モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No37:セッセ探検隊⑤:世紀の谷間に消えたセッセ探検隊の成果

2017-02-22 15:33:11 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No37

探検は1795年まで続けられ、第四回の探検は1793年4月にスタートし、メキシコ南東のベラクルーズ方面を探検した。第五回は、1794年にグアテマラ、キューバ、サントドミンゴ、プエルトリコを探検した。
その後、セッセ探検隊は、二年間メキシコシティでまとめ作業をする。この作業には、一人離脱したロンリーウルフ、ロンギノスを除き全メンバーが参加した。

この間にモシニョーは、クレオールの医者のLuis José Montaña と共にメキシコの植物の薬効研究を二つの病院Hospital General de San AndrésとReal Hospital de Naturalesで行っていた。
この研究は、セルバンテスによって「Ensayo a la Materia Vegetal de México」というタイトルで要約され、患者に接して診断・治療を行う医学分野で、現代の臨床医学の基礎となったという。
臨床医学の先駆的なトライアルだったが、医師の仕事を監督する厚生省的な機関であるProtomedicatoによって厳しく批判された。
新しいことは“たたかれる”ことから始まるが、モシニョーも例外ではなかった。

1797年からは、セッセ探検隊はキューバの植物相の調査をしていたMopoxの探検(1797-1799)とジョイントすることになり、アーティストのエチェベリアが1797年10月からこの探検隊に加わる。この探検隊はキューバの珍しい小麦を発見したことで知られる。

スペインへの帰還
1803年にスペインに戻る準備が出来た。しかし、まだいくつかの問題を抱えていた。
セッセは家族と一緒にいたが、モシニョーは家族の問題を抱えていて旅行することが出来ない状態にあった。アーティストのセルダは、もう一人のアーティストエチェベリアがMopox探検隊と一緒にマドリッドにいるため、メキシコの当局から出航を禁止され、センセブは黄熱病にかかりメキシコに留まらざるを得なかったという。

最終的に、セッセを初めとした一向は1803年10月20日にCadizに到着した。
モシニョーは、これよりも早く1803年7月31日に送った荷物と共に先に到着していた。
セッセ達が帰還した1803年は、ヨーロッパを巻き込むナポレオンの闘いが始まる年であり、フランス・スペイン連合が英国と戦い、英国に海上支配権を奪われる途上にある年であり、植民地メキシコとの行き来も困難になるギリギリの時期だった。

1787年から1803年までの16年間のセッセ探検隊は、
送り出したカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)は亡くなり、メンバーを選んだオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)は失脚し、マドリッド植物園の園長は、カバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に取って代られ、1801年から彼が死亡する1804年まで務めていた。
またカルロス三世の後を引き継いだ息子のカルロス四世(Carlos IV, 1748-1819、在位:1788-1808)は愚鈍であり、科学には興味すら示さなかったようだ。

セッセ探検隊の成果
セッセ探検隊の完全な成果は現在把握できていない。
王立マドリッドガーデンに保存されているのは、図面が1335、3500種の標本(内200種が新しい属で、2500品種が新種)であり、地理学・地質学・民俗学的な記述がされているという。

王立マドリッドガーデンに保存されているものはセッセ探検隊の成果の一部のようで、モシニョーが所持していた動植物画はハント財団が所有し、これをコピーした図面がジュネーブにあるという。また、植物標本の一部は、当時のスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだようだ。この標本は現在キューガーデン、大英博物館にあるという。

スペインに戻った一行は、1803年から時代の波に翻弄され1世紀、或いは2世紀も忘れられることになる。

1870年頃メキシコ自然科学協会は、マドリッドにセッセ探検隊の成果報告書である二つの原稿があることを知りこれを手に入れようとしたが不可能だった。そのコピーを手に入れることで満足した。これが元になり、1887年にメキシコでやっと出版がされた。
『Sessé y Lacasta and Joseph Mariano Moçiño, Plantae Novae Hispaniae』 (Mexico City: I Escalante, 1887).
『Sessé y Lacasta and Joseph Mariano Moçiño, Flora Mexicana 』(Mexico City: I Escalante, 1887).

また同じことが起こってしまった。
エルナンデスの時(メキシコ探検期間1571-1577)も200年間忘れられていて、この完成を目指したはずのセッセの探検隊も200年近くしてやっと全貌が明らかになった。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
« No36:セッセ探検隊④:仲たがい | トップ | No38:セッセ探検隊⑥:漂流す... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
読み物 (花ひとひら)
2011-01-15 17:27:39
ご無沙汰いたしております。
こちらは雪に閉ざされています。おもしろい読み物を読ませていただいているようで、暖かい部屋で楽しいでした。有り難うございます。
返信する
花ひとひら (キャスパー)
2011-01-16 10:34:42
新年おめでとうございます。
光陰矢のごとし、光りのスピードですから当然でしょうが、一年の短さを痛感している昨今です。
東京も朝方から雪が降り久しぶりのお湿りでした。この大学共通試験の日は雪が降るジンクスがまた続きましたが、新大学生が足元をしっかり踏みしめるよう天の声なのでしょうか?
返信する

コメントを投稿

Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検」カテゴリの最新記事