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富山市・百塚遺跡 弥生時代後期~古墳時代の埋葬施設 ガラス玉が出土

2009年11月22日 | Weblog
 市埋蔵文化財センター(同市愛宕町)が19日、呉羽山丘陵の北端にあり神通川の西岸に位置する百塚遺跡(同市百塚)で木棺の周囲に川原石が敷き詰められた弥生時代後期~古墳時代初頭の埋葬施設が県内で初めて発見され、周囲の墳墓からはガラスの小玉約70個も見つかったと報道陣に公開した。
 調査は、県道富山八尾線の工事に伴い05年から実施。今年度は9月から約2100㎡を発掘。弥生後期~古墳時代初頭(約2000~1800年前)の墳墓や古墳が計11基見つかった。今回初めて、埋葬施設が2か所確認された。
 このうちの1基は、直径30cm程度の川原石が敷き詰められた埋葬施設で、長さ約2・5m、幅約1・2m、深さ約1m。石は木棺を固定するために敷かれたとみられるが、棺の下部にも積まれた珍しい構造で61個が確認された。神通川の河川交通を掌握していたことを示すため、意図的に川原石が使われた可能性もあるという。
 これまで棺の底部分に石を敷き詰めた埋葬施設は群馬県や長野県でも見つかっているが、周囲にも積まれていたものは珍しいという。さらに副葬品として鉄製の鏃(長さ約7cm)1点なども出土した。
 出土した他の古墳・墳墓は、■四隅が切れたタイプの方形周溝墓4基、■1辺だけが切れた方形周溝墓1基、■円形周溝墓4基など。いずれも一辺や直径が6~10mだった。
 このうち方形周溝墓の埋葬部分からは、直径3~5mmの美しい鮮やかな青色のガラス小玉が約70個見つかった。中央に糸を通す穴があり、首飾りなどの装飾品として遺体につけられたとみられる。当時、ガラスは北陸に伝わったばかりで、これだけ多くのガラス玉が出土したのも県内初という。1カ所からの出土例では、これまで同市杉谷の杉谷A遺跡の27個が県内最多だった。神通川の河川交通を掌握する有力な集団が富山平野に存在していたと推測されるという。
 呉羽山の北端に位置する同遺跡付近一帯は、長らく埋葬地区とされ、これが「百塚」の地名の由来とも考えられている。
 百塚遺跡は、初代富山藩主の前田利次が富山城を築く予定だった場所とされ、遺跡からは江戸時代の人骨と瀬戸焼も見つかった。
 富山平野では、国指定史跡「王塚古墳」がある羽根丘陵と、呉羽山丘陵南部で、有力な集団がいたとされていた。05~07年には、百塚遺跡の北側に隣接する遺跡から、弥生時代終末期~古墳時代初頭の円墳や方墳などが10基以上見つかっていた。呉羽山丘陵には複数の集団が存在したが、やがて統合されて「王塚古墳」ができたとみられる。
 調査は来年前半まで続く予定。
 21日午前10時~正午には現地説明会が開かれた。
[参考:2009.11.19~20 富山新聞、北国新聞、KNB北日本放送、北日本新聞、毎日新聞、朝日新聞]



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