して、装ふことに腐心した事實がある。

 この種の體面粉飾は、支那人が常に遣ることであって、
天津でも、昭和五年公安局の某課長は、日本側に謝罪に来ながら、
列席の支那人に、謝罪したと見られることを恐れて、
特に日本語で、謝罪することを申し入れたことがある。
 
 日本人は、何か一つの事件の起るごとに、謝罪と賠償を要求する癖があるが、
支那人は、欲が深いから、金を出すことは、舌を出すことよりもイヤがる。

 また人の前、殊に部下の前で、謝罪することは、
面子上から、部下の手前上からも、
自分の首を切られるよりか、まだイヤなのである。
 
 支那人と、交渉や掛け合ひをするには、この点を心得て、
本人の懐を損じさせないで、政府の金を出させるとか、
謝罪はコッソリさせるとか、略式の内筆の文書で済まさせるとか、
この辺に、彼等の面子と、金錢欲の兩立する逃げ道を、明けて置いて遣る必要がある。

 

〔賣國奴〕 
 排日運動の際、日本人と来往することは、
賣國奴と云はれはすまいかと、極度の世評を気にしながら、
裏面では、自己の發財のめに、コソつく
のは彼等である。

 曾てハルピン取引所新設の際、
十萬圓をセシめて、渋々その成立を応諾した吉林督軍孫烈臣が、
張作霖から『斯の如き事業を容認するのは、賣國奴である』と罵られるや、
急に今までの契約を破棄して、官憲の威力を以って、取引所を圧迫し、
支那株主を捕縛して、彼れの面子保特に務めたことがある。

                           

 この際取引所関係者だと称して、
数名の支那人が、逮捕せられた爲め、他の株主は、急にその所有株を放棄し、
一斉に新聞紙上に、自己の無関係を廣告したが、
彼等は、排日運動の手前上、躊躇しながらも『競馬は社交の要具だから』と云って、
投資した連中である。
  
 金と、世間の面子の兩立には、支那人も、餘程苦労するものと見える。
また賣國奴と罵らるることは、彼等は無上の侮辱と考へる癖に、
金が欲しさに、賣國をコツソリ遣るのである。



〔三千世界の鳥〕 
 大正十一年ハルピン警察は、
賓江時報が、官憲攻撃をした爲め、社長某を拘引したことがあるが、
地方の有力胡某から、金を出して赦免を懇願した爲め、署長は胡の面子を立てる為めと、
自己の體面を兩立させる為め、
結局初めの意込みにも似ず、有名無実の拘留二日で、済ませたことがある。
面子、面子と云ひながらも、金と利害次第では、如何やうにも抜け道を拵へるのが、彼等である。
 
 世間の口さへなけりや、金と情死がして見たい。
 『三千世界の鳥を殺し、金と添い寝して見たい』のが、彼等である。

 面子とは、悪く云へは、人前を気にすることである。

 個人間に於いて、人前で面罵され、人前で謝罪を要求されると、
殆ど絶體に反抗的結末となるか、
或は公衆の前に於いては、口泡を飛ばして、堂々たる強論を爲す。

 併しながらこれは表面であって、
支那に馴れない人は、支那全土に亙る排日の傳単やら、紙上の排日論調を見て、驚くのであるが、
事實はそれほど彼等は感情的ではなく、また腹立まぎれに、白刄を振り廻すほど、ノボせては居らぬ。
瀕死の親に治療代を出すよりも、
それで棺桶の善いのを拵たた方が求道であり、面子が善いと考へる程、冷静な民衆である。


 彼等は利害に冷静であると井に、
一面唯賣名の為めに、駆け引きの為めに、
面子を利用することが数次である。
そこで彼等の利用するものが、その何ちらであるかを鑑別することは、大切なこととなるのである。

 

〔野糞と間男〕 
 さらに彼等は人の悪を醜悪を問ふのは、面子を踏み倒すものであり、非禧であると考へて居る。

 支那人は、能く好んで野糞をする。
大を左巻きの小山を築きながら、青を空を望んで、大砲一發打っ放すあたりは、
天来の風流児であるが、併し君子は、人の醜場面を覘くものではない。
野糞の現場は、横を向いて通るのが、君子の面子であるとしてる。

 また副官や、ボーイが、主人の妾や細君と、良い仲になるのがザラにあるが、
主人は知らぬ顔をして、別な理由で、ボーイや、副官に暇を出す。

出て行くものも、知らぬ顔で、口を拭って、ユスリ,がましいことを云はないのが、
相互の面子尊重であると考へて居る。

 妥協性に富み、利害に貪欲なる彼等は、
利害の為めには、公然その妻妾を上官に奉って、平気である。

 金を借りるが爲めには、如何に面罵されても、厚顔無恥。
金さへ手に入れば、構わないと云ふのが、彼等の態度である。
官金を浪費した官吏が、一年ならずして、再びその職に就き、平然たるあたりは、
如何にも支那式ユーモアに富んで居る。

 罪は一囘だけで、古い罪は問はない。
骨薫も、また時節が來れば、世に出ると云ふのが、彼等の信念であり、徳であり、常識である。

 

〔友人税〕 
 面子は、自分だけでなく、他人の爲めにも使はれる。
知事、保安隊長等が、常に数名の部下を連れて歩くのは、
自己の威容を保つ爲めであるが、
來訪する人に對して、衛兵を整列させたり、車馬を提供することは、
客に對する面子だと心得て居る。
從って支那では、他人の體面を繕ひ得る人を。才幹がると云ふ。

 一般に自己の欲せないことでも、
他人の面子の爲めに、これに賛同することは、前に述べた通りであるが、
例へば妓女の水揚げには、友人二、三人と會食するが、
料理代と水揚料は、友人等が負担するのが、面子であると考へて居る。
これを友人税、または知人税と云ふのである。

 

〔報國の裏〕  
 また來客をソラさない爲めに、一タの卓を共にし、恰も十年の知己のやうに、
打ち解けた態度を示すことがあるが、これは彼等が客を遇するのであり、
客の地位、または紹介者に對する面子である。

これを以って日本式に考へて、
胸襟を開いて、百年の知己を得たやうに考へたら、それこそ大間違ひである。

 支那人の面子なるものは、戰爭にまで及んで居る。

 古き支那の戰爭は、先づ通電に始まり、對手の非を擧げ、愛國愛民を振り翳して、
對手を賣國奴と罵り、その面子を傷けることに腐心する。
ここに謂ふところの『聲討』なるものが、發生する。
 
  それからまた敗戰の時だって『我れ天の民を傷つくるに忍びす』とか、
何とか通電をするのが常で、形勢が悪いからとか、或るは懐がフクれたから、戰は止めだとは、決して云はない。

 上海戦でも『一死報國血を以って、黄浦江を染める』などなど、
蔡延楷は上海でホザいて居ったもので、身体座臥、總てこれ體裁と口實が、
入用なのが支那式である。

 要するに金も欲しいが、面子も入用であり、
實利と賣名とを、チャンポンに行きたいのが彼等である。
もの窮するや、すなはち必ずや面子で打開する。
  
 外交談判でも、政治問題でも、その内容の如何に拘らす、
彼等當局者の面子を尊重し、與論に對する態度と實益に對する名目とに、
道路を明けて置く時は、問題を圓滿なる解決に導き得る
ものである。
 
 日本人は、支那人をアヤつることに於いて、
マダマダ、この辺の研究が、足りないやうに思ふ。


笠井孝著『裏から見た支那人』 賄賂の國

2024-03-13 12:07:59 | 中国・中国人

      
    笠井 孝著『裏から見た支那人』    

 


 
   賄賂の國 

 吉良上野介・・・・・無給のコック・・・・・門錢・・・・・外水
・・・・・中飽・・・・・技師長・・・・・三方が五圓・・・・・釐金局
・・・・・警官の儲け口 

〔吉良上野介〕
 支那は米國と共に、有數なるコムミッションの國である。
何事にも手數料と、袖の下は當然である。

支那人は、他人から、物を贈られた時は、先づその物の値踏みをする。
『これは五圓の品物であるナ。
では自分は、五圓がとこだけ、彼れに厚意を表すれば善い』と、
ここまで考へて、ハテこの男は、何を頼みに来たらうか。
何は兎もあれ、五圓がとこ好意を表しようと、斯う云ふ態度で、人に接するのである。
  
 假りに某商が、某大官に手土産を持って、訪問したとする。
『ハハアこの男は石炭屋だナ。それならば石炭の買上げにいて、頼みに来たのだらう。
 宜しい。魚心あれば、水心で遣って見よう』と、
先づ彼れの第六感が働く譯なのである。

 支那では、贈物も、単なる好意ではなく、一應の商取引である。
日本にも、吉良上野介のやうなのがあるけれども、支那の上野介は、一層悪辣である。
 
 三十三年北清の役に、西太后が、西安に蒙塵せられた時、
或る日某縣に泊られたが、取巻き連に對する知縣から袖の下が、足らなかった爲め、
その晩西太后の御飯には、シコタマ鹽が入れてあった。
知縣は、不注意の故を以って、早速首になったことは、云ふまでもない。 
   
  
 官吏に袖の下は、ツキものである。
 彼等が苦勞して書を讀み、
その上で、官吏の試驗を受ける爲めに、
數千圓、乃至一萬、二萬の金を纏めて、上司に奉るのも、
我が身可愛さの故ではあるが、
困った習俗であることに、議論の餘地はない。
清朝の末年まで、支那の官吏になるには、表面上は、試驗制度になって居ったが、
裏道は、賄賂と、縁族と、買官であった。
 
 多分の金を出して、一つの官にアリつくのであるから、
一日も早く、その資本を囘牧する爲めに、
官吏共が有りと有らゆる賄賂を遣るのに、何の不思議もない譯である。
 
   
〔無給のコック〕
 支那では、ポーイ、コックは、殆んど無給に近い料金で、働く習慣であるが、
これは給料の外に、収入があるからである。

 コックは、買物の一割の上前を、ハネるのは通常であり、
日本人や、支那の大官のコックが、
米麥の資を誤魔化すことは、餘りにも有名な事實である。
 
 支那の習慣として
『大官はその勝手もと(臺所)を覘かない』と云ふのが自慢である。
從って料理人達の誤魔化すことも、手に人ったものである。
 
 支那人コックが、一番喜ぶのは、日本人の奥様連中である。
一ケ月に、米を、六斗も、八斗もたべて、魚屋の拂ひが百元からあっても、一向平気だから、

一番相手にし易いと云って居る。

 だから日本人は、モツと臺所をシメてかからなけりや、
支那での發展なんか、六づかしいことである。

 ボーイの如きは、古新聞、空瓶は勿論、
時として、米やら、石炭まで特出して、密かに自分の収入にする。
また不思議に、バケツ一杯の石炭でも、
チャンとそれを買取る専門の買受屋があるのだから、
流石は抜け道だらけの支那ではある。
 
