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木津川市・鹿背山城跡 「薬医門」跡が見つかる、興福寺時代から存在か

2010年02月25日 | Weblog
 同市教委は24日、戦国武将・松永久秀(1510~77)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡(同市鹿背山)の発掘調査で、「枡形虎口」と考えられていた通路奥から、寺院山門などに見られる「薬医門」跡が見つかったと発表した。
 鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。「多聞院日記」などの文献で、15世紀後半に興福寺(奈良市)の出城であったことも知られ、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
 調査は三つある主郭のうち、北の主郭と西側の竪・横堀群で実施した。北の主郭への通路は、これまで「枡形虎口」と考えられてきたが、今回の調査で通路が途中から広がることなどが分かり、奥から礎石(長辺約50cm、短辺約40cm)1個と2カ所の据え付け跡が見つかった。この門(柱間南北約2.1m、東西約1.5m)は、城の性格や据え付け痕跡、周辺土塁の位置関係から四脚門、唐門ではなく、寺門にも多い薬医門だと推定した。薬医門は山城には珍しく、周囲に遮蔽物も見られないことなどから、興福寺時代から存在し、松永久秀は大規模な整備を行う一方、主郭部分は興福寺時代の格式を重んじ継承したと考えられるとしている。
 また、松永久秀時代に整備された虎口脇の土塁から、瓦2点や土器が出土し、特徴が15世紀のものと一致したことから、土塁を構築する以前、持仏堂のような瓦葺きの建物があり、『儀礼の場』になっていたのではと推測する。
 現地説明会は27日の午前11時と午後1時に開かれる。
[参考:京都新聞、奈良新聞]

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 木津川市・鹿背山城跡 多聞櫓の遺構

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