はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2012年5月)

2012-05-30 06:38:34 | エッセイ・身辺雑記
 若葉、青葉、一年のうちいちばん気候の良い、爽やかな季節のはずですが、今年は各地で雹が降ったり、猛烈な竜巻で家が壊れたり、死者がでるなどとんでもない五月になりました。お元気のことと思います。

5月3日
この日は草津ではあちこちで神社の例祭の日。わが家の二階から見ると、Iさんの家の前はお旅所になっていて、大きな神輿と大勢の男たちがたむろしてまことに賑やか。やがて子ども神輿が出発し、元気な声が聞こえてきました。この日は買い物があってあちこちに行きましたが、上笠という地区でも下笠でも子ども神輿のワッショイワッショイを聞きましたのに自分の地区での子ども神輿を見逃してしまいました。ああ残念。
5月5日
5月1日は3月に急死した弟の49日ですが、その弟の嫁さんが骨折のため入院中だったりそれぞれに用があったりして、この5日に関西在住の人間だけで法要を行いました。その後、料理教室を主宰している弟の料理をご馳走になりました。この日はまさに五月晴れの日で、3階の部屋から見える裏山の春景色や琵琶湖の水面の景観は抜群でした。食後、裏山に行き、山独活を採りに行ったり近くの公園にギンリョウソウを見に行ったりと楽しい一日、亡くなった弟には申し訳ないような日になりました。
5月9日
 公民館のサークル「自分史を作ろう会」は今年の5月で10周年を迎えることになるので始まった時のことなど賑やかな例会。幹事さんから記念行事についての提案もあり、記念の文集を作ろうなどという話もありましたが、ゆっくり考えようということになりました。この日は珍しく全員参加、この10年間、マネージャーをしてくれていた病気療養中のYさんに寄せ書きをしました。
5月12日
 障害者支援センターはO先生の絵画教室の日。今回は5月の連休の出来事を画用紙に描こうというのが課題。皆さん思ったより静かな連休だったようで、あまり盛り上がりませんでしたが、O先生はみんなの作品を集めて紙芝居にしました。初めてではないにしろその才能には驚くばかりです。
5月14日
 市の外郭団体草津市コミュニティ事業団の「街道を歩こう」というツアーに参加しました。今回は久しぶりに山間部を歩きました。最初に行った神社の「山の神」は木の枝の一部を削り、そこに顔を描いた男と女の二本が木の根元に立てかけるように置いてあるもので、お祭りの日にはお米や塩、お酒を供えるのだそうです。じっと見ていると少し不気味な感じもありますが、よくもこのような土俗的なものが残っているのに感心しました。その後に行った二つの神社には立派な森があり、思う存分に森林浴をしました。
5月16日
 5月15日は京都の三大祭の一つ、葵祭の日ですが、雨降りとなり翌16日に順延。当日は絶好の好天、私達は知人からもらった招待席(観客席は1万人分だそうです)の最前列で御所の建礼門から次々に出てくる平安朝の宮廷人の装束をまとった人々の行列に目を奪われました。その一人一人に役職があり、女官や子どももいましたが、きれいな衣装を着た小さい女の子が可愛く、馬に乗った女の人の姿には凛々しいものがありました。秋の時代祭も見たくなりました。
5月21日
 前評判の高い金環日食の日です。6時前に空を見上げると晴れているではりませんか。7時ごろ、お向かいのTさんが庭でいっしょに日食を見ませんかというので行くと、愛鳥家のTさんが愛用の望遠鏡につけた投影装置に三分の一くらい欠けたお日様が写っています。やがてリング状になった太陽を見ることができました。薄い雲が通り過ぎることもありましたが、932年ぶりという天文ショーに酔いしれました。ラッキーな金環日食の日でした。
5月23日
 京都府向日市でのHさんのお葬式に参列してきました。Hさんは私がF薬品に入社した時からの付き合いでした。学校も2年先輩、温厚な人で、いっしょに旅行したり、山登りをしたこともありました。その後、異動、転勤、転職などがあり、あまり会うことがありませんでしたが、数年前に友人の葬儀の時に会ったのが最後でした。寂しく、辛い一日でした。
5月26日
 障害者支援センターは年に一度の「料理教室」の日、といっても大方の下ごしらえはマネージャーのTさんが家で準備してくれるのですが。この日のメニューはクリームシチューとホットドッグ。作業所で調理の仕事をしているというNさんが立ちっぱなしで手伝ったほか、カミさんもWさんを助手に大忙し。この日、施設に来た人は多く、だれでも食べるのは楽しく大賑わいになりました。
5月27日
 栗東芸術文化会館「さきら」で開催されていた「つじひろあき 巨木水彩画展―巨木と祈り」を見に行ってきました、というより近くのTさんの車で連れて行ってもらいました。この人は滋賀県にたくさんある巨木を見て歩こうという会を作り、見て歩いているうちにその巨木を水彩で描くようになったのだそうですが、どれも大きな作品で、額も自作という労作ばかりです。どの絵からも、このような木の放つオーラを感じました。