 
〔門錢〕
 大きな住宅、役所などは、門番が出入の商人から、上前をハネることが、當然であって、
北京辺りでは、これを門錢(門包)と称して居る。

 出入の雑貨屋とか、反物屋とかなどから、
買上げの都度、買上高の一割なり、五歩なりを、
頭をハネることが、恒例になって居る。
それからさらに面白いのは、何事にも酒手(酒錢)が要ることである。
 
 例へば私が、自家用の俥に乗って、果物を買ひに行くとする。
車夫は、必らず帳場に行って、鋼貨の五枚か、七枚をセシめる。
曰く『オレがこの旦那を、連れて米たからこそ、
 お前の果物が売れたのではないか。割前をヨコせ」と云ふなのである。
 

〔外水〕
 田舍を旅行すると、ポーイは、
外水(給料以外の収入)と称して、色々な着服や、誤魔化しを遣る。
先づ第一に、宿に泊ると、彼我の間に立って、宿賃を決めて、その差額を着服する。
 
 籠とか、馬車とかを雇ふと、これ等の賃金の中から、
一圓なり、二圓なりを、彼等から手数料として頂戴する。
遣る方も、取る方も、それを当然な収入として、敢えて怪しまない。 
 
 從ってボーイ等の給料は、極めて安いか、
或いは支那人の家庭などでは、全く拂はないものすらある位である。
 
友人を、何處かのボーイなり、小役人に周旋する際には、
その手数料として、月々給料の一割位を、上前としてハネる約束をする。
現に私の貧弱な田舎出のボーイの如きすら、友人を近隣へ周旋をして、
月々一圓餘りづつ、世話役料を買って居った。

 さらに私の某知友は、三軒の借家を特ち、
その外に、四人の小役人を周旋したので、
月々この方からも、二十圓餘りの収入があると喜んで居った。
 
 
〔中飽〕
 支那人の口銭(中飽)制度は、あらゆる階級に、行なはれて居る。

 先年漢口の兵工廠に、日本の某大商店から、石炭を納入したことがある。
一トン十二元で契約したに拘はらす、
會計主任から十三元五十仙として、受取證を出すことを要求せられて、
英國歸りの支店長は、慌てて私に相談に来たものである。

 奇怪は、それだけに止まらす、さらにイヨイヨ現品を納入する段になって、
兵工巌の門番は、通門料として、トン當り十仙宛の酒類を要求し、
さらにカンカン秤りの主任者達は、秤量の手数料として、
別にやはりトン當り十仙宛の酒錢を要求する。
 
 最後に構内苦力は、その石炭を下す代錢を要求し、
今後も、お前の處の物を買ってやるからと云ふことで、
イクラかの酒錢を要求されたので、結局トン當り十二元五十仙ばかりになったが、
この外に、先方の會計方は、十三元五十仙で買った風をして、
官金を誤魔化したこと勿論である。
 
  
〔技師長〕 
 さらに今一つ、これと同じやうな例がある。
上海の某石炭商が、その石炭を、支那側に納入するに方り、
先づ會計方、ついで門番、現場監督から、それぞれ、イクラかの酒錢を要求され、
イヨイヨ、最後に技師長からも、トン當りイクラかのコムミッションを要求されて、
とうとうソロバンが合はないので、契約破棄の已むなきに至ったことがある。

 武器の売込みでも、機械とか、米とかの取引をでも、
その幾割かは、これを仲間の取扱者、関係者一同に分っのが、習慣である。

 曾て民國十三年(1924年)ごろ、
奉天に無線電信を建てる爲め、
某國側、日本、それからオランダの某會社から、入札したことがある。

 日本は七萬圓、オランダは十二萬圓、某國は確か十七萬圓であったが、
某國側は、開係者に對して六、七萬圓のコムミッションを贈った爲めに、
譯もなく十七萬圓の方に、決定したことがある。
入札と云ふのが、これなのだから、妙な入札もあればあるものである。
 
 先年ハルピンで、電燈會社を始めようとしたら、
ハルピンの長官飽貴卿は、十萬元を酒錢として要求した。

 民國六、七年の西原借款や、参戰借款が、何處へ消えたかは、世界周知の好例である。

  支那では、或る事件の成立の裏面には、常に相當な袖の下を必要とする。
これは支那人を扱ふに、大切な要訣であることを、忘れてはならない。
 
 昭和八年(1934年)フランスは、
正太線借款延長に、交通總長へ三百萬フラン贈ったとて、
顧孟餘は、監察院から弾劾せられたものであるが、
弾劾する方が、間違って居るとしか考へられない。

 それほど支那人の金に對する考へは、徹底して居るのである。

 だから、汽車の寢臺は、
ボーイに、一、二圓掴ませるませると、容易に空席を發見し得る。
その方が、ボーイも儲かるし、御客様も儲かるではないかと、平気である。   
 
 昭和五年ごろ吉林、北平間の發行車は、
寢臺用毛布に、一組ごとに錠前をつけて、秦代券と、引換えへにしたのは、
斯る習慣を防止する爲めであったが、
これすら終ひには、何うやら抜け道を考へて、
毛布を別にボーイが、賃貸しすることになった。 
 

〔三方が五圓〕
 曾て山東鐡道で、汽車の切符を盗んで、売りに來た二人連れの支那人があった。
 彼れは
『この十五圓の切符を、十圓で買へ。
 然うすれば、我々二人は五圓儲かるし、
 あなたも五圓儲かる。
 三方五圓宛儲かるではないか』と云ったので、
思はず笑はせられたことがある。

 汽車に乗って、一等車あたりでは、部屋のない時、
一元出せばボーイが、ニヤリと笑って、すぐ部屋を一つ準備して呉れるのは、
餘りにも有り触れた常事である。

 鐡道當局は、時々これを八釜しく取締りを始めるけれど、
不思講に、間もなく、また元の通りになるから面白い。

 上海の電車には、時々監督が乗って、檢査をするが、
それでも車掌は、お客と馴れ合ひで、使ひ古るしの切符を利用して、
三仙、五仙を誤魔化したりするのを發見して、
我輩も、この車掌君の變通性には、ツクヅク、感心させられたことがある。
 
 商人が、支那の田舍を旅行する時、最も困らされるのは、損税局である。
 漢口あたりから、上流漢水を、船で上るとする。

 仙桃鎮あたりまで出るにも、漢水の所々に、公私の集税局がある。
船をつけて、檢査を頼んでも、『今居ない』とか、『忙がしい』とか、
一向遣っては呉れない。
その内に後から來た船は、先きに檢査を濟ませて、出發する。
 
 つまりコッソリ若干の袖の下を、先づ持参したものは、無事に通過するが、
その他は大抵明日まで待たされて、
オマケに集税吏がやって來て、三ッ又になった鋭利な槍で、
一々荷物を上から突き刺して歩く。
衣類とか、大切な物を持つものは、
巳むを得ず、船客共から、幾何かの袖の下を出すことになる。
 
 
〔釐金局〕
 支那の奥地には、軍隊や、土匪の集税局が、澤山あり、
官吏も色々な名目で、収税法を案出する。

 釐金税(註、リキンゼイ。清代、国内通行の貨物に、その価格に応じて特別に課した税金)は、
外國側の要求で、止めることになったけれども、
支那の要所々々に張られたる釐金の網は、斯くして實質的には、何時撤せらるべくもない。

 関税の改正やら、釐金局の廃止を、
眞面目になって考へて居る外國人側には、この裏の眞相は分るものではない。

 殊に掲子江上流地方では、
今でも色々土匪や、軍隊によって、私設の収税所が出来て居り、
河岸から、不意に發砲して、停船納税を命ずるのが沢山ある。

 支那で、比較的確實とされて居る郵便も、電信も、
盆暮には、公然局員や、配達人が、各戸に酒錢を要求して歩く。

 電報配達の如きは、規則以外に毎回十仙なりを、手数料と称して、酒錢を要求し、
それを遣らなければ、次ぎの配達を、遅れさせられるから、
巳むなく金を遣ることになる。
 
 漢口では、電報局員が、
盆暮には奉加帳を持たせて、寄付を募って歩くので、
三圓、五圓と、取られたものである。

 また私自身は、民國十三年(1924年)上海の郵便局で、
某大商店から、四川の重慶に送るべき小包郵便(内容は確か銀製の煙草入を、十箇宛箱入れにしたものであった)を、
局員が内容検査と称して、
差出しの爲めに来た使用人らしい支那人に、開封させて居たのみならず、
使用人と合意づくで、その一箇を失敬したのを、實見したことがある。

 まだ支那に慣れない當時の私は、
アキれて物が云へなかったことを、今マザマザと記憶して居る。
 
 
〔警官の儲け口〕
 それから支那の警察官であるが、これがまた大變なシロモノである。

 支那人は
『一旦警察の手に掛ったら最後、事の善悪如何に拘わらず、
 若千の袖の下を出さなくては、無事に歸ることは出来ない』と云って居るが、

 警察官は、良民を犯罪にカコつけて拘引し、
幾千かの袖の下をセシめることを以って、本業として居るとしか考へられない。

 無論支那に於いても、英、佛、日各國の疎開警察は、
比較的良好であるが、それでも給料が安いので、
辻々に立っ巡補は、附近の受持区域の商店を、時々巡回して、長話をして、容易に歸らない。

 そこで商人は、一圓なり、五十錢なりの酒錢を、包んで遣るのである。
 
 モヒとか、阿片とかを賣る店からは勿論のこと、
その他の店からも、幾らかづつ貰ふので、
月々のツケ届けが良いと、タマには萬引の一人位は、捕まへて呉れるが、
それが責めてもの彼等の御恩返しであらう。
 
 昭和五、六年、天津日本租界の巡捕が、
白河の岸を通過する荷車から、毎囘銀貨一枚宛徴集して居るのを、見たことがある。
本人は、立番して知らぬ顔してをり、ボーイをして、一々徴集せしめて居るが、
一日少くも七、八十仙から、一圓餘りになるさうで、
その遣り方の要領の善いのにも、全く感心させられたものである。
 
 支那の上下を通じて、賄賂公行は當然であり、
また體面を飾る支那人には、種々巧砂なる贈賄方法がある。

例へば賭博に招待して、カケ金を立てかへた風で、貢いでやったり、
ワザと負けて、勝を譲ったり、
この種の贈賄は、上下ともにイクラでもある。

 だから支那で、官吏を数年もやれば、一生の食料には困らない。

 民國八、九年、湖南の督軍であった張敬堯は、三年間に一千萬元を、
港北督軍王占元は六、七年間に、最小限に見ても、三千萬元をタメたと云はれて居る。

 人々が官吏とならうとするのも、無理からぬことであると、云はなければならぬ。

   

