ともかく旅の目的が「ブログのネタを取材すること」になっていることにまったく気付かぬまま、私は旅を続けることになった。
「一回きりになるだろう」
と思っていたミャンマーの旅は本人の予想を裏切って初めての訪問から1年半後、再び訪れることになった。
その時の表向きの目的は、
「ミャンマーで列車の旅をすること」
と、
「世界三大仏教遺跡の一つバガンを訪れること」
であった。
しかし、私の深層心理には「ブログのネタ取材」が潜んでいたことは間違いない。
そしてその旅は私の期待を裏切らなかった。
2度目のミャンマー旅行は想像を絶する壮大な個人旅行に発展し、わずか一週間の滞在の間に発生した数限りない驚き(トラブル)の連続は、旅行記「ミャンマー大冒険」シリーズとなって、1年2ヶ月間にもわたって断続的にこのブログで連載することになった。
その回数は100回を超えた。
400字詰め原稿用紙にすると800枚以上となり、たとえば書籍化するとすれば前編後編と2冊に分けなければならないようなボリュームへと膨らんだ。
その連載の間、私は2回ミャンマー旅行を決行し、次第に目的はエスカレートし、
「日本人はおろか、あまり外国人の訪れないところへ行ってみる」
という具合に発展した。
事実、3回目の旅行先はミャウーというミャンマーでもバングラディッシュと国境を接するチン州の田舎街を訪問した。
飛行機と船を乗り継いでたどり着いたこの街への旅行記については、現在連載中(一カ月ほど止まっているが)の「ミャンマー大冒険 Part 2」で明らかにするつもりだが、季節のせいもあったのか、街にいた外国人は数名の国連職員と私だけという、まさに秘境だったのだ。
そして4回目のミャンマー旅行は、ガイドブックには載っていないが、実際に訪れるとあまりの大きな規模に驚いてしまうシャン州タウンジー市の気球祭りを「取材」しに行ったのであった。
一方、ブログを書くことをまったく意識せず、潜在意識の中に存在する「ブログ取材」とはまったく別の目的で訪問することになったのが、この1月に訪問した台湾であった。
折しも、台湾前総統の李登輝先生が昨日から「ビザなし渡航」で来日されているが、私が尊敬するその「李登輝先生の国を見たい」という目的で訪問したのが台湾なのであった。
ベトナムも行った。
ミャンマーも行った。
本当に行ってみたいのは、あとニューヨークとドイツのミュンへン・オクトーバーフェスタと台湾だけ。
ニューヨークとドイツは遠方なので、なかなか行くことはできないにしろ、台湾は日本に最も近い国。
行こうと思えばいつでも行けた。
しかし、なかなか足を向けなかったのは距離の割に航空運賃が高いからだった。
関空から台北の航空運賃は関空からバンコクとほぼ同じ料金なのだ。
「台湾へ行きたいな~」
という気持ちが募ってきたところ、貯まっていた全日空マイレージのいくばくかが昨年末に期限を迎えることになった。
かなり貯まっていたので、「これで台湾へ行こう」ということに決め、予約を入れた。
初めての台湾は私の想像を超える興味深い国であった。
よくマスコミは二つの中国などと言って、台湾を中国の一部だと表現したがるが、それは明らかに間違いであることがわかった。
二つの中国ではなく、二つの日本なのであった。
台北の街を歩くと、そこは中華的エッセンスの入った日本。
どこをどう見ても、日本。
過去50年間日本の領土であったことが、これほどまでにこの国に影響し、今もなお、影響しつづけていることに驚きを感じたのだ。
まして日本統治の50年より長期になった中国国民党による統治期間を経てもなお、日本であり続けていること。
そして、ミャンマー人も日本人に似た個性を持っていたが、台湾人はそれ以上に、日本人に似た、というよりも超短期間滞在の私には「台湾語を話す日本の一民族」(表現に失礼があればお赦しください)にしか見えない大きな驚きがあったのだ。
言うなれば、日本という国は大和民族、琉球民族、アイヌ民族と、今では別の国になっている台湾民族の四つの民族で構成されているのではないか、とさえ思えたのだった。
ともかく、観るもの接するものすべてが新鮮であり、また新鮮ではない。そういう感覚が私の心にはたまらなく魅力的に映ったのだった。
しかし、結果的にここでも私はブログのために取材してしまうことになった。
折しも台湾新幹線が開業したばかり。
私は「話のネタに」とばかりに新幹線に乗車してしまったのであった。(「台湾新幹線の乗車体験記」シリーズを参照)
旅の目的。
それは無いよりは旅をずっと豊かにしてくれるもの。
たとえそれが「ブログを書くためのネタ探し」であったとしても。
さあ、次はどこへ飛んで行きましょうか?
