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【四六】上陸してくる無数の人影・靴・渚

 海面に次々と頭を浮かび上がらせて歯のない口から幾度も水を吐き出し、萎びた裸体を少しずつ露わにしながら岸に向かってくるのが渚である。見たところ老齢の男女に見える渚たちは、海の中にいたときのことも、これから何をするのかも、自分たちが誰なのかも忘れている。陸に上がると肌の乾ききらないうちに、まずは靴屋に向かいなさい、と通りがかりの人から勧められる。海岸沿いには靴屋が軒を連ねているが、持ち合わせがない渚たちは靴屋から日雇い仕事を紹介してもらい、貸し付けられた服を着て労働をはじめる。もしそれだけの体力がなければ、善意の人を見つけておじぎ【一六三】を貯め込まねばならない。どちらを選ぶにしても、足を靴に滑り込ませるまでに、身元不明の遺体として棺詰工場【三四九】に運ばれる者も少なくない。靴を履くことができるのは、渚たちの半数にも満たないのだ。その内の一人である老婆が、足の各部を何時間にも渡って詳細かつ厳密に測られていた。彼女がこの靴屋を訪れたのはこれで三度目である。前回は仲介手数料や貸衣装代が別途必要なことを知らなかったのだ。靴屋の主人が奥の部屋に消え、しばらくすると戻ってきた。これがあなただけのために発靴されたものですチャン・メイホアさん。差し出されたのは綺麗な刺繍の入った小さな靴だった。足は寸分の隙間もなく靴に収まった。彼女は腰を曲げた状態でずいぶんと長い間立ちつくしていたが、マオではだめですか、マオ・メイホアでは、と靴屋にたずね、無理です変靴はいけません音楽家のチャン・メイホアさん、と退けられ、道楽家ではだめですか、とくいさがる光景はよく見られるものである。

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