額安寺の石塔「宝篋印塔」矢跡のルーツは中国・寧波
今年9月25日のニュースで、額安寺(大和郡山市)の石塔「宝篋印塔」を解体修理中に「矢」の跡が見つかったことがわかった。
その「矢」と呼ばれるくさび状の道具を使った石割り技術が、中国浙江省・寧波から国内に伝わった可能性の高いことが分かり、現地を調査した中日石造物研究会などが12日、発表した。
「矢」は金属で作ったくさび状の道具で、石に開けた穴に差し込んで、たたき割る。国内では13世紀に畿内で広まるが、ルーツは不明だったが、中国の工人らが技術を急速に伸展させたとみられる。
額安寺の石塔(高さ約2.83m、花崗岩製)は、1260年に石工の大蔵安清が製作。修理のため市教委が解体したところ、台座に6個の矢穴が残っていた。底が丸くなった半円形で、1個の幅は約10cm。銘文がある宝篋印塔としては国内2番目の古さだが、京都府の阿弥陀笠石仏(1262年)を遡り、国内最古の矢穴痕跡と確認された。
調査したのは、考古学者らでつくる「中日石造物研究会」(代表=藤澤典彦・大阪大谷大教授)と、学際研究グループ「寧波プロジェクト」(代表=小島毅・東大准教授)の2グループ。
寧波は、鎌倉時代に南宋時代(1127~1279)の貿易港であった。11月に、当時の石造物を調査。市内の石造物庭園に残る武人像(高さ約3m)の底部に矢穴跡4カ所を確認した。芦屋市教委の森岡秀人・文化財担当主査の鑑定で、矢穴の形状がいずれも半円状で幅は約8~10cm、額安寺の石塔、宝篋印塔の矢穴跡6カ所と形状や大きさが同じだったと分かった。
額安寺の塔は、武士石像よりも25年以上新しく、鎌倉時代の東大寺復興時に重源上人が招いたという宋の石工が技術をもたらし、継承された可能性が高いという。
同グループは、東大寺(奈良市)の石造獅子(重要文化財、同)の牡丹文と、寧波・天童寺の石造物の文様との類似性も新たに確認。泉涌寺(京都市)の開山無縫塔(重文、同)と酷似した塔も寧波・阿育王寺で確認したとしており、中世石造物の技術のルーツが寧波一帯にあったことを裏付ける成果という。
[参考:2008.9.12奈良新聞、産経新聞、朝日新聞、共同通信]
参考:
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
矢穴
[2008.9.25掲載分]
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔を解体修理し重文申請へ
聖徳太子が建立した「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」が前身とされる古刹・額安寺(かくあんじ、大和郡山市額田部寺町)で24日、鎌倉時代の石塔「宝篋印塔」(市指定文化財)の解体修理作業が始まった。
倒壊の恐れがあるためで、京都市内の工房で修理され、来年3月には造られた当初のような姿を見ることができる。同寺では修理後、文化庁に重文の申請をするという。
宝篋印塔は中世以降に供養塔などとして造られた石造物。「相輪」「笠」「塔身」などいくつかの部分から成る。額安寺のものは本堂南方にある明星池の中島にあり、高さ2.84m。花崗岩でできており、塔身には表面から2段彫り込んだ上で月輪(がちりん)が刻まれ、その中に古代インドのサンスクリット文字・梵字などで四つの仏が彫られている。基礎部分にある銘文によると、文応元(1260)年に石工・大蔵安清が制作。銘文のある宝篋印塔としては輿山往生院(生駒市)の1259年に次いで全国で2番目に古いという。
寺では1973年、池に落ちていた塔の一部を引き上げて島に置いたが、島の浸食などの影響で塔が傾いていることが04年に判明。再び倒壊しないよう、解体修理をして本堂近くに移動させることになった。
解体作業では、クレーンを使って塔を五つの部分に分解。慎重に梱包してトラックに載せ、修理される京都市内の工房に運んだ。そのうち、塔身からは経典を納めたとみられる穴(直径14cm、深さ24cm)が見つかった。また、石材を割るために打ち込む「矢」の跡も見つかった。矢の使用例としては最古という。
修理を担当する京都市左京区の石工、西村金造さん(70)は「当時の最高の技術を使って造られており、修理に携われることはありがたい。断面がV字形の薬研彫りなので、丸彫りと違い、700年たっても文字が残っている。仏様をお守りするため、手間暇をかけた苦労がうかがわれ、1000年先に残る修復をしたい」と話した。同寺の喜多寿佳(すが)住職(97)は「以前からの念願がかなって、本当にうれしい」と喜んでいた。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
銘文
