はるかな日、きのう今日

毎月書いているエッセイ、身辺雑記を掲載

今月の便り(2011年4月)

2011-04-29 08:33:53 | エッセイ・身辺雑記
 福島の原子力発電所の問題はますます重大なものになってきました。地震に津波、さらに撒き散らされる放射性物質の恐怖。被災者の思いを考えれば気が晴れませんが、時期になり、桜が咲いて満開になり、やがて散っていきました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

4月13日
 公民館のサークル、「自分史を作ろう会」の例会。東日本大震災関連のエッセイが2編出ていました。1編は大震災そのものをテーマにしたもので、もう1編は仙台在住の友人の安否をたずねるというエッセイでした。どちらもなかか良い作品でした。私は放射性同位元素取扱主任者という資格をもっていたので放射性物質の扱い方や施設の管理をした時の苦労話をエッセイにしました。その後、近頃、テレビや新聞を賑わせている放射線の単位や外部被爆や内部被曝についての解説をしましたが、皆さんどれだけ理解してもらえたかが心配です。
4月13日
 サークルの例会の後、会員のNさんの案内で近くの川のほとりで花見をしました。川といっても大きな川ではなく、サクラもNさんの地区の人が植えた木で、樹齢も10年ほどということでしたが、見事に満開で少し散り始めていました。幹事さんなどが近くのスーパーで買ってきてくれたお弁当やビールで楽しい花見の宴。この会が始まった時のことやエッセイを書く苦労などから始まって様々な四方山話。その時にも出ていた話ですが、このような仲間がいることは幸せです。
4月14日
 大津市、比叡山の麓にある日吉大社の山王祭を見に行きました。京阪電車の終点の坂本、蕎麦で有名なお店で昼食をとっていると、威勢のよい太鼓の音が聞こえます。それは一列に並んだ小学生たちの演奏でした。露店が並ぶ参道には大勢の人。びわ湖も望めるこの道の両脇に桜、しだれ桜、山桜が満開。豪華な花見になったわねとカミさんと大喜び。やがて褌に白装束の男たちが横一列になりジグザグ行進。手にした竹筒から酒を飲んでいるからか威勢のよいこと。このような組が何組も通ります。そしてかなりの時が過ぎると、甲冑姿の長老に導かれて先ほどの何十人もの若者に担がれたお神輿が上の神社から下りてきます。そのお神輿は7基、これほど豪勢なお神輿は見たことはありません。お神輿はびわ湖の湖上の神事に参加するのだそうです。湖国を代表するお祭だといいます。
4月17日
 私たちの町内会では年一回、溝掃除の日があります。私の家の横には三面張りの比較的大きい側溝があり、けっこう大仕事になります。今年は組の若い人がきてくれましたが、数人は溝に入り、藻や泥をすくい上げ、女性や私のような年寄りはそれを所定の場所に運ぶのですが、私はその日以来、腰の痛みに悩んでいます。困ったことです。
4月22日
 町内会の旅行に参加し、陶器で有名な滋賀県・信楽の「畑の桜」を見に行ってきました。樹齢400年という一本桜は枝垂れ桜で見上げるように高い木です。少し灰色がかった花のこの桜には優雅な気品が漂い、平家の落人が植え、何百年にもわたって見守ってきた人々の思いが伝わってくるようでした。帰途についた頃から雨が降り出すという天気でしたが、ゆっくり花見ができたのはラッキーでした。また、不便な所なので個人ではなかなか行けずに残念に思っていましたが、町内会のバス旅行で名長年の願いが叶いました。
4月24日
 びわこJAZZフェスティバル2011 in 東近江に行ってきました。ジャズのライブとは何年ぶりのことでしょう。出演バンド150組以上、ステージは25ヶ所以上といいますが、私たちはゲストプレイヤーの出演するショッピングモールのホールと八日市文化芸術会館での演奏を聴きました。炸裂するブラスの響き、轟くドラムス、その間を縫うようなピアノのきらめく音、やっぱりジャズは良いですね。音の流れに身を任せ、陶酔している私がそこにいるのです。どれも素晴らしい演奏でしたが、特に印象に残ったのは白井淳夫トリオと中本マリwith大石学トリオです。白井淳夫のアルトサックスが奏でるスタンダードは抜群でしたし、中本マリのボーカルの情感溢れる演奏にもうっとりしました。80歳にもなったジャズフアンにはやはり昔のスタンダードが良いのかも。
 
