とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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談合 made in 防衛庁

2006年01月31日 20時58分56秒 | 政治
市ケ谷にあるSという企業は社員数20名にも満たない中小企業だが、この企業の業績は驚くほどよい。
特別な商品アイテムを扱っているわけでも無く、特別な技術力を有しているわけでも無い。

ただ他社にはない「特別なコネクション」がこの小さな会社の特別な業績を支えているのだ。

報道で一斉に採上げられた防衛施設局の官製談合事件。
正直言って「なにを今さら」という感想だ。
防衛施設局が防衛庁OBが勤務する会社に優先的に調達情報をリークさせ、かつ優先的に受注させていたことなど噂や体験で誰でも知っていたことだ。
新聞やテレビも既成の事実と知っていながら今まで伝えることがなかったのは、自分たちもまたそういう談合常習者の仲間だからだろう。

先のS社は、その少ない社員のほとんどが防衛庁OBで占められている。
OBたちによるOBによるOBのための会社なのだ。
彼らの仕事は自分たちの後輩や元同僚を中心にした「垂れ込み屋」から情報を収集し、それを業者に売ることである。
売る、といっても情報を入手して直接的に金銭を受領するのではもちろんない。
情報を提供してやった企業を動かし仕様を固めさせ、いざ入札と言う段になると中抜きをするのだ。
だから応札権さえ持っていれば大丈夫。
中身や業者間の調整(これも談合だな)は業者に任せ、自分たちは待機する。
つまり何もしない。
当然のことながら「予定価格」「予算」などといった情報は普段使っている諜報網を駆使して入手しているので苦労はない。
いや、苦労はないといえばウソになるか。
居酒屋での飲食や政治家のパーティ券購入などで気苦労があるかもしれない。

で落札後は業者の上前をはねて一件落着。

経費を使って動き回るのは業者だからこれほど効率のよい営業はない。
事務所がなぜ市ケ谷に置かれているのかという理由は今さら書く必要もないだろう。

何故私が、このS社についての「噂」を知っているかというと、防衛庁絡みの仕事で間接的な邪魔をされたことがあるからだ。(たぶん)
多かれ少なかれ防衛庁と取引のある会社は同庁OBを再雇用しており、そのコネクションを利用している。
これは旧軍以来の悪しき伝統でもあると聞いているが本当か。

気の毒なのは真面目に国家防衛任務や国際平和維持活動に従事している自衛隊員たちだ。
無知で破廉恥な現場を知らない文官エリートのために名誉を傷つけられる彼らが不敏だ。
結局これも自分さえ良ければという愛国心の欠如した公務員のなせるワザか。
ともかく入札にまつわる談合が限りなく繰り返されるのであれば、入札システムそのものを変えてしまえばいいものを、役人はそういうことも考える力がないのか。

まあ、考えなくても、適当にやっていればS社がやがて拾ってくれるから大丈夫ということだろう。

ミャンマー大冒険(40)

2006年01月30日 20時24分29秒 | 旅(海外・国内)
実は私にとって可笑しいものが「ウォンギョ~ン」のウズラ卵売り以外にもうひとつあった。

2人掛けの座席には窓側に石山さん、通路側に私が座っていた。
座席はオールリクライニングシートだ。
普通車といっても車内は清潔で座席には「MR」とマークの入ったシートカバーがかけられていた。
MRはもちろんMyanmar Railwayの略だろう。

石山さんは「ウォンギョ~ン」の物売りが来なくなっても暫くの間クスクス笑っていたが、さすがにタッコンでの待ちぼうけに疲れきっていたようで、ぐっすりと眠ってしまった。
一方私は、このリクライニングシートに慣れることができずに悪戦苦闘していたのだ。
というのも、このシートは背もたれが倒れたまま、手前に起き上がってこないのだ。

乗車してすぐ、
「飛行機のファーストクラスみたいですね」
と石山さんが呟いたくらいこの座席はフラットになるリクライニングシートだった。
ただ飛行機のファーストクラスであれば、横になって天井を見上げても扇風機がつり下がっているなんてことなど当然なく、窓も開けっ広げでカーテンが風でパタパタしているようなこともなく、嵐の中を飛行しない限り、こんなに揺れることもないだろう。

