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脳化の弊害,その2:特別じゃないなにかに価値をおかない

2006-06-28 14:02:39 | ココロ
前回は「誰かのせいにしないと納得できない社会」というのは脆弱では?ということを書きました。今回は前回の最後に書いたように「自我の膨張」について書きたいと思いますが,もう少し具体的に書くと,昨今の「誰でも出来るが,誰かがやらないといけないこと」の軽視に対する懸念です。

…と書いてしまえば終りなのですが,つまり今の人は「特別な何か」「誰にも出来ないことを出来る」って事に妙な価値をおいていて,普通の人になることを価値が低いとみなしている様に思います。有名な「オンリーワン」にしても「特別な人」です。ナンバーワンという「特別」じゃないにしてもいずれにせよ誰もがなれるものではありません。そうじゃなくても「普通の人でいいじゃないですか,いけないんですか?」という事を更に言いたいわけです。

というのは,世の中というのは特別な人だけでは回らないようになっていて,普通の人が普通のことをするのが物凄く必要なのです。つまり「普通」というのは「必要」という意味で価値があるわけです。これは「超バカの壁」で養老先生がおっしゃってますが,仕事というのは道に空いた穴を埋めるようなものだ…ということです。つまり誰もやっていないことをやるのではなく,必要とされていることをやる。その場合「別に自分でなくてもいいのだけど,たまたま自分がいたからやる…」でもいいんじゃないか?…ということです。

言われてみれば,それでいいはずです。必要なことですし,誰かがやらないといけないのですから,感謝されることはあっても卑下されることは無いはずです。なのになぜ,誰でも出来ることをやるのが低く見られるようになったのでしょうか?…。

元々人間は「何か」になりたいという欲求を持つように出来ているとおもいます。それはおそらくは親離れするために必要な本能で,幼少時代の親と自分の同一視から,親を切り放すために,新しい「何か」になろうとする。だから思春期の青少年はその欲求が人一倍強いわけです。しかし昨今の自意識の膨張は,単に親から離れるために必要だった,脱皮のエネルギーが周囲からもたらされる過剰な情報を飲み込んで回し始め,その結果,親だけではなく,社会からも,そして自分からも乖離した新たな何かを目指そうとするようになってしまいました。自分しか出来なくて,そして誰もがその価値を認めるような「ナンバーワン」や「オンリーワン」を目指すように…。

その事自体は,それによってその人が潰されないのであれば,悪いこととは思いません。人は自分を自分以外の何かにしたい…ということをエネルギーにすることができます。しかし,誰もがそれを実現出来るわけではないし,いつまでもそれを続けていけるわけじゃない,そして,誰もがそれを目指すと社会は崩壊するわけです。その時に「普通」に生きることを選んだとしても本来はそれを低く見る必要は無いでしょう。だけどそうじゃない風潮が広がっている,その結果,「特別になれなかったのに普通にもなれない」ニートや引き籠もりが増えてきてるのだと思います。

昔は「身の丈」…というありましたが,身の丈にあった事をするのはそんなに悪いことじゃない,むしろ生きていくための知恵として認められていた気がします。しかしいつのまにか,そんな生き方を奨励する人は減ってしまいました。自分を特別と思うことは間違ってません。しかしその自分の特別さを社会に認めさせたりしようとすると無理が来ます。人はそもそも一人一人が特別な生き物ですが,それでも普通に生きていくことも重要なのです。それが出来ないとしたらそれは自我の膨張が無理な次元まで進んでいると言えるでしょう。自我の膨張は,「誰でも出来ること」という様な具体的な行動や役割以外にも,個人の規範を脆くして,いろんな行動に悪影響を及ぼしている気がします。

今回は,役割について書きましたが,脳化そして自我の膨張が他に弊害をもたらしていることについては,また書くかも知れません。とりあえず,今回はこの辺で…。
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