モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その9.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-05-19 16:10:02 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その9:
中国を舞台とした稀有なプラントハンター、フォーレスト、ウイルソンの“それぞれ”

フォーレストの悩み
フォーレストは中国・雲南地方に7回の旅をしている。
最初の旅は、リバプールの綿仲買商 ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)をスポンサーに1904年から1906年に実施した。しかし帰国後にスポンサー及び紹介者のエジンバラ植物園管理者バルフォア(Balfour ,Isaac Bayley1853-1922)との間で探検旅行の成果物の取り扱いについてトラブルが生じた。(→その7を参照

バルフォアとは信頼関係を取り戻したが、ビュアリーには不信を強めることとなる。
特に、次回の探検旅行についての年俸と経費の話し合いの中で、危険手当もなく年間600ポンドの報酬を引き下げ、さらに、この範囲内で失った写真機を買い印画紙などの高価な消耗品もまかなえという強い要望には、逃避行を経験したフォーレストにとって大荷物の写真機は邪魔な代物であるだけでなく、今度は経済的にも「貧乏な私を殺したいのか?」という思いを抱いたようだ。

ビュアリーと決別するには新たなスポンサーを探さなければならない。
バルフォアは、米国、ハーバード大学のアーノルド樹木園長サージェント教授(Sargent, Charles Sprague 1841-1927)から中国に派遣するプラントハンターの推薦を頼まれていてフォーレストに紹介をした。

フォーレストは、ヴィーチ商会でサージェント教授と会い彼の希望を聞いた。サージェントは、米国ニューイングランドで育つ耐寒性が強い樹木の収集を望み、年俸300ポンドを提示した。バルフォアは経費を別途上乗せすることにして、この提案を受け入れるように説得したが、フォーレストは幾つかのためらいがあり返事をしないままで時間だけ浪費してしまった。
フォーレストのためらいは、雲南にはまだまだ未発見の植物が多数あると感じているので、耐寒性が強い植物を探すために中国北部には行きたくなかったということと、結婚したての妻クレメンティーナが第一子を妊娠していることが気がかりだった。

(写真)アーネスト・ウィルソン探検の姿
      
(出典)ハーバード大学アーノルド樹木園

アーネスト・ウィルソンとの遭遇
フォーレストがもたもたしている間にサージェント教授の提案を受け入れたのは、フォーレストより3歳若いアーネスト・ヘンリー・ウィルソン(Wilson ,Ernest Henry 1876 –1930)だった。

彼は、植物学の学者になりたいという志望があるが、21歳の時の1897年にキュー植物園に勤め、中国に派遣するプラントハンターを紹介して欲しいというヴィーチ商会からの要望に対して、当時のキュー植物園長ダイヤー(William Thistleton-Dyer)がウィルソンを推薦した。
実務を学ぶために翌年の1898年にヴィーチ商会のナーサリーで半年ほど研修をし、米国ボストンにあるハーバード大学のアーノルド樹木園でサージェント教授に会いサンフランシスコから中国に向かった。
1899年6月3日に香港に到着したので、フォーレストより中国のプラントハンティングでの先輩であり、プラントハンターとしての腕もヴィーチ商会の期待を上回る成果を挙げた。

この時、米国経由で中国に行ったことに不自然さがあった。
1869年の末にスエズ運河が開通しているので、米国経由で中国に行くこと自体に時間的経済的な合理的理由がなくウィルソンが初めてのようだ。この時からプラントハンターだけでは終わりたくないという意識があったのだろうかと思ってしまう。
ボストンでサージェント教授に会ったことは後にウィルソンの進路を決定づけることになった。

この時代の英国では、フォーレストとウィルソンはプラントハンターの世界の両巨頭ともいうべき人物で、アーノルド樹木園サージェント教授で接近・クロスオーバーした二人は、“決断”と“躊躇”が違った軌跡を描く軌道に乗せ、遠く離れて行くことになる。

フォーレストは雲南の植物に魅せられ、ウィルソンは米国・ハーバード大学アーノルド樹木園という新天地に魅力を感じたのだろう。
フォーレストがためらっている間の1906年12月にウィルソンはボストンのサージェントのところに向かった。

フォーレスト第二回探検旅行の謎
フォーレストは決断しなかったためにチャンスを逃してしまったのだろうか?
これがこれからの謎解きとなる。

史実があまりないが、1910年1月にフォーレストは中国に向けて旅立った。フォーレスト第二回の中国探検旅行は、1910-1911年までの短期間で謎に満ちた旅行のようだ。
最大の謎は、彼のスポンサーが誰だか良くわからない。

ラングーンに着いたフォーレストは、ビュアリーからの探検費用が到着していないので150ポンドが電信為替で届くまで船から下りられずにいた。フォーレストはビュアリーとの契約が継続していると思っていたようだが、ビュアリーの方はフォーレストとの契約はフォーレストに厳しい内容の新しい契約でなければ継続しないというつもりのようであり、探検費用を送らなかったとしか思えない。
フォーレストはラングーンでビュアリーとは二度と契約をしない決心を固めた。極め付きはこんな手紙の文章となる。『スコットランド人は卑しいといわれるが、それよりも卑しいけちな英国人がいた。その最大な人物がビュアリーとヴィーチ(Harry Veitch 1840–1924)だ。』 
ちなみにハリー・ヴィーチは、後継者がいないヴィーチ商会最後の経営者で賃借りしていた広大な土地の契約満了とともに1914年に商会を解散した。