「文応元年十月十五日 願主永弘・大工大蔵安清」
今年9月25日のニュースで、額安寺(大和郡山市)の石塔「宝篋印塔」を解体修理中に「矢」の跡が見つかったことがわかった。
その「矢」と呼ばれるくさび状の道具を使った石割り技術が、中国浙江省・寧波から国内に伝わった可能性の高いことが分かり、現地を調査した中日石造物研究会などが12日、発表した。
「矢」は金属で作ったくさび状の道具で、石に開けた穴に差し込んで、たたき割る。国内では13世紀に畿内で広まるが、ルーツは不明だったが、中国の工人らが技術を急速に伸展させたとみられる。
額安寺の石塔(高さ約2.83m、花崗岩製)は、1260年に石工の大蔵安清が製作。修理のため市教委が解体したところ、台座に6個の矢穴が残っていた。底が丸くなった半円形で、1個の幅は約10cm。銘文がある宝篋印塔としては国内2番目の古さだが、京都府の阿弥陀笠石仏(1262年)を遡り、国内最古の矢穴痕跡と確認された。
調査したのは、考古学者らでつくる「中日石造物研究会」(代表=藤澤典彦・大阪大谷大教授)と、学際研究グループ「寧波プロジェクト」(代表=小島毅・東大准教授)の2グループ。
寧波は、鎌倉時代に南宋時代(1127~1279)の貿易港であった。11月に、当時の石造物を調査。市内の石造物庭園に残る武人像(高さ約3m)の底部に矢穴跡4カ所を確認した。芦屋市教委の森岡秀人・文化財担当主査の鑑定で、矢穴の形状がいずれも半円状で幅は約8~10cm、額安寺の石塔、宝篋印塔の矢穴跡6カ所と形状や大きさが同じだったと分かった。
額安寺の塔は、武士石像よりも25年以上新しく、鎌倉時代の東大寺復興時に重源上人が招いたという宋の石工が技術をもたらし、継承された可能性が高いという。
同グループは、東大寺(奈良市)の石造獅子(重要文化財、同)の牡丹文と、寧波・天童寺の石造物の文様との類似性も新たに確認。泉涌寺(京都市)の開山無縫塔(重文、同)と酷似した塔も寧波・阿育王寺で確認したとしており、中世石造物の技術のルーツが寧波一帯にあったことを裏付ける成果という。
[参考:2008.9.12奈良新聞、産経新聞、朝日新聞、共同通信]
参考:
東大寺南大門 石造獅子 中国の石材「梅園石」か
矢穴
[2008.9.25掲載分]
大和郡山市・額安寺 宝篋印塔を解体修理し重文申請へ
聖徳太子が建立した「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」が前身とされる古刹・額安寺(かくあんじ、大和郡山市額田部寺町)で24日、鎌倉時代の石塔「宝篋印塔」(市指定文化財)の解体修理作業が始まった。
倒壊の恐れがあるためで、京都市内の工房で修理され、来年3月には造られた当初のような姿を見ることができる。同寺では修理後、文化庁に重文の申請をするという。
宝篋印塔は中世以降に供養塔などとして造られた石造物。「相輪」「笠」「塔身」などいくつかの部分から成る。額安寺のものは本堂南方にある明星池の中島にあり、高さ2.84m。花崗岩でできており、塔身には表面から2段彫り込んだ上で月輪(がちりん)が刻まれ、その中に古代インドのサンスクリット文字・梵字などで四つの仏が彫られている。基礎部分にある銘文によると、文応元(1260)年に石工・大蔵安清が制作。銘文のある宝篋印塔としては輿山往生院(生駒市)の1259年に次いで全国で2番目に古いという。
寺では1973年、池に落ちていた塔の一部を引き上げて島に置いたが、島の浸食などの影響で塔が傾いていることが04年に判明。再び倒壊しないよう、解体修理をして本堂近くに移動させることになった。
解体作業では、クレーンを使って塔を五つの部分に分解。慎重に梱包してトラックに載せ、修理される京都市内の工房に運んだ。そのうち、塔身からは経典を納めたとみられる穴(直径14cm、深さ24cm)が見つかった。また、石材を割るために打ち込む「矢」の跡も見つかった。矢の使用例としては最古という。
修理を担当する京都市左京区の石工、西村金造さん(70)は「当時の最高の技術を使って造られており、修理に携われることはありがたい。断面がV字形の薬研彫りなので、丸彫りと違い、700年たっても文字が残っている。仏様をお守りするため、手間暇をかけた苦労がうかがわれ、1000年先に残る修復をしたい」と話した。同寺の喜多寿佳(すが)住職(97)は「以前からの念願がかなって、本当にうれしい」と喜んでいた。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
銘文
「文応元年十月十五日 願主永弘・大工大蔵安清」
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