たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

すぐに答えが出ないこと

2010-11-30 08:00:00 | ココロ
科学真理教――ホメオパシー問題で思ったこと」というのを読んで。要は科学だって普通の人は実証実験を出来るわけじゃないし,論文を読もうにもどの論文がちゃんとした論文かわからないし,科学的立場で知るのは一般人には無理。だから一般人にとっては科学なんて権威のある人が信じている宗教みたいなもの,ってな感じのことを言ってます。

基本的には,その考えには賛成です。ただちょっと読んでいて,あまりにも消極的すぎないか?…という気がしました。自分が実証実験をするっていうのはさすがに,専門家の中でもみんながするのは無理ですが,文献を読むのも無理みたいに書かれてしまうと,少しはTRYしてくださいよ…と言いたくなります。

時間がかかるから無理,と書いたり,論文誌の格がわからないから無理みたいな感じですが,時間がかかるとダメなんでしょうか?。時間がかかるのを時間をかけて,ついでにいうとWebで検索するだけじゃなくて,本屋や図書館に出かけたり,詳しい人に聞いたりして回るから,その人の知識に価値がつくんではないか?…と思います。あと論文誌の格は確かにわかりにくいけど,専門家に聞いたり,引用関係とか調べていくうちにわかります。まぁこれは大変ですけどね。

もちろん,全てのことにそんなに時間がかけられないから,専門家を盲信する…っていうのもありでいいんですが,気になること,こだわることを,ある時期に一つとか二つとかもって,足を動かして調べることはとても良いことだと思いますよ。

こういうのをみていて,最近誰かが,今の人はすぐに答えが見つからないとダメ…って言っていたのを思い出しました。「ダメ」っていうのも,色々あるんだろうけど,とにかくしつこく調べる…事をあまりしない。無視したりとか,わからないと諦めたり…とかでしょうか?

ちょっと別のことですが,「がんの入門書ってあるのだろうか?」というのを読んでいても,わからない…と書いているのですが,がんのように,様々な種類があり,なおかつ状態によって治療法とかも様々な病気を,一冊の本でわかろうというのにも無理があるんじゃないかな?という気がしました。

わたしの場合,自分ががんになってからがんの勉強を始めましたが,多くの文献をあたってようやくイメージがつかめました。漠然としたまま保持するのって辛いんですが,そういう状態を経ないと,腑に落ちない物ってたくさんある気がします。今はWebでもWikipediaだけ調べてわかった気になったり,本も新書一冊で納得とかそういう人が多いのかも知れませんが,とにかくすぐに答えを出したがる人が多いのは,そうかもしれません。でも答えを出さずに,紋々と疑問を忘れないままもち続けること,それが重要です。

わからないまま考え続ける事自体が科学的…態度の一つだと言えないでしょうか?
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夢を追うには生々しいことが必要

2010-11-29 19:00:00 | 社会
匿名日記に「アートで生きていくと決めた君のために。 」という文があった。こう書くのもなんだけど,良い文だと思う。

文はアートで食べていくには,「嫁」「大学院」「木っ端仕事」「ともだち」「東京に住む」「バイト」「強い心」が必要と書いている。文章は軽い文体で書かれているけど,書かれている内容は多分あっていると思う。嫁とか友達とか書いているのも,心の支えというよりは経済支援とか仕事を得るためとか,そういう生々しい話。

要はアートで食べるというのは夢を追うとか,好きなことで食べると言うことなんだけど,夢を追うには,かえってきれいごとではなくて,生々しい計算が必要だということ。夢を追うんだから,他の部分は妥協でもなんでもしろということでもある。

面白いなと思ったのは文は「アート」と書かれているけど,これ研究とかで食べるとか言うのでもほとんど同じ。食べるために仕事を選ぶじゃなくて,好きなことを仕事に選ぶ場合は,多かれ少なかれこういう計算は必要なんだろうな…と思った。夢を追うにはしたたかさが必要なんだろう。

余談だけど,「吉祥寺」の名前が出てきて,笑った。吉祥寺ってそういう街なんだ。
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スマートフォンで家電はネットに繋がるか?