 この項目は、金錢に関する記述が、餘り多くなったが、
支那人生活の大半は、金錢欲であり、
一事一物を、對象としないものはないのであるから、
自然斯んな結果になったのである。



笠井孝著『裏から見た支那人』 金錢慾

2024-03-13 11:44:18 | 中国・中国人

    笠井孝著『裏から見た支那人』

 



 金錢慾 

ニタリ、ギヨロリ・・・・・二圓に負けろ・・・・・賣國 
・・・・・火事場の水・・・・・掛け値・・・・・俥屋・・・・・親善論・・・・・金故に 

ニタリ、ギヨロリ
 支那人の利己心は、一種特別の存在であって、
彼等を驅って、一生を利欲の爲めに棒げ、金錢の爲めに、死生を賭するに至らしめて居るのは、
徹底して居ると云へば、云ひ得らるる。

 彼等が學問をするのは、官吏とならんとする為で、
官吏になるのは、不當利得の最捷徑と考へて居るからでである。

 最近でも、官吏の間には、何処の局長は一萬圓、何処の縣長は六千圓とうふ風に、
金で売買される習慣があるが、
不當利得があればこそ、何萬圓かの金を出してまでも、官職が売買される譯である。

 人情なく法律なき個人本位、これが支那の實情であり、
金以外には、親子すら頼むに足らないと云ふのが、ホントウの支那の社會状態である。
従って自然に、明けても金、暮れても金と、
金の亡者になるのも、また已むを得ないと云はなければたらぬ。

 支那人の理想は、福、禄、壽の三つで錢ある。
『出門大喜』とか『發財』『生財』と云ふ字句が、
新年早々から、門口に貼られるが、新年の挨拶に、取り交はされる芽度い言も、金のことが多い。
發財とは、金が殖えるといんことで、
彼等の一生の理想であり、祈願である。

 從って支那人は銀貨、銀塊、馬蹄銀など、金錢を非常に喜び、
心から歓迎する風が見える。

彼等は先天性の愛錤家で、銀貨を見た時のウレしさうな顔つきは、また特別である。

 ポンと投げ出された銀貨の顔を見ると、支那人は、丸で別人のやうになり、
必らずニタリと、顔の相格を崩して、心から嬉しさうな風が見えると共に、
眼の色がギロリと光る。

 何んだか猫が、魚を狙び當てたやうた有様が、アリアリと見られる。

 また支那人は、銀貨の眞偽を確めるめに、一々これを叩いて見る癖があるが、
一圓銀貨を、ポンと机上に投げつけて、チーンと響くその余韻を聞く時の、
それはそれは嬉さうな彼等の顔は、トテも外では見られない図であり、
金錢に執著心の強い彼等を知るものは、思はずゾッとさせられるのである。
  
 
二圓に負けろ
 彼等は金錢に特に敏感であるのに、
一方に於いては、或いはまた餘り金錢に敏感である爲め、
錢を見たら、勘定が解らなくなるのではあるまいかと、思ふことさへも屡々ある。
支那人は勘定高いくせに、禅坊主めいた茶人味がある。
   
 いま假に五圓と七圓と八圓の骨董品をヒャかしたとする。
私がこれを四圓と、五圓と、六圓と、合計十五圓に負けさせようとしても、
決して負けるものではないが、
この場合、一圓銀貨を、ゾロリ十三枚出して、品物を引っ抱へて行くと、
彼等は金は欲しいし、負けたくはないし、
思案の揚げ句、眼の前の銀貨に眠が眩んで、
十五圓にも負けられたいと頑張った品物を、十三圓でオーライと遣るのである。
何んと妙な心理の民族ではあるまいか。

 『明日の百圓よりか、今日の一錢』と云ふこともあるが、
彼等の心理状態は、これを眼のあたり體験した人でなくては、釋然たり得ないものである。
 
 支那の一口話に、死者が水を呑みながら、指を二本出す。
上から救助船が三本出す。
『三圓出せ、助けてやるぞ』『イヤ二圓に負けろ』と云ふ場面があるが、
咋今これに類似の實例は、イクラでもある。
 
 私もイクラ支那人でも、マサカそんなことはあるまいと考へて居った一人であるが、
現に上海のバンド(河岸)で、瓜形の板や、舢板(シャンパン)や、舫子(ホウヅ)が、
渡船などの溺れた者の宿の廻り集まって、
水の上から、救助料の談判をして居るのを、時々見たことがあり、
成るほど水死の間際まで
まで、金の談判をし、
救助料が決まらなけりや、引上げないのだなと、ツクヅク感心したことがある。
 
 
賣國
 日露戰
爭の時、法庫門で、或る百姓が、金をシコタマ腰に巻き付けて、逃げ惑ひながら、
遂に井戸に陥ち込んだ。
 他の百姓が『五十圓出せ、助けよう』と談判をしたが、
トウトウ談判不調に終って、彼は哀れにも、水死したと云ふ實話がある。
  
 金錢欲を通り越して、金錢に執着をすることは、愛錢の極であるが、
支那人には、相當の知識階級でも、金の問題になると、国の爲めにも、人の爲めにも、
鐚錢一文すら出さないのが普通である。

 これは愛國を高調する彼等有識階級と交際しつつ、
ツクヅク我々の體験させられる實例であり、
まことにイヤな思ひ出であるが、

彼等の愛國や、愛民は、やはり利欲の範囲をでないのであることを、
私は屡々満喫させられ、痛感させられた一人である。
 
 従って支那人は、金が欲しさに、
事の祕密を特ち出したり、政府の物を、費ったりすることは、
別に罪悪とは考へないやうで、皆一廉の知識階級が、平気でこれを遣って居る。
 
 否、金故に、國利、國權を売る政治屋の絶えないばかりか、
二元、三元の金で、自分の妻、妾に、窃かに春をヒサがせのが、チョイチョイある。

 これは何れの國でも、教育のないものには、絶無ではない現象であるが、
支那人は相常の地位あり、産を持ちながら尚これを遣るのであるから、
全く恐入つて終ふ。
 金にさへなれは、支那人は何んことでも遣ると見て、間違いないのである。
  
 
火事場の水
 彼等が利欲にかけて抜け目がないことは實に恐るべく、全く三嘆させられる。
南方では、木材家屋が多い為め、家事も相當火の手が早いが、
上海や、杭州では、火事場にセッセと水を運んで、一桶三錢、五錢に売って居る男がある。

人の生死の境に、金で水を賣るヤツも、賣るヤツだが、
不気でこれを見てゐ
るヤツも、見てるヤツだと、云ふ感想が禁じ得られない。
 
 だから金にさへなれば、十仙やれば、柳の鞭で類つべたを叩かせる、
などと云ふのは、支那人では能くある例である。
  

 ハルピンで、友人が、車夫が生意気だと、
トウトウ腹を立てて、イキナり横っ面を一つ喰はして、叩き賃だと、
十仙投げ出したところが、十仙になるのなら、
こちらも一つ叩いて呉れぬかと、反針側の頬つべたを指さしたと云ふ、
嘘のやうな實話があるが、成るほど支那人に有りさうなことだと、
思はず小膝を叩かざるを得ない。

 警察官吏の腐敗せることは、賄賂の項に於いて述べるが、
地獄の沙汰も金次第。

 監獄は、金のないヤツは歡迎されない。
また未決監は、金の有りさうなヤツを繋いで置く所で、
まだ官憲
との搾取取引をの談判の決まらない、金のありさうなヤツが、
取引の決まるまで、繋いで置かれる所だと見てよい。
 
 斯う云ふ譯だから、
支那の司法制度、警察制度などは、これまた金錢欲を離れて、
観察の出来ないものである。
 
 上海の會審衛門あたりを見て、支那の法備は備われりと考へたり、
治外法權撤去すべしと考へるのは、西洋人達の大間違ひである。
 アレは外國人に見せるめの裁判所であって、
外國人に見せる爲めの監獄であって、
ホントウの支那監獄は、モトモト酷いものである。
 
 英人エー・イー・リリアスの『南支那の彩帆隊』と云ふ本の中に、
香港の英國監獄の記述があるが、
アレを更に酷くしたやうなものが、眞相である。

 またさらに見逃がし得ないことは、
支那の警察は何かと口實を設けて、金の有りさうなヤツを警察に拘留し、
その釈放料を搾るのが、本業であると見てよい。
併しこれ等のことは、また別に述べることにする。
 
 斯くて政治家に搾られ、兵隊に搾られ、土匪に搾られ、響察官に搾られる國民が、
何にして金を貯蔵し、知何にして貧乏な風を装ふべきかと云ふことに、
苦心するのは、無理からぬことであり、気の毒なことでもある。
 
 このやうにして支那人をヒネくれさせ、猜疑心や、責任回避や、利己本位たらしめたことは、
當然以上の當 当然である。

 だから彼等が率直でないのと、利欲に強いのはで、當然で、
如何なる場合にも駆け引き遣ることを忘れない。

 和手の顔色を見て、一元のものも、二元と云ったりする。
骨董屋の知きは、百元、二百元と云ひ出すが、
客の方で買び度くもないやうた風で、根気よくこれをネギると、
トウトウ二元、三元に負けて終ふ。

 これはタトヒ五元でも、八元でも、
少しでも餘計に収入があれば、それだけ天佑であると
、彼等は考へて居るが爲めであって、
品物そのもの、實際的価値が、幾何であるかは、
彼等の問ふところではないからである。
 
 骨董以外の他の如何なる商品でも、最近の最新式大商店を除く外は、
一割、二割の掛け値のあるのが通常で、
然うかを思ふと、反對に客の面子を立てて、負ける場合なども色々あり、
駆け引き多い民族である。

 以上の習慣は、常習的であって、
為めに田合人は、往々汽車賃を値切ったり、
郵便切手代を負けろと云ふやうな珍話を、沢山に製造し、
支那人のなごやかなユーモア的半面が窺はれるが、
一面支那人が、如何に金錢欲敏感であるかと云ふことと、
到るに處に掛け値、駆け引きがあることに感心させられるのである。
 
 だ
から普通支那では、品物を買ふには、
成るべく、欲しくも
ないやうな顔をせねばならぬ。
売らなけりや、買うて遣らないぞと云ふ態度で、
一度門口まで出て終ふ必要がある。
斯んな時アワてて、後から呼び止められても、
『負けるなら仕方がない。
 要らないものだが、買って量遣かはすか』と云ふ態度が入用で、
實は、喉から手が出る程しい場合にも、この態度を厳守することが、大切である。

