9月11日(日)/
丁度いまから半年前のこの日、2011年3月11日午後2時46分、日本に深い爪痕をいまだに残す「東日本大震災」が発生している。
3万人の犠牲者を出した地震・津波によるその惨状は忘れることができない記憶として我々の心に刻み込まれてしまっている。
一方、10年前のこの日、2001年9月11日にはアメリカで世界を震撼させた「同時多発テロ」が発生している。
そして、その犠牲者3千人のうちには日本人24名も含まれている。
この驚天動地の大事件を経て、アメリカはもとより世界の様相は一変してしまった。
現代に生きる我々は、自分とは離れた場所で起こり、やがて我々自身にも直接・間接に関わってくることにもなるこうした異常・非常事態を身近に映像を通して、しかもほとんどリアルタイムで見ているのである。
なんともやりきれない凄まじい映像だが、この二つの事件は異質のものでもとより同時性を持つものであろうはずはない。しかし、シンクロナイズされていないとはいえ私にはなんだか事件は重なりあって見えてしまう。
そうであるのに、それにもかかわらずというべきか、個人の私の上に流れゆく時の推移に、この事件はなにほどの変化をもたらすことなく、いたずらに平々凡々の毎日が過ぎ去っていっている。
これが生き生きと生きてきた壮中年期を経て辿り着いた人生の果て「老境」といわれるものの実態なのか。「動」ではなく「静」の世界。
そんな思いで、ふっと劉廷之の詩を思い浮かべた。
古人無復洛城東 今人還対落花風 年歳歳花相似 歳歳年年人不同
年々歳々人は同じではないが、年々歳々花は同じだ。
人はそれぞれに齢を重ね老いていき、社会はかつてないほど激変していくが、花は季節がくればいつもと同じように咲く ということか!
今年も秋が来て、去年と同じように庭に植えた2種類の「秋明菊」が花開こうとしている。