一方、ビュアリーの方は、フォーレストの手紙への返信として『貴方が中国に行きたいといっても私はそれを望みません。』という決定的な破局を通知して、1911年1月にフォーレストに変わる新しいプラントハンター、キングドン=ウォード(Kingdon-Ward, Frank1885-1958)と契約をし、雲南のツツジ・シャクナゲ・ツバキなど彼が関心あるものを集める手配をした。
もちろん紹介者はエジンバラ植物園のバルフォアだったが、もう一人の偉大なプラントハンターがデビューする契機になった。

ビュアリーの言い分は、フォーレストは自分以外のスポンサーと浮気しているということだった。確かにこの第二回の探検旅行はおかしなところがありダブルスポンサーの匂いがある。

フォーレストの新しいスポンサー
J・C・ウィリアムズ(Williams ,John Charles 1861-1939)がスポンサーとして登場するが、どうも第二回の探検旅行から絡んでいるようだ。
第三回(1912-1914年)の探検旅行はJ・C・ウィリアムズが単独で、第四回以降はJ・Cが中心となって設立したシャクナゲ愛好家の集まりが投資グループを作って出資することになる。
シャクナゲ愛好家が集まっているので、成果報酬が明確で新種のシャクナゲが採取された場合はボーナスを出すことになり、フォーレストは少なくとも309本の新種でボーナスをもらったという。
シャクナゲ、サクラソウのフォーレストと言われるが、フォーレストが英国にこれらの花卉植物のブームを作った出発点にいたことは間違いないが、成果報酬のボーナスがさらに人気をあおる働きをしたともいえそうだ。

このJ・C・ウィリアムズについて調べると、彼の家系は、産業革命時期に英国南西部のコーンウォール州で鉱山業で財を形成し、美しいケアヘイズ庭園を作った華麗な家族で知られている。
彼自身は銀行家及び州議会議員であったが、34歳の時の1895年に政治をあきらめてから庭造りに熱心になった。
この略歴は、フォーレストの最初のスポンサー、ビュアリーと似るところがある。

ケアヘイズ&キャッスル庭園(Caerhays Castle and Gardens)は、現在一般公開され、100エーカーの庭園には、ツツジ、ツバキ、マグノリアなど世界的に有名なコレクションがあるが、これらは、ウィルソン、フォーレストなどのプラントハンターが採取して送ってきたものであり、またこれらを親として交配させた園芸品種もある。

この地所は、1370-1840年まではトリヴァニオン家(Trevanion family)が長く所有したが、1807年にキャッスルが完成するが、この建築のために破産しパリに夜逃げしたという。バッキンガム宮殿を設計したジョン・ナッシュ(John Nash)がこのキャッスルを設計したので、頼むヒトを間違ったか、頼み方を間違ったのだろう。
ウィリアム家がこのケアヘイズの地所を手に入れたのが1853年であり、1880年にJ.Mウィリアムズが死亡し、息子のJ.C.ウィリアムズが18歳の時にこの土地を相続した。

J.C.ウィリアムズは早々に政界・実業界から引退をし、1910年から1939年の彼の死までの期間、J.Cは、情熱を込めて園芸品種の開発・交配に力をかけた。ツツジ、ツバキで彼が作出した有名な品種が誕生するので中途半端ではなかったようだ。

フォーレストとウィルソン、その後
フォーレストは、31,015の植物標本を集め英国に送った。その中には、新しい1200以上の植物種が含まれ、サクラソウ、ツツジ、ツバキ、クレマチス、リンドウ、ジャスミン、針葉樹の多くのおなじみの種などで英国の庭をにぎわせた。

フォーレストは引退した後に自伝を書こうと思っていたようだが、彼の足跡はヨーロッパに送った中国・雲南の珍しい植物でしか知ることが出来ない。
しかしこれすらわからないプラントハンターも結構いるのではないかと思う。フォーレストは、採取した植物標本の全てを王立エジンバラ植物園に送り続けていたからこそ可能となり、バルフォアとの出会いが彼の歴史を残したともいえる。

彼は、愛する雲南の現場で成果をだすことだけに徹していた生涯プロのプラントハンターであり、現役のまま彼が愛した雲南・騰沖の近くで1932年1月6日に急性心不全で死亡した。
友人リットン領事の隣の墓に埋葬されたというが、その場所はわからない。

わからないのには理由がありこれも意外な事実と重なった。
日本陸軍が南方に侵略していき、1942年5月10日、第56師団が“騰越(騰沖)”を占領した。フォーレスト、リットンが眠るところであり、1944年6月27日から始まった中国軍・米軍の攻撃で日本軍守備隊2000名強が玉砕した。
この時にかなりの空爆を受けたことと復旧に墓石が建築資材として再利用された形跡があるため、二人の墓がわからないという。

フォーレストは、本当に何も残さなかった生涯ただの一プラントハンターだった。

ウィルソンは、1909年9月に米国に行き、アーノルド樹木園の職員となり、1927年についに園長となった。

(写真)アーネスト・ウィルソン
      

初志が異なる二人はそれぞれの道を歩んだようであり、アーノルド樹木園長サージェント教授の申し入れを“決断をしたウィルソン”と“躊躇したフォーレスト”が、人生のゴールの逆転を許さなかったのかもわからない。
そんな気がする。
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