はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2014年8月)

2014-08-30 06:51:18 | エッセイ・身辺雑記
 毎年のことなので、異常とも思えるこの暑さとも言えませんが、何とも暑いこの夏です。皆さんの消夏法はどのようなものでしょうか。
8月6日
 夜中の1時過ぎに地震。後で調べたら京都南部で震度4、草津での震度は分かりませんが、納戸の棚が傾いていました。スティールの組立棚なので30年もするとネジが緩むのかもしれませんが、後どうしましょう。わが家初めての震災。
8月7日~8日
 先月亡くなったのに斎場やお坊さんの都合などで遅れていたカミさんの叔母のお通夜とお葬式に出席。
 7日、比較的空いている新幹線で東京へ。中央線は混んでいて、見えるのは前の人だけ。立川から青梅までは乗客もまばら。青梅市民斎場は駅からタクシーで10分ほどですが、市外の森の中。着いたのは6時から始まるお通夜の1時間前でしたが、お客さんは多く、昔からの顔なじみと話す暇もなく式は開始。列席者が多いのは人の面倒をよく見た叔母さんの人徳によるものでしょう。叔母さんの写真を見ていると、京都、山陰、金沢、紀州、伊勢、小豆島などに連れて行ってもらった時の思い出が次々と浮かんできて胸が熱くなります。夜は喪主のHさん(ご亭主は肺炎で入院中)と3人で斎場に宿泊。
 8日は10時からお葬式。前日と同様、たくさんの参列者。最後のお別れは近親者だけでなく大勢でお見送り。何時ものことながら辛く、悲しい瞬間で長い付き合いだったので瞼が熱くなります。初七日の儀式の後、斎場の前にある火葬場へ。人はいつか白い骨になって帰ってくるのだということを再確認。悲しい事実ですが致し方ないことです。この日は大田区に住んでいる息子も参列しましたが、喪服姿で焼香しているのをみると息子もおっちゃんになったものだと思ったものです。
 斎場に戻り、7日の座敷というのか全員で会食。中には叔母さんの住んでいた近所の人もいたようです。
 思っていたよりも早く終わり、車で来ていた息子に駅まで送ってもらう途中、東京駅まで行ってくれるということになり、八王子、府中、高井戸などを通り、都内に入り、神宮外苑、永田町などを経て、お堀端。この辺は60年ほど前に歩いたことがあるので懐かしさでいっぱいになります。そして東京駅。丸の内口で降ろしてもらいましたが、まだ八重洲口のなかった数十年前(今の人には信じられないでしょうが)を懐かしく思いましたが、修復なった東京駅の壮大な、そして美しさには感嘆しました。北口から入り、見上げるとホール天井の装飾はたとえようがない美しさ。外国にでも行ったような錯覚の中、しばらく見とれていました。新幹線はかなり混んでいましたが、並んで座れる席(B、C)で帰途に。着いた草津は雨でした。ご苦労様でした。
8月12日~15日
 よく寝ていて知りませんでしたが、東京の一行は12日未明、4時半ころ着いたようです。わが家はこの日から7人家族。遅い朝食後、私は歯科医院と買い物など。子どもたちはスマホやゲームなのでかつてのように遊んでやることもなく、いつものように絵を描いたりして過ごします。中学生はゲームのため、顔を見せるのは食事とおやつの時間だけ。ママと孫娘は買い物と昼食に行ってなかなか帰ってきませんが、母娘には大事な時間なのかもしれません。ABCマートで靴、スーパーではいろいろ買ってきたそうです。遊び相手に困っている4年生にPCを貸したところ、you tube
で長い間遊んでいましたが、これも時代か。午後遅くには中学生と4年生は自転車でしばらくサイクリング。夜は例年のリクエストにより手巻き寿司パーティー。
 13日は好天。みんなは近江八幡国民休暇村、宮の浜へ。でかい浮き輪を積んで出かけました。滋賀に来たかいがあるというものです。こちらはカミさんとショッピング。夜は焼き肉パーティー。近江牛の肉も。6年生の孫娘と4年生は動物の子どものように終始じゃれあって遊び、まことに賑やかですが、わが家の息子は一人っ子だったのでこれがなく、可哀そうだったなあとしきりに思います。
 14日は雨模様の日、どこへ行きたいかの家族会議?ですがなかなか決まりそうにありません。民主主義というのは時間のかかるものです。孫娘の希望で帰帆島へ向かったのですが、急な雨で第二候補のボウリング、その後雨が止んだので帰帆島公園に行ったとのこと。あまり賛成のなかったボウリングはそれぞれ好成績だったらしく。それぞれが自慢話に花を咲かせていました。
 15日。ママのお里、静岡へ行く途中で長島スパーランドに寄るというので5時起き、6時出発。集合写真を撮り、賑やかに帰途に。
 パパ、ママはじめそれぞれが夏休みを堪能したらしく、ホストのわれわれもほっとしましたが、カミさんは終始立ち働き、気の毒でしたがこれも楽みなのかもしれません。帰った後、靴でいっぱいだった玄関にはつっかけが1,2足、洗面に並んでいた歯ブラシも姿を消し、淋しくなりました。電話によると、心配していた長島スパーランドでは雨にも降られず、ジェットコースターはじめ大いにたのしんだようです。
8月12日
 大島造園がきてツゲとサツキの剪定をしてくれて見違えるようにきれいになりました。
8月14日
 タイのPさんから娘のFさんの結婚式にきてくれないかというメールが入りましたが、高齢で長旅には自信がないと断りました。19日にはタイから来てもらえないのは残念だが、お祝いの言葉を頂いて嬉しかった。ありがとうという返信がありました。
8月23日
 以前行っていた障害者支援センターから声がかかり、地蔵盆(納涼祭)に出す夜店の手伝いを頼まれていたので4時ごろ行くと、若いボランティアたちが焼きそばやフランクフルトソーセージの店を始めていました。私やカミさんはあまり混雑しそうにない草津の名物(伝統のある)、穴村の団子、ラムネやジュースビールの売り場を担当。
 この日は日中からにわか雨の降る日でしたが、例年または例年以上の混雑。焼き鳥屋から流れてくるもうもうとした煙。子どもも女性たちや家族連れと満員電車並みの人の列とその熱気。何かと忙しく立ち働きましたが。9時過ぎに終了。
 帰り道では虫たちの声を聞きました。賑やかな高校野球もおわります。こうして今年の夏も過ぎて行くのです。