で、私がこの座席の何に困っていたかというと背もたれを起き上がらせるためのレバーが見当たらないので困っていたのだ。
レバーはひじ掛けの部分にも見当たらないし、シートの横にも、下にも見当たらないのだ。
石山さんは早々に眠ってしまったから座席は倒れたままで良いだろうが、本でも読もうかと思っていた私はそうはいかない。
初めの数分間は「これは壊れている」と確信していた。
無理もない。
ヤンゴンで列車に乗車してからクーラーが壊れ、雨漏りがして、鉄橋が流され、機関車が故障したのだから、こkミャンマーの鉄道ではリクライニングシートぐらい故障していたとしてもちっともおかしくはない。
しかしあっちこっちいじっているうちに、座席は故障していないことが判明した。

このリクライニングシートは背もたれと座席の部分に体重をかけると、おのずと背もたれが起き上がるようになっていたのだ。
そして背もたれにもたれかかると、自然にフラットなリクライニングシートになることがわかったのだ。
つまり背に寄りかかると背もたれが倒れ、お尻に体重をかけ身体を沈めると背もたれが立ち上がる。

寄りかかる。
倒れる。
尻に体重をかける。
起き上がる。
寄りかかる。
倒れる。
尻に体重をかける。
起き上がる。

ん?
どこかで見たことあるぞ........こういうの。

このとき私の脳裏に浮んできたのは、怪しげな外人の姿であった。
「ドウゾ、私ニ電話シテクダサイ」
折りたたみ式のパイプ椅子のようなものを持った外国人のオッサンガ、にこやかに語りかけてくる古~いテレビのコマーシャルを思い出していたのだ。

そう。
この座席は紛れもなく、昭和40年代終盤だったか50年代だったかは忘れたが、あの懐かしい幻の健康アイテム「スタイリー」と同じ機構で動作するリクライニングシートだったのだ。

「スタイリー」は布張りの簡易ベットのような姿をしていたが、真ん中が折れ曲がるようにできており、お腹や背中の贅肉をそぎ落としたい世の女性は、これに横になりお尻を上げ下げして身体をV字型に曲げたりフラットにしたりして美容のための運動するグッズだったのだ。
それはこのミャンマー国鉄のリクライニングシートとまったく同じであり、もしかするとミャンマーの人がスリムなのは、この国鉄のスタイリー式リクライニングシートのおかげではないかと..........さすがの私も思うはずはないのであった。

それにしても誰がこんな面倒なシートを考え出したのか、顔を見てみたい思いがしたのだった。

つづく

ミャンマー大冒険(39)

2006年01月29日 16時41分29秒 | 旅(海外・国内)
乗り換えた列車の車内はいたってシンプルであった。
クーラーはついておらず、天井から扇風機がぶら下がっていて、これも動いてない。
窓はほとんど開けっぱなし、幸いなことにそこから心地よい風が流れ込んできた。
座席はほぼ満席で、私たちの座席が確保できたのはもしかすると幸運だったのかもしれない。

「ウォンギョ~ン、ウォンギョ~ン」

と鼻にかかった呼び声で、物売りが通路を行き来している。

「何売ってるんですかね?」
「さあ.....」

私と石山さんは物売りの独特の口調が気になって仕方がない。
Tさんの席は少し後ろなので訊ねるのも面倒だ。
しかしよくよく物売り達の手にしているものを見てみれば彼らが売ろうとしているものがわかった。
それは「ウズラ卵」であった。

「ウォンギョ~ン」
というのは「ウズラ卵」のことらしい。

ウズラ卵は1ダースぐらいがビニールでパックされており、物売り達はそれを手にして「ウォンギョ~ン」と車内を売りに歩いているのだ。
「ウズラ卵ですよ」
「へ~、列車の中でウズラ卵売れるんですかね」
という石山さんの疑問ももっともなことだ。
ミャンマーで普通列車に乗ったのは初めてだったので、車内販売を見るのも当然初めてだった。
しかし読者は「車内販売」と聞いて新幹線やL特急の車内販売を連想してはいけない。
お洒落な制服に身を包んだ販売員がワゴンを押しながらやって来る、などといったものではまったくなく、そのあたりの百姓が生活の足しを稼ぐために列車に乗り込んできて勝手に売っているというような感じなのだ。
従って服装は普段着。

