8月27日 (水) /
平成25年「簡易生命表」によると日本人の平均寿命は、男性80.21歳(女性86.61歳)である。
そして今年84歳になる私の「平均余命」は6.61歳とあるから、平均値としてみれば、私は94+6.16=90.56歳となり、90歳、2020年の東京オリンピックをみるまで長生きする可能性はきわめて高い。
長生きすることがいいことかどうか、この齢になってみれば、必ずしも一概にいうことはできないが、同じ生きるのであれば自分なりに満足した生を送りたいと思う。つまり高齢者にとってもっとも大切なものとされる「生き甲斐」を持つて生きていきたい。
しかし、一言で「生き甲斐」といってみても、前期高齢者の場合と後期高齢者の場合とではすこし違ったものになるように思う。高齢者になったばかりの頃の「生き甲斐」とは、まだ若さを引きずっており、なにか意味ある目標達成に向けての積極的な取組を意味するもののようだったが、後期高齢者となり、さらに平均寿命を超え、超高齢者にちかくなってくると、その意味合いはかなり変化してきているように思う。
少しく気負った仰々しい目標にむかうものではなく、Well-being というか、平凡な日々の生活にあって「楽しくあること」であればいいという程度のものを考えるようになってきている。
つまり「残る人生を楽しく過ごす」、そこでの「生き甲斐」とは、日常の日々の生活をそれなりに「楽しむ」ことだと思うようになっている。
昨今のそんな心境にあったところで、たまたま橘曙覧(タチバナアケミ)のという幕末の歌人の「独楽吟」という歌集があることを知った。
橘曙覧は広く人に知られていないが、正岡子規や斉藤茂吉が高く評価していたようで、それなりに名のある歌人であるらしい。
その「独楽吟」は「たのしみは……」で始まる52首が収められている。
たとえば、こんな風のもの。
「たのしみは 草の庵の筵敷き ひとり心を静めおるとき」
「たのしみは そぞろ読みゆく書(ふみ)の中に 我とひとしき人を見しとき」
「たのしみは 空暖かに打ち晴れし春秋の日に 出で歩くとき」
「たのしみは 常に見慣れれぬ鳥の来て 軒遠からぬ樹に鳴きしとき」
「たのしみは ふと見て欲しく思うもの 辛くはかりて手に入れしとき」
「たのしみは 庭に植えたる春秋の花の盛りに会える時々」
などなど。
まことにたわいのない歌で、日常の些細な出来事の中にたのしみを見出しその喜びを詠みあげている。
この歌が本当に優れた歌なのかどうか私にはさっぱり分からないが、少なくとも「些事」を楽しみとするその考えそのものは、現在のわたしにとって誠にインストラクティブで、「生き甲斐」=「楽しむ」ことについておおいに学ぶところがあった。
「楽しみ」とはなにも特別の出来事に喜びを見出すというものではなく、日常のごく些末な出来事の中に「喜び」を見付けることにあるという考えである。
「天気がよかった」「美味しかった」「よく眠れた」「うまくできた」「よく務めた」「よく動いた」「体調がよかった」などなど、なんでもいい。そんな些末な小事に「喜び」を見出し、楽しむことである。
要は、ものごとの捉え方もしくは感じ方である。明るくみる、嬉しく感じる、感謝する、などの感情を伴ってものを見ることだ。それによって「楽しみ」は生まれる。
橘曙覧は若くして隠棲し57歳で亡くなっているから年老いての「楽しみ」を歌ったとはいえないが、こうした心境に常時あることこそが超高齢者の「生き甲斐」につながる日常生活の「楽しみ方」だと思う。
ところで、最近の私は物忘れがひどくなってきていることもあって、毎朝起きてからパソコンに向うとき、その日に行う予定事項を「TO DO メモ」として付箋に箇条書きする習慣がいつしか身に付いている。
その日のうちに「やること」「やらねばならないこと」「やりたいこと」など思い付く限りランダムに書き散らすのだが、メモったからといてそのすべてをその日にやり遂げるというわけではない。
時間が足らなかったり、そのうち気が向かなくなったりして、未完に終わるものも少なくなく、あくまでTO DOの手がかりとなるその日の心覚えでしかない。
橘曙覧の歌に触発されて、これを更に一歩進めて、このメモをみることにした。すなわち、このメモは「やるべき仕事」ではなく「楽しみ」をもたらしてくれる源泉となる事項を拾い上げたものだと理解することにしたのである。
「やりたいこと」は当然ながら楽しい事柄だが、「やること」や「やらねばならないこと」は必ずしも「楽み」であるわけではない。例えば期限付きの雑務や家事の手伝いなど面倒な仕事・労働の類がある。そうしたものだから、その日にやろうと思っても手が付かなかったり、未完に終わるたり、後に繰り延べてしまうことが多かった。
だが考えてみれば、現在の超高齢者の境遇としては、やりたくないことであれば、なにもしなくてもそれなりに過ごせるわけだし、嫌々やらねばならない義務的なものなど本来的にはほとんどないのであるから、「やること」「やらねばならないこと」も元をただせば日常生活の中で時間を費消する自分なりに意味あるものであってみれば、進んでこれに当たればそれ自体が「楽しみ」に転化することは可能である。すこし厄介なことでも「やれる」という自信がもたらす喜びがあり、うまくやり終えたときの満足感、その行為の過程も含めて達成感は「楽しみ」を生み出してくれる。
なんであれ、些末な小事を行うことを積極的に受け止めるのであれば、結構「楽しみ」を見出すことができるものである。
橘曙覧に倣って日常の些末な出来事に「楽しみ」を見出すだけでなく、その思いを拡張して「メモ」に従いやるべき事項の見方を・感じ方を変えることができれば十分「楽しみ」に転化することができそうである。
こうした心掛けをこれからしっかり身につければ、これからの余生はうまくいきそうである。