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庄原市 佐田峠3号墓 弥生時代・約2000年前に築造の四隅突出型墳丘墓を確認

2008年08月29日 | Weblog
 広島大大学院文学研究科と同市教委は28日、庄原市宮内町の佐田峠3号墓が同時代中期末葉から後期初頭(約2000年前)に築造の「四隅突出型墳丘墓」と発表した。
 1989年に国道183号バイパス工事に伴う調査で墳丘墓群の存在が判明。今年度から5年間の第2次調査に取り組み、今月初めから発掘作業を始め、佐田峠墳墓群にある3つの墓のうちの1つを発掘した。
 同3号墓は、東西15・3m、南北7・95m、高さ1・2mの長方形。墓の斜面が大小の川原石や平らな石が張り付けられ、南東側突出部に長経30~50cmの比較的大きな石が張り付けられていた。
 また、中央部から、3基の埋葬施設が見つかり、長さ1・6m、幅60cmほどの木棺も確認された。また、副葬品には土器片約100点も出土した。その中に、祭祀などに使われたとみられる大型の台付鉢形土器片には緻密な模様が刻まれた「鋸歯(きょし)文様」が描かれていた。そのことから、被埋葬者は地位の高いリーダー格の人物と推定されている。
 四隅突出型墳丘墓は同時代、中国山地から島根、鳥取両県などにかけて盛んに造られ全国で約100基が確認されており、「前方後円墳」の原型になったと見られている。
 3号墓の大きさと形態は、弥生中期後葉から後期前葉のほぼ同時期に造られた三次市の国指定史跡・陣山墳墓群と3号墓近くにある佐田谷1号墳の中間に位置するもので、同研究室の野島永准教授は「初期の四隅突出型墳丘墓が、三次・庄原地域で独自に発生、発展した変遷の過程をたどることができる貴重な遺跡」と話す。また、この地で発展した四隅突出型墳丘墓がその後、県北、山陰などに広まっていった可能性もあるという。
 調査結果の現地説明会は30日午前10時から同市宮内町佐田峠で開かれる。問い合わせは市教委文化振興係(0824・73・1189) 市では、調査完了後、史跡指定の申請をする方針。問い合わせは庄原市教委文化振興係(0824・73・1189)。
[参考:中国新聞、読売新聞、朝日新聞]
庄原で初期の四隅突出墳丘墓(中国新聞) - goo ニュース

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1 コメント

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山陰考古学 (大和島根)
2008-10-20 04:54:36
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、
それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興
されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓
が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田
の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるの
ですがどちらなんだろうと思ったりもします。

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