 初夏を感じる季節になり、暑い日がやってきました。今年の夏は電力事情が悪くて節電、節電になりそうですが、お互い元気に乗り越えましょう。

今月の本(2012年5月)

2012-05-29 06:48:40 | エッセイ・身辺雑記
田中 修『ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事』中公新書1706、中央公論社2009年(8版)
 しょっちゅう花の絵を描いているのに、さてとなると植物のことを知らないのではと思って買ってきた本ですが、どの章を開いても「へーそうなんだ」と驚きの連続でした。
葉っぱが緑色に見えるのは青色光や赤色光は葉っぱに吸収されてしまいますが、緑色光は通り抜けるので緑色に見えるのだそうです。葉っぱが緑色に見える理由が分かって納得です。
 種子が発芽する場所をどのように選ぶかですが、同種や異種の葉がたくさん茂っている場所では太陽の光は葉を通過する際、光合成に有用な青色光や赤色光は葉っぱに吸収されますが、遠赤色光は吸収されないので上で茂っている葉を通過します。ですから、葉がよく茂っている場所では遠赤色光を多く含まれる光が種子に当たり、種子は多くの葉っぱの下にいることを知り、発芽しても光合成に必要な光が自分には当たらないことを悟るのです。
 種子はどのようにして発芽した後に水があるのを知るのでしょうか。乾燥したところにある種子には種皮に発芽を抑制する物質を含んでいるのがあります。この物質は水に溶けるので、多量の雨が降って種子が水につかれば、阻害物質は水に溶けて流れ去り、この種子は発芽します。
 種皮が硬かったり厚かったりして空気や水が透過しない種子がありますが、このような種子は微生物によって分解されると種皮は柔らかくなり発芽します。そんな微生物がいるということはまわりに水分が十分にあり、肥沃な土地であることを意味します。つまり、発芽後の生育にも都合がいいことが分かるのです。
 植物の不思議な仕組にはいろいろあって面白いのですが、なぜ、春と秋に花を咲かせる植物が多いかもその一つです。暑さに弱い植物は種子になって夏を過ごし、寒さに弱い植物は種子になって冬を過ごします。しかし、種子を作るのには時間がかかるので春と秋に花を咲かせる植物が多いのです。ということは、植物は夏の暑さ、冬の寒さの訪れを前もって知らねばなりません。それは葉っぱの役目。葉っぱは夜の長さをはかり、夜が長くなってくると「寒さが近づいている」、夜が短くなってくると「暑さが近づいている」という合図を芽に送るのです。この合図は芽につぼみを作らせ、つぼみは花を咲かせ、寒くなるまでに種子を作る、あるいは暑くなるまでに種子を作ります。このように葉っぱが夜の長さをはかってくれるので気温が低下する前や上がる前に種子を1,2ヶ月かけて種子を作る余裕が生まれます。
 最後にもう一つ、花が咲き、葉っぱが出る順序の話。秋に長い夜を感じた葉っぱから芽にアプシシン酸という物質が送られてくると葉っぱには越冬芽ができます、つぼみも越冬芽になります。つぼみを包み込んだ越冬芽は葉を包み込んだ越冬芽よりもより低い温度で先に成長すれば、葉が出る前に花が咲き(ウメ、モモ、ソメイヨシノ、モクレンなど)、葉を包み込んだ越冬芽がつぼみの越冬芽よりも低い温度で先に生長すれば花が咲く前に葉が出ます(ヤマザクラ、アジサイなど)。
 以上のようにスポットで内容を紹介しましたが、植物にもこんなに巧みな仕掛けがあるのには驚きでした。

