今回発掘調査前の2013年3月、橿原考古学研究所と京都大学大学院農学研究科は、奈良県御所市にある中西遺跡・秋津遺跡で見つかった水田跡の調査結果を発表した。これ又近年稀に見る偉大発見で、注目に値する。
そこで、本遺跡発掘調査の真骨頂について、3回に分けて報告する。
この遺跡は弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、2400年程前の遺跡で、本遺跡からは2万5000㎡に約2000枚の水田跡が見つかっている。
写真は、弥生時代前期の2000枚にも上る、小さな水田区画が網の目のように連なる巨大な水田跡光景。
2万5000㎡の水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものと思われる。
少し前になるが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、約2万㎡の水田跡が発見されて騒がれた。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。
引続き2015年8月に発掘調査結果が発表された当遺跡所在地は、奈良県御所市にあり、紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町。
葛城氏の地元であり、中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳がある。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238mの大前方後円墳。
葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われているが、西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になる。
日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは疑いのないところで、九州王朝という説もあるが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実。
しかし大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というもの。何とも不思議ですよね!
確かに日本列島の真ん中あたりにあるが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えない。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えない。
人が生活していくためには、水が必要。水のないところに人は住めない。守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いと思われるが、我が国は大和から始まった。
大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったかも。しかし、それでもなお、何故大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれない。
中西遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたように思われます。
弥生時代前期・2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の跡が見つかったのが、3mx4m程度の水田の大きさ。
畦の工夫や水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることが分かると云う。
写真の地図は、中西遺跡に隣接し、その西側を流れる葛城川との位置関係。
葛城川は大和川へと続き、大和盆地に巡らされた大和川水系であり、南へ流れる宇智川は吉野川から紀ノ川へと連なり、この辺りは大和川水系と紀ノ川水系の分水嶺となっている。
水田保持のために欠かせない安定的な水資源として、洪水に伴う破堤を成因とする河畔の池は、一般に押堀(オッポレと読み、水害や暴風雨などで田畑が水没してできた大きな水溜り)と呼ばれ、葛城川周辺などにその例がみられ、葛城川の場合、地元ではダブと呼ばれている。
押堀とは洪水の際、破堤に伴って洪水流が堤内に流入し、土地をえぐった跡に水がたまって形成されたもの。
しかし押堀は、河川周辺の土地の高度な利用のためや、防災上の理由で埋め立てられつつある。奈良盆地の葛城川周辺においても埋め立てられた例もあるものの、比較的よく残存している。
この理由としては、押堀には河川からの伏流水が常にもたらされるために、これを灌概用水として利用することができ、渇水の危険性が高かった地域としては都合がよかったからで、長年にわたり洪水を繰り返したものの水田維持・確保に役立ったと見られる。
そこで、本遺跡発掘調査の真骨頂について、3回に分けて報告する。
この遺跡は弥生時代前期ですから、紀元前400年頃、2400年程前の遺跡で、本遺跡からは2万5000㎡に約2000枚の水田跡が見つかっている。
写真は、弥生時代前期の2000枚にも上る、小さな水田区画が網の目のように連なる巨大な水田跡光景。
2万5000㎡の水田跡の遺跡は、多分、日本最大のものと思われる。
少し前になるが、滋賀県の守山市で服部遺跡が、約2万㎡の水田跡が発見されて騒がれた。今回の中西遺跡は、それを上回る大きさを持ちます。
引続き2015年8月に発掘調査結果が発表された当遺跡所在地は、奈良県御所市にあり、紀伊国から紀ノ川を遡って大和へ入るその入り口にある町。
葛城氏の地元であり、中西遺跡のすぐ南にある丘の上には、宮山古墳がある。室大墓とか、室宮山とも呼ばれるこの古墳は全長238mの大前方後円墳。
葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓ではないかと言われているが、西暦400年頃に造られた古墳ですから、今から1600年程前になる。
日本において最初に王朝が造られた地が大和であることは疑いのないところで、九州王朝という説もあるが、古代日本の政権の中心が大和であったことは紛れもない事実。
しかし大きな疑問の一つが、「なぜ大和なのか?」というもの。何とも不思議ですよね!
確かに日本列島の真ん中あたりにあるが、古代において大和の位置はそれ程大きな意味があるとは思えない。大和盆地自体が、敵から身を守るための自然が生んだ堅牢な要塞であったとも思えない。
人が生活していくためには、水が必要。水のないところに人は住めない。守山市の服部遺跡が語るように巨大な淡水湖である琵琶湖こそ、天からの恵み以外の何物でも無いと思われるが、我が国は大和から始まった。
大和川の水系が、毛細血管のように拡がる大和盆地は、確かに住みよい場所であったかも。しかし、それでもなお、何故大和でなければならなかったのか?という疑問は解決してくれない。
中西遺跡調査は、その問題を少し解決してくれたように思われます。
弥生時代前期・2400年前の時点において、非常に多くの試行錯誤の跡が見つかったのが、3mx4m程度の水田の大きさ。
畦の工夫や水を張るための工夫。取水方法の工夫。200年間の間に、水田の形が変化していっていることが分かると云う。
写真の地図は、中西遺跡に隣接し、その西側を流れる葛城川との位置関係。
葛城川は大和川へと続き、大和盆地に巡らされた大和川水系であり、南へ流れる宇智川は吉野川から紀ノ川へと連なり、この辺りは大和川水系と紀ノ川水系の分水嶺となっている。
水田保持のために欠かせない安定的な水資源として、洪水に伴う破堤を成因とする河畔の池は、一般に押堀(オッポレと読み、水害や暴風雨などで田畑が水没してできた大きな水溜り)と呼ばれ、葛城川周辺などにその例がみられ、葛城川の場合、地元ではダブと呼ばれている。
押堀とは洪水の際、破堤に伴って洪水流が堤内に流入し、土地をえぐった跡に水がたまって形成されたもの。
しかし押堀は、河川周辺の土地の高度な利用のためや、防災上の理由で埋め立てられつつある。奈良盆地の葛城川周辺においても埋め立てられた例もあるものの、比較的よく残存している。
この理由としては、押堀には河川からの伏流水が常にもたらされるために、これを灌概用水として利用することができ、渇水の危険性が高かった地域としては都合がよかったからで、長年にわたり洪水を繰り返したものの水田維持・確保に役立ったと見られる。