民内利昭のブログ

民内利昭の教育と陸上指導に関する色々

スポーツ中継を見て

2014-09-29 23:02:33 | 日記

アジア大会、バレーボールの世界大会が現在行なわれています。スポーツ中継の際に選手の練習風景が映し出されます。その中で、ゴムチューブを使っている場面が何シーンか映し出されていました。前にも書きましたが、私はゴムチューブを健常者がW-UP・トレーニングとして使用することに関してかなり懐疑的です。怪我のリハビリとして初期の段階で使用することに関しては何ら問題はないと思うのですが。

時は今から20年以上前、私はある高校の陸上競技部を週に1~2回指導していました。面白いように選手達が自己記録を伸ばして、中学時代には何の実績もなかった生徒が県大会で入賞を狙えるようになっていきました。当時、私のやることはすべて上手くいくものと確信しすぎていました。ある意味、私自身のおごりであったかもしれません。そんなある時、秋の新人戦の県大会への代表権を得る地区大会を迎えました。当然、上手くいくものと信じて疑いませんでした。ところが、その大会での県大会出場者は、予定の半分程度でした。「なぜだろうーーー。」筋トレとしてゴムチューブを取り入れ、筋力増強を図ってある程度は良い感触(筋力アップ)を得ていた私は、当時はその理由がわかりませんでした。

それから10年くらい経った時に、あるトレーナーからゴムチューブトレーニングの怖さについて忠告されました。「天才をも潰すトレーニング」とも言っていました。その時に私は10年前の失敗の原因がわかったような気がしました。万全に仕上げたつもりでした。しかし、結果は惨敗。ある優秀な指導者の方は「結果が出ない原因は、どこかに間違えが潜んでいる」という忠告をしてくれました。

科学の研究室と交流を持つようになった今となってよく考えてみれば、当然のことかもしれません。筋肉の収縮形態が理想とする収縮形態とは異なっています。チューブトレーニングは、結果として筋肉バランスを崩し、速い正確な動きができずに力む癖がついてしまう。最終的には怪我につながるのではないでしょうか?日本のナショナルクラスの選手たちがよくこのトレーニングをしているところが映し出されます。ところがその団体、選手達はその大会では怪我がちであったり、調子がよくありません。このトレーニングは科学的であると思っているのでしょうか?日本の優秀な選手・研究者の人たちは筋肉の収縮形態の違いに気付かないのでしょうか?


実践家との出会い

2014-09-20 21:58:13 | 日記

実践家との出会いを求めて、Oに来ています。今日はその方を講師とする、研修会でした。授業実践をビデオに収めたものを皆で見ました。大学院に入学以来、このような授業実践をビデオで見ることには慣れているつもりでした。しかし、今回の講師となった方の実力は、今までの授業分析の専門家とは趣を異にしていました。私でしたらこのように批評するのだけれどもーーーといった私の予想を超えた批評を展開しました。「お見事」と言う他、ありませんでした。

せっかく時間とお金をかけて来たのですから、最後に図々しく、いろいろ質問してみました。私の難しい質問にも、丁寧に答えてくださりました。その方の人柄といったものがうかがえる場面でした。今回の研修会に参加して、確信を得たことがあります。それは、実践家という者はある方向性を持った形といったものを持ってはいるものの、必ずしもその形に固執することなく、状況に合わせて対応していくものである、ということでした。

今回の研修会参加は、長い間の私の希望がかなったものでした。なかなか行きたいのですが、時間と状況が許してくれませんでした。今回の研修会参加を機にして、この方の研修会に、年に何回か参加できればと思いました。多くの実践家の教師との出会いもありました。良い意味で刺激を受けました。どうもありがとうございました。明日は、もう一人、実践家と会います。刺激を受けて関東に帰って来たいと思います。

 


敬老の日

2014-09-12 22:49:07 | 日記

9月15日は敬老の日で祝日となっています。私はその日はA県のジュニアオリンピック予選会を見に行く予定です。もともとA県は整体の先生方を中心として付き合いのあった県です。最近は私の指導法に興味を示す陸上競技指導者の方々との交流も多くなってきました。

先日、A県に指導に行きました。参加した皆さんに喜んでいただけたように感じて帰ってきました。指導して喜んでもらえただけでも良いかもしれませんが、結果に結びつかなくては、その指導も意味のないものとなってしまうと考えています。丁度、私が空いている日でしたので、飛び込み的に見学しに行くことにしました。知り合いの先生に連絡したところ、ついでに選手の指導もお願いしたいと言われました。喜んでお受けしました。

当日、私の指導法に興味を示し、学ぼうとする方なら誰でも拒みません。是非、見ていただければと考えています。私の指導法が一般の指導法と違う点は次の通りです。

1、短時間で選手のパフォーマンスが向上する。

2、パフォーマンスが向上するだけでなく、体に負担の少ない動きとなる。

3、高校・大学・成年・老年となってもこの動きで動くことにより、パフォーマンスが向上するだけでなく、怪我をせずに競技に取り組める。

私の指導よりも高いパフォーマンスを発揮させている指導者の方も、多く存在します。私の指導法の他の方との大きな違いは、パフォーマンスが高いだけでなく、体に負担の少ない動作で、将来においてこの動作で動くことができたら、老年になっても怪我することなく、競技に取り組むことができる・日常生活ができるということではないでしょうか。