蒲松齢作 立間祥介『聊斎志異(りょうさいしい)(上)』岩波文庫、岩波書店1997年
 内容を私がいろいろ書くよりも表紙の文章をそのまま引用するのがいちばんと思いますのでここに写します。「全編ことごとく神仙、狐、鬼、化け物、不思議な人間に関する話。中国・清初の作家蒲松齢(1640-1715)が民間伝承から取材、豊かな想像力と古典籍の教養を駆使した巧みな構成で、怪異の世界と人間の世界を交錯させながら写実的な小説にまさる「人間性」を見事に表現した中国怪異小説の傑作」と実にうまく纏めてあるので付け加えるものがありませんが、私なりの感想も加えてみましょう。
 私が若い頃というのは20歳代だったかと思いますが、『聊斎志異』を読んだことがあり、その時には何だかつまらない本だと途中で読むのを止めた記憶があります。最近、浅井了意の書いた『江戸怪談集』が題材を中国の怪異小説にとったというのを読んで、本書を取り上げたのですが、若い時とは違い、なかなか面白いじゃないかというのが読後感。日本の怪談集と違うのは、どれにもと言っていいほど「狐」が登場してくることです。昨夜読んでいた「二人妻―蓮香」というのには家からあまり出ず、ひっそり暮らすのが好きな男の下宿に若い女がやってきて、いつの間にかいっしょに住むようになりましたが、その内、もう一人の美人も来るようになります。最後まで読み進むと、一人は幽鬼、もう一人は狐なのですで、なぜか衰弱した男は狐女に救われますが、最後の部分には親戚がかかわってきたりして複雑怪奇、十分理解できないところもありましたが、32ページにわたる長編とけっこう読み応えがありました。
 面白いと思うのは本書の諸編の冒頭には必ず主人公の名前と出身地、生員(官庁の役人のことだと思います)であるかないかなどの身分が記していることです。また、科挙というらしいのですが、官吏への登用試験のことも頻りにでてきます。試験は本人の書いた文章の出来・不出来によって合否が決まるようで、合格するのは並大抵のことではなかったようです。勉学している若者のところにあの世の人がやってきて教えるなどという話もありました。
 いずれにしても、話は昔の中国のもの、面白さにも隔靴掻痒の感があるのは否めません。日本の怪談が読みたくなりました。


小さなカレンダー

2012-05-28 08:19:14 | エッセイ・身辺雑記
 藤沢薬品(現アステラス製薬)に勤めていた時、親しくなった本社広報室の人に勧められて社内報にエッセイを連載するようになりましたが、カットも描けというので毎月苦労したものです。後年、友人からポストカードをもらい、色鉛筆や水彩絵具で身の回りの細々したもの、花などを描くようになりましたが、カットを描くのがならわしになっていたせいか小さい絵ばかり描いていました。
 いつだか、大学生になっていた息子が帰省した時、その小さい絵を眺めながら「これ、カレンダーになりそう」、「下宿の部屋にはカレンダーがない」と言うので早速作って送りました。これが20年にわたるカレンダー作りを始めたきっかけになりました。「小さなカレンダー」の第1号は、その年の干支、酉年に因んで鶏の郷土玩具の絵になりました。
 この四月に開催した私の作品展で並べた「小さなカレンダー」は1993年1月のカレンダーから今年の6月までの234点、これを見渡したのは私も初めてで、われながらよくも残しておいたものだと思い、年月の過ぎていくのが早いのには感慨深いものがありました。
 来場した人には作品の説明のためいっしょに回りましたが、初期のものはおばあちゃんと息子にしか送っていませんでしたので、サクラの花びら一枚一枚やたいやきを包んでいた新聞紙の活字まで描いていましたが、視力も根気も衰えた今にはとてもできず、近頃は貼り絵やパソコンの助けを借りた絵が増えています。
 会場をいっしょに回っていると、「このアイディアはどのように思いつくのですか」という質問がよく出ますが、いちばん困る質問なのです。何かの時にパッと閃き、すぐ作り始めるというのなら何の苦労もないのですが、およそ2ヶ月前から悩み始めます。早くに目が覚めてしまった時、風呂に入っている時、たまにはトイレにいる時に浮かぶことさえあります。もちろんカミさんと何にしようと相談を持ちかけることもありますが、カミさんがとても作れそうにないアイディアを出してきた時に面白い絵になることもあります。
 見ている人の中には、貝殻、竹の皮などのような材料を使っているのに気がついてくれる人もいますが、材料からアイディアを思いつくこともあれば、アイディアが決まれば、それに合う材料を探しに行きますが、それも楽しいものです。フェルト、包装紙やルアーなどは百円ショップやホームセンターで買ったもの。このような店には買うものがなくても見に行くというお得意さんです。材料といえばカミさんが買ってきた千代紙や友禅紙、模様がきれいだと残しておいてくれた包装紙などが思わぬ時に役立ったりしますが、私にとっては宝物です。
イメージがまとまり、材料も揃えば試作です。カレンダー作りをしていていちばん嬉しいのは試作品が出来た時です。「どうだ良いだろう」とカミさんに見せます。そこから先はいわば作業ですが、今日は何点できたとか、後は七曜表を貼るだけになったなどと進捗していくのも楽しみで苦にはなりません。作業の大半は夜にテレビを見ながらになるということは、いかにつまらない番組が多いということなのかもしれません。
「ちいさなカレンダー」のほかにカミさんがボランティアをしている作業所用には八つ切り(38×27センチ)の画用紙を使ったカレンダーを作ります。絵柄はポストカードサイズのものと同じなのが多いのですが、大きくなると少し立派に見えます。しかし、小さいのを大きくすれば終わりというものではなく、小さいのと異なった絵柄のものを作らなくてはならない時もあり、また一苦労です。
                                 2012年5月