2010-11-27 23:30:00 | 社会
medtoolzさんの電線に意識が宿るを読みました。要はスマートフォンが便利だ。これからネットに繋がるものは増えていくのでは?みたいな期待が書かれてます。

わたしは職業柄,そういうことは望ましい…と思うのですが,一方でそう簡単にはいかないだろうな…とも思います。もちろんmedtoolzさんも昔提唱された情報家電が全然拡がらなかった…ってことは書かれてますが。

medtoolzさんの様に情報へのリテラシが高く,新しいものにどんどんトライして,おもしろがる方は,多分これからこういうものが拡がってどんどん便利になるんだろうな…と思うんでしょう。でも多分世の中の幾らか…もしかしたら半分以上の人はそうじゃないかも知れません。

わたしの様に,家電をネットに繋いで欲しい…と思ってる方から見ると,どうしてネットに繋いでくれないのだろう…と思うことの方がしばしばです。最近のTVはLANの口がついているし,wi-fiだって使えるのもあるんだけど,それでも繋いでいる人は少ない…と聞きます。他の家電もLANが繋がるのに繋げないというものは結構あるみたいです。プリンタや複合機ですらつながない人もいます。

原因はいろいろあるんでしょう。セキュリティに不安を感じるという人もいるようです。新しい操作法にトライしたくない…という人も結構多いんじゃないかな?…とも思います。今,使えているから,別にいいという感じで…。従来出来ていたことがネットに繋ぐと便利になる…というのは,今不便と思ってなかったら,やらないことの方が多い,いや,新しいものが好きな人は慣れるまで我慢して使うのでしょうが。あと,ユーザが本当にやったらありがいたいことを今までのネット家電が実現できてないのかもしれません。ネット側にコンテンツが無い…ということもあるでしょう。

有線LANや無線LANと違って,スマートフォンというのは最初からネットに繋がってるから,設定の不便さは少しは低いかもしれません。アプリを自分でダウンロードできるので,ユーザの要望が反映された新しいバージョンがどんどん出るかもしれないし,それにあわせてコンテンツも増えていくかもしれません。そういう意味では,ようやくこれからネット家電が始まるのか?…と思う一方で,本当にそんなにバラ色なんだろうか?…ということも思います。実際どっちなんだろうぁ。
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マスコミが騒げば選挙で負けるんだろうか?

2010-11-23 21:29:03 | 時事
法務大臣が辞めたそうです。国会答弁を二つの言葉で乗りきれる…っていうのは洒落なのかも知れませんが,そもそも大臣指名をされたときに「何でわたしが?」とか思ったと発言した記事もどこかで読んだので,なんかやる気なさそうな人だ…とは思ってました。

ネットを見てると,ほらみたことか…という人と,言葉狩りで退陣に追い込むのは良くない…という発言。予算と辞任をバーターにかけるのもよくないという意見も見かけて,なるほどね…とは思いました。わたしも言葉狩りは嫌いですが,「あれは冗談です」では済ませられないものが今の内閣にはあるんでしょう。言葉狩りといえば「暴力装置」もなんか妙に盛り上がってましたが…。

いい加減,失言を取り上げて大臣を追い込むのは馬鹿馬鹿しいとわたしも思います。でもなぜかいまだにやってるし,TVは失言をすると喜んで盛り上がり,政治家はそれにおびえていると。馬鹿馬鹿しいという意見があっても続くのは,世論がそれを望んでいるのか?マスコミがそれを望んでいるのか?。

マスコミが騒いでいるだけで,世論はたいして問題にしてないよ…,というのであれば政治家はそれを無視すれば良いように思うのですが,彼らの肌感覚で,マスコミに揚げ足取られると票が減るっていうのがあるんでしょうか?。でもマスコミの選挙予報って毎回外れますよね。だったらあまり気にしなくてはいいんでは?。

失言があっても麻生さんとかは結構突っぱねていたし,小泉さんは失言よりも行動で突っ込まれていても,開き直っていたし,それでも人気はあったし…,メディアがせめても大丈夫な人は大丈夫なんだから,やっぱり失言自体が問題じゃなくて,失言を突っぱねられないって事が問題なんでしょうか?。

そんなことを思いました。

再度書くけど,マスコミが騒いでも票が入るんであれば,政治家的には関係ないと思うんですけどねぇ。マスコミは自民をアレだけ揶揄して政権交代を起こしたので,民主党政権自体を叩くことはしづらい分,どうも個人攻撃が盛んな気もします。どうなんでしょう?
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自然科学と人文科学はOSとアプリ