  
俥屋 

 外交交渉などにも、
この種の駆け引きが、屡々必要なる手段として、
行はれるのだから叶はない。

 例へば支那の俥に乗ることは、馴れないものには、確かに一苦労である。
最初に俥の値段を決めて置かないと、金を遣る時には、決まってユスリを吹きかける。
 
王なす汗を流して、イキセキ切って駆けるのを見ると、
日本人はツイ気の毒になって、五仙のところも、七仙遣り度くなる。

 すると彼等は、その七仙を、イキナリ大地に投げつけて、
十仙ヨコせと、高飛車に出るのが常である。
彼等の心理から云へば、五仙のところを、七仙も呉れるからには、
この男は金特か、土地不案内か、俥の相場を知らないか、それとも馬鹿であらう。

 何れにしてもこの際、
取れるだけ取るべしと考へてイキナリ七仙を投げつけて、
十仙ヨコせと云ふのである。

ロシア人も
『支那人に白歯を見せるな、笑顔をするな』と云って居るるが、
これは至言である。
 
 支第人はすぐ増長するから、
支那人に對するには、苟しくも哀憫の心を起してはならぬ。
七仙、八仙は遣りたいところを、
心を鬼にして、先づ五仙やり、ものの一町もついて来たら、
その時にさらに一仙やる。

まだ足りなければ、矢張りついて來るから、
また半町も行った時に、いま一仙を投げてやる。

この辺が大體同情心の境目である。
俥屋は後に殘した俥と、前に行く客とを、平々に眺めながら、
ゾロゾロ俥の方が心配になると、そこでヤッと諦めて、
後へ歸ると云ふのが常態である。
 
 日本人の心理から云へば、
コンな可袁想なことを仕たくもないが、
然うでもしなけりや、彼等は何處までツケ上るのか、
分らないのだから、致方がない。
 
 
親善論 
 能く世上では、ワンポツ親善論を唱へる人がある。
ワンボツとは、上海に於ける黄包車(人カ車)のことである。
ワンポツに一仙づつ、定価よりも餘計に遣ることは、
やがて彼等をして日本人を理解させ、日支親善が、それから芽生えて來るといふ見解なのである。

 私も、支那に最初來たころは、
この心持で、この主義にも、衷心同感だった一人である。

 社會的にも、階級的にも、平等なる支那人に對しては、
大總統も、ワンポツも、一視同列で扱って善い。
 だから先づワンポツ階級と、親善になることは、
やがて四億の民と、親善になることであると、私は考
へて居たのである。

 ところが四億の民が、皆ワンボツ階級だと、私が考へたごとは、
今でも眞理であり、毫も間違ひでないが、
この増長限りない漢民族に、
親善を求めようと考へたことは、明かに私の誤算であったことが分った。


 そこで近来私は、私の支人待遇法を改正して居る。

 それは先づ俥屋に、私が正當だと考へる定額だけ遣る。
然して若し彼れが、文句を云うた時は、黙ってその中から、一仙を取戻す。

 さらに文句を云ったら、また一仙を取戻す。
尤もこれは日本租界でしか出来ぬことであるが、
兎も角も斯うすると、ワンポツは、日本人に対しては、ツケ上りや、頑張りは、結局自分が損をすることを、
ハッキリ認識することになる。


 斯くして四億のワンボツに、
日本の取るべき態度と、ワンボツの踏むべき途を、理解させることが出来る。
白刄を咽喉に擬して、白刄か、金かを理解させることが、
四億のワンボツに對する、情味ある裁決であらねばならぬと、
私は考へるやうになった。
 
 話が妙な方へ脱線したが、
漢民族の金錢欲と、駆け引きを、研究することは、
やがて我が國對支外交の踏むべをを、見つけることに、なりはすまいかと、考へて居る。
 

金故に 
 さらに蛇足であるが、
支那では、旅行中でも、自宅の使用人にでも、如何なる支那人にで
も、
金の所在を見せることは、禁物であり、生命掛けである。

 日本の強盗は、白刃を突き付けてるけれども、
支那の強盗は、イキナリ殺して置いて、ポケットに手を入れるのが、常套手段であり、
常人でも、人を毅すことは朝飯前で、
極めて殘忍なことを平気でするから、気をつけねばならぬ。
 
 総ての階級の支那人に對して、金の所在を見せると云ふことは、
何等かの手段で、金を取られるか、
生命までも危険に導くものであることを、心に刻んで置かなければならぬ。

 大正九年歐洲戰爭の時、
北京を追び立てられた一ドイツ人は、十七年間育てあげた、仔飼の親愛なる支那人ポーイから、
出發の前夜に殺された。

 それは抽出にあった、タッタ四百圓餘りの有金をサラって、逃げんが爲めなのであった。

 また河南の鄭州で、一フランス人の妻であった某日本人は、
多年家事一切を委せてあったそのボーイの爲めに、
偶ま主人の不在中に、見るも無慙な殺し方をされて、
ポーイは、豫め目星をつけて置いた簟笥の有金二百圓と共に姿を隱して終った。
 
斯んな例は、枚擧に遑ないほどで、徳川時代の講談ものでも読むやうな感がする。


笠井孝著『裏から見た支那人』 自己保存

2024-03-13 11:27:14 | 中国・中国人

                             
    笠井孝著『裏から見た支那人』   

  
 

            
    自己保存

〔官吏の心〕
 支那の社會状態は、前にも述べた如くであるから、
支那人は、自分以外の何ものも、アテにならぬと考へて居る。

 これは換言すれば、自分のことは、他の何ものも構って呉れないと云ふ考へ方である。
そこで各個人は、自己保存の爲め、我利を圖り、私財を作り、
自己を大ならしむることに、專念するに至るのも、自然であると云へる。

 殊に政府、官憲の無力な爲めに、
國民は、自分の明日の地位をも、保証されて居ないのが常態
であり、
特に社會状態が不安であるとすると、
一且官吏なら、官吏の位置を得たならば、明日をも知れぬ將來を考へて、
夢寐の間にも、蓄財の方法を考へるのが、自然だと云ふことになる。

 また斯ういふ理由からと、多年の社會的習慣から、
支那人は、親や妻子でも、自分の肉親でも、
総てが、イザと云ふ時には、決して味方とはならない。

 親兄弟でも、猜疑嫉視が多くて、
打ち明けて、相談相手とはなり得ないものであることを、能く知悉して居る。

 従って自分は、自己だけの未来を、セッセと開拓して行くのみで、
この間には、親も、兄弟も、義理も、人情も、考へては居られない。
況や友人や、近親などのことは、外形は兎も角、内實は一切願みないの常である。

 すなはち彼等の身体座臥は、自己保存の四字に尽くる。
一切の行動は、他人の陥穽に對し、如何にして自己を防護をし、保特し、増大しようかによってのみ、
決せられる
のである。

 この故を以って、日常生活の間に於いても、支那人は極度に自己本位である。
自分の職分として、定められた以外のことは、相互に助け合ふことは、殆ど稀れで、
特に自己の利益にでもならない限りは、遣らない。

 俄か雨にボーイは、アワてて自分様の物は、取入れるが、
さて主人の布団や、友達の着物などは、取入れない。
『人の物を取り入れて、若しも無くなったり、損傷させた時は、自分の責任である。
 君子は危うきに近寄らず』と云ふのが、
彼の申條であり、観念でもある。

〔我不關〕
 支那には、我關せず『我不關』と云ふことがある。
自分の受特以外のことには、一切關係しないと云ふことである。

 何か自分の責任にでもなりさうな場合には、
すぐ我不關と答へて、平気なのが常である。(これは責任回避である)。
 コック、ポーイ等、また極めて利己主義である。

 彼等を雇ひ入れるには、掃除、風呂たき、買物、何々、物々と、
一々その負担すべき職域を明らかに指定して、
それで月給イクラと、ハッキり約束をして置かないと、
約束以外のことは、決して遣らない。

 強ひて遣らせる為めには、別に酒錢を必要とする。
コックは飯のにとだけ、甲のボーイは、客の応接だけ、乙のボーイは、宝内の掃除と、
物品の保管が役目だと、假りに分別したとすれば、それ以外のことは、金論際遣らないのが、
支那人の習慣である。

 コンなことは、下層階級のみならず、各階級、有識者、また例外なしに然りである。

 實例は後で述べるが、官吏でも、軍人でも、
本務の外に兼職をさせる時には、一々別の給料を増加するのが習慣であり、
規定外の仕事を命ずると、苦力でも、酒錢をネダり、
ヒドい話だが、金を出さなけりや、火事場の水も呉れないと云ったのが、住々にしてある。

 支那人は、妙なところに見識振って、ボーイなどは、自己の門内の掃除はやるが、
門外一歩を出づれば、犬の糞、馬の糞が、山のやうに堆積して居ても、
敢て掃除をしないと云ふやうなのがある。

 蓋し門外は、市役所の苦力が遣るべきものであり、
我輩はソンな役目ではないと云ふのである。 

 これなども、彼等の面子根性と、我利々々心理とから来る現象であらう。
 
〔病人は請負〕
 官憲の不良な爲め、努めて責任を囘避しようとする心理から、
顧著なる利己的場面を展開する
ことが、住々にしてある。

 路傍に、自己の親友が、病気で倒れて居っても、
世間の手前さへなけりや、警察から因縁づけられたりするのがウルさいので、我不關で、
行き過ぎたりすることは、屡々である。

 重病の親を、病院の入口まで舁ぎ込んで、
さてこれをイクラで直ほして呉れるかと、
入院料をネギる場面を、能く漢口やら、天津やらで、見せつけられた覺えがある。

 一般に支那では、この人は五十元とか、この病人は七十元とか云ふやうに、
治療まで一切を、医者の請負でやらす習慣があるが、
根気よく入院料をネギるのみならす、
價格が折り合はないと、瀕死の重病人を荷いで、ノコノコと自宅に連れて歸る。

 これは何うせ直ほらない病気なら、
イッソのこと死後の棺桶でも、立派なのを拵へた方が、
第一世間體も、面子も善いと、考へる砂な習慣からである。

〔親子の情〕
 親子同志でも、衣食や、金錢は、別であることがある。
私は北京でアマ(支那婦人)と、十三歳になるその娘とを、一緒に雇用して居たが、
親は親、子は子で、別々に食事を拵らへて居ることが多く、
親は、自分だけの御飯を、サッサと拵らへて、子供には構はなかったり、
子供は、ウドンを拵.へて食べ、親は別個に、饅頭を食べて居ると云った按配である。

 僅か十三歳の少女に對する親子の関係でも、斯んなもので、
その間に親子の恩愛などは見られない。

 別々に給料を貫ふのだから、
別々に飯を食べようと、別に不思議はないではないかと云ふのが、
彼等の普通の心理である。

 北清事變の時、確か通州の近處で、一少女が、露国兵に補へられた時、
日本兵が、その母親を責めたところ、
アノ時若し子供を助けようと思へば、私も捉まへられて、
自分の命も、持って居る金も、共にアブないではないか。

