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佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見

2010年05月20日 | Weblog
2010.5.20 現地説明会が5月16日に行われ、歴史ファンら約300人が訪れた。
 一緒に出土した備前焼すり鉢の破片などから、市教委は村中城の一部の可能性があると判断した。
 説明会では、市の担当者が「発掘された遺構は、村中城か、寺社など付属施設の建物跡と考えられる」と解説。
 市は7月まで調査を続け、現状を保存した上で埋め戻し、道路を整備する方針。
[参考:時事通信]

2010.5.15 佐賀市・佐賀城跡 龍造寺氏の居城・村中城の遺構を初発見
 佐賀市教委は14日、同市城内1丁目の「西の御門橋」近くの市道工事現場で、戦国大名・龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529-84)の居城だった中世の平城(ひらじろ)・村中城の掘立柱建物跡2棟が見つかったと発表した。佐賀城の前身とも言える村中城関連の遺構が確認されたのは初めてという。
 龍造寺家は、鎌倉時代から肥前国の有力者だったが、全盛期を築いた龍造寺隆信が薩摩・島津氏との戦いに敗れ敗死したのを境に没落。その後、領国を鍋島家が掌握し、鍋島直茂(1538-1618)・勝茂(1580-1657)父子が江戸期の1608-11年、村中城を拡張し、巨大な堀を有する佐賀城に整備し、佐賀藩を創設した。村中城に関する資料や遺構は見つかっておらず、詳細は一切不明だった。
 今回の発掘調査は、市道改良工事に伴って2~7月の予定で実施している。
 佐賀城西堀に架かる「西の御門橋」周辺350㎡で、江戸時代の地表を80cm掘り下げたところ、地面に支柱を埋めて建造する「掘立柱建物」2棟の柱穴跡が東西に整然と並ぶ状態で計25個見つかった。穴の大きさはほぼ同じで、東側建物の穴は、直径が平均55-65cm、深さ50cm、西側は直径、深さとも平均65cm。いずれも約2~2・5m間隔で並んでいた。
 柱穴は、調査区外まで広がっている可能性が高いため、全体の規模や種類は特定できていない。ただ、現場の同じ地層から、16世紀後半の中国・景徳鎮や朝鮮半島産の高麗青磁や国産陶器などが見つかり、建物跡が大規模であることから、隆信時代の村中城の関連建物と判断した。有力家臣の屋敷や寺社といった城の付属施設と考えられるという。
 現地説明会が16日午前9時半から開かれる。10時、11時、午後2時、同3時に各約30分間担当者が解説する。小雨決行。
[参考:西日本新聞、読売新聞、佐賀市HP]

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