2010-11-22 21:00:00 | 環境・自然科学
日曜日。十数年前MLが盛んだった頃良くやっていたMLのセッションで知り合った人のライブに行った。今もよくライブをやっているようで,感心するやらうらやましいやら。わたしも音楽は好きだけど,人前で演奏する機会はめっきり減ったし,ふだんあまり楽器を触ってない。

思ったんだけど,社会人になって十年も二十年もアマチュアで演奏活動を続けるのは,好きだけじゃなくて,そういう場に身をおけるか,つまり一緒に演奏が出来る人と密に関係を維持できるか?が大きいように思う。それでもって歳を取って新たに作る関係より学生時代や20代とか若いときに作った関係というのは,強い気がする。

わたしの場合,大学時代の趣味が音楽とバイクと両方だったので,社会人になってからも30代半ばまで両方続けていた。でも今はそのときの知り合いとはあまり逢う事は無い。まぁネットとかあるからいつでも連絡は取れるのだけど。どちらかに絞っていたらもっと濃い関係が出来たのだろうか?と思ったりもする。

…とここまでが日記。以下が本題。まぁそれも単なる思い付きだけど。

ライブの帰りに,本屋に寄って本を物色していた。自然科学の一般向けのハードカバーのコーナーによってみると,今は自然科学も脳科学とか遺伝子とか,工学系より生命科学みたいな話が盛ん。この辺の話は実は結構好きである。自分の専門は音響工学だけど元々心理系から入っているので,メタな話とか人間の話とかそういう話は好き。好きでずっと続けていることは?と上に書いたような話で問われると案外こういう分野の勉強かもしれない。所詮素人の勉強だけど。自分の専門がそこの領域と接点をもてないだろうか?とはよく思う。

一方その横にあった哲学のコーナーとかを見ても,まぁ結構面白そうと思う。自分は哲学とかほとんど勉強したとはいえないけど興味はあるし,宗教とかも興味がある。基本的には「人」に興味があるってことになるのだけど,哲学や宗教の様な人文系も脳科学や生命科学,実験心理学の様な自然科学も好きなんだよなぁ…って感じ。

ふと,人を科学する…って上で,自然科学はハードウェアで,人文はソフトウェアなんだろうか?と思ったのだけど,よく考えたら,自然科学はOSで人文はその上に載ってるアプリなんじゃないか?という気がした。昔のマイコンみたいにOSが綺麗に分かれない時代はハードとソフトというたとえでよかったんだろうけど,今はその機械のベーシックな振る舞いを決めるのはハードウェアだけじゃなくてOSの様な気がする。その上に考え方や思想みたいに人によって違うものが載るという意味ではアプリみたいなもの。でそのアプリもOSのシステムコールや制限で関係はするから完全に独立ではない…。

等とどうでもいい様なことを考えていた。考えいて楽しくて,くだら無いことを楽しめるってことは,あぁ好きなんだろうね,とは思った。まぁ音楽聴いたり演奏しても全然生産的じゃなくても楽しいから,そっちも好きなんだろうけど。
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医薬品開発は公的事業に出来ないのだろうか?

2010-11-19 06:00:00 | 医療・福祉
タイトルの通り。以前から思ってることです。

ここしばらく医療費の高騰が良く話題になってます。特に抗がん剤などがかなり高価になっていて月に数十万とか平気でかかるものもあります。保険診療であれば,高額医療費への補助があり数万のオーダを自己負担が越えることはありませんが,その高額医療への補助制度自体がもう持たないのではないか?みたいな話も聞きます。さらに保険診療以外に手を出すと…まぁそれ自体は賛否両論ですが,ものすごい額がかかります。

医薬品が高いのは開発人件費がものすごくかかるからと聞きます。出来るかできないかわからないばくちの様な開発ですから,うまく出来れば,その間の開発費を製品に乗せなければいけません。薬品の材料費は多分たいしたことないのだと思いますが,それでも多くの人が長い間開発をしないと出来ないものには違いありません。これは日本の医薬品だろうが海外の医薬品だろうが同じだと思いますが,最近はどうも日本の医薬品メーカが大人しく海外から新薬が主に輸入されているようにも思います。それがますます認可が遅れる理由になってます。

で,思うのがタイトルのこと。医薬品の開発に多くの人件費がかかるのでメーカがとても出来ない。できても新薬は莫大な価格に設定せざるを得ない…のであれば,その人件費自体を国が出すことは出来ないだろうか?。国が委託費を出すとか,それどころか公務員にしてしまうとか。それでもし新薬が作れれば,開発費を回収する必要はなく,あとは製造費だけで出せないか?という気もします。