 悲しい、辛いことばかりの毎日ですが、こうして西日本では何事もなかったように日々が過ぎていきます。これからは爽やかな季節どうぞお元気で。


今月の本(2011年4月)

2011-04-28 08:34:58 | エッセイ・身辺雑記
山田 肇編『鏑木清方随筆集』岩波文庫 緑116-1、岩波書店1987年
 書棚で「積ん読」になっていた本の一冊。著者は明治11年、東京・神田で生まれ、昭和19年まで東京に住んでいた人ですから東京の風物についての随筆が多いのは当然ですが、かつての東京は何と豊かな自然と大らかな雰囲気に満ちた街だったことかと思います。さらに幼児の思い出に筆が及べば、そこは明治の東京、まるで江戸時代の下町かと思うばかりです。氏はよほど暑いのが苦手らしく、いろいろ書いていますが、夏には糊がきいた藍染の浴衣を1日何回も着替えるなどと昔の日本では何とも贅沢なことができたものだと感心します。
昭和11年の「町の観賞」では「東京が今のように馬鹿々々しく膨張(ぼうちょう)しなかった時代時分には」と書いていますが、「銀座風景だけを取り上げても、こんな面白い時代はそうざらにあるものではなさそうだ」と言い、「気もちのいい住宅地を通る」喜びを述べていますが、現在の東京を見たらどう言うでしょう。
 著者は言うまでもなく、日本画、ことに美人風俗画の大家ですが、絵筆よりも文筆を以って立ちたかったというほどで著書に『こしかたの記』正・続2巻(中公文庫)のほかに『鏑木清方文集』全8巻(白凰社)があるほどです。その随筆は四季の風物を描いて余すところがありません。
その中から「きいろい花」(昭和9年)を引用してみます。「菜の花畑にはいってみると、曇の日にも花の明かりであたりが明るくなって、むせかえるような強いにおいに包まれる。その匂いは(中略)妙齢(としごろ)の田舎娘を思わせるような成育のにおいがする。」蒲公英の花の咲いた後には「雪の花をまるくかがったような、冠毛の球が出来る、徒(いたず)らごころにふっと吹いて見ると、種子を宿した朧(おぼろ)の鞠(まり)はあとかたもなく陽炎(かげろう)のなかへ飛び散って、ぽつぽつと穴のあいたうてなしか残らない。
 菜種(なたね)の花が田舎娘なら、蒲公英の花は村のいたずら小僧のようである」。
著者には失礼かと思いますが、私にとってはこの上ない枕頭の書でした。

新津きよみ『巻きぞえ』光文社文庫 に14-12、光文社2011年
 ある新聞の書評欄に「日常生活のなかに不意に起こる怖い出来事。いわゆる「デイリー・サスペンス」の名手による短編集」とあったのを見て買ってきた本。
本書の帯には「すべては死体から始まった-」とありましたが、私が面白いと思ったのは何編かの主題にもなっている復讐でした。例えば「おばあちゃん」のお葬式の際、故人と共に二人がひそかにあの世に送ったのは? 愛するペットをひき逃げされた女性が最後にとった行動は?
7編をそれぞれ面白く読みましたが、前評判ほどはという感もあり、図書館で借りて読んでもよかったかなと思いました。図書館といえば、私の住む市の図書館の蔵書をこの人の名前で検索したら、59冊の蔵書がありました。私は知りませんでしたが、広く読まれている作家のようです。