子供を捨てて逃げなればこそ、
自分と、金と二つだけでも、助かったのではないかと、
云ったものである。

 『燒野の雉子、夜の鶴』と云ふ日本人の考へから見れば、
到底堪へ得られぬほどの冷酷さではあるまいか。

 親子の情愛に就いては、尚ほ幾多の實例がある。
日本人が、田合を旅行すると、
村中の病人が集って来て、色々と薬を要求するのが例であるが、
ここに山東の或る一駅で、一支那人から頼まれて、
彼の母親の病氣を診た人の實話がある。
  
 ミーラのやうに瘠せて、煎餅蒲團に寝て居る母親は、
極度の衰弱で容體も悪く、梅毒性の婦人病らしいので、
青島の病院に入れるが善いと、薬と、療法とを敎へて遣ったところ、
病院に行けば、イクラ掛るか、それから薬たけならば、イクラで直ほるか、
さらにこの儘棄てて置けば、何日位で死ぬかと、コマゴマと尋ねるから、
この容體では、十日は六づかしいかも分らないと答へたところ、
 その實子の云ふことが振って居る。

 曰く『何うせ生命がないものならば、寧ろこの儘死なせた方が、
    薬代も要らず、損にもならぬから善い』と云ったと云ふことである。
 これでも村では、孝行息子と云はれて居る方なのである。

 孝は百行の基と云ふけれども、
それは自分の利害と、ピッタリ符合する場合に於いてのみ然り
で、
且つ面子や、體面上、好都合な場合に利用されるだけで、
眞實の犠牲的の孝は、支那人には見られない。

〔株式會社〕
 さらに支那人の自己本位のヒドい一例は、
凡そ支那では、個人か、または一族の合名會社ならばまだ善いが、
株式會社と云ふやうなものは、殆んど成功したタメシがない。

 私の遭遇した二三の實例を擧げるならば、
株を募集して、未だ機械も運轉しない内から、利益の配當を要求する。
電燈會社は、官衙、兵罃から、一切の電燈料の代りに、常に銃剣で脅かされつつある。

 紡績会社は、その製品も、未だ出来ぬ内に、重役は、株券を質に置いて、有金を浚って逃げる。
公共心のないこと、只アレョアレヨとアキれるはかりである。

〔洞ケ峠〕
 支那の政客や軍人は、
一事件が起るごとに、この機會を、如何に自分に有利に展聞しようか、
知何に高價に、自己を賣りつけようかと云ふことを考へ、
これが主題となって、打算的な彼等の自己保存の爲めの行動が、決められるのが、通則である。

 だから何か事件が起るや、
その態度を灰色にして、洞ケ峠を極め込むのは、總ての支那人に共通する慣性
であって、
何も馮玉祥や、閻錫山だけではないと云ふことになる。
 
  
  

 何れにせよ、その色彩の不鮮明な間は、
要するに形勢を見て居るのであって、
この不鮮明が、やがて鮮明なる叛逆に代り、
鮮かなる背反に代る時は、彼が高價な賣却先きを、捉へ得た証拠である。

 支那人を観察するのには、この辺の心理状態を忘れてはならない。
民國十三(1924年)年十月第二奉戰の際の馮王祥の寝返りの如きも、
また十四年(1925年)十一月郭松齢の寝逆の如きも、
まさに彼等の自己的心理を、知悉することによりてのみ、釋然たり得らるる事實である。

 七人の子は爲すとも、女に心許すなと、支那では云ふが、
支那人をして、斯く猜疑と、極度の利己本位に終始せしめた主囚は、
官吏の不法搾取、官憲の無力が、軟柔陰險な個人本位の支那人
を造りあげて仕舞ったことにも困るが、

その複雑なる家庭状態と、制裁不十分なる社會組織、
表裏反覆と、叛逆とを、意に介せない社會制度等の罪に歸せねはなるまい。

 これを要するに漢民族なるものは、厄介なる民族である。


笠井 孝著『裏から見た支那人』 實利、我利

2024-02-22 16:18:20 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』 
 
 

 


   
 實利、我利

借妻――賣児――泣き女 ――ロボット ――軍人の念願 ――商業道徳 ――薬瓶

 私は以上で、ほゞ支那人研究の端緒を、書いた積りである。
以下支那人の個性を、解部することに取掛る。


支那人は實利、實益の前には、何ものをも犧牲として悔いない。
換言すれば、冷酷そのものである
と云って善い。
支那には昔から、大義親を減すと云ふ言葉があるが、
彼等は、利益次第では、親をも殺し兼ねないこと勿論である。
  

〔借妻〕
 それから支那には、借妻と云ふことがある。
自分の妻を、幾何かの金で、一年なり半年なり、人に貸與へることである。
またこれと反對に、家郷に妻を残して、遠く出稼に行った夫の留守中に、
妻君は臨時の居候を住み込ませて居り、
主人が歸れば、この臨時の旦那は、幾何かの金を貰って、飄然として去り、
彼我共に敢えて意に介さないのがある。  

〔賣児〕
 支那の各地では貧困者は三つ、つの小児を籠に入れて荷ひながら、市井に賣る習慣があるが、
三元、五元で、街上から買はれた子供等は、男であれば、一生コキ使はれ、
女であれば、年頃になれば、妾にも昇進し、
或いは上官への贈り物などにも代用され、顔の悪いものは、
一生Y頭(ヤトー)、すなはち無給の女奴隷となるのである。 

 支那人のすることは、實利の前には、只蛇の冷たさがあるのみで、
人情味も何もあったものではない。 

 
 支那の笑ひ話に、首つりが腰に縄を括りつけて居る話がある。
『オイそれでは、死ねないではないか』と云ふと、
『實は首にも引っ掛けて見ましたが、どうも、呼吸が出來ませんので』と答へた話があるが、
第六感の敏感な、實利に先見の明のある支那人の、ホントウに遣りさうなことではある。
 
 
〔泣き女〕 
 支那の地に行くと、よく『オーウ、オーウ』と聲を張り上げて、哭く女がある。
泣き女である。
雇はれて、一日二、三十錢で泣くのである。
泣いて居る最中に、話などを仕掛けると『聲の善い悪いで、色々値段も違ひます。

 私などは安い方です』と、一鎖り我々と世問話をして、また「オーウ、オーウ」と、
涙も鼻汁も、一緒にしながら泣くのが、
『聲涙倶に下る』やうで、如何にも眞に迫って居るが、
他面また如何にも、商売らしい冷静さがある。 

 支那人は、利益の爲めには、往々生死の危険を冒して、
敢えて意としない勇敢さを特つ。

 日露戰爭や、幾多の戰乱に、弾丸雨飛の中にある自家の家を守って、動かないのがあったが、
それはマダしも、中には弾雨の中をって、
卵や、食べ物を売りに来たり、薬莢や、弾丸の破片を捨ひに来たり、
死屍の衣を剥いだり、金を盗んで行く者がある。
屍人の衣を剥ぐのは、如何にも支那式である。

 中には金が欲しさに、徘徊中、流れ弾に中るものさへあるが、
コンな時には、命も惜しまないのみならす、
友達が、流弾で死んでも、やはり戦場稼ぎを止めないのには、
コチラがアキれさせられる。
 
 日露戦爭の際、金さへ貰へば、
兩軍の間を来往して、間諜を勤めたのが、彼等の中には澤山あった。


   
〔ロボット〕 
 支那では、白昼強盗が入っても、近所近辺は勿論のこと、
街上に立って居る巡査さへも、ワザと知らぬ顔をして居ることがよある。
他人の危険なんか『我不関』といふのが、街人であるが、
純さ仲間にも『一個月幾塊錢的薪水、賣生命』と云ふ言葉がある。

一ケ月五、六圓で生命が棄てられるものかと云ふことで、
巡捕は職務上の責任なんかは考へないで、只街上のロボットに過ぎないのが常である。

 支那人は、利己の爲めに節を賣り、利の爲めに人を賣り、
主人を毒殺し、妻子を捨てるやうなことは、殆んど朝飯前である。

 つまり彼等に取っては、金銭だけが、一生の伴侶であり、
金故には、國'も賣れば、殺人もやる。

 支那人が、賣國者を出しても、平気であり、
變節や、叛逆が、到るに行なはれるのも、
要は彼等が、餘りに實利本位だからである。


 従って如何に難な交渉も、金次第では、如何にやうにもお天気が變り、
地獄の沙汰も金次第と云ふ俚諺を、
如實に味はゝされたことが、我々の體験にも屡々ある。  

軍人の念願〕
 昭和3年頃の著しき新傾向として、
日本あたりに留學中の、早稻田、慶應出の俊才が、
卒業後さらに日本の士官學校に、入學を希望するものが多々あった。

 それは、今このまゝ支那へ歸ったところで、
何うせ武官にでもならなければ、何事も出來やしないし、
金儲けになる第一近道は、武人になるに限ると、
彼等は考へたからであり、また口に出して、然う云って居たものである。
 
 なるほど、支那の軍人は、兵力を以って、民衆をオドして、金儲けをするので、
師長や、旅長の2、3年もやれば、金の300萬や、500萬は、立ちどころに出来る。
故を以って成金となる捷径は、兵業が第一であり、兵隊になることである。

 前述の士官學校に入らうとする支那人が、多かった理由も、これで分る譯であるが、
實利、實益の前には、何ものも顧みない彼等の犀利なる眼光と、
物ごとに囚はれない點には、全く三嘆させられることが多々ある。  

   
〔商業道徳〕

 日本あたりでも、支那商人は勤勉であり、能く努力し、能く勉強し、
且つその商業道徳は、良好であると云はれるが、
私としては、これもやはり自己可愛いさの故であると、云ひたいのである。
 
 支那人の商業道徳には、非常に信頼し得べき半面と、
極めて不信なる半面とを持って居り、
私は寧ろその極端なる實利主義に、一驚せざることを得ない。

 先年漢口や、上海に居た時、某大商人のことを三井に聞くと、
トテも評判が善く、信用もスバらしい。
 
 そこで或る必要から、これを大倉、三菱などに就いて、調査したところが、
驚くべし、彼れは到るところ不義不信ばかりを、働らいて居ると云ふことを發見した。

 これは支那人でも、商人のみは、信頼し得べしと、信じ切って居った私には、
實に意外なことであった。
 
 そこで爾来色々な支那人の商業道徳に就いて研究して見たら、
彼等は『この店に信頼を得れば、飯の種子に困らない』と見たら、
その方面には、全力をあげて、汗水垂らして忠義振り。

