伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

私の健康法「真向法」と「調息法」

2015年12月07日 | 健康雑感

12月12日     (土)       

天気が冴えない。あたりはすっかり冬の情景、風が冷たいし散歩する気分にもなれない。身体を動かす機会がないから、こんな日は私にとって「不健康日」ということになる。

いつもにように朝風呂で私の健康法「真向法」と「調息法」をやることはやるのだが、風呂の流し場はこの時期になると少し寒いので早々に切り上げることが多い。

身体の健康法が十分でないなら、せめて頭の健康くらいには気を配らねばなるまい。

そんな冬の一日!

そんな次第で、今日はパソコンの前に座ってなにか新しいことにチャレンジすることにした。身体の健康不全を頭の活性化で補うということにでもなろうか。

かなり前になるがMr.ITからPDF文書をWord文書に変換できないだろうか、という質問を受けていたことを思いだした。

私もかつてそうした必要に迫られて調べたことがあり、その時は「有料ソフト」を使う以外に適当な方法が見つけられなかったので、そうお答えをしておいた。

だが、果たしてそうなのか、もう一度「PDF→Word」が可能かどうか初心にかえってよく調べてみることにした。

やる気があれば、答えはおもいのほかに簡単。さほどの時間がかからず解決できた。

なんのことはない。Adobe Reader DC を立ち上げ

① 当該PDF文書を開く     ② 編集で「すべてを選択」    ③ ファイルで「その他の形式で保存     ④ テキストを選ぶ     ⑤ 名前を付けて保存

⑥ テキストファイルをすべて選択     ⑦ Wordに変換

こんなに簡単だったのだろうか? ひょっとしたら Adobe Reader がバージョンアップされて新しい機能が追加されたのかもしれない。

いずれにせよ、難問だったPDF文書の編集が可能になったことは嬉しい。

ところで、1987年創刊から2013年の104号まで長きにわたって年4回続けられた三金会雑記の全号はMr.NBの努力によってDVD一枚にPDF文書として収められている。

これまでこの文書はPDFだったからみることはできても編集することが出来なかった。

だが、ようやく編集かのうとなりブログにも転記できるようになったので、私が現在も続けてきいる「健康法」に関する記事を以下に転載してみた。

なお、この際に付言すると、私の「健康法」は記載のとおり「真向法」と「調息法」であるが、現在は私が勝手に変形し、省略化したもので「真向法」「正心調息法」というには少々口幅ったい思いの独自型である。

いずれも朝の入浴時に真向法は洗い場で、調息法は浴槽で、Phoneで音楽を流しながら行っており、「真向法」の第一、二、三体操は本来の形通りだが、第四体操は洗い場が狭いので浴槽内で脚をおりまげての簡略型で、調息法は「正心調息法」を大幅に修正してその腹式呼吸だけで済ませている。

すべて浴室で音楽を聴きながら温泉につかっての簡略簡便型の健康法、私はこれを「ながら健康法」と自分なりに名付けている。風呂にはいり「ながら」やっているので、負担がすくなく、さほど努力せずとも長年続けることができていると思っている。

 


「三金会雑記」 1995年/12月号   (34号)

     「真向法」という健康法

WHO(世界保健機関)が定義するところによると、六五歳以上は「高齢者(老人)」で「従属人口」だという。これは働かず人に養ってもらう世代ということを意 味する。なるほど、年金が貰えるということは、とりもなおさず若い世代に養って貰うということにほかならない。

三金会の諸兄姉もおおむねこの年齢に達しつつあることは喜ばしいことのようであり、また一面、悲しむぺきことでもあるのであろう。

ところで、老人ともなると自ずと社会的活動が低下し、社会との接点も小さくなる。従って、その共通する話題も身近な事柄に限定されてくるのも自然の勢いといえる。主たる話題は「健康の話と孫の話」だとなにかの本に書いてあった。なるほど雑記の巻頭にある三金会例会での諸兄の会話内容にもそれがうかがえる。もっとも孫のいない家庭もあるから、共通する話題が「身体」のこと「健康」のことが中心になっているようだが・・・・。

話は変わるが、わが家は、定年退職後平成元年に建てたから今年で築六年ということになる。これまでは具合のわるいところは全くなかった。ところが、最近になってにわかに家のあちこちに故障らしきものが出始めた。今月に入って、木製カーテンロッドの支えがはずれた。素人がいじるのは嫌だからカーテン屋に来て貰った。

