メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No32
フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)のメキシコの博物学的な探検は、1571-1577年に実施された。
この時の国王はフェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)で、ポルトガルを併合することによりスペインの領土が拡大し、国力が絶頂期でもあった。
フェリペ二世の視点はシンプルで、征服地から金・銀・宝石などを略奪するだけではなく、開拓を視野に入れていたようで、薬草などの有用植物を発見し、これを育成栽培することにより貿易収支の改善などを意図していた。
このような考え方があったから、王室の出資でエルナンデス探検隊が実現した。
その後、このような探検隊を派遣することもなくなり約200年が経過した。
これは何故なのだろうという疑問があった。エルナンデス探検隊の成果、報告書を使いこなせなかったためなのか、提唱者フェリペ二世が亡くなったので一件落着で忘れ去ったのか、組織として定着しにくいことをしたのか、引継ぎが出来ない国民性があるのかなど疑問は解決していない。
もっとも、この200年間のメキシコでは、領土の拡大とフロリダ、テキサス、カリフォルニアへの進出に忙しく、その過程で銀山が発見され(1545ペルーポトシ、1546サカテカス、1548シナロア、サルガード、1592サン・ルイス・ポトシなど)、花よりは銀の方がお好みだったのだろう。
新世界探検王といってもよいカルロス三世
(出典) wikipedia
エルナンデスから200年後のカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代になってからまた突然に新世界の科学的な植物探検が始まる。
カルロス三世が出資した次のような植物探索の探検隊が三つもこの時期に集中して実施され、その他にも太平洋の調査などがされた。
1.Real Expedición Botánica a los reinos de Perú y Chile(王立植物探検ペルー&チリ1777-1788)
2.Real Expedición Botánica del Nuevo Reino de Granada(王立植物探検グラナダ新王国1782-1808)
3.Real Expedición Botánica a Nueva España(王立植物探検メキシコ1787-1803)
200年間も眠っていたスペインのこの突然変異的な変わり方には、一体どうしたのだろうという驚きがある。この組織だった動きは、後に世界の園芸市場を動かすことになる英国以上のダイナミックさがある。さらに論理的で戦略があった。
戦略的な拠点は、マドリッド王立ガーデン・植物園
マドリッド王立ガーデンは、1755年にカルロス三世の前国王の時に設立された。1759年に宮殿併設の庭園として設立された英国の王立キューガーデンよりもちょっとだけ早く設立されたことになる。
カルロス三世は、このガーデンを庭園として珍しい植物を展示するだけでなく、植物学を教え、新しい植物を発見・採取する探検を促進する拠点と考えていたという。
何時ごろからこのような考えを持つようになったか定かではないが、庭園から植物園の方向に機能を拡張したのは1770年頃なのだろう。
このガーデン初の植物学教授に任命されたのがオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)であり、彼は1771年から60歳までの1801年までこの職についていたことから推測できる。
そして、カルロス三世のビジョンの二番目は植物の研究機能を高めることで、ヨーロッパの探検隊が集めた植物の新種の収集と研究をオルテガに委任した。
三番目のビジョンが新しい植物を発見・採取する探検隊を発信・推進することであり、1777年にペルーとチリの植物相を調査する探検隊を出発させ、1782年にはグラナダの植物相調査、そして、カルロス三世が亡くなる1年前の1787年にはメキシコの調査をスタートさせた。
先王が作ったマドリッド王立ガーデンを劇的に変化させ、先進植物学の拠点となったマドリッド王立ガーデン、その中心となり推進したオルテガは、スペイン王室がスポンサードしたペルー・チリの探検隊が収集した植物について広範囲に研究成果を発表している。
わき道にそれるが、晩年のオルテガは、彼の同時代のライバルで1801年からマドリッド植物園の園長となったカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に蹴落とされる。
三つの探検隊の成果を見ることなくカルロス三世は亡くなったが、カルロス三世の考えは、イギリスの科学・探検を組織的に推進したバンクス卿(Sir Joseph Banks, 1743 –1820)と同じ時期の相通じる発想であり先見性があった。
しかし、上り坂にあるイギリスと下り坂を転げ落ちているスペインとの国力の差が継続性で違いがでたのか、植物相が豊かなスペインと貧弱なイギリスとの願望の強さの差がついたのか後世に引き継がれなかった。
長続きしていれば素晴らしい果実を手に入れられたのに、続かないところがスペインらしいのだろう。やっぱりカルロス三世は突然変異だったのだろう。