多少の損耗、また意とせないが、その代り他の方面は、總てこれ悪行非道。
商品を誤魔化す。
金は拂はない。

 その商貨を轉賣するといふ有様で、
全く以て手にオエないのが、澤山あると云ふ事實を知った。


 支那人の商行爲は、手形も、貸借證もなしで、面子一點張りで、
信用賣買をやる
ことが多いが、これは彼等同業者の間に、
厳密な制裁があるからである。

 支那にける同業者の圏結、すなはち同業組合とか、幇とかいふものは、
極めて結合の強いもので、
この仲間で、一旦不信を働いたら最後、同業仲間から、未久に放逐されて、
後その商賣には、一切手が出せなくなるのである。

だから相互制裁の不十分な外商あたりが、
ウッカリ支那の商業道徳を信頼するのは、極めて危險なことである。  
 

〔薬瓶〕
 下層の民衆の實利主義では、さらにヒドいのがあり、思はす噴飯させられることさへある。

 日獨戰爭後であったが、日本が、山東省李村の民政署で、無料施薬を爲したことがある。

 支那人の習性としては、水薬よりも丸薬を、然して丸薬よりも散薬を好むものであるのに、
彼等の多くは、何れも水薬を希望するので、
これ畢竟我が薬を、信頼するものであらうと信じて居たところ、
意外にも毎月二回の市日には、夥しき古薬焼が、市場に販賣取引されるに至り、
そこで彼等が水薬を希望したのは、薬瓶が欲しかったのであったことを知って、
思はす吹き出したことがある。

 如何にも民度の低い、生活程度の下卑た、支那人の仕さうなことであるとは云へ、
彼等が知何に實利本位に、透徹して居るかは、これでも分る。

 
 従って支那人を研究するには、
この利己、實利と云ふことを見逃してはならぬ
ことになるのであるが、
これは支那人を通じての性癖である。

 すなはち上は大總統から、下は乞食、苦力に至るまで、
彼等の行動の基調を爲すものは、利己、實利、我利である。

 如何なる場合にも、彼等の進退は、自己の利害を度外視して行なはれるものではない。


 彼の排日排貨も、愛民、愛國運動も、
一寸見ると、大義名分に透徹して居るやうであり、團結や、統制があるやうに見えるが、
實はそれぞれ、自己の取引なり、商策なり、賣名から出た實利本位が、
その基調を爲して居る
のである。

 このことに就いては、筆を改めて述べるが、
この點は我々日本人と、大いに異なって居るところである。

 


笠井 孝著『裏から見た支那人』支那人の宗教観

2024-02-22 16:04:38 | 中国・中国人

    笠井 孝著『裏から見た支那人』 




支那人の宗教観 

儒教――経天と天命説――仁義なく忠孝なし
――醜悪の美化――陳平と漢王――弔問の一針
――佛教――現世を楽土――道教は現世教

――一圓か五銭か――功過格――玉皇帝
――荘子の無役無用――老子の三寶――墨子の兼愛 

支那人の心的生活 
 支那人の心的生活を司るものに儒教、道教、佛敎がある。
基督教、回々教、ラマ教などもあるが、基督教以下のものは、餘り大なる関係がないから、
儒、道、佛の三敎に就いて概説しょう。
  
 支那には孔子とか、孟子や老子とか、荘子とか、
昔から有名た道學先生が沢山出て居る。

 これは支那では、古來早くから、哲學的の發達が盛大であっためであり、
殊に周未には孔、孟、老、荘、墨子、烈士など各派の哲学が、
竝び起こると云ふ盛況を、呈したのである。

 その後一進一退はあったが、
支那は思想的には、比較的開化した国であったことは、
爭び難き事實である。

 儒教の如きは、諸士横議、甲論乙駁、その発達が盛大で、
為めに秦の始皇帝の如きは、これをウルさがり、學者を坑にしたことさへあるが、
漢から南北朝や、隋、唐、宋を通じて、為政者、讀書人の間に、
大いに持てはやされたものである。

 また道教は、元来支那人の性格に合した現代主義の教であるが、
佛教の波以後、その刺激を受けて、一脣宗教化して来たのみならす、
今では洽く支那の上下に信頼せられて、世道人心の大半を、支配して居る感がある。

 これに反して佛教は、何となく現世に遠ざかり、
現金主義の支那人には、喜ばれず、寧ろ冷遇されて居るやうに見ええる。

 要するに今では、佛像は骨董屋に葬られ、
孔子廟には、蜘蛛の巣が張って、道教のみが、一般世俗に繁昌して居る観がある。
斯う云った現象からも、支那人なるものの民俗性は、推知されるのである。

儒 教
 儒教は、勧善懲悪の道徳教であって、孝道、敬天、人倫をし喧しく云ふ。
春秋の時代、孔子によって大成され、爾来時の世族救済の爲め利用せられたものである。
週末以來、多くは歴代
の為政者に、治政の方便として推奨せられ、
或いは官吏採用の方式として、百家経書を喧しく云はれた爲め、
學説としては、讀書人の間に相當普及しては居るが、
世俗には餘り實行されては居らぬ。

 これは支那人のやうな現実観念の強いものには、
善悪を説き、道徳を勧めた丈けでは、有難味も、功徳もないので、
欣はれないのが、當然であるからである。

 唯その敬天思想と天命観なはち『何事も天の命なり』とする思想は、
何か支那人の気に人るところがあると見えて、
今尚ほ残って居る。支那人の能く使用する『沒法子』なる一語は、
事件の終結と、断念とを表示する最修の言葉であり、
支那人の天命観から出た諦めの言葉である。

 日本に孔孟の敎が輸入せられて以來、
眞に儒教の眞髄を研究したものは、寧ろ日本である。

 日本人は、正直者で自分の道徳観念を以って、直ちに人を類推する。
従って孔孟の敎も、そのまま、研究し、文字のまま採用して、
支那は仁義の國、忠孝の國なりと尊信したもので、
荻生徂徠のやうな中華崇拝論者が出て来たのも、當然ではあるが、

 私に云はせれば、現代支那には仁義なし、忠孝なし、節婦なし、烈婦なし、
忠信孝悌は口頭禅であり、僞物であると、云ひたい
のである。

 また事實然りであり、支那二十四朝の歴史は、美化された醜悪の連続である。
宋の将に亡びんとするや、二十四郡一人の義士もないかと、
天子は地団駄を踏んで口惜しがったではないか。

 清の将に亡びんとするや、大楼樓の倒れるるを支ふペき袁世凱は、
却って清室に迫ったではないか。
 
 何慮に義があり、何処に忠があるか。
尤も支那人にも、タマには支那人らしくない、出来損ひの支那人がないでもない。
顔眞卿や、文天祥や、岳飛将軍や、南京で籠城した張勲の如きは、
支那人としては、出来損ないの奇形児であり、
出来損ひであり、支那人離れのした支那人であり、
支那人の普通の考へから、飛び離れた存在である。

 この故を以って、支那人の忠孝観は、日本人のそれとは違ふ。
個人主義に終始する支那人の忠は、身を犠牲にして、人に捧ぐる忠ではない。
自己の仕事に熱心なること、すなはち忠實の忠(まめやか)であること、
後に述べる通りである。

 支那で『孝は百行の基』と云ふけれども、
併し支那人の孝行は、祖先に対する奉仕より因果応報の観念や、
迷信から来る利己的の考へ方が多い。

 自己や、子孫の幸福を祈らんが為め、自分の金錢を得んが爲めの祈願かから来る孝であり、
爲政者から、褒められんが為めの忠子、節婦であることが甚だ多い。

 私が斯う云ふと、然らば支那に数多き節婦、烈婦の石碑は、
どうし
たのかと云ふことになるかも知れぬが、
裏面の實相は、随分ヒドいいのがある。

 支那の烈婦には、夫に死別しても、
醜婦で手の出し手がなかったからの烈婦であり、
節婦であることが多く、
中には夫の死後親戚、兄弟が死者の妻を殉死せしめて、
お上より節婦、烈婦の恩賞を受けんが為めに、犠牲にするのやら、
家庭的内争から、毒殺して置きながら、ワザワザ殉死の届出をするものも、少なくないのである。

 尚ほ、前清時代の節婦の碑を見ると、
それが多く官吏の婦女であるのも、一奇とすべしである。
官吏の婦女を、下僚が、烈婦、節婦として上司に推薦したり、
官吏の御機嫌を取る為めに、土地の人民から、上司に表彰を請ふことは、
前清時代に各所で行なはれた習慣であるから、
斯の如く似而非なる烈婦、節婦が、發生したである。

 支那の史實には、美化された歴史の裏がイクラでもある。
某侯の死するや、三子互に位を譲り殯せざること三年、禅譲の極みと褒めて居るが、
實は三子相争うて、殯葬し得なかったのでる。 

 齊の桓公は、死後六十七日、終に屍蟲口より出づるまで、五人の公子達は、
相爭うて父を葬らなかったではないか。
自己の利害の為めには、忠孝も、また顧みらないと云ふのが、實相である。

 儒教で一番喧しく云はれた人倫五常の道が、不思議にも、孔孟の子孫たる漢民族から、
喪なはれて居ることは、何と云ふ皮肉であらうか。

 支那を研究するには、その歴史が、美文を以って粉飾せられ、
醜悪を美化されて居ることを見逃してはならぬ。

 
 資治通鑑、十八史略、三國史、知何に我々日本人の頭に、美しく響いて居ることであるよ。
併し一度支那の實情を知って、再び支那史を紐どいて繙るならば、
そこには見逃し得られない歴史の裏がある。
 
 十八史略に、漢の宰相となった陳平が、賄賂を受けたのを咎められたところがある。
陳平が、友人魏無知の紹介で、漢王に見えて、都尉となったが、内密に諸将の金を受く。

 漢これを無知に責めたとこ
ろが
『王の問ふ所は行なり、臣の言ふ所は能なり。
 尾生、孝己の行ありと雖も、勝敗の数に益なくんば、何の用あらんや』と答へ、

 陳平は『臣裸身にして来る。金品を受けずんば、資となすべきなし。
  臣が計にして採るべきあらば、之を用ひよ。
  若し用ふべきなくんば、金は封じて官に輸し、骸骨を請はん』と答へて居る。 

 實利一點張りで、袖の下を受けても、平然たるところに、
昨今の支那人と、相通ずるものがある
ではないか。

 また斉の桓公に、鮑叔が、管仲を推薦する時に、
管仲は、曾て桓公の莒の道を遮って、これを射たことがあるので、
鮑叔大いに仲を辨護する段がある。

『仲曾て鮑叔と賈し、利を分つに自らを厚ううしたけれども、
 仲は貧乏だから、貪欲とは云へない曾て三度戰って、三度負けたが、
 仲は老母があるから、卑怯とは云へない』と云うて居る。