ミャンマーの普通列車が初めての私も隣国タイでは移動によく列車を利用しており、そちらの物売りはよく知っている。
そちらもちゃんとした車内サービスはチェンマイ行きの特急に乗車したときに見かけただけだ。
普通列車に乗車しているときは清涼飲料水やミネラルウォーターをバケツに入れて冷やして売り来る売り子や自家製の弁当やフライドチキンを売りに来る売り子しか目にしたことがない。

ミャンマーもそういう意味ではタイによく似ているようだった。

それにしてもウズラ卵売りの物売りは5分もしないうちに再び三度やって来る。その都度、
「ウォンギョ~ン」
と私たちにとってはマヌケな音に聞える呼び声で通り過ぎていくからたまらない。

「ウォンギョ~ン」
「また来ましたよ」
「.....ウォンギョ~ン.....」
「...ほらまた.....」
「.....ウォンギョ~ン.........」
「.....来た来た」
「ウォンギョ~ン」

あまりに頻繁に通路を通ってウズラ卵ばかり売りに来るので、このあたりではウズラ卵が名物なのか、ほかに売るものはないのか、とか思ったのだが、だいたい列車の中でウズラ卵を買ってどうするのだ?ざるそばでも食べろというのか?
という疑問が次々に湧いてきた。

「ウォンギョ~ン」

同じ言葉ばかりが耳に飛び込んでくるので、ついにこちらの頭が可笑しくなってきた。
「ウォンギョ~ン」と聞く度に何故だか笑いが込み上げてきてどうしようもなくなってきたのだ。
この原因を説明するのは非常に困難だが、どうやら「ウォンギョ~ン」が笑いのツボに嵌まってしまい、私と石山さんは笑いが止まらなくなってしまったのだった。

「どうしました?」

様子を見にきたTさんが心配そうに訊ねた。

「ウォンギョ~ンって....」
「ウズラ卵がどうかしました?」
「いいえ......なんとなく可笑しくて」

Tさんは理解不能だ、という笑みを浮かべて自席へ戻っていった。
しかし私たちの笑いは止まらず腹を抱えて苦しんでいたのだ。

ちなみにウズラ卵の「ウォンギョ~ン」はこの後、笑いのトラウマとなり、マンダレーでもバガンでもヤンゴンへ帰ってもウズラ卵を見る度に笑いが込み上げてきて、困った状態になってしまった。

つづく

ミャンマー大冒険(38)

2006年01月28日 20時00分06秒 | 旅(海外・国内)
荷物の準備が整うと、間もなくマンダレー行きの列車が到着した。

「こっちです」

とTさんに案内されてダゴンマン列車を下車したのはいいが、プラットホームはなく線路が敷かれているだけの地面なのでとても困ったのだ。
なんせ荷物が重い。
私の場合、中型のスーツケースとLLビーンのデイバック。
デイバックは背中に担げば済むけれど、スーツケースは着替えや洗面用具、iBookにバッテリーなどのデジカメ周辺機器が入っていて実に思い。
コンクリートのプラットホームがあれば、スーツケースにはキャスターが付いているので車輪を転がして引っ張って行けば良いのだが、ぺんぺん草の生えている地面のままなので担がなければならない。
しかも足下に注意しなければ、列車からころがり落とされたと思われる人のウ○コや普段ここらあたりをうろちょろしている牛、馬、ブタ、犬たちのウ○コが転がっている。
列車の停車時間が短いこともあり、ちょっとばかし焦っているので足下への注意が散漫になってしまうが、なんといっても私には昨日の悪夢がある。

「そうか、あれは昨日だったんだ。ヤンゴンのナーガ洞窟パゴダの境内で犬のウ○コを踏んだのは.......」

と、昨日のことなのに遥か遠い昔のように感じるくらい色々あった24時間ではあるが、そのナーガ洞窟パゴダでの忌まわしい記憶が思い出され、急ぎ足になりながらも足下には十二分に注意を払っている私なのであった。