もっとも医薬品は国内開発だけではなく,海外のもの…の場合もあるし,逆に日本が海外に輸出することもあるので,一概にそういう風にするのにも問題がある…というのも分かります。開発者のインセンティブの問題もあるでしょう。

でも,命に関わるような薬品開発が民間の力だけでいいのか。保険制度が崩壊する前に,日本の開発者がいなくなって海外に頼り,価格の決定権も無くなって…っていう風になっていいんだろうか?とよく思います。何でも民間にやらせれば安く上がるってわけでもないんじゃ…とか,そういうことも思います。まぁそんなに簡単な問題では無いのだろうけど。
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3×5≠5×3の件

2010-11-18 06:30:00 | 環境・自然科学
ネットで「3×5≠5×3」というのが話題になってました。小学校2年の算数の問題で3×5=15とすべき回答を5×3=15と書いた生徒が×をもらっていた…って話。

上記リンクはそれはおかしいという立場で書かれてますが,逆に「なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか」と間違いとする立場で書かれた文もあります。

正直わたしは,間違いとするほうがおかしいと思います。もちろんこのテストの観点が,どっちが単価でどっちが個数であるかがわかって掛け算をやってるかである点は理解できます。でも個数を頭に書くべきか,後ろに書くべきか,っていうのは重要な問題なのでしょうか。日本語だって主語と述語の関係が逆転する倒置が表現がありますが,それは間違った言葉ということになるのでしょうか?。もし生徒が掛け算が単価と個数をかけて合計を出すってことを理解してるかどうかを見たかったら,式の各数字に「単位」を書かせれば良いと思います。

弾氏は教える側の都合に合わせる生徒は自分で考えなくなると批判してますが,わたしもそう思います。それもありますが,わたしがこの教え方に賛同しかねるのは主に二つの理由です。一つは上になぜ誤答かと説明してますが,ずいぶん長ったらしく書いてます。それでいて納得できるような出来ないような…という感じです。大人がこれだけ丁寧に説明されても納得できないようなことを小学生教える意味はあるんでしょうか?。そしてもっと重要な点。いま3×5を5×3と書いて間違いとされていても,そのうち掛け算は前後入れ替えても同じという風に習います。そしたら,今まで学習して身につけたことを生徒は否定されるわけです。わたしはこっちの方が問題だと思います。昨日まで「×」だとされていたことが今日から「○」になるわけです。そしてその理由はおそらく簡単には説明できません。

こっちの方が問題ではありませんか?。子供は勉強に絶望するか先生を信用しなくなるような気がします。

…と書きましたが,実はこの手の問題は親としては頭が痛いです。算数の類は,大人になって便利なツールを覚えると楽に出来る計算を子供の頃にやったらNGみたいな話は良く聞きます。親が教えたら,子供は「×」をもらったってことが起きるわけです。このときに,親としてどう子供に教えるべきか?。自分が教えたことが間違いだというのか,それとも先生の教え方がおかしいというのか。いくら先生の教育方針に納得がいかなくても,それを子供に対して言うのは,子供がいたずらに混乱するし,他の件でも先生の言うことを聞かなくなり,あまりいい結果にならないような気がします。先生と親が子供のいないところで話をして意識あわせが出来ればいいのですが,先生としてはそんなことやってる暇は無いでしょうし,親が納得できないこともあるわけです。

将来そういうときがやってくるだろうなぁ…と思いつつ,その時どういう風に子供を導くか…かなり悩ましく思います。
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正論の暴力

2010-11-17 05:45:36 | ココロ
紙屋研究所さんの「「休日くらいはゆっくりさせろ」とぼやくパパへの非難の件」は,子育て中の家庭で,元々「休日くらいはゆっくりさせろ」とパパがいうことに対して,子育てをしてるママは大変で,仕事なんてそれに比べて楽なんだから,そんな事言うなと書いていた別のブログが,ちょっと炎上気味な件について書かれてます。

ここでは子育てが大変か?という話が主旨じゃなくて,そういう正論を逃げ道なく書いたので,独身者とかそういう人達が逆ギレしてるよ。そういう言い方ってすべきなの?それとももっとやんわりと書いた方がいいの?みたいなことが主旨です。

