モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No39:セッセ探検隊⑦:漂流するモシニョーと植物画:その2

2017-02-22 15:33:58 | Sessé&Mociño探検隊、メキシコの植物探検
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No39

ドゥ・カンドールがコピーした「ジュネーブの女性のフローラ」
ドゥ・カンドール(Candolle, Augustin Pyramus de 1778-1841)がモシニョーのコレクションとともにジュネーブに戻った翌年の1817年、モシニョーにスペイン入国の許可が下りた。
たんにスペインに戻ってきていいよ! 
ということではなく、「コレクションを持ち帰るならば、モシニョーの作品を公表・公開する」というこれまでに無い申し入れだった。

思えば、1803年に希望に燃えてスペインに凱旋したはずのモシニョーは、14年間に貧困と将来に対する絶望を味わい、スペインを捨てフランスに逃げた。今のかすかな希望は、ドゥ・カンドールによるモシニョーたちの成果の発表だけだった。

盲目になってしまったモシニョーだが、あまりの強烈な光が差し込み、目だけでなく心がクラクラとなってしまった。
モンペリエで死ぬか? スペインで死ぬか? 言い換えると、ドゥ・カンドールに期待するか? スペインに期待するか?の選択だったのだろう。

モシニョーは、スペインに戻ることにした。
結果的にスペインに“誑(たら)し込まれた”のだ。
なんと下品な言葉だが、“誑し込む”がピッタリと状況を表わしている。
“誑し込む”の意味は、女郎が甘言や色仕掛けでたぶらかす、或いは、だまして自分のものとする。ということであり、スペインの医学アカデミーはモシニョーを“誑し込んだ”のだ。

”誑し込まれた”モシニョーは、ジュネーブにいるドゥ・カンドールと連絡を取り、預けた原稿と植物画を返してもらうことにした。

一方、ドゥ・カンドールは、貴重なモシニョーのコレクションが混乱が続くスペインでは完全な形で管理が出来ないことを危惧してコピーを作ることにした。

この当時はコピーマシーンが無い時代なので人力で写す以外ない。
ジュネーブ中から植物学を学ぶ人間と、美術学校などでデッサンが出来る女性120人をかき集め、返還の約束をした10日間で1200枚をコピーしたという。
ドゥ・カンドールに渡した動植物画の総数が1400枚といわれているので、かなりの数を写し取ったことになる。
別の説では、8日間で860枚の動植物画と119枚の下書きをコピーしたとも言われているが、このコピーは、今でもジュネーブ植物園に「Flora de las Damas de Ginebra(ジュネーブの女性のフローラ)」という名で保存されているという。

モシニョーのコレクションの行方?
マドリッドに戻ったモシニョーは、貧困と失明で苦しみ、最終的にはバルセロナに住むグアテマラでの友人James Villaurrutia の家に招待され、1820年5月19日にここでなくなった。
モシニョーのコレクションは、彼が亡くなった1820年から行方が不明となる。

一説によると、モシニョーのコレクションのうち原画は、最後を看病した医師Rafael Estevaに渡ったといわれている。
また、4000種の植物標本は、1820年にマドリッドに戻り、当時のスペインの植物学者パボン(Pavón, Jiménez José Antonio Jiménez 1754-1840)のコレクションに紛れ込んだようだ。
このパボンの標本は現在はキューガーデン、大英博物館にあるという。
ちなみにパボンは、セッセ探検隊よりも早い1777-1788年に実施されたペルーとチリの植物相探検隊に植物学者として参加したメンバーであり、モシニョー同様の辛苦をなめたようだ。

「FLORA MEXICANA」と「PLANTAE NOVAE HISPANIA」の二つの原稿は、マドリッド植物園に戻り、1870年頃メキシコ自然科学協会は、マドリッドに二つの原稿があることを知りこれを手に入れようとしたが不可能で、そのコピーを手に入れ1893年に出版にこぎつけた。

(図1)Sessé y Lacasta, Martín de & Mociño y Losada, José Mariano. Flora Mexicana. [...] Editio secunda, 1893

(出典)Real Jardín Botánico, CSIC

(図2)Sessé y Lacasta, Martín de & Mociño y Losada, José Mariano. Plantae Novae Hispaniae. [...] Editio secunda, 1893

(出典)Real Jardín Botánico, CSIC

1789年のフランス革命は、スペインの植民地に独立の気運と勇気をもたらした。セッセ探検隊がメキシコを離れた7年後の1810年から独立のための闘争が始まり1821年に独立するまで続いた。
このメキシコの独立がセッセ探検隊の調査したメキシコの植物資源に目を向けさせ、彼らが活動した時から約1世紀後に日の目を見ることになった。

ドゥ・カンドールは、モシニョーの資料を検証し、1852年に出版された大作のシリーズ著書『植物界の自然体系序説』Vol.13にメキシコの植物を記述したので、彼もモシニョーとの約束を守り公開した事になるが、セッセおよびモシニョーが採取した植物であることを記述しなかったので、私自身もわからなかった。

モシニョーの植物画の出現
モシニョーが死亡した1820年以降、行方のわからなかったオリジナルの約2000枚の動植物画が1981年にバルセロナの個人の図書室で出現した。
所有していたのはTorner家で、1800枚の植物画と200枚の魚・昆虫・爬虫類・鳥・哺乳類の水彩画であり、1981年に2000ペセタでアメリカのハント財団が購入した。
所有していたTorner familyはこの価値をわからなかったようだ。

セッセ探検隊がスタートしてから200年後にモシニョーの志が日の目を見たことになる。モシニョーの執念が実ったのだろうか。

兵を生かすのは将であることは言うまでもない。
しかしスペインの場合、賢帝の後に愚帝が来たために持続した意思がなく、兵は生かされないでしまった。
そして初期の目的も、歴史的な価値も生かすことがなかった。


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