荷物が重いのは私だけではない。
石山さんも重そうな荷物を抱えている。
小柄なTさんももちろんスーツケースを抱えている。
さらに隣の車両に乗っていたカップルもそれ相応の荷物を持っていて大変な状態だ。

「重いな......かなわんな.......」

と思っていると突然軽くなった。
ダゴンマン列車のお馴染の車掌が私たちの荷物を持って、隣の列車に先導してくれているのだ。

当然のことながらダゴンマン列車と今到着した列車との間は私たちだけではなく、大勢の乗客や作業員でごった返しており、これまたしっかりと注意しておかなければTさんの姿を見失うことになりかねないのだった。
前述したように(してないか)Tさんは小柄で背丈が私の肩ぐらいまでしかない。
群衆に紛れると姿を見失ってしまう恐れがあるのだ。

これはもう大変だ。
荷物には注意しなければならないし、ウ○コにも注意しなければならないし、迷子にならないように注意しなければならない。

幸い迷子になることなく指示されるまま乗り込んだ車両は私たちが先ほどまで乗っていたダゴンマン列車のような個室ではなく、2人掛けのリクライニングシートが通路を挟んで両側に並んでいるごく普通の客車だった。

「デイビット(仮名)さんはこちらへ....」
まずTさんがカップルを2人並んで開いている席へ誘導した。
2人はイギリス人の旦那さんに日本人の奥さんの若いカップルだった。
「石山さんは..ここへ座ってください」
とTさんは続いて石山さんに座席を指示した。
最後に私に「そこ、石山さんの隣に座ってくださいね」と適当に指示をした。
オイオイ。Tさん。あなたは私のガイドさんでしょ。
と言いたくなったが、ともかく彼女自身の本当の客である私が一番気を遣わなくてよい存在であるということを後で知った。
喜んでいいのか悪いのか、複雑な心境である。

ともかく私は石山さんと並んで座ることになった。
シャン族の男性は私たちの5列ほど前の席に座り、Tさんは2列後ろに座った。

それぞれの場所が決まって席に着いたとき、ゆっくりと列車が動きはじめた。
長い滞在となったタッコン駅からの出発である。
隣に停車しているダゴンマン列車が静かに後ろへ動き出す。
いや、私たちが静かにトロトロと動き始めているのだ。
私は自分の兄弟たちをお守りしながらデジカメのフレームに笑顔で納まってくれた今朝出会った陽気な子供たち、とりわけ最年長の少女の笑顔を思い出し、少し感傷的になってタッコンとの別れを惜しんでいたのであった。

つづく

Maxやまびこ号

2006年01月26日 20時21分13秒 | 旅(海外・国内)
生まれて初めて東北新幹線の乗車した。
しかも、これまた生まれて初めて総二階建て新幹線「Maxやまびこ号」に乗車した。

結論から述べると、総二階建て新幹線は無意味だ。

日帰りで大阪から宇都宮へ出張に出かけた。
ここのところ週に何度か出張することがあり、総てが総て日帰り出張のため、体力がもたない。
とかく宇都宮などという40年前ならば日帰り不可能な場所へ無理やり日帰りで出かけさせられるのだから新幹線の罪は重い。

とは言いながら東海道・山陽新幹線はしょっちゅう利用している私も東北新幹線は初めてで、しかも予約を入れた列車が偶然にもMaxやまびこ号だったので、なんとなく楽しみに出発したのだった。

東京駅での乗り換え時間は約10分。
私は東北上越新幹線のプラットホームは東海道新幹線の隣なので10分あれば余裕だと思っていたが、これは間違いであることに今回気づいた。
というのも、新幹線はプラットホームが長く、乗車する車両によっては数百メートルも歩かねばならず、おまけに駅の階段をほとんどの人が重い荷物を持ってトロトロと上り下りしていることもあり、10分の乗り換え時間は走らなければならない、ということに衝撃を受けたのだった。