 父母あるが故に、卑怯とは云へないと云うて、孝を、忠よりも重く見るところに、
日本人と、道義観を異にする、支那人の注目すべき點がある。
 
 かって桓公が、管仲に對し、群臣の中から、誰を宰相にしたら善いかと問答したとを、
易牙は何うだらうかと云ふと、
仲の曰く『子を殺して君にすすめる、これは人情ではない』。

 然らば開方は如何に。
『親に倍いて、君に適ふ、人情にあらす』。
然らば 豎刁は如何に。
『自ら宮してに君に適ふ、人情にあらす、共に近づくべからず』と答へたとある。

 日本人の眠から見れば、崇敬すべき忠道であっても、
支那人はこれを人情にあらずと云ふところあたりは、
日本人の忠孝に對する考へと、全く異ることが分る。

 つまり支那人の忠孝観と、日本人の忠孝観との相違が、ハッキリ分る。
然かもその間人情の機微に、虚世の要領を巧みに挿入して、
文章を以て、悪徳を美化されて居るのを見るであろう。
支那の史實には、この種の例が沢山ある。

 儒教の教訓は、要するに孝が第一ではあるが、忠を否認したのではない。
然も孟子は、匹夫の殺すも聞くも、未だ巨の君を弑するを聞かずと逃げて居るが、
孟子様もナカナカヅルいところがある。
 

 湊民族は歴代、北方蠻族から侵入せられては、負け戰をしながら、
史實には常にこれを美文で、誤魔化し、
北蠻が、支那には臣事したやうに書いて居る。

 支郷歴史を研究するものの注意せねばならぬことであるが、
また漢民族の虚言、虚偽に、平然たる性格と、
負けても面子だけは、棄て切らない彼等の性格を、瞥見することが出来る。

 孔孟の敎は、實利主義の支那人には、確かに頂門の一針であるが、
彼等支那人は、表面にこれを唱えふるも、裏面に毫も實行せないのみならず、
却ってこれを悪用して居る。

 支那人の現金本位の我利々々思想に對して
『義理の辨』を説いても『上下交々利を征すれば國危うし』とまで憤慨し、
また梁の恵王に對て『義理の辨』を説いたこともある。

 董仲舒は、仁人は『其の身を正うして、其の利を計らす』と云って居るが、
支那人には
斯んな仁人は居ないので、勿體ないのだが、
孔孟の教は、多く儀禧用、他所行様、聯盟委員に供覧用となり終った観がある。 

  
佛 教
 支那の中世は、佛教全盛時代であったけれど、
佛教は彼等に取っては餘りに理想的である。

『煩悩を滅却して、無我無心の涅槃に入る』と人る云ふやうなことは、
餘りに哲學めいて、現實的な支那人の心理には合ひつこない。


 現世を苦界として、栄地を十萬憶土の方に求むると云へば、
餘りに現世から遠過ぎて、現金的な支那人には、解しがたいことである。

 更に平たく云へは、佛法は、現世を苦界だと云ふけれども、
支那人に云はせれは、出来るることなら、この世を栄土にしたい。
情欲を抑へて、自我に執著しない位ならば、この世に生れた甲斐がない。
  
 佛教の極楽や、基督の天國は、あるものか疑わしい。
タトヒあっても、餘り待ち遠い。
美しいこの世を捨てて、死んで花見がなるものか。

 この世で情死して、蓮の臺に相乗りしたところで、
それは餘りにも馬鹿らしいことであると考へるのが、支那人である。

 だから末世の坊さん達は、流石に気が利いて居つて、
地獄極楽はこの世にあるのだと愚民を説き、
現に四川の鄧都に行けば、地獄も極楽もあると云うことになつてう居る。

 併し現金主義の支那人には、第一その四川省すら、遠過ぎて特ち切れない。
地獄極楽は目前に欲しいので、
その場で、すぐ因果応報があって欲しいといふのが、支那人の本音である。

 享楽、受益の現代を離れて、
そこには死も、哲學も、未来もないのが、支那人の本心なのである。
 
 儒教が形式に終わって、社會に實用されず、
佛教が、迷信と邪教とに合流したのも、つまりこの辺の消息から出たことである。

『名僧は、豆腐の料理気に人らず』と云った趣きが、無いでもない。


道 教 
 道教は謂はゆる老、荘の教義が、多分に採納せられて、
支那人に相応しい教義となったものである。

 道教の起源は、明らかでない。
後漢の張道陵が、老子を舁ぎ出して、これを開祖に率ったとか、
何かと云ふこともあるが、
要するに一種の通俗教として、洽く漢人種に喜ばれて居る。
 
『我れ一毫を抜いて、天下を利する事あるも、敢て人の為に之を為さず』と云った揚子の独善思潮は、
道教の懐く教義の一つであって、
道教は支那に於ける現実主義、實利主義に、最も徹した教へである。

 佛教のやうに、地獄極楽が、十萬億土の遠方にあつたりするのではなく、
その場のことは、その場限りで解決されるといふ點が、
支那人の思想的欲求にも、能く一致して居るのである。

 支那人が、道教を喜ぶ譯は、色々ある。
道教には攝生の法と云ふのがある。

 不老不死の薬を飲んで、仙人になるとか、
静座長寿、人生を享楽する、房中の術などなど、
近代のエロ、グロに相応しい研究が、支那には、古くから進んで居るが、
道教にもチャンとこの秘術がある。
また因果応報、一善を積めば、一過を償うと云ふような、通俗的勧善生利の説もある。

 以上のやうなことがウマく行なはるれば、
肉體は、その儘不死の神仙となって、鶴に乗って神仙界に行けると云ふやうな迷信やら、
色々な迷想などもあるが、
善いことをすれば、この世で即座に善報があるとか、
今日遣ったことには、明日にも善果が来るとか、
善根を施せば、支那人の希望する長壽、多福、多財、
すなはち福禄壽が直ぐに報いられると云ふやうなことは支那人最も喜ぶことであるが、
道教はこれ等の通俗的支那人心理を巧みに捉へて居るところに、その長所がある。

 要するに道教は、老子、荘子の個人主義、自我主義を、その儘通俗的に取入れたもので、
『明日の一圓より、今日の五錢』が善いと云ふ、
現主主義、實利主義が、その根本をなすものである。

 この辺のところは、如何にも能く支那人の嗜好に、當嵌まって居ると云ふべきである。
 
 そもそも、老子の教えは、基督教と、佛教とをせ合をたやうなもので、
幽玄なる哲學を根として字宙の道を道を説き、時間、空間を超越して、
萬物の一元的實在を云ふところなぞは、新約全書のヨハネ傳を彷彿せしめ、
基督も老子も、畢竟同一體ではあるまいかとさへ思はせるほどである。

 それから佛敎の混淆であるが、
これは道救の説く善悪と、因果応報の過程に、明白に現はれて居る。

 道教では、因果応報は、この世で来るのであるが、
イクラ悪いことをしても、報いの来ない奴は、地獄に行く。

 ところがその地獄も、餘り遠いとこらでは、利目が無いと云ふやうなことになって居る。
 こ
の辺などは、確かに佛教の教へる所と、同一系統に属するものと、考へられる。

 また道敎では、一年中の善悪を、功過と云ふもので決めて、
一年の終わりに、それぞれの總決算をすることになってる。

 例へば人に錢を施せば、善五十點、人のものを盗めば、悪百點。
それも金高によって、一圓を盗めばイクラ、著物を盗めばイクラと云ふやうに、
善悪の點数をつけ、それで年末になると、神様が、總勘定をなさることになって居る。

 そこで何處の家でも、年の暮には、通年(正月を新年と云はない)と云うて、
癒しのお祭をして、各戸各家の竈の紙様が、一年間の功罪を、天帝に報告することになって居る。

 そこでこの日には、神様に飴を供へ爆竹をならす習慣がある。
飴を供へるのは、竈の神様が、天帝のところへ報告に行っても、
飴が歯に箝まって、シャベれないやうにするのださうな。
  
 それから爆竹を鳴らすのは、神様が天帝に報告されても、
天帝の耳に聞えないやうにするのだと云ふにのである。

何處まで現實的であるのか、奥底の知れないところが支那式であり、
神様に飴をネブらせるところなども、振るって居る。 
 
 道教は、春秋戰國の時代を経て、人心漸く内省となり、
何か心に頼るものもがなと、
寂寞と頼りなさ、淋しさを感じた時に、世に擴まったもので、
世道漸く経世至用の學から
遠ざからんとして、
秦皇、漢武のやうな人でも、神仙不老の術を求めたり、
方士を招いて、怪術に耳を傾けるなど、
兎角心の慰安を欲した時代相に投じたから、
存外人心に合したものであると云はれて居る。
 
 道教の教義に老、荘の事やら、その時代の迷信やら、諸説やらを巧みに取人れて、
心の平安と、長生保健の道を説いたのは、
彼の張道陵(後漢順帝の時代)である。

 老、荘の如きも、謂はばこれに利用せられたまでで、
何も老子が、自ら道教の開祖として、祖述した譯ではないのでであるが、
何時の間にか率られて、祖師とか、玉皇帝、神仙などと呼ばれて、
今でも民衆俗教の祖神と思はれて居るのである。

 尚ほ道教と離すべからざるものに鬼神説やら、
風水説やら、支那特有の迷信、信仰どがあるが、
これは別に機會を得て述べることにする。

老子と楊朱と荘子
 支那人の人心を支配するものは、老荘だけではないが、
支那人に個人主體を鼓吹したものは、
この老、荘の説が、與って力がある。

 老子の知きは、末年『關を出で、その落つる所を知らず』と傳とへられて居るが、
老子の仙骨は、『世の中が何んなにならうと、自分の関知の知したことではない』と云ふやうな、
絶對個人本位の態度を、明らかに表示して居る。 

 荘氏に至りては、無用説を称へて、何等世のなかに役立たないものが、
最もよく天命を完うすることが出來る。 
 
 橘(たちばな)、梨の如きは、食用になるが爲めに手折られるけれども、
樗(註、ウルシ科の落葉高木)、櫟の如きは、無用であるから、
天命を完うすることが出来る。

 吾人もまた世に処するには、無役無用であることが、大切であると云って居るが、
荘氏の説、老子楊子とは異る點が多い。

以下老、楊に就いて、少しく達べて見よう。

 老子は、秋時時代、孔子より先きに生れた人であるが、
彼れは自然の道、赤裸々の人たることを説いたので、
一に清浄寡欲を説き、欲望は罪悪邪心の基因である。 
 
二に人爲を去り、天眞であれ、禧法繁くして智智好偽飾あり、
大道廃れて仁義あり、一切の人爲を去りて、自然の純眞を保ち、忠信の人たれ。

 三に自謙の柔徳をへ唱へ、水は卑をに就きて、浄はざるも萬物を利す、
柔よく剛に勝ると、驕慢を排斥し、
消極に謙徳の重んずベきを教へたが、
『我に三寶あり、一、慈、二、儉、三、不敢為天下先』と云って、
寡欲、天眞、自謙の線合を説いて居る。