才能ある選手が消えていくとき

2014-09-10 09:21:10 | 日記

前回、指導法の間違いおよび、なぜその様な指導法が生き残ってきたかについても記述しました。私が高校の教師になってみて気付いたことは、「中学段階で、競技で優秀な成績をあげた者を指導することができる教師・学校は決まっている」ということと、「その県の競技が強いか弱いかは、そのような才能のある選手を指導する教師・学校が優秀であるかどうかで決まってしまう」ということでした。中学段階で優秀な成績をあげた者は、その競技で優秀な成績をあげている学校に進学します。その際に、その学校で指導している教師の本当の指導力は、二の次です。高校以上では生徒が均等割りされていないため、ある学校には優秀な生徒が集中することになります。そのため、優秀な生徒を指導することができない指導力を有する教師は、公立学校の教師には多数存在します。

県は、人事異動の際に適材適所を毎年のように強調します。ところが、その人事異動が教師の指導力以外のもので優先的に決められていたら―――。私の県にも教師の公募制度がありました(現在、体育教師の公募制度は無くなっています)。私はその公募制度に何度か応募してみたのですが、一度も採用されませんでした。なぜでしょうか?私のこのような事態に、ある人物は忠告してくれました。人事は「一 コネ、二 カネ、三 チャンス、四五が無くて、六に実力」だよと。

指導力が教師・指導者の実力なのではないでしょうか?その通りに適材適所に配分されなかったら、どのような事態になるかは、お分かりのことかと思います。現在の日本において優秀な選手を指導するチャンスをもらえる教師・指導者は、体育・スポーツ分野では指導能力のある教師・指導者ではなく、競技能力のあった教師・指導者となっているのではないかと私は考えています。そしてある学校に赴任しさえすれば、毎年のように優秀な選手は集まってくるという図式は高校以上の学校には、現実に存在しています。その様な状況が当たり前のようになってしまった競技者として優秀な実績を持ってしまった教師・指導者は、自身の実践について反省的に考え、新たな自身・指導法を構成していこうとしなくなってしまうのではないでしょうか。その様な教師・指導者は選手が怪我をして競技ができない理由を、選手の責任にしてしまいます。そのような状況ですから、その教師・学校に行った選手は大成することができない。この図式が多くの日本の指導現場に存在しているのではないでしょうか?


指導法の間違い

2014-09-07 20:55:41 | 日記

いろいろな地区に呼ばれて指導していく中で、現在行われている指導法の間違いについて再認識させられることが多くなってきました。指導法の間違いの最たるものは、次の通りです。

1、ももを高く上げて走りなさい。

2、地面をつま先まで伸ばして強く蹴って走りなさい。

3、ハードルは遠くから踏み切って近くに着地して走りなさい。

1・2については1998年にスポーツ科学から論文が発表されています。3についても、1・2の指導法についてのおかしさを指摘した論文のファーストオーサーである大学の先生が指摘しています。実践家として活動している私にとっても、この指導法がまかり通っている限り、日本の陸上競技には明日は無いものと感じています。それでは何故、上記の三つの指導法のおかしさに研究者たちは気付かなかったのでしょうか?その原因は、日本の体育スポーツ分野の研究者となる人物には、ある傾向が存在していたからではないかと感じています。その傾向とは、次の通りです。

1、競技者として強かった人物、または勉強だけできて競技経験があまりない者が、そのまま研究者となっていたこと。

2、実践研究が、しっかりした共同研究の形態をとっていなかった(実践家が実践の中で感じている内容について、科学的分析の得意な者が協力して科学的に分析しようとしてこなかった-共同研究の形式をとってきた論文は多数存在するけれども、その人物の研究実績蓄積のためだけに活用されてきた帰来がある)こと。

3、指導者として実績のあった者が研究分野に接触しようとしても、「競技実績の無い者の考えることは本質をとらえていない、経験主義的な研究である」と軽視してきたこと。

4、研究者養成となるべき大学の研究者養成の方向性が、上記の方向で凝り固まってきたこと。

結果として、競技者として強かった者・素人発想から、抜け出すことができなくなります。そのため、新たな運動技術・指導法が開発・提案されてこなかったのではないかと感じています。私はライフワークとして現場の優秀な指導者の指導を拝見させていただいて感じたことは、競技実績を持っていなくとも、現場で優秀な指導を展開している指導者は、研究者の考えている以上にに勉強・研究していますし、素晴らしい指導内容を保持しているということでした。私のやるべきことは、このような優秀な指導者の持っている内容を,次世代に伝承していくことではないかと感じています。