 今年は各地で豪雨による水害、ことに広島の惨状は目を覆いたくなります。お住まいのところでは如何だったでしょう。これから先も真夏日や猛暑日の日もあることでしょうが、どうぞお元気で。では、また。

今月の本(2014年8月)

2014-08-29 08:48:27 | エッセイ・身辺雑記
 日本の名随筆1『花』宇野千代編、作品社1983年
 日本の著名な作家、エッセイスト、評論家など36人が「花」について書いた随筆の集大成。筆をとったのは幸田露伴や泉 鏡花などをはじめ現代も活躍中の人までとまことに幅広く、その文体も幸田露伴の「花のいろいろ」の「なでしこは野のもの勝れたり、草多くしげれる中に・・・」のような文語体や大門庫之丞の「大門流-覚書」の「私がさつきの道に入る切掛けになったのは、もう、かなり以前のことですよ。」のような砕けた表現まで様々。男性諸氏の硬い感じの語感で表した花への賛辞も悪くはありませんが、やはりご婦人の花への思いのこもったどちらかというと、感傷的な言い方のほうが花についての文章には相応しいのかなという感じを持ったものありました。
 登場する花が随筆の数だけあるのは当然で、花との接し方も同じで、どの花が多かったかなかったなどについてはとても覚えてはいませんが、野の花や自然の中で咲く花が好きな人もいれば華やかな洋花に思いを寄せる人に二分できるかもしれません。花との関わりも文章の数だけあるのは当然で、その栽培に情熱を注ぐ人、身の回りに咲く花を詳しく取り上げたもの、旅先で接した花、忘れられない思い出の花と挙げればきりがありません。
 尾籠な例えですが、大阪ではどんなに頑張っても追いつかない様を「八角のくそこいても追いつかん」など言いますがどの随筆は「日本の名随筆」に取り上げられているだけに、いくら真似しようとしてもできない格調の高さには頭が上がりません。できることではありませんが、どの文章もここに引用したくなります。
 数えきれいなほどの名随筆の中から一つを挙げよと言われても、たいへん困惑しますが、どうしてもと言われれば、以前から愛敬の念を抱いて読んでいる増田れい子氏の随筆の一つ「大和の牡丹 ほか三編」から引用してみようと思います。
 「大和の牡丹」は牡丹を訪ねて長谷寺に行ったという紀行文ですが、「この寺は、ひとの気持を浮きたたせる何かを持っている。さわやかな緑、廻廊のかたわらを流れる岩清水、華麗な牡丹、生きていてよかったと思わせるふんいき」「牡丹のころは長谷寺が全身でもえ上がる時期、花に合わせて人々の心もわき立つのである」と続き、「その日からずっと、私のなかで大輪の牡丹が咲き続けている。しっかりと咲いて、生きてあることのよろこびをうたってくれる」と終わります。何と素晴らしいエッセイではありませんか。
 「京のききょう寺」は「むらさき色のさかずき型をしたききょうの花むらは、夢のなかでまで開いた。白い風に吹かれて咲くききょうを、あきるほど見たいと思い続けた。」という著者の思いを果たせなかったという文は「いつかはその花ざかりにめぐりあって、ひとときをやすらぎたいと思う。ききょう色の服など身にまとって・・・・。」と結ばれているのです。何と女性らしい感性に溢れた文章なのでしょう。
 「野菊のまち」は初冬の軽井沢を訪れたときのエピソード。それは「さっき買ったかごに、野菊をつんだ。野菊はかすかにふるえてかごの中におさまった。何か、いけないことをしてしまったようで、私は思わず足をはやめてそこを立ち去った。風景のなかで、人は必ずしもやさしくなれない。むしろ残酷なあやまちをし出かすようである。」と終わります。もう何も言いません。このような文章に感想などはいらないと思うからです。