乗り換えソフト「乗り換え案内」は乗り換え時間が短い場合「要走ること」と書くように。

息を切らしながらたどり着いたMaxやまびこ号は近鉄特急や京阪特急をひとまわり大きくしたような印象だ。
で、乗車してみると非常に狭い。
めちゃくちゃ狭いのだ。
10分ほど前まで700系のぞみ号に乗車していた私にはMaxやまびこ号の座席は乗り合いバスの一人用椅子のように感ぜられたのだった。

しかし乗車したのが2階席だったので眺めが良く、晴天の関東平野が見渡せ遠く富士山に積もった雪が白く輝く姿が美しかった。

問題は帰路であった。

帰りも偶然Maxやまびこ号に乗車したが、かなり混雑していたため1階席になった。
この1階席はだいたい予想していたが、走行中景色がまったく見えず、窓があってもほとんど無意味であることが分った。
ずーと防音壁しか見えないのだ。

Maxやまびこ号の車両を良く観察してみると、階段やら機械室やらトイレやらが車両両端に設置されているため客席部分がとても短く、二階建てにしている意味がほとんどないように感じられた。
従って、壁しか見えない1階席の快適さを犠牲にしてまで二階建てにする必要はまったくなく、一階仕様の快適な車両で運行していただきたいと思ったのであった。

なおMaxやまびこ号の1階部分は、下記のような使用方法にすればいいのではないかと思っている。
1.ひかりレールスターのサイレントカーのような使用方法にする。
2.食堂車を復活させ、1階を食堂にする
3.どうせ外が見えないのだから窓に目張りをしてJR直営風俗店キャバクラにする
以上

ミャンマー大冒険(37)

2006年01月25日 06時16分51秒 | 旅(海外・国内)
どどっと疲れが出てきた。
だいたいここからマンダレーまであとどのくらい時間がかかるのかもわからないのだ。
不安はないと言えば嘘になる。

そして次第に私はこの度重なるトラブルで鉄道会社に対して一言も文句を言わないミャンマーの人たちにも腹が立ってきてしまった。
利用者が抗議しないから、いつまでたっても鉄道の品質が向上しないのだ。というような日本でなら通じるかも知れないが、よその国で通じるかどうかわからない理屈が頭の中を駆け抜けた。
怒っても仕方がないのはわかっている。
ここはミャンマーなのだ。
しかしTさんが頑張ってくれているじゃないか。
私は気持ちを落ち着かせるべく列車の前の地面を鼻を鳴らしながらウロウロする黒ブタを見つめていた。

「あちらも移動を希望されました。席も確保できそうですから乗り換えましょう」
数分後に戻ってきたTさんは言った。
こうなると乗り換えの準備をしなければならない。
私は持参していたiBookだけは壊してはならないと、リンゴマークの付いた液晶面をクッション代わりの衣服の上に乗せ厳重にトラベルケースに収納した。

やがてすっかり顔見知りになった車掌が乗り込んできた。
聞くところによるとシャンの男性も乗り換えるのだという。
そうであろう。
彼はマンダレーまで行って、そこからバスに乗り換えてさらに一日かけて自分の街に帰らなければならないのだ。
「今日はマンダレーに1泊するそうです」
と彼を心配した私と石山さんにTさんが通訳してくれた。

私たちがガサゴソと準備をしているとシャンの男性が車掌にお金を払っているが目にとまった。
「どうしたんです?お金要るんですか?」
と私。
「要りません。外国人は払わなくてもいいです」
とTさん。
「彼はミャンマー人だからお金を払わなければならないんです。」
その説明を聞くと当のシャンの男性がキレずに、石山さんがキレた。
「なんであの人が払わなきゃいけないんです!悪いのはあの人じゃなくて国鉄じゃないの!」
確かにその通り。
悪いのは整備の悪い鉄道会社であって彼ではない。
しかし外国人と自国人では料金が異なるここミャンマーでは安い運賃で乗車しているミャンマー人はたとえ列車が悪くても乗り換えるにはいくばくかの金を払わねばならないのだという。
理不尽この上ないことだが、この国のルールなのだ。

