モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No35:セッセ探検隊③:準備・第一回の探検(1787-1788年)

2017-02-22 15:32:17 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No35

セッセ探検隊の背景
2009年のメキシコの人口は1億7百万人で、人口減少に転じた日本の1億2千7百万人をいつか抜く時が来るだろう。
しかし、時代をセッセが活躍した1800年前後に戻すと、コロンブス以降のメキシコの人口は大幅に減少した。この最大の原因が、ヨーロッパ人及び奴隷として連れてこられたアフリカ人が持ち込んだ感染症系の病気(コレラ、インフルエンザ、マラリア、麻疹、ペスト、天然痘、結核、腸チフスなど)で、免疫性がないネイティブが大量に死亡した。
付け加えておくと、鉱山・農場などでの過酷な労働により死亡した人数も結構多く、メキシコの人口は20世紀までコロンブス以前に戻らなかった。

特効薬が発見されていないので、自然界からの薬草・鉱物などを試す以外ない。現代では当たり前になっている患者を診察して治療する臨床医学の始まりは、医者であり植物学者のチームであるセッセ探検隊のメキシコでの実践からスタートしたという。

(図)コロンブス以降のメキシコの人口

(出典) HISTORICAL REVIEW「Megadrought and Megadeath in 16th Century Mexico」
(注)1545年と1576年のcocoliztliは、メキシコネイティブの言語ナワ語でウィルスによる出血熱を意味する。

逆に、コロンブスは、ヨーロッパにハイチの風土病といわれる梅毒を持ち込んだという説が有力であり、日本にはヨーロッパ経由で1512年に入ってきたという。帆船の時代に20年で世界を一周するほどの猛スピードで広まった。

200年前にエルナンデスがメキシコの植物相を調べたが、その成果は共有されずに膨大なコストをどぶに捨ててしまった。
生贄を神に奉げるアステカの宗教とそれに関わった薬草などを根絶やしにしようとした方針がエルナンデスの薬草などの調査研究を活かさなかったが、ここまで人口が減るとメキシコの原始からの医療を研究する機運も出てくる。

メキシコからの王室の収入は、銀などの鉱業、染料の原料、成人男性のネイティブと混血の一部に課された人頭税(年間3~5ペソ)などであり、スペインからの輸出貿易も人口減の影響を受け停滞する。
人口減の原因となっている病を治癒する方策、つまり、エルナンデスが調べたメキシコの原始医療で使われていた薬草とその効用の再調査に踏み切ったのだろう。

セッセの探検隊スタート
■ 登場人物
セッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808):探検隊長兼メキシコ王立植物園の責任者
セルバンテス(Cervantes ,Vicente (Vincente) de 1755–1829):メキシコ王立植物園最初の植物学教授。
センセブ(Jaime Senseve  ?-1805):薬剤師、薬学者として参加。
ロンギノス(Longinos, Martínez, José ?-1802):セルバンテスの弟子、ナチュラリストとして参加。
キャスティリョ(Castillo ,Juan Diego del 1744-1793):プエルトリコの王立ガーデンのコミッショナー、植物学者として参加。

探検の準備は1787年から始まる。
1780年から軍医としてメキシコに来ていたセッセは、国王から許可が下りた1787年3月20日以降にサント・ドミンゴ、プエルトリコ、キューバの病院を訪問し、セッセのテーマである同じような寄生虫病の研究がなされているのを学んだ。そしてメキシコシティに戻り、オルテガが選んだメンバーとジョイントした。

他のメンバーの動向だが、センセブは、メキシコにいてサンアンドレスの病院で薬局のアシスタントとして働いていた。
セルバンテスは、新しく創立するメキシコの王立ガーデンで植物学を教えるための準備で忙しく、師でもあるオルテガが著したリンネの方式に基づく植物学の本などを取り寄せる準備をしていた。
ロンギノスは探検隊に参加するために、1787年7月1日にカディス(Cádiz)を出航し、11月28日にメキシコシティに到着した。

セッセのノートには、探検のスタートを1787年10月1日と書いていた。それはきっとこの旅行から始ったのだろう。
ロンギノスがまだ到着してはいなかったが、セルバンテスがメキシコの植物園で教育を始めるための彼の準備をしている間、セッセとセンセブは、現在は国立公園となっているメキシコシティ郊外にあるロスレオネス砂漠で短い採集旅行をした。

(写真) Desierto de los Leones

(出典)10000birds.com

1788年3月27日には、メキシコ王立植物園をオープンさせ、直ぐ結果を出したが探検隊のメンバー同士での喧嘩が絶えなかった。問題児はセンセブのようだ。

メキシコの最初のBotany探検は、1788年5月2日に始まり、セッセ、センセブ、ロンギノスの三人がメキシコシティの南方にあるモレロス州を6ヶ月間旅行した。
キャスティリョは、1788年7月17日にプエルトリコからメキシコシティに到着し、8月10日から遠征旅行に参加する。また、メキシコシティへの期間の時に素晴らしい植物画を残した二人のアーティスト、セルダ(Vicente de la Cerda(Juan Cerda)生年月日不明)、エチェベリア(Echeverría ,Atanasio y Godoy、生年月日不明)が参加した。また、セルバンテスによって訓練される学生も参加させられた。

オルテガが選んだメンバーが出揃ったが、ますます仲が悪いのが明確になり、また、メキシコ副王国の行政府とのトラブルが絶えない惨憺たる出発だった。
どこがもめたのだろうか推測すると、探検隊での地位と給与なのかもしれない。セッセとセルバンテスは最後まで残るが、1000ペソの他の三人は分裂することになる。

(続く)

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