お化け

2014-08-28 06:46:35 | エッセイ・身辺雑記
         お化け
 小学校時代に住んでいた滋賀県北部の町でしょっちゅう登場する話題はお化けでした。宴会の後、自転車で帰ると、いつの間にか狸が乗っていて、お土産が取られていたとか、酔っての帰り道、途中で寄ったお屋敷の風呂に入っていていい気持ちでいるうちに目が覚め、気がついたら田んぼで寝ていたなどなど。それが誰それだったという尾ひれまでついた笑い話にはこと欠きませんでした。
 子どもの世界でも夏休みの年中行事の一つが肝試し。町はずれ、丘の麓にあるお墓まで行くのですが、低学年から六年生までの小学生が墓地の近くに集まり、一人ずつお墓まで行って帰ってくるのです。途中には高学年の子がやってくる小さい子を待ち受けていて脅かします。当時、亡くなった人の大半は火葬でしたが、土葬の家もあり、墓地では、いつも青白い人魂(ひとだま)がふわふわと流れているという土地ですから怖がり屋の私は世話役に取り入って、脅かし役ですませました。その夜は泣きながら帰ってくる子もいれば仲間と笑いながら帰ってくるのもいましたが無事終了。私も何となくほっとして帰ったものです。
 戦争中に大いに流行っていたのが「こっくりさん」。これは占いの一種で、割りばしを何本か縛って文字盤の上に立て、「こっくりさん、こっくりさん、お願いします」と唱えると立てた割りばしがそろり、そろりと歩きだし、止まったところで指している字を読んで答を読むのだそうです。「こっくりさん」は狐の精だともいいますが、明るい所が嫌いなので、暗いところでやらないと駄目、願いを込めないと動いてくれないとも言いました。この占いはとてもよく当たるという話が伝わってくる一方、全く当たらないという噂もながれていましたが、戦地に行っている人が無事に帰ってくるかどうかを占っていたのはやはり戦中のことです。
 「お化け屋敷」が各地に現れるようになったのは戦後かなりたってからだったと思います。最初は遊園地のアトラクションとして始まったようですが、あちこちに広がり、今では京都の嵐電(嵐山電鉄)では電車がお化け屋敷になっていて繁盛しているとのこと。
 私もどこだったか、一つ年上の従姉とお化け屋敷に入ったことがありますが、怖くて進めず、次々入ってくる人をかきわけて入り口に戻り、出口で待っていると、出てきた従姉は「あんなもの、どこが怖いのよ」と笑います。けれど私はダメです。あんな不気味なものは二度とお断り。以後、行ったこともありませんし、行きたいとも思いません。
 最近、テレビのニュースで見たのは中国のお化け屋敷。いつものようにコピーで金儲けをする中国が今回は富士急ハイランドのお化け屋敷をそっくり真似たのを作ったところ大評判となり、ずいぶん儲かっているということ。富士急は訴訟を起こしたとのことですが尤もな話です。
 日本では手製のお化け屋敷で活躍するボランティア諸氏の苦労と楽しみが毎年のようにテレビに登場しますが、全国各地で上がる絶叫や笑い声。これも暑い夏を乗り越える知恵なのかもしれません。
                                                    2014年8月