はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2020年3月)

2020-03-31 06:55:27 | エッセイ・身辺雑記
月の便り(2020年3月)
 3月、春のような陽気の日もあれば真冬日ともいわれる寒い日も。それでも周りを見渡せば沈丁花はじめ春の花も咲きだしました。今月の話題は新型コロナウイルスに尽きます。
 新型コロナウイルス
 3月1日、町内の回覧板に市民センターでの行事はすべて行わないという通知。自分史サークルの幹事さんにどうしようという相談したら後刻会長と相談し、3月の例会は中止しようということになりました。
 安倍総理の発議で3月2日から春休みまで全校休校ということになりましたが、当地では3日からでした。ちょうどそのあたりで用があって薬局に行ったらマスクは入荷不明ということ。ドラッグストワでもマスクも消毒液はなし。デマによりトイレットペーパーも買いだめする人が続出してどこにもなし(政府からのコメント通り月半ばには売りだされましたが)。
 東京の息子からマスク送ってという悲鳴。幸い使いさしの1箱があったので30枚ほど送りました。
 その後のテレビは感染者の数ばかり、特にクルーズ船ダイアモンドプリンス号(乗客乗員3700人)では観察期間の間にも感染者続出。中国から帰国した人たちもあちこちで宿泊設備に隔離されました。
 その後、国内に感染者は増え、毎日その数は増大するばかり。北海道では知事の緊急措置として外出の自粛など勧告。
 東京の屋形船、大阪のライブハウスなどではクラスター(感染者の小集団)の濃厚接触者など感染経路も分かってきたが感染者、死亡例も増加の一途。
 次いで安倍総理から非常事態宣言が出され大規模イベントの中止、延期が要望され大相撲は無観客、センバツは中止、USJはじめどこも閉演など。観光業者のみならず経済への影響も大という状況になりました。
 感染、死亡は世界中に拡大し、各国で非常事態宣言が出されWHOからはパンデミックという宣言。日米はじめ株価は大幅な低下など。今後の推移が心配です。3月14日に安倍総理から今回の非常事態宣言についての記者会見が開かれましたが新味なし。
 3月2日
 末の孫の高校合格。
 3月4日
 歯科の定期検診。
 3月12日
 ホームセンターで買い物。画用紙、色画用紙、コピー用紙などを揃える。
 3月13日
 シルバー人材センターの人のさつきへの施肥。手こずっていた水仙の球根掘り起しなどしてもらいました。
 3月25日
 息子からメールと写真があり孫娘が14科目オール5で表彰されたとの由。この子は勉強も部活のバスケでも熱心で、息子のメールにもありましたが努力家です。
 3月29日
 和室の通りに面したところに飾ってあったお内裏さんを片付けました。わが家の前を通る人に見てもらって喜んでいたかしら。
[今月の本]
 堀田善衛『広場の孤独』新潮文庫、新潮社昭和59年(四十二刷)
積読していた一冊、かつて氏の『ゴヤ』という三冊にわたる長編を読んだことがあるのですが、小説は初めて。背景は昭和25年の朝鮮戦争の時代。語学に堪能で通信社に勤める主人公を日本人、アメリカ人中国人、国籍不明の男爵と呼ばれるオーストリア人などとの交流を描いていますが国外脱出を夢見る主人公が去就を決する土壇場で日本人として目覚め、「広場の孤独」と呟く結末。芥川受賞作品なのですが、芥川受賞作品はどれも難解で困ります。
 
 コロナウイルス感染者は日毎に増えますが、東京や大阪など大都市での増加が多くどこでも外出自が叫ばれています。WHOがパンデミックを宣言。ヨーロッパやアメリカでは相当数の死者が発生しています。オリンピック2020は来年に延期されました。この感染蔓延はいつ終息するのでしょう。みなさんもご用心。


今月のエッセイ(2020年3月)

2020-03-30 14:32:41 | エッセイ・身辺雑記
  「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」
シリーズ『名著復刻日本児童文学館』(ほるぷ出版 昭和四十六年)の一冊、宇野浩二『赤い部屋』、天祐社(大正十二年)より。
著者は日本の小説家(明治24年~昭和36年)。本書には十編が掲載されていますが「聞く地蔵と聞かぬ地蔵」を紹介します。人間の欲には怖いところがあるものです。およそこんなお話です。