「一回きりになるだろう」
と思っていたミャンマーの旅は本人の予想を裏切って初めての訪問から1年半後、再び訪れることになった。
その時の表向きの目的は、
「ミャンマーで列車の旅をすること」
と、
「世界三大仏教遺跡の一つバガンを訪れること」
であった。
しかし、私の深層心理には「ブログのネタ取材」が潜んでいたことは間違いない。
そしてその旅は私の期待を裏切らなかった。
2度目のミャンマー旅行は想像を絶する壮大な個人旅行に発展し、わずか一週間の滞在の間に発生した数限りない驚き(トラブル)の連続は、旅行記「ミャンマー大冒険」シリーズとなって、1年2ヶ月間にもわたって断続的にこのブログで連載することになった。
その回数は100回を超えた。
400字詰め原稿用紙にすると800枚以上となり、たとえば書籍化するとすれば前編後編と2冊に分けなければならないようなボリュームへと膨らんだ。
その連載の間、私は2回ミャンマー旅行を決行し、次第に目的はエスカレートし、
「日本人はおろか、あまり外国人の訪れないところへ行ってみる」
という具合に発展した。
事実、3回目の旅行先はミャウーというミャンマーでもバングラディッシュと国境を接するチン州の田舎街を訪問した。
飛行機と船を乗り継いでたどり着いたこの街への旅行記については、現在連載中(一カ月ほど止まっているが)の「ミャンマー大冒険 Part 2」で明らかにするつもりだが、季節のせいもあったのか、街にいた外国人は数名の国連職員と私だけという、まさに秘境だったのだ。
そして4回目のミャンマー旅行は、ガイドブックには載っていないが、実際に訪れるとあまりの大きな規模に驚いてしまうシャン州タウンジー市の気球祭りを「取材」しに行ったのであった。
一方、ブログを書くことをまったく意識せず、潜在意識の中に存在する「ブログ取材」とはまったく別の目的で訪問することになったのが、この1月に訪問した台湾であった。
折しも、台湾前総統の李登輝先生が昨日から「ビザなし渡航」で来日されているが、私が尊敬するその「李登輝先生の国を見たい」という目的で訪問したのが台湾なのであった。
ベトナムも行った。
ミャンマーも行った。
本当に行ってみたいのは、あとニューヨークとドイツのミュンへン・オクトーバーフェスタと台湾だけ。
ニューヨークとドイツは遠方なので、なかなか行くことはできないにしろ、台湾は日本に最も近い国。
行こうと思えばいつでも行けた。
しかし、なかなか足を向けなかったのは距離の割に航空運賃が高いからだった。
関空から台北の航空運賃は関空からバンコクとほぼ同じ料金なのだ。
「台湾へ行きたいな~」
という気持ちが募ってきたところ、貯まっていた全日空マイレージのいくばくかが昨年末に期限を迎えることになった。
かなり貯まっていたので、「これで台湾へ行こう」ということに決め、予約を入れた。
初めての台湾は私の想像を超える興味深い国であった。
よくマスコミは二つの中国などと言って、台湾を中国の一部だと表現したがるが、それは明らかに間違いであることがわかった。
二つの中国ではなく、二つの日本なのであった。
台北の街を歩くと、そこは中華的エッセンスの入った日本。
どこをどう見ても、日本。
過去50年間日本の領土であったことが、これほどまでにこの国に影響し、今もなお、影響しつづけていることに驚きを感じたのだ。
まして日本統治の50年より長期になった中国国民党による統治期間を経てもなお、日本であり続けていること。
そして、ミャンマー人も日本人に似た個性を持っていたが、台湾人はそれ以上に、日本人に似た、というよりも超短期間滞在の私には「台湾語を話す日本の一民族」(表現に失礼があればお赦しください)にしか見えない大きな驚きがあったのだ。
言うなれば、日本という国は大和民族、琉球民族、アイヌ民族と、今では別の国になっている台湾民族の四つの民族で構成されているのではないか、とさえ思えたのだった。
ともかく、観るもの接するものすべてが新鮮であり、また新鮮ではない。そういう感覚が私の心にはたまらなく魅力的に映ったのだった。
しかし、結果的にここでも私はブログのために取材してしまうことになった。
折しも台湾新幹線が開業したばかり。
私は「話のネタに」とばかりに新幹線に乗車してしまったのであった。(「台湾新幹線の乗車体験記」シリーズを参照)
旅の目的。
それは無いよりは旅をずっと豊かにしてくれるもの。
たとえそれが「ブログを書くためのネタ探し」であったとしても。
さあ、次はどこへ飛んで行きましょうか?