そしたら今度は窓サッシの鍵の心棒が折れるという事故があった。いずれも大した故障とはいえないにしても、そうした小さな故障が続けて起こったということは、なにやら家全体の老化を示しはじめた兆しのように思われる。

そうした目で子細にわが家を点検してみると、テラスの土台には僅かにクラックが入り始めているし、風呂のタイルの一部の目地に小さなヒビも見つかた。外壁の白色もなにやら少しくすんできているようだ。

目を転じて畑をみても、開設してから三年余にして既に、散水用のホースにも水もれが見られる。丈夫だと折り紙つきのホースだったのだが、太陽にさらされ雨に打たれ続けた歳月はホースを確実に劣化させてきた歴然たる証拠だ。

人間の血管だって同じことだろう。われわれが過ごしてきた六五年の歳月を思えば、少々血圧が高くてもよくぞ頑張ってくれていると感謝と労いの言葉をかけねばなるまい。

若いときの身体の故障は時間さえ経てば確実に回復していた。しかし、この年になると不可逆的というか、もう元には戻らない故障的変化が多くなる。せいぜい、更に悪化させることがないように労りながら、大事に大事に長持ちさせることに心掛けるべきであろう。

誰もがそんなことを心のどこかで感じ、早ければ四〇歳代くらいで、遅くても六〇歳を過ぎれば、何らかの健康法めいたものに関心を持ち始めるのは必至である。健康法なんてものはやらない、などという御仁も、多分それは健康法を続けることができなかっただけのことであろう。

「禁煙なんて簡単だ。俺はもう何度もやってきた」とは、マーク・トウェーンの名句だが、健康法も始めることは簡単、しかし続けることは甚だ難しいということに尽きる。

不惜身命ではないが、なにごとにも見事に割り切って私的生活をエンジョイしているかにみえる編集助手平野君にしたって、毎日夫婦そろって体操をしているという話を聞いたことがある、鍼にも通っているらしい。ローラー式健康器具が座敷に置いてあるところをみれば、多分まだ粗大ゴミにはならずときどきは座ってマッサージ摩擦をかけているに違いない。

こうして人一倍健康に気を使っているからこそ、ああも優雅に過ごせるのであろう。

もともと、健康器具なぞというのは、粗大ゴミになる宿命をもっている。早いのは、買ってから数回使っただけで、そのまま放置されいたずらに納戸に場所を占めた挙げ句の果て粗大ゴミに出されるのが普通である。何年も継続して日常的に使われるなどむしろ驚くぺきことに属するといえそうだ。

繰り返すが、健康法の最大の問題は継続することにある。長い年月にわたって続けることは決して容易なことではない。安い健康器具ほど寿命は短い。高価なものはすこし長く使われるが、それなりの根気と努力がいる。

そういう僕も例外ではない。これまでには健康器具の粗大ゴミを盛大に生産してきたし、やってみたことのある健康法も数しれない。一寸思い出すままに列挙すれば、ローラ式健康器具、青竹踏み、背伸ばし器、たわし摩擦、下半身浴、自律訓練法、ラジオ体操、α波、鍼、くこ、灸、散歩、玄米食、酢卵、酢豆、朝鮮人参、あまちやづるなどなど。恥ずかしながらゴマンとある。(この上に、青野君が最近はやたらと茸ヨーグルトとやらを勧めてくる。)

短ければ二、三日、中には何年か続いたものもないわけではないが、効果があったかなかったかはいずれも定かではない。

そんななかで一つだけ、かなり長く続いたもの、そして今なお続けたいと思っているのが「真向法」(まつこうほう)である。「続けたい」とは、早い話、現在はやっていないということなのだが・・・・

真向法は、健康法としての知名度はあるいは「全国区」的といっていいのかもしれない。隠れた愛好者も多く、ひょっとしたら三金会員にもいるのではと思うほどだ。鈴木前東京都知事がテレビなどで若さを誇示するパフォーマンスとして見せたこともある。最近では、司馬遼太郎「街道を行く 8 」を読み返していたら、次のような文章にも出会った。