百五十年ほど前のことです。ある日一人の年寄りのお坊さんがやってきて「私は国々に二体ずつの地蔵様も持って歩いているのじゃが東の山の上と西の野原に据えておいたから信心するがよい」「一つは聞く地蔵様、一つは聞かぬ地蔵様、聞かぬ地蔵様はお参りしやすいように野原に置いて、聞く地蔵様はお参りしにくい山に置くことにした」というとそのお坊さんの姿は見えなくなってしまいました。
誰だって聞かぬ地蔵様にはわざわざお参りするものはありません。だから十年、二十年、五十年とたつうちには野原の地蔵様の方の路はいつのまにかなくなってしまいました。それに反して山の地蔵様に方には道しるべの石や灯篭が隙間もないほど並んでいました。
山の地蔵様は名の通りまことに願をよく聞いて下さる地蔵様です。
「どうぞ病気がなおりますようにと頼んで家に帰ってみると病気がなおっていますし「どうぞお金が溜まりますように」と願をかけると一年もしないうちにきっと金持ちになりますし「どうぞ今度は男の子が生まれますように」と言って拝みますとその通り男の子が生まれるのです。
 山の地蔵様は頼みさえすればどんなことでも聞いてくれました。だから、十年、二十年とたつうちにはその村の人たちはみんな金持ちになって、みんなたっしゃでみんな仕合わせになりました。
 だが、人々はあまり丈夫で、あまり仕合わせ、それに皆々もう十分お金持ちであったものですから毎日汗水たらして働く必要がなくなりましたので、次第に退屈になってきました。
 人間というものはそれぞれ仕合わせ、金持ちになってしまうと、誰よりも仕合わせになりたいとか、誰よりも金持ちなりたいとか一段上を望むものです。そこで、村の人は誰もみんな山の地蔵様に出かけて「私が一番金持ちになりましように一番仕合わせになりますように」と願うようになりました。そして三十年も五十年もの日がたちました。
 そうなると、村の人々は次第に腹が立ってきました。みんな自分とおなじように、人々が金持ちになり、丈夫になるのが癪にさわってたまらなくなりました。権兵衛が御殿のような家を建てると徳松もすぐその真似をして王様のような家を建てました。というように誰も彼もみんな仕合わせで、誰一人病気になるものはなし、誰一人汗を流して働くものはなしそれぞれおなじように何不足なく暮らしていました。
 そこで、ある男は、ふと考えついてある日、山の地蔵様にお参りをして「どうか私の隣の家の人がみんな病気になりますように。また向かいの家が急に貧乏しますように。地蔵様、どうぞお願い申します」と祈りました。
 すると、聞く地蔵様のことですから、その男の願いを聞き届けたものとみえまして、忽ち隣の家では家中が病気になり、向いの家では急に貧乏になりはじめました。それが始まりで、同じようなことを願う男が方々に出来たものとみえて、村中のあっちでもこっちでも病人や貧乏人が出来始めました。そしてしまいにはそれが競争になってきました。
 そうなると、村はますます寂れる一方でした。その上、村の人々は互いに敵同志のような有様で、山の地蔵様の路はまるで戦場のように混雑しました。それが何を願いに行くのかというと、みんな人を困らせる為の願を掛けに行くのだからたまりません。
 そして、人々は一時に貧乏になってしまいました。誰も彼も病気をしたり、怪我をしていたり、一人として満足なものはなくなりました。だから、人々は病気の体や具合の悪くなった体をおして長い間止めていた畑を作ることや布を織ることやの仕事をしなくてはなりません。しかし、やっぱり暇さえあると、人を呪う願ばかりかけて、山の地蔵様に参ることだけは忘れませんでした。
そのままで、もう三十年もつづいたら、その村はすっかりほろびていたに違いありません。ところが、今から三四十年前のこと。ひょっこり例の年寄りのお坊さんがその村に現れました。
 「もうお前たちもいいかげん欲張ることを止めて、聞く地蔵様の方へは少し足を絶って、聞かぬ地蔵様の方に参ったらいいだろう」とその坊さんは言いました。
 「百年の間、お前たち内で誰一人野原の地蔵様に参るものがいなかったので、せっかく私がつけておいた路も何もなくなった。今、私が行って改めて路を開いておいてきてやった。聞く地蔵様の方は、めったに参っちゃいけないと思ったのでわざと路をつけずにおいたのに、お前たちはあんなに立派な路をつけてしまったが、今日からは山の地蔵様は止めて野原の地蔵様の方へ参るがいい。そして、あの山の地蔵様の路に草が生えて、あの道がすっかりなくなった時分にはまたむかし                のように、多分お前たちは仕合わせになれるだろうから・・・・・」。
そう言ったかと思うと、坊さんの姿はいつの間にか消えてしまいました。
村の人たちは初めて目が覚めたような気で野原の地蔵様の方へ行ってみると昨夜まで茫々と草の生えていた中に立派な路が聞かぬ地蔵様の方についていました。
しかし、聞かぬ地蔵様には何と祈りましょう。ただその地蔵様の前に行っては、ただ拝んで帰ってきました。そして、働かなければなりませんから朝から晩まで働きました。
そして、朝から晩の暇な時に、野原の地蔵様のところへ行っては、何にもお願いをしないで拝んで帰ってきました。そして、誰も恐いものですから山の地蔵様にはお参りしなくなりました。
だから、山の地蔵様への路はすっかり草が生えてしまってどこにむかしの路があるのか分からなくなってしましました。西の野原の地蔵様の前へは一本路がはっきり続いていました。そしてあの坊さんが言った通り村はまただんだん仕合わせな、平和な村になりました。
二〇二〇年三月