シャンの男性は2000チャットを支払い次の列車に我々とともに乗り込むことになった。
ここで私は大切なことに気づかなかった。
それはTさんのことだった。
Tさんもミャンマー人なので当然乗り換えに必要な運賃を支払わねばならなかったことだ。
恥ずかしながら自分のことしか念頭になかったため、Tさんが2000チャットを支払わなければならないことにまったく気づかなかったのだ。
Tさんも私に心配をかけたくないからだろう、そういう内容のことは一言も話さない。
それは昨年訪れた前回もそうだったが、Tさんの性格としてお客さんに心配をかけることは一切話さないのだ。
このイレギュラーな乗り換えに要する費用を会社が払ってくれるかどうかわからない。
たぶん払わなかっただろう。
この乗り換えに要した費用は彼女の自己負担になったことが十分に考えられる。

2000チャットは日本円にして約200円。
大阪市営地下鉄の1区の乗車賃でしかない金額だが、公務員の初任給が月6USドルのこの国では小さな額ではないのだ。

私は帰国してから、やっとこのことに気づき反省するとともに、Tさんのことがとても気にかかってしまったのだった。

つづく

ライブドアと淀屋

2006年01月24日 19時33分24秒 | 経済
今日は昨日の続きを掲載しようと思っていましたが、ホリエモン逮捕で予定変更。ミャンマー大冒険(37)は明日お届けします。
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ライブドアと淀屋

「ライブドアに強制捜査」
というニュースを聞いたとき、私は「ついに現代の淀屋に司直の手が伸びたか」と思った。

大阪のメインストリート御堂筋。
この御堂筋の出発点とも言える大阪市役所南側を流れる土佐堀川(旧淀川)にかかる橋を淀屋橋という。
現代は日銀大阪支店や美津濃スポーツの本店、三井住友銀行大阪本店のあるビジネス街なのだが、ここにはかつて「淀屋」という屋号の豪商が店を構えていた。
淀屋橋はこの商人の屋号からとられたものだ。

淀屋は大坂夏の陣で徳川方に協力し、大阪市場における特権を得た。
当時大阪市場を手にしたということは日本市場を手中に収めたのと同じことだった。
この商業上の特権を利用して淀屋は米相場や先物取引、回船業などを多角的に経営し巨万の富を形成した。
やがて江戸時代も落ち着いてくると、その栄華は益々盛んになった。

「淀屋の屋敷にはガラス張りの部屋があり、そこにはきらびやかな錦鯉が飼われていた」

という伝説も語り継がれている。

しかしある日、突然に淀屋はお取りつぶしになった。
あまりの贅沢ぶりに幕府の怒りを買い、全財産を没収された上放逐されたのだという。

実際の取りつぶし理由は定かではないらしいが、豪商淀屋のあまりに醜い金満主義を嫌われ司直の裁きを受けたことは間違いない。

週刊新潮の先週号に、
「ニッポン放送株買収劇の時でした。地検幹部が「真面目に仕事をしている人がバカを見るような世の中は良くない」といって特命チームを作り内偵をつづけていた」
という検察関係者の証言が含まれる記事が掲載されていた。
「人は金さえあればなんとでもなる」
「金さえあれば万能だ」
と、うそぶいていたホリエモン率いるライブドア。
彼らはついに江戸時代の淀屋と同じく為政者の怒りに触れたというわけだ。

淀屋解体後の大阪には、後々にまでに受継がれる多く企業が誕生した。
鴻池(東京三菱UFJ銀行)
泉屋(住友)
大丸呉服店(大丸百貨店)
十河呉服店(そごう百貨店)
発祥時の屋号は知らないが竹中工務店に大阪西川、武田薬品工業などなど

ライブドアお取りつぶし後に21世紀から未来へ受継がれる本当の新しい企業が生まれるのかも知れない。

ミャンマー大冒険(36)

2006年01月23日 19時46分22秒 | 旅(海外・国内)
読者諸氏の中には、
「ふん、この「ミャンマー大冒険」ちゅう旅行記は『作り話やな』」
と思ってらっしゃる方も多いかと思われる。
相次ぐトラブル。
信じられないタイミング。
どれもこれも真実なのである。
2005年(平成17年)9月19日から20日にかけて実際にあった話なのだ。