「八十歳ですか」と、思いきり値上げしてみた。いいや、ちがう、と相手の人は言い、「九十だ」と、言った。

そのあと、なぜ九十でこんなに元気かという秘訣を教えたい、と言い、よほど気の短い人なのか、当方の返事もきかず、いきなり正座したままあおむけにひつくり返ってしまった。真向法という健康法だとかいって、両脚を水平に開いてぺたんと畳にくっつけるなど、幾種類かの運動を披露した。(豊後日田街道)」

そう、これが真向法である。簡単にできる。実施時間は僅か三分間。場所は畳一畳もあればできるとされている最も簡単な健康法だ。テレビを見ながらでも、風呂場でも、べットの上でもやろうと思えばできる。簡単だからこそ長続きもする。その最終のねらいが、「長生き」でなく「死ぬまで元気」というのもいい。

(図を御覧下さい。)


だが、その効果の程をと聞かれると少々辛い。なにしろ、十五年以上も前に始めたことは確かだが、途中でしばしば中断しており、忠実な実践者だったとはいい難いからである。でも、これをやっていると確かに背筋が伸びて姿勢がよくなるという一事はまぎれもない。また、その効果であるとは断定できないが、僕はこれまで腰痛なるものをまだ経験したことはない。また、メニエル病の後遺症として肩が張るという経験はあったが所謂「四十肩」「五十肩」といわれる厄介な肩凝りはこれまで知らない。

何度か中断しながら再開を繰り返し、断続的とはいえ結構長い間続いた真向法だが、実はそれには一寸した理由らしきものがないわけではない。

それは渋谷にある真向法本部から月一度「健体康心」という機関紙を送ってくれていたお陰だと思うのである。年会費千円で毎月送ってくるのだが、その都度「真向法をやっていますか」と督促されるような気持ちになり、またぞろ始めるということが何回もあった。

もっともこの機関紙、内容はいつもきまって同じ様なもので読むところはほとんどないという代物である。編集が、言っては申し訳ないがお粗末過ぎる。

こんなこともあった。毎号第一面に真向法本部理事の肩書きを持つ大先生が「健康こそ大事」だったかの題で、真向法をやっていればいつまでも健康に過ごせるといった趣旨のお話を長く続けてくれていたのだが、ある時パタリと連載中止になった。そして、その掲載箇所には「先生が健康を害しているため当分連載を中止する」という編集部のお断りが載っていたのである。なにやらブラック・ユーモアめいた話だが、その程度の機関紙である。

でも、その機関紙のお陰で、再開を促され断続的ながらも長く続いたのだから僕にとって十分有益な機関紙でもあったわけである。

しかし、異変が起こった。昨年だったか郵便料金が一拳大幅に値上げされたため、年千円では送料が賄えなくなって機関紙の年会費が三千円となったのである。それを機に購読を止めてしまったのがよくなかった。催促されることがなくなって、以来今日まで中断が続く仕儀となってしまったのだから。

しかし、現在やっていないのは真向法を見限ったわけでは決してない。再開のきっかけが掴めないだけなのだ。

三金会雑記の原稿〆切というのは意外に早く来る。書くべき話に事欠いて苦し紛れに真向法を取り上げたわけだが、よし、そうだ、この原稿を書いたのを機会に、明日から真向法を再開するぞと今心を新たに決意した次第である。

 


「三金会雑記」    2002年冬  62号

     再び「健康法」について

私は間もなく七三歳になる。これまで頭で理解していた観念的な「老い」とは違って、極めて現実的な相貌を帯びた「老い」の実像が間近に肉迫してくる思いにとらわれる日が多くなり、今こそ「健康法」の大切さを考えさせられる昨今となった。

「健康法」といえば、これまではせいぜい中壮年層に焦点を当てたもので、七〇老、八〇老などはその対象から外されていたが、高齢化社会の急速な進行で最近はマスコミでも老人の健康法、なかでも「呆け」防止について語られることが多くなってきている。

つまり「健康法」の中で「老い」を養う「健康法」がようやく市民権を得つつあるようだ。

私は随分以前から健康法には関心があったが、この年齢になってみると若い時とはいささか違う「老い」の観点から改めて「健康法」を見直す必要があるように思えてきた。

かつて「三金会雑記」に私が試みたことのある健康法について書いたことがある。「たわし摩擦」(1987年7月 2号)と「真向法」(1995年12月 34号)である。確かその後、平君から「僕も真向法をやっている」と聞いたことがあった。