放射性物質

2011-04-27 07:50:58 | エッセイ・身辺雑記
 東北関東大震災が発生して3週間。大津波と地震の被害には言葉がありませんが、加えて大規模な原子力災害です。テレビや新聞には放射性ヨードやセシウムなどの元素の名前やベクレルやシーベルトなどという放射線の単位がしきりに登場しています。
大阪の製薬会社の研究所にいた時、私は放射線取扱主任者という資格を取得していたので、放射性物質(放射性同位元素、アイソトープ)を取り扱う施設の管理をしたことがあります。今回は、このような施設で放射性物質がどのように使われているかを管理責任者の苦労話を交えて紹介してみました。
 製薬会社の研究所ですから薬がどこへ行くのか、どんな形に変わるのか、どこから、どのように排泄されるのかなどを調べるため、薬の一部を放射線を出す元素(多くは炭素や水素)に組み替えた薬を合成して動物に注射したり飲ませたりする実験が行われる施設(アイソトープラボ)があります。
 アイソトープラボは室内の空気が外に漏れないように少し陰圧になっていて、排気はフィルターを通して外に出されます。入る時には入り口で黄衣に着替え、放射線による被曝(放射線に晒される度合い)を調べるバッジを着けます。また、この施設で実験をする人には定期的に健康診断が行われます。入ると専用のスリッパを履き、実験をする時にはゴム手袋をはめます。黄衣はこのまま施設から出ると目立つからというところから着ることになっているのです。スリッパや手袋はじめ実験に使った時に出るすべてのゴミ、排気に使ったフィルター、動物の血液、尿、糞や屍体も所定の手順で区分し保管します。このように実験中に発生した廃棄物は日本アイソトープ協会に引き取ってもらうのですが、実験する人たちの間にはこのような基準を守れない人がいるのが管理者の私には頭痛の種でした。
 廊下や机などは定期的に決められた面積をふき取り、放射線を計測して汚染がないかどうかを調べます。大量の放射性物質を扱う実験をしても回りを汚さない人とそれが少量でも汚す人がいて、スリッパで歩いた後が分かるようなこともありました。このような違いは訓練などというものではなく、その人の持って生まれたセンスではないかと思ったこともありました。
 水は貯水槽に溜めてサンプリングし、放射線量を測定して法の基準以下ならそのまま、基準を越えれば薄めて流します。ある夜、午前3時ごろにかかってきた電話に出ると、会社の守衛からです。やっとタクシーを拾って駆けつけると、貯水槽のベルがなっています。ベルが鳴るのは水位が異常に高くなった時ですが、黄衣を洗濯した時に使った洗剤の泡による誤作動だったようです。
 施設を出る際にはモニターで手やスリッパ、衣服が放射性物質で汚れていないかどうかをチェックします。放射線はガイガーカウンターという計器を使います。その時、スイッチをそのままにしておくと、数秒に1回、ポツン、ポツンと鳴りますが、これは宇宙からやってくる宇宙線の音です。
 アイソトープラボでは実験以外の雑用が多いので苦情も多く、管理者はその対応に苦労は絶えません。後年、廃棄物を減らすようにとの行政指導があり、研究者では対応できなくなり、業者に委託するようになりました。
以上が放射性物質の普通の使い方です。このように、いくら放射性が弱く、使用量が微々たるものでも放射性物質を使う人はもちろん、周囲に漏れ出さないように細心の注意を払い、放射性物質などには関係のない人の安全を守っているのを分かって頂けると思います。放射性が極めて強く、使用量も膨大な核燃料を使う原子力発電所でも同じはずですが、東京電力の言う「想定外の事態」のため、このような原則から大きく逸脱し、周りの住民までも悲惨な状況に追い込んだのが今回の原子力災害なのです。
 私たちの体内には放射能をもったカリウムがあるほか自然界には放射能をもった物質や宇宙からくる放射線などによる被曝は仕方がありませんが、事故を起こした原発から放出された放射性物質による汚染が心配です。中でも水や食べ物から体内に取り込まれた放射性物質による被曝が心配です。私のような年寄りは心配しなくてもよいそうですが、乳児、幼児など小さい子ほど影響が大きいそうですから尚更です。地震や津波で災害を受けた人の復興はもちろんですが、原子力災害が収束し、安心して暮らせる日くるのが1日も早いことを願って止みません。

 テレビを見ても、新聞を読んでも、増えていく死亡者数と行方不明者数、それに大勢の避難者数です。日がたって具体的な様子が分かるほど悲しい現実が明らかになってきて涙をこらえるのが精一杯の日々です。幸い、親戚のもの、友人、知人に事故はありませんでしたが、倒れた家具の後始末に追われる人もいました。未だに生死すら分からない家族のいる人、家も何もかもを流された家族、見通しのつかない放射性物質の拡散。明るい光が注ぐ日の1日も早い到来を祈るばかりです。どうぞお元気で。では、また。
2011年4月1日