これを読んでわたしは「正論っていうのは相手に逃げ道がないので,うまく使わないと,感情論でしかコミュニケーションがとれなくなってしまう」と以前から思ってることが頭に浮かびました。以前日記に書いた気がしますが,良く正論を言って「ドヤ顔」をする人がいますが,それって結構危険です。正論を言われて「ごめんなさい」を素直に言える人なんてむしろ稀です。言われた方が逃げ出すならまだいいんですが,逆ギレされたり,根に持たれたりそういうことになりかねません。そういえば今日は別のところで「今時は謝れない人が増えてる」っていうのを読みましたが,いや,日本人でも謝れない人っていうのは昔から多いと思います。

というわけで,トラブルぎらいのわたしは,正論を言わずに,うまく相手を諭した方がいいよ…とは思うのですが,紙屋さんが最後に書いている様に敢えて言って相手を逆撫でする方が,心に残るかも…っていうのは,うーん,一理あるような無いような…って感じです。

ところで以下余談ですが,子育て中の家庭で働いている父親が,休日休みたい…っていう気持ちはわからないでもありません。仕事で疲れ帰ったら家でも疲れて…っていうのは,まぁ心当たりあります。でも,働いている父親は,それでも仕事中にフッと息を抜いたり,仕事帰りにちょっと寄り道したりとか出来ないことはありません。それに比べると乳児を見てる母親(まぁ逆もあるんでしょうけど)は,一日中子供を見て,寝てるときも起こされて…なわけで,本当に逃げ道がないわけです。そう思うとやっぱりそれって少し贅沢で,せめて子供を保育園に預けたりとか,幼稚園にやって母親は家で家事のみをやってる時間が数時間はある…という状態になって初めて「少し休ませてよ」と言えるのかなぁ…等と思います。

まぁそれより休日は子供を預かって少しでも母親を子育てから開放してあげられるようにするのがいいんじゃないですか。だったらその分こっちも休む時間をもらってもいいというか。
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組織の情報を公開するということ

2010-11-15 22:26:41 | 時事
尖閣ビデオが公開された騒ぎの件で公開した人が罪か罪じゃないか?って話。よく分からないというか納得できないところがあるので,簡単に。

話題になっているのはその人が罰を受けるかどうか?の話で,刑事罰の話の話であれば,刑法上どういう罪にあたるのか?ってことで,罪にならないこともあるのだろうけど,公務員…というか組織に属する人の行動として,組織から何らかの罰を受けるのであれば,それは当然の様に思います。

罪にあたらないという論調の根拠はニュースとか見てると二つあって,「ビデオは機密事項ではなかった」という根拠と「公開することが国にとって益であった」という根拠。前者の機密事項ではなかったというのは,ビデオは職員であれば誰でも見れる状態だったからって話ですが,職員の誰もが見れても組織外から見れないのであれば,公知の情報ではなく,それを個人の判断によって勝手に公開するのはダメでしょう。ただ組織によると思いますが,情報漏えいに関する会社とかの決まりでは大抵,機密事項は明に機密事項と記す必要があるというのもあります。しかしそれは機密事項と書かれてない業務上知りえた知識は公開しても良いという話ではないと思います。

そういう意味でいうと,刑法上の罪は問えなくても組織から何らかの罰があるべきではないのか?という気はします。ただし,機密指定されてもいなければ個人情報でもない情報を組織外に公開した罪について現時点で内規があるのか?というと確かに疑問ですが。

それから二つ目の公開することが国にとって益であったか?という点。これは現時点では分かりません。戦時中の負け戦を国が隠していたことを例に挙げて,正しい情報を公開することが必要といってるのも読みましたが,それも今回の件が国が明に嘘をついていたわけでも無いし,今回の公開が元に緊張が高まったら,それこそどっちが益があったといえるかどうか。

もっとも本当に今回の情報公開に益があったら,仮に彼が公務員を懲戒になっても,他の誰かが拾うんではないか?という気はします。それならそれでいいんじゃないか?という気もします。実際田母神氏などは国の公式発言と違うこといい,幕僚長を辞めましたが,今でも充分に仕事があるようですし。現政権で首になっても,次の政権が重用するということもいいかもしれません。