日本では考えられないような各種トラブルの連続に耐え抜いてこそ、ミャンマーという国の旅行を楽しむ余裕が生まれるに違いない。
と、私は思った。
このとき私はかつて日本車がヨーロッパ市場を席捲しだした頃、フランス人だったかイギリス人だったかは忘れたが、現地の国産自動車愛用者が語った一言を思い出した。
「私はトヨタもホンダも愛用しない。国産あるのみ。そのおかげと言ってはなんだが、私は忍耐(欧州車は日本車に比べると比較にならないくらい故障が多い)を学んだ」
と。

私は今回のミャンマー旅行で、なによりも「忍耐」を学んだのだった。

「今こちらに向かって部品を運ぶように段取りしているそうです」
とTさんは言った。
いかにも気の長い話だ。
その部品は今現在どこにあって、誰が、どのように運ぶ手配をしているのか、私は知りたかった。
しかし、
「わ~い!間もなく出発だぞォ!」
というワクワク感を一瞬にして砕かれたショックのほうが大きくて私は自制心を失いかけていた。
「この分では今日中にマンダレーへ着くかどうかわかりませんね」
と私が言うと、
「..........何とも言えません」
とTさん。
「あ~~~、どうなっちゃうんだろう~~~」
と石山さん。
石山さんの神経はさらに衰弱しているようだ。
ほとんどパニックに近い。
気の毒ながら、どうしようもないので、諦めてもらうしかない。
よかった、Tさんがいてくれていて。
もし、Tさんがいなかったら大変なことになっていたかも知れない。
ともかく機関車を修理する部品はもしかすると今ヤンゴンにあるのかもわからないし、意外と近くの街にあるのかもわからない。
しかしはっきりしているのは、その部品がいつ届くのかわからないことだ。

私の表情が深刻だったのだろうか、Tさんもかなり困った様子だった。
「次の列車に乗り換えられませんか?」
とついに私はTさんに訊ねた。
「いつ動くかわからないのは不安ですし、石山さんは明日マンダレーを出発して船でバガンに向かわなければならないでしょう」
と乗り換えたい理由を若干石山さんに押し付けて言った。
「そうですね......」
Tさんが本当に困っている。
でも私もかなり困っていた。
いや、困っていたという表現は正しくなく、ついにイライラしはじめていたのだ。
「空き席を調べられませんか」
「.........石山さんはどうします?」
とTさんは石山さんに訊いた。
彼女も列車を乗り換えることに賛同した。
Tさんの職務とすれば私の面倒だけを見れば良いのだが、石山さんも隣の車両のカップルもTさんの会社のお客さんだ。
放っておくわけにもいかず、私は知らず知らずの間にTさんの立場も考えずかなり面倒なお願いをしていたことになっていた。
「ちょっと隣の方の意見も聞いてきます」
「お願いします」
Tさんは私たちの車両を降りて行った。

つづく

ミャンマー大冒険(35)

2006年01月22日 14時19分27秒 | 旅(海外・国内)
4本目のヤンゴン行きの列車がタッコンを通過した。
いよいよ私たちが出発する番だ。

ふつう日本の鉄道の常識で言うなら対向列車が出発して遅くとも数分後にはこちら側も発車するはずだ。
しかし、ここはミャンマー。
鉄道先進国の我が国と比べるのは気の毒というもの。
多分安全を確認するためにいくつものチェックが必要なのだろう。
もう、これで出発することは明らかなので大きな気持ちでゆったりと待たせてもらうことにしたい。

思えばタッコン駅での長~いイレギュラー停車であった。
ここへ停車していることに気がついたのが午前2時半頃。
そして今は午前11時。
述べ8時間半、ここ田舎町タッコンで過ごしてきたことになる。
それももうおしまいだ。
いよいよマンダレーへ向けて再出発。

