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風納土城・倉庫跡?から南朝宋時代5世紀中頃の中国製「青磁陰陽刻蓮弁文碗」(越州窯製)が出土

2008年12月11日 | Weblog
風納土城・倉庫跡?から南朝宋時代5世紀中頃の中国製「青磁陰陽刻蓮弁文碗」(越州窯製)が出土
 12月3日の聯合ニュースで、先に(11月26日)に報道された風納土城で最近発見された倉庫跡とみられるくぼみで見つかった甕から、新たに中国製青磁食器が出土したことが報道された。その青磁とは中国製青磁陰陽刻蓮弁文碗(중국제 청자음양각연판문완)である。
 これは、百済の王室および支配層が生活容器として中国製青磁を使った可能性が現れたという点で注目される。
 特に碗の用途が、主に酒や茶のような飲料を入れて飲む容器という点を考慮すれば、この碗が出土した甕に入れられた物品も酒などの飲み物だった可能性が大きく、これに伴い一帯の倉庫の機能は当初推定したように近隣の宮廷や官庁で必要とされた食物を保管した場所だった可能性が一層高まった。
 長方形のくぼみの中にあった三個の甕のうち、真中の甕の中からひとつの青磁碗の2片が出土し、全体の3/4程度が残っていて、全体の形状や模様を把握することができた。口径10cm、高さ5.9cm程度で、碗または盞(杯)として分類できるこの青磁は白色胎土に透明な軟青色の釉薬をかけたことで氷裂が現れて、全体的に量感が豊かである。口縁部には2行の浅い横線が周囲に描かれ、その下には陽刻の浮き彫り風の蓮弁文が刻まれていた。蓮弁は先が尖っていても量感があり、際に3条の陰刻線を描いており、蓮弁の間にも重なった蓮弁の尖った先端の部分が浮彫りされ、花びらが重なっている姿を表現している。外側と内側の蓮弁の葉は各々7枚ずつ合計14枚の模様で構成されている。糸底の部分(高台内)は平たい形状で釉薬はかけられていない。
 今回出土した青磁碗と似ている点では、天安龍院里古墳群の長方形石室墳出土品(ソウル大学校博物館所蔵)がある。 大きさは風納土城出土品より大きい(口径16.4cm,高さ9cm)が、全体の形状や蓮弁文の施文技法などが似ている。 ただし龍院里出土品は全体の色が薄緑色を帯びていて、きれいな青色を帯びる風納土城出土品とは差がある。参考として中国の年代が分かる墓で出土した資料として、南朝宋・永初元年(420年)と元微2年(474年)の出土品と比べてみた時、蓮弁中央部に彫られる縦の陰刻線が永初元年のものはなく、元微2年のものは2本があり、風納土城のものは1本で、二つの遺物の間に該当する5世紀中頃に越州窯で作られたた製品と考えられるとしている。
 これまで、南北朝時期の中国製陶磁器は風納土城をはじめとする漢城百済中心地域と当時地方首長層の古墳群だった烏山水洞、天安龍院里、公州 水村里 古墳群などで集中して出土しているので、これは同時期の高句麗や新羅地域に比べて、飛び切り多い量で百済と中国間の活発な交易関係と、当時の百済支配階層の実生活の容器として中国磁器をより好んでいたことなどが推察できるとする。
 国立文化財研究所は倉庫と推定されるくぼみの遺物調査とともに、壷内部に入っている土壌を精密分析して保存されていた物品の種類を明らかにして、さらに当時宮中生活の食生活文化を究明したいと話す。
[参考:12/3聯合ニュース]

コメント:
 非常に形と色のよい碗である。中国では、酒を飲む杯として使用していたのであろうが、口径10cmであるから、日本人からみれば茶碗に適している。展覧会で見る宋時代の茶碗といえば、通常は北宋時代(10~12世紀)のものであるが、この時期は南朝宋(5世紀)であるから、500年以上も遡る。写真で見る限りこの時代に、このような味わいのある茶碗が作られたとは驚きである。


[12月10日掲載分]
ソウル・風納土(풍남토상)城 漢城百済時代の住居跡、5世紀頃の倉庫跡が出土
 11月26日聯合ニュースは、韓国文化財庁国立文化財研究所が行っているソウル市松坡区の百済初期都城の風納土城 (史跡 第11号)の発掘調査で、百済遺構が大量に出土したと報じた。
発掘調査場所: ソウル市松坡区風納1洞197番地一帯
出土遺構:
①漢城百済(B.C.18~A.D.475)当時の住居跡など100余基
②計88余基の竪穴、そのうち倉庫とみられる大小の長方形竪穴21余基
遺構は一列に並んで造成されて群を成しており、計画的な造成意図が伺えるとする。
 特に長方形竪穴の中の一つでは高さ1m以上の大型甕が3個出土しており、この竪穴の性格が隣接する経堂地区など中心地にあった宮廷や官庁で必要とされる食糧などを保存した倉庫だったとみられる。
 今回の調査された長方形倉庫群が泗比時代木槨倉庫の源流だった可能性があるとする。
③長方形竪穴周辺で南北と東西方向に通る溝の遺構を確認。溝遺構は既に確認された東西道路の軸と連結して、97年に調査された経堂地区南側の溝遺構らとも延長線上にあることが明らかになった。
④中国北魏(386-534年)の影響を受けたと見られる蓮華文瓦当(연화문수막새)が完全な形で初めて出土。 最近経堂地区で出土した蓮華文瓦当片(注1)とほとんど同じ模様で、仏教が百済に伝来した以後の漢城百済後期と伝えられる蓮華文瓦当が製作し使われたことを立証するという。
 蓮華文瓦当は、菱形に近い葉(素弁)が6つあり、葉には軸がある。内房は円があるだけで種子は見られない。外区にも殊文はなく素文帯のようだ。いわゆる、素弁六葉蓮華文瓦当となる。
[参考:2008.11.26聯合ニュース]

注1:
 今年の3月30日に、206号遺構から出土した蓮華文瓦当片1点は、中心部の内房が全て現れるが、蓮弁が2枚だけ見えるものであり、瓦当の直径は復元すると12cm程度であり、漢城百済時代に使用していたことが確実になったと結んでいた。[参考:2008.3.30聯合ニュース]

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