こんな背景で、セッセのメキシコの植物相調査・探検が始まる。
フランシスコ・エルナンデス(Francisco Hernandez 1514-1587)のメキシコの博物学的な探検は、1571-1577年に実施された。
この時の国王はフェリペ二世(Felipe II 1527-1598、在位:1556-1598)で、ポルトガルを併合することによりスペインの領土が拡大し、国力が絶頂期でもあった。
フェリペ二世の視点はシンプルで、征服地から金・銀・宝石などを略奪するだけではなく、開拓を視野に入れていたようで、薬草などの有用植物を発見し、これを育成栽培することにより貿易収支の改善などを意図していた。
このような考え方があったから、王室の出資でエルナンデス探検隊が実現した。
その後、このような探検隊を派遣することもなくなり約200年が経過した。
これは何故なのだろうという疑問があった。エルナンデス探検隊の成果、報告書を使いこなせなかったためなのか、提唱者フェリペ二世が亡くなったので一件落着で忘れ去ったのか、組織として定着しにくいことをしたのか、引継ぎが出来ない国民性があるのかなど疑問は解決していない。
もっとも、この200年間のメキシコでは、領土の拡大とフロリダ、テキサス、カリフォルニアへの進出に忙しく、その過程で銀山が発見され(1545ペルーポトシ、1546サカテカス、1548シナロア、サルガード、1592サン・ルイス・ポトシなど)、花よりは銀の方がお好みだったのだろう。
新世界探検王といってもよいカルロス三世
(出典) wikipedia
エルナンデスから200年後のカルロス三世(Carlos III, 1716-1788、在位:1759-1788)の時代になってからまた突然に新世界の科学的な植物探検が始まる。
カルロス三世が出資した次のような植物探索の探検隊が三つもこの時期に集中して実施され、その他にも太平洋の調査などがされた。
1.Real Expedición Botánica a los reinos de Perú y Chile(王立植物探検ペルー&チリ1777-1788)
2.Real Expedición Botánica del Nuevo Reino de Granada(王立植物探検グラナダ新王国1782-1808)
3.Real Expedición Botánica a Nueva España(王立植物探検メキシコ1787-1803)
200年間も眠っていたスペインのこの突然変異的な変わり方には、一体どうしたのだろうという驚きがある。この組織だった動きは、後に世界の園芸市場を動かすことになる英国以上のダイナミックさがある。さらに論理的で戦略があった。
戦略的な拠点は、マドリッド王立ガーデン・植物園
マドリッド王立ガーデンは、1755年にカルロス三世の前国王の時に設立された。1759年に宮殿併設の庭園として設立された英国の王立キューガーデンよりもちょっとだけ早く設立されたことになる。
カルロス三世は、このガーデンを庭園として珍しい植物を展示するだけでなく、植物学を教え、新しい植物を発見・採取する探検を促進する拠点と考えていたという。
何時ごろからこのような考えを持つようになったか定かではないが、庭園から植物園の方向に機能を拡張したのは1770年頃なのだろう。
このガーデン初の植物学教授に任命されたのがオルテガ(Ortega, Casimiro Gómez de 1740-1818)であり、彼は1771年から60歳までの1801年までこの職についていたことから推測できる。
そして、カルロス三世のビジョンの二番目は植物の研究機能を高めることで、ヨーロッパの探検隊が集めた植物の新種の収集と研究をオルテガに委任した。
三番目のビジョンが新しい植物を発見・採取する探検隊を発信・推進することであり、1777年にペルーとチリの植物相を調査する探検隊を出発させ、1782年にはグラナダの植物相調査、そして、カルロス三世が亡くなる1年前の1787年にはメキシコの調査をスタートさせた。
先王が作ったマドリッド王立ガーデンを劇的に変化させ、先進植物学の拠点となったマドリッド王立ガーデン、その中心となり推進したオルテガは、スペイン王室がスポンサードしたペルー・チリの探検隊が収集した植物について広範囲に研究成果を発表している。
わき道にそれるが、晩年のオルテガは、彼の同時代のライバルで1801年からマドリッド植物園の園長となったカバニレス(Cavanilles, Antonio José 1745 - 1804)に蹴落とされる。
三つの探検隊の成果を見ることなくカルロス三世は亡くなったが、カルロス三世の考えは、イギリスの科学・探検を組織的に推進したバンクス卿(Sir Joseph Banks, 1743 –1820)と同じ時期の相通じる発想であり先見性があった。
しかし、上り坂にあるイギリスと下り坂を転げ落ちているスペインとの国力の差が継続性で違いがでたのか、植物相が豊かなスペインと貧弱なイギリスとの願望の強さの差がついたのか後世に引き継がれなかった。
長続きしていれば素晴らしい果実を手に入れられたのに、続かないところがスペインらしいのだろう。やっぱりカルロス三世は突然変異だったのだろう。
こんな背景で、セッセのメキシコの植物相調査・探検が始まる。
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