考えてみれば、予定通りマンダレーに到着しておれば今ごろはマンダレー観光なんぞをしていたはずだ。
「Tさ~ん。腹減った~」
などと言っていたはずで、マンダレーの街並みをのんびりと散策していたに違いない。
しかし「鉄橋が流れる」というアクシデントのおかげで2日あるマンダレー滞在のうち1日はキャンセルされてしまった。
このためあまり運動をしていないからか、それとも買い食いのしすぎか、間もなく正午だというのにあまり腹は減っていなかった。
その代わりここタッコンでの日常風景をつぶさに観察できたのだから喜んで良いのかも知れないと思った。
トラブルがなければ絶対にタッコンなどというところを知ることはなかったのだから。

そうこうしていると、両手に赤と緑の手旗を持った制服を着た鉄道職員が前方から歩いてくるのが見えた。
「おおお! いよいよ出発か」
とわくわくした。
ヤンゴンを出発するときにはこれほどのわくわく感はなかった。
私はこの手旗を持った職員が列車に出発の合図を送るのを今か今かと待ちわびていた。
「夕方までにはマンダレーに着きますよね」
「たぶん」
「楽しみだな~。マンダレー」
初めての街を訪れるのは誰にだって楽しみなもの。
益々「早く列車が出発しないかな~」というワクワク感に包まれていた。

一方、手旗を持った職員のオッサンは時折旗を振りながら私たちの列車の進行方向とは反対方向へ歩いていった。
「なんだなんだ?」
すると、私たちの後方遥から列車が近づいて来るのが目にとまった。
かなりトロトロと走っているようだ。
そうか。手旗を持った鉄道職員のオッサンは、その列車に向かって旗を振っているのだ。
列車から、か細い汽笛が聞えた。

「後ろから列車がきましたよ」
ドアを開けて後方を見つめていた私が報告すると、Tさんもドアのところに寄ってきて私の横から後ろを確認した。
「ほんとうですね」
きっとこの列車がまだ出発準備ができていないので、後方からの列車を誘導するために職員のオッサンは手旗で列車を誘導しているのだろう。
「まともな信号も無いんかい」と心の中で呟いていた。

やがてゆっくりと列車が入線してきた。
先ほどまでヤンゴン行きの列車が通過して行った私たちの隣の線路である。

「ヤンゴンを5時に出発した列車ですって」
とTさんが停車した隣の車両の乗務員と言葉を交わして通訳してくれた。
もともと私は初めこの5時発の列車に乗る予定を組んでいた。
しかし旅行社からのオファーで「時間に正確で、リラックスできる」この3時15分ヤンゴン発のダゴンマン列車に変更したことは、かなり前に述べた。
その私たちの後、午後5時にヤンゴンを出発した列車が鉄橋の流出で私たちに追いついたというわけだ。
この列車は私たちの列車と比べるとグレードが落ちるらしく、後ろに貨車を連結し、そこには鶏や荷物が積載されていた。
「コ~、コココ、コケー!コッコッコ」
と喧しい。
Tさんは相変わらず隣の車両の人と話している。
私はこのTさんの気さくな性格が大いに気に入っているところでもある。
ガイドにはなくてはならない素養だろう。

「この列車は後ろの駅で待機していたんですって」
「へ~、お互い大変ですよね」
と私とTさんがにこやかに会話をしていたとき信じられないことが発生した。
なんと後からきた隣の列車が先に動きはじめたのだ。
「なんで~!」
と石山さんが叫んでいる。
私もTさんも呆気にとられて、走り去ろうとしている隣の車両を見つめている。
「なんでじゃ!」
と、腹を刺されたGパン刑事こと松田優作(そんなええもんかい)ではないが、さすがの私もショックを隠せない。
後からきた列車が先に発車したということはどういうことかというと、沿線のトラブルのために名古屋に停車していた新大阪行きの新幹線のぞみ号に乗っていたら、後からきた同じく新大阪行きのこだま号が私たちののぞみ号を差し置いて、先に発車してしまった、というのと同じなのだ。
だから「なんでじゃ!」なのだ。

マンガレー方面へ遠ざかりゆく列車を見送り呆然としているところへ外出していたシャンの男性が戻ってきた。
シャンの男性がTさんに話しかけ、Tさんも質問している。
やがてTさんは私と石山さんに言った。

「この列車の機関車のエンジンがかからないそうです」

つづく

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