というわけで,わたしは以前も書いたとおり,組織の内部の情報を一個人の判断で公開する場合は,その組織においてそれなりの罰を背負うのが普通である,そうしないと組織は回らない…と思うということ。ただし組織で罰せられるということと,刑事罰は別だし,その人が本当にそれで不利益を負うかどうかは,すぐには決まらないのでは?ということです。
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がんで医者にかかるということ

2010-11-14 21:28:24 | 医療・福祉
ネットで4年前に乳がんの疑いをもち,乳がんの治療で有名(著書などある人)な先生に診てもらっていて,4年間良性だから安心といわれていたのが,実は乳がんだったと分かった…,既にがんは大きくなっていて,乳房の失うことになった…という話を読みました。

とても残念なことで,乳房を失うことは辛いだろうと思いますが,まずは手術が無事終わり,がんの再発が起きない様な状態になることを望みます。あと,多分抗がん剤の治療もするのでしょうが,副作用など辛いことが少ないと良いなと思います。

その上で,このブログを読んで思ったことを…。

ブログ主は患者の姉妹ということで,医者に対してきつい言い方になってるのかもしれないし,第三者としてはいたずらに医者の言い分を知らずに批判をするのはうかつなということもあり得るとは思いますが,ただ,4年間がんの疑いで通院していて,誤診をしてるのは,その事実だけで批判されるべきことだと思います。

一方で,患者の方が他の医療機関で検査をしていれば…とも思います。患者の過失というつもりはありませんが,セカンドオピニオンを医者に失礼と思って躊躇するのは,本来はおかしいことです。ただ,がんの疑いがある場合,検査というのは心理的に負担があって,結果が分かるまで気が気ではないのです。がんの不安があるときに「良性です」と一人でも医者に言ってもらえることは,ものすごい安堵であり,その言葉にすがりたくなります。その言葉を捨ててまで他の検査を受けて,不安を再び産み出したくない…という気持ちは分かります。わたしも嘘でもいいから「がんではありません」といって欲しいと思った事が何度あるか…。ただそれは地獄へ続く嘘なのですが。

わたしの場合は,むしろ誰も良性とは言ってくれず,結局膵臓を半分以上摘出しました(膵臓は切って検査しないと確定しません)。また,大病院の先生はとても忙しくゆっくりと話をしてもらうのは結構難しいとも思いました(それでも信頼はしてますが)。説明の機会は何度か作ってもらいましたが,患者というのは次々と悩みが発生するし,でも怖いことを聞きたくないという躊躇もあったりするのです。わたしが行っていた病院は検査結果を紙でくれましたので,その数値とか,所見をみて,あとはネットで同じような経験をしてる人の手記,がんセンターなど医療機関の資料を読み,くわえて書店で医者向けのガイドラインや医学書などを買って読み,担当の医者がいうことが,あながちずれているわけではない…ということは確認してました。

基本的には,医者の誤診から身を守るには,とにかく広く情報を得ること,あと複数の医療機関に(どういう手を使っても)みてもらうことが重要だと思います。セカンドオピニオンが失礼と思うのであれば,別の健康診断にかかるという手もあります。わたしも主治医による経過観察中でも,人間ドックは毎年行ってました。お腹が痛いといって,内科の医者にいったついでに触診や血液検査をしてもらったこともあります。

もう一つ,著書とかをたくさん出しているお医者さんというのは,やっぱり申し訳ないけど,おかしな医者も多い様に思います。いや,著書を出していようが無かろうが,いい医者も悪い医者もいるということかもしれません。とにかく本を出していて,有名だからといって,医者としていい医者かどうかは分からないのだな…という気はします。

ブックマークとか見てると,医者の品質を示すものが必要とかいう人もいるようです。実際に病院の検索をすると,ものすごく多くの病院を紹介したサイトがありますが,どれも評価については会員制にするか,載ってないか…ってことであまり役に立ちません。実名で評価をするのは難しいのかもしれないなと思うし,統一的な基準で順番をつけたら,それこそいい医者はいつも混んでいるということになるようにも思います。

医者の良し悪しの判断というのは本当に難しいと思います。腕前ではなくて,単に相性で良い悪いと判断されることもあるでしょう。悪い医者にあたってひどい目にあっても,医者と無縁に暮らすことは難しいです。医者でひどい目にあっても医者全体を憎んでもしょうがない。良い医者を変な追い詰めるのも,結局は自分達の不幸につながります。

どういう風に医者と付き合うか?…悩ましいことです。
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