「たわし摩擦」の方はとっくに止めてしまったが、「真向法」だけは、これまでに中断した回数は数え切れないが、ともかく断続的ながらも随分長い間続けてきている。

その効果かどうかは定かでないが、人から年齢より若いと言われる度に「真向法」のお蔭だと心の中では思っていた。背筋が伸び姿勢が良くなったのは疑いなく「真向法」のせいである。また病気らしい病気もしないで今日までなんとかやってこれたのも多分「真向法」のお蔭なのだろう。

ただ、健康法としての「真向法」に一つだけ不満めいたものを感じていた。それはこの健康法の創始者とその継承者が今の日本人の寿命からすれば必ずしも長命ではなかった事実を知ったからである。それに千葉に住み真向法グループの支部長を名乗っていた私の先輩格の人も七〇歳代前半で亡くなっており、「真向法」が果たして老人の健康法として万全かどうか、いささか不安がなくもなかった。

そうした折も折り、これぞという別の健康法の存在を偶然に知ることになった。その健康法が「正心調息法」である。「正心調息法」という健康法を信奉するに至ったのは、その創始者が現在百歳、今なお元気溌刺として週一回ゴルフを楽しみ、しかも八七歳、九〇歳、九四歳の時にエイジシュートを三回達成したというおそらく世界でも数少ない記録保持者であるという実例が存在していることが大きい。

その創始者の名は塩谷信男医学博士。ゴルフ界では知る人ぞ知る著名人でもある。東京帝大医学部卒業後八三歳で引退するまで現役の医者だったというキャリアを持つ。

生まれつき健康とはいえなかったのに、この健康法を完成させたのが六○歳、以後は老化どころか年々健康度が逆に向上してきたといい、どんな人でも「正心調息法」さえ続ければ百歳まで元気で自立した生活が送れると公言している。

この先生の引退後の住処が私と同じ伊豆東海岸の熱海というのも私には嬉しい。「正心調息法」とは直接関係ないが老後を養う生活環境が似通っているのが心強い。

この「塩谷式正心調息法」のやりかたは至って簡単。いつでもできる、どこでもできる、誰でもできる、お金もかからない、やる気さえあれば至極手軽に実行できる健康法である。

その基本となるのは「人間の健康に最も大切なものは酸素、人間は普通の呼吸では酸素が不足する。酸素を十分に供給することによって身体も心も健全になる」というもので、酸素をもっとも効率よく吸い込む腹式呼吸法として塩谷博士が完成させたのがこの「正心調息法」だという。

一日二五回の塩谷式の腹式呼吸を繰り返す、所要時間は概ね二〇分。ただ継続することが鍵だと言う。

世の中にごまんとある健康法だが、その中で腹式呼吸法を基礎としているものは甚だ多い。ヨガもそうだし太極拳もそうだ。二木式腹式呼吸法というのもあれぱ座禅もこれに近い。私が励行してきた「真向法」も実は一種の腹式呼吸法といえなくもない。


私が「正心調息法」を知り、始めてから丁度二ヶ月ほどが経過した。いまのところ一日も欠かすことなくなんとか続けているが、お蔭で身体が軽くなり、なにかしら身体の不調感も消えつつありへ気分的にもぐんと安定したように思っている。


百歳まで生きることを目標にしたわけではないが、これからの私の「健康法」はこれ以外にはないと心に決めている。


[追記】

この原稿を書いていたとき、次のような新聞記事が目についた。

「中曽根康弘元首相は現在八四歳にはみえない精気はどこから来るのか。『健康に一番必要なのは、精神の安定。それに呼吸法ですよ。』という。大きく吸った空気を背骨から尻の穴を通して、その下にイメージした深さ三千メートルの井戸に静かに吹き込む。」(二月四日付朝日新聞朝刊)
中曽根さんのやりかたは「正心調息法」とは少し違うが、どうやら基本は「正心調息法」と同じかと思われる。

 

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1 コメント

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Unknown (エイジング)
2015-12-12 18:39:07
信念が通ってることにちょっと感動しています!

古い記事も楽しいですね。
だいたいわが夫と同年齢のころのお話。

うっすらですが、読んだ記憶があるのにびっくりしました。

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