 この内で、柔徳、無抵抗主義の如きは、消極一途のものと見られ易いため、
却って後人から、謬って見られた鮎もある。
 
 荘子は、老子のことを至人、眞人などと云って、これを神仙化し、
後漢の張道陵に至りては老子を神仙三尊の一に祀り上げ、
トウトウ、道教の祖神に舁ぎ上げたのである。

 楊朱(楊子)の説は、老子の獨善、獨全思想、自然思想の足らざる他の半面を補うたもので、
その説を補充したものである。

『禧文虚偽をカナぐり棄てよ、仁者必らずしも壽ならず、義者必らすしも富ます』
『實に名なく、名に實なし、名とは偽のみ』
『得難き人生を、名誉や、富貴に空費するのは愚である。
宜しく自然欲に盾ひて、悦楽すべし』と云ふのが、
その根本である。

 掲朱は、他人のめに、一毛を抜くことを欲せず、
天下の物を盡して我れに奉ずるも、
自己を束縛するものは、我れ之を採らずと云ったのは、  
有名な話であるが、彼れが個人の利己的享楽主義を、
能くまで透徹せしめようとしたこの態度は、
墨子などの犠牲的奉他思想と、兩立しない鮎がある。

 これを討究するには、
楊朱と、墨子の弟子禽子との対談を、對談を、述べるのが捷徑であらう。

 禽子曰く『アナタの一毛を被いて、一世を済むべくん如何に』。
 楊朱曰く『世は固より一毛の能く済ふとこらにあらず』。
     『「済へたとしたら如何に』と遣ったところが、楊朱応へず。

 禽子出でてこれを孟孫陽に語る。
そこで猛がヒヤヒかして曰く
『子、夫子の心に達せざるなり。若(なんじ)の肌膚をして、
   萬金を獲るとしたら如何に』。

 禽子曰く『我之を爲さん』。
孟孫楊『若の一節を断ちて、一國を得るとしたら如何』。禽子黙然たり。
孟の曰く『一毛は肌膚より微に、肌膚は一節より微なること省(あきらか)なり。

 一毛は固より一體萬分中の一ではないか、
禽子が困って仕舞って 
『何と答へて善いか分らないが、子の説は、老聘(老子)、
關子(西蘭の尹喜びは老子隠遁の際老子に道を求めた人、)に聞けば分るだらうし、

 私の説は大禹、墨翟(墨子)に聞けば、分かるだろう』と答へて、
別れたさうであるが、
この問答は、楊子と、墨子の思想の違いを示して居る。

 支那人仲間では、その社会状態から、個人的的科己的心理が、昔から發達し過ぎて居たし、
これを助長し、これに理屈づけたものは、老荘の學と、道教あたりの俗教が、
やはり多くの責任がある。

墨子の兼愛説
 老楊の個人主義と対立するものに、墨子の兼愛説がある。

 墨子(墨翟)の兼愛説は、彼れ自から云ふが知く、
利己主義、實利主義の時弊を救済せんが為めの、
對症薬と考へられたのでもあらうが、
この教義は、他人の親を視ること、我が親の知く、
他人の身を視ること、我が身の如く兼ね相愛し、
兼ね相利すると云ふ、平等無差別を、強調するところにあり。

 學事の根拠を理論に措かす、天神、天意を採用し、
鬼神の存在を信じて『上は天を尊び、中は鬼神に事へ、下は人を愛す』と、
古賢の事蹟よ帰納して、宗教的信念によって、兼愛公利を図ったのである。

 ところが徹底的に個人主義である支那人仲間に、
この説が實行される筈はないので、
却って彼の唱へた非戰的平和主張のみが、
支那人一部の人心を支配して居るのみで、
昨今の支那に兼愛なるものはない。
  


笠井 孝著『裏から見た支那人』匪賊の國  

2024-02-22 11:42:28 | 中国・中国人


    笠井
孝著『裏から見た支那人』
 
 
 
 
 匪賊の國
  

 兵匪・・・・・士匪・・・・・學匪・・・・・中華匪國  

〔兵匪〕  
 支那は、古来匪賊の國である
昇匪(官匪)、土匪、學匪、政匪、
これ等のものは、昔から支那に横行する名物であって、
支那の民族性に及ぼす影響が、少なくない。

兵匪とは、云ふまでもなく軍隊のことである。
支那の軍隊は、元来土匪、浮浪人、乞食の集團である。
  
 漢の武帝の時には、死刑囚、亡命者、浮浪人、有罪の官吏を以って、
兵と爲したと云ふことがある。

 唐の五代には、兵の逃亡を防ぐ爲めに、入墨をしたが、
それが却って入墨をされた者は、悪者であるとの代表語になった。
  
 支那では『好不打釘、好人不當兵』
 (好い鐡は釘にしない、好い人は兵にならぬ)
と言ふ言葉があるが、
兵には、すなはちゴロツキの寄り集りであるから、然う云ふのである。

 支那の或る地方では、兵のことを丘八(キウパ)と云ふが、
これは支那語の悪口『王八』(馬鹿野郎)といふことを、
モヂって使ふ
ものである。
四川の或る地方では『棒客』(鐡砲を舁いだ御客なぞと
言ふ意味に使はれる)と呼んで居るが、
これなども、兵に對する侮辱の言葉である。

 兵は斯やう嫌われるものであるが、
これは支那には、國を護る為の國軍は、事實上一兵もなくて、
却って兵は、内乱と、利權争奪と、私利私欲を肥やすめの道具に、
使用せらる
るからであって、支那軍は私兵、すなはち兵匪である。

〔土匪〕   
 次ぎは土匪、すたはち馬賊、匪賊である。
浮浪人は、兵隊になるか、
然もなければ、土匪になるのが、支那の實情であり、
軍隊でも、金を貰へなくなれば、直ぐに兵變を起したり、
逃亡して、土匪に變って終ふ。

 だから軍は、土匪の収容所、土匪は反對に軍隊の出張所見たやうなものである。
都合の善い時は兵になり、都合の悪い時は、土匪で稼ぎ、
結局政府で養って居る時は、軍隊と云ひ、
自分で稼ぐ時は、土匪、匪賊と云ふだけの差しかない譯である。

 張作霖や、張宗昌が、土匪の親方であり、
明朝や、清朝を拵らへた朱元璋や、愛新覚羅も、源を凱せば、皆匪賊である。

『王侯将相豈種子あらんや』で、土匪も風雲に乗ずれは、
昇天して天下を支配をするのが、支那である。

 また支那では、士匪と、軍隊とは、富者から金を取上げて、
貧乏人に振りまく一つの社會的中間機関とも見得るので、
無くてはならない一つの存在であるとも、云ひ得らるる。

〔學匪〕  
 つぎは學匪である。
 支那に、讀書階級と云ふのがある。
 昔から官吏は、出世の登龍門である。
官吏になって、タンマリ金儲けをせんが為めに、経書を讀み、學を習ふ。
併し官界には、色々私情があって、中々容易には官吏になれれぬ。
官吏にありつくことが出来なかったものは、滔々相率ゐて、學匪になるのでのである。

 彼等の武器は言論であり、筆である。
口に親日を唱へるものがあれば、親英を唱へるものもある。
國權回収を叫んで、日貨排斥や、愛國運動に聲をカラすものもあり、
時の政府の秕政を擧げて、土匪と相結んでで、國を奪はんと図るものもある。
皆これ學匪である。

 古来學匪は、圧政の統治者を困らせたもので、
流石の秦の始皇帝も、これ等の學匪には腹らを立てて、これを坑にし、
諸士横議を禁じたが、
これは適ま登龍の門に落第した學匪の災害をなすこと、古今無数であることを、
反面から証明するものである。

 官吏となって、我利を積まんとして、敎育を受けたるものは學匪となり、
學問もなく、官吏にはなれないものは、兵匪となり、土匪となって、
直接行動を採るだけで、匪たるに於いては、何れも同じことである。

 『官たるも安からす、匪たるも靖からず」と云ふ譯で、
流離變轉の定めない支那に於いて
は、上は大總統から、下はボーイ、小僧に至るまで、
手つ取早いところ皆匪であ。
 それが居る地位によって、官匪、土匪、學匪と云った工合に分れるだけで、
何れも匪たるに於いて、擇ぶとこらがない。

〔中華匪國〕
 大谷光瑞氏は、
謂はゆる『中華民國にあらすして、中華匪國なり。」と、断案を下して居るが、
全くその通りで、
極端な悪口を云ふならば支那をリードするものは、
生きんが為に働らく土匪の集團であると云ふことが出来る。

  

 普通の日本人は、
喧々騒々たる排日運動を見て、これは大變だと、喫驚するが、
これな別に驚かんでも善い。

 あれは要するに學匪共の排日屋とか、愛國屋のする仕事である。
彼等等は、排日業が商売であり、愛國業が本職なので、
諸君が會社員であり、銀行員であるのと何等變りはなく、
愛國屋、排日屋等は、所詮は飴屋のラツパ見たやうたものである。
  
 元来支那三億九千百萬の庶民階級は、排日屋、愛國屋には無関心である。
讀書階級、治者階級(別の名を學匪、政匪と云ふ)と、
庶民解級とは、全然別な軌道を歩いて行くものであり、
この兩者
は最初からレールが違ふので、永久に異なる途を行くべき運命にある。

インテリ階級は、飴屋のラッパを吹き、
庶民階級は、イヤイヤながら、飴が欲しさに、このラツパに跟いては、踊るのである。

 支那の實際を知ろうとすれば、この飴屋のラツパに、惑わされてはならない。
何となれば、あの八釜しいラッパ吹きの飴屋がなかったら、
自分達は、何んなに幸福であらうかと考へるのが、
彼等庶民階級なのであるからである。

 彼等庶民階級は、自ら耕し、自ら労働し、營々とし努力し、
郷村は郷村、錢業は錢業、小賣屋は小賣屋と、
それぞれ環境第に応じて、自ら社會社を形成し、
その上に國家も、統治者も、何も存在すべき必要を認めない。


 民衆は平穏に生存が出来、生命財産の保護をして呉れるものさへあれは、
その英たると、米たると、将た元たると明、清たるとは、
彼等の問ふところではないのである。


 だから支那は、國家にあらずと云ふので嫌がる坊や裃着せて、
千秋は萩の千松様で奉られるよりか、
泥のついた飴玉でも大をいのを一つ貰う